とさちょうものがたり

みんなのアルバム

ボンネットバス

  • 日時1964(昭和39)年

  • 場所土佐町

  • 撮影者

  • 投稿者

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このかっこいいボンネットバスを見てください!昭和30年代に、土佐町で走っていた高知県交通のボンネットバスです。

このバスは、土佐町と同じ嶺北地域内の大豊町「大杉」行き。バスの横の表示には「田井-大杉」とあります。土佐町の中心地「田井」から大杉行きのバスが出ていたのですね。

各家に車がなかった時代、貴重な移動手段として、たくさんの人たちを運んでいました。現在は乗用車で約30分くらいの道のりですが、当時はお客さんが乗ったり降りたり、もっと時間がかかっていたことでしょう。

これは、土佐町の窪内花美さんが見せてくれた写真です。写真のバスの乗降口に立っているのが窪内さん。窪内さんはバスの車掌さんをしていました。

当時は「バスの扉が閉まらないくらい人が乗ってねえ、閉まらないのにそのまま走っていた。今やったら問題やろうねえ」と話してくれました。

 

 

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くだらな土佐弁辞典

ひっぱりさがしちゅう

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【動詞】ものをいっぱいにしている

 

例:あれやこれや、ひっぱりさがしちゅう     意味:あれやこれや、ものをいっぱいにしている

 

 

土佐町の和田勝幸さんが教えてくれた土佐弁です。

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みんなのアルバム

風船飛ばし

  • 日時1973(昭和48)年頃

  • 場所早明浦ダム堰堤

  • 撮影者

  • 投稿者

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土佐町田井地区にある「清水屋旅館」の森ミネさんが見せてくれたアルバムからの一枚です。

早明浦ダムの堰堤が完成した時の写真とのこと。ダム本体工事が完了したのが1973年なので、今から50年前のことですね。

子供たちが集まって、楽しそうに風船を飛ばしています。よくよく見ると、紐の先に紙が付いている風船も。手紙でしょうか?もし「この時、風船を飛ばしたよ〜」という方がいましたら、ぜひ編集部までご連絡ください!

この時から50年の時を経て、現在早明浦ダムは放流設備を増設するため、改築工事中です。完成予定は2028年。あと5年後のその時に見えるのは、どんな風景でしょうか?

 

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メディアとお手紙

「読むふるさとチョイス」で紹介されました

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読むふるさとチョイス

2023年1月24日、とさちょうものがたり編集部の取り組みが 「読むふるさとチョイス」で紹介されました。

「読むふるさとチョイス」は、全国各地の「地域のチャレンジを応援し、新しい取り組みを伝えるWebマガジン」です。

高知県内からは5つの取り組みが取り上げられ、その内の一つとして紹介していただいています。

とさちょうものがたりを始めたきっかけや、今までの取り組み、制作したものなど、ライターの池尾優さんが丁寧に記事を書いてくださいました。

 

こういった取材では、スタートしたきっかけをよく聞かれます。初心に帰るという意味でとてもいい機会をいただいているなあと思います。毎日忙しく過ごしていると、原点を忘れがちになってしまいます。忘れないようにしようと思っていても、目の前の物事に追われている状態に。でも、原点あってこその今、そしてこれからです!あらためてスタート地点を振り返るきっかけとなりました。

 

今まで土佐町の人たちをはじめ、たくさんの人のご協力や応援があったからこそ、やってこれました。「記事読んでるよ!」とか「ZINEを県外や海外の友達に送ったよ」など、そういった声にどんなに励まされてきたか。あらためて、感謝の気持ちをお伝えしたいです。ありがとうございます!

 

「読むふるさとチョイス」、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。

 
 
 

高知県の5記事

 

また先述したように、今回は高知県から5つの取り組みが紹介されています。

 

各記事の写真を、とさちょうものがたりの石川が撮影しています。取材にご協力いただいた皆さまありがとうございました!

 

高知県ならではのビジネスや取り組みをされている皆さまです。こちらも合わせて読んでください!

 

 

● 中土佐町久礼 中里農園
● 馬路村農協
● 仁淀川町 ビバ沢渡
● 須崎市 株式会社パンクチュアル
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正文さんとの約束

時が経つにつれ、正文さんの体力は徐々に落ちていき、描く絵も小さくなっていきました。何かあったらすぐ病院に駆け込まないといけない状況でした。

「もう無理して絵を描かないでいいから。そのかわり、日本全国、世界中を回って展覧会をしよう。そしたら絵を見にきてくれる人がいて、喜んでもらえる。会って話もできる。そしたら正文さんもうれしい、それでいいやん、展覧会をやっていこう」

弥生さんは、正文さんとそう約束したそうです。本当はもっと絵を描きたかったし、世界中を旅したかった。それは二人の約束であり、希望だったのだと思います。

「亡くなってから最初に展覧会をしたのは、高松。次は大阪、沖縄、東大寺。台湾やハワイでも決まっていたけど、コロナ禍で延期、中止になりました。展覧会って体力がいるから、もう展覧会はええかな…と思っていました。

でも2020年に土佐町で展覧会をやりましょうと言ってもらって、延期、延期になっていたけど、今回開催できました。これを皮切りとし、彼との約束をもう一度頑張ってやってみようという足がかりをもらいました」

同時に、弥生さんは絞り出すようにこうも言っていました。

「正文さんが亡くなって10年。私、本当はまだダメなんです。幸せすぎた分、亡くなった悲しみが大きすぎて。それで帳尻があったのかな…って。お風呂から上がって体を拭いてたら、正文さんが足でタオルで背中を拭いてくれた。亡くなってからしばらくは背中びちゃびちゃで。24時間一緒だったので自分の体を無くしたような感じだった。夫婦というよりも、同志だったんです」

弥生さんから絞り出された言葉は、語った楽しさの裏側にある本心であったと思います。今までずっとそばにいた同志がいない現実とどう折り合いをつけていけばいいのか。言葉が見つからないほど、辛く悲しく苦しいことだっただろう、と。そして、それは今も道の途中なのだろうと思います。

でも、弥生さんは笑って言っていました。

「そんなふうに思える人と出会えたことが、私にとっての最高の幸せです」。

正文さんとの約束を、もう一度。今、大阪や愛媛での展覧会に向けて、少しずつ準備を進めているそうです。

 

 

喜びの種を蒔こう

あるお客さまが「正文さんは字を書くのが上手だったそうだけど、直筆はありますか?見れたら嬉しいです」という感想をくれました。それを聞いた弥生さんは、帰宅後、正文さんの書を探し、残り二日の会期のためにこちらへ送ってくれました。

受付に飾り、お客さまをお迎えしました

その中の一つが「喜びの種を蒔こう」と言う言葉。正文さんが生涯大切にしていたという言葉です。

「自分ができるほんの小さなことでいい、喜びの種を蒔こう」

その思いを胸に筆を咥え、描き続けた正文さん。正文さんの遺した喜びの種はこれからも多くの人の元へ届いていくことでしょう。それぞれの場所で芽を出し、花開いていく様子を正文さんはどこかで見ていてくれるに違いありません。

この書を弥生さんが送ってくれたことも、私たちにとっての喜びの種となりました。この書を目にし、励まされた人、喜んだ人がどんなにいたことか。

受け取った種を次は誰かの元へ。喜びの種は、そうやってリレーされていくのだと思います。

最後になりましたが、今回の展覧会にあたり、正文さんの絵を保管・管理している「口と足で描く芸術家協会」の松沢雅美さんに大変お世話になりました。どの絵を展示するかや展示方法など、貴重なアドバイスをいただきました。本当にありがとうございました。

 

郷土学習センターの皆さんが温かい笑顔でお客さまをお迎えしてくれました

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嶺北地域の人権擁護委員の方たちが展覧会を訪れ、弥生さんのお話に耳を傾けていました

ふたつの言葉

正文さんと弥生さんが大切にしていた言葉があったそうです。

一つ目は、大石順教尼の教えでもあった「禍福一如(かふくいちにょ)」。

禍も幸福も表裏一体、心の持ちようや捉え方一つで変わるという意味です。

「両腕がないから不幸なのではない。両腕がないから学び知り得ることがある。大事なのはその心のあり方だ」と正文さんはよく話していたといいます。

言葉としては理解できても、それを体現するのが難しい。でも正文さんは体現していた。「だから、正文さんにそう言われたら何も言えなかった」と弥生さんは言います。

 

二つ目は「言葉少なく、真実を優しく語る」。

「実際やると、これってすごく難しいんです。自分のことをわかってもらおうと思ったらたくさん話すし、真実なんだけど尾ひれがついてたり、“優しく”が感傷的になったり。でも、正文さんには優しさがあって愛があるから、何を言われても素直に受け取れた。それはお互いにそうだった。どんな言い方をしても、お互いに変にとらなかった」と弥生さん。

毎晩、正文さんと弥生さんは向き合って座り、今日あったことや感じたことを話していたそうです。

「手伝って、と名前を呼ばれたけど、めんどくさいなと思って聞こえないふりをしていました。ごめんね」

弥生さんがそう言うと、正文さんは「自分でできたから、それ以上は呼ばなかった。大丈夫だよ」と答えたそうです。

そうやって、小さな「あれ?」を解決していった。相手に何か思うところがあっても、まあいいやと受け流すことは誰にでもある。でもその小さなことがいつの間にか大きくなって火種になったりする。だから、話す。正直に話すことは勇気も根気もいるけれど、お互いを芯から理解するためにとても大切な行為なのだと思います。

でも、そう言うのは容易い。大事なのはどう体現するかです。正文さんも弥生さんも実践、実動の人。そして正直で優しい。だからお二人の周りには話し、笑い、助けてくれる仲間たちが集うのだと思います。

今回の展覧会にも大阪から餅和枝さんが来て、物販の販売などお手伝いをしてくれました。各地で展覧会が開催されるたび、「手伝うよ!」と集まってきて、会場の設営や準備、販売等を助けてくれるのだそうです。「本当にありがたいことです」と弥生さんは話していました。

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ドキュメンタリー映画「天から見れば」の上映後、南弥生さんが正文さんとのエピソードを話してくれました

南弥生さん

開催日当日には、正文さんの奥さまである南弥生さんが、正文さんとのエピソードを話してくれました。(当初、弥生さんのお話は当日のみの予定でしたが、滞在中、映画上映後に毎回話をしてくれました。)

「映画を見ると、正文さんは立派な人だったんだなと思われてしまうんやけど、正文さんはいたずらっ子で、優しくて、努力家で、好奇心旺盛な少年みたいな人やったんです。人が好きで、人と話すことが好きで、楽しい場を作る人でした。私は彼と一緒にいることが本当に楽しかったんです」

南正文さんと結婚後、常に正文さんの手となり、心と身体の支えとなって、生涯を共に歩んできた弥生さんが話すエピソードの数々は、笑いと愛情に満ちたものでした。

 

正文さんの絵で版を作り、シルクスクリーンで印刷した展覧会記念Tシャツ。会場でも販売しました。

正文さんの「背もたれ」

正文さんは、両腕を失った際の輸血により肝硬変を患い、晩年の約10年間は体調が良くなかったそうです。一体いつまで生きられるのか。お医者さんに相談しながら薬を調整し、それまで以上に活動的に、色々なところに行って色々な人に会って楽しんでいたそうです。

ヨーロッパにスケッチ旅行へ行った時のこと。ポルトガルのポルトという街で、ある建物の窓に見えたピンク色のパラソルに目が釘付けになった正文さん。弥生さんは、座り込んで描き始めた正文さんの背中合わせに座り「私は彼の背もたれになっていた」。だから私は、正文さんが見ている風景の真逆をずっと見てたのよ〜と、それはそれは楽しそうに話してくれました。

「楽しく明るく元気に。病院に行ってもどこへ行っても二人で笑ってた。吐血しようが、病室から笑い声が聞こえてた。どうせなら笑わな仕方ないので。笑いって周りにすごい影響を与えるんですよ。私たちが幸せだったら皆にお裾分けできる。そんなことの繰り返しだった」。

検査して出てきた肝硬変の数値によって、気持ちが上がったり下がったりすることも多かったそうです。検査の結果が良くなくて落ち込む正文さんの前で、弥生さんがふざけて踊る。正文さんが思わず笑ってしまうと「ほら、免疫があがったやろ〜」と弥生さん。正文さんはそんな弥生さんの存在にどんなに救われていたことでしょう。

こんなこともあった、あんなこともあった。尽きることのない思い出を語る弥生さんのそばに、正文さんが笑って寄り添っているような気がしました。

 

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みんなのアルバム

雪の日の街なか

  • 日時1970年代(昭和40年代後半~昭和50年代前半頃)

  • 場所土佐町田井地区

  • 撮影者西森五明

  • 投稿者

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これは、土佐町田井地区にある西森理髪店の西森五明さんが見せてくれた写真です。

ときは昭和40年代後半から昭和50年代初めの頃。

土佐町のメインストリート、国道439号線の歩道が隠れるくらい雪が積もっていますね。信号機の形も今と違いますし、今はもうないお店の看板も見えます。

南国高知とはいうものの、土佐町は四国の真ん中に位置し、周囲は山に囲まれています。毎年冬には雪が降り、よく「南国詐欺」と言われます笑。けれども、雪が降っても街中の雪はすぐに溶け、山の日陰にはしばらく残る…というほどです。

町の人から「昔はよう降ったけどなあ」という声をよく聞きます。

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二羽の鶏を描いた「共に」

ドキュメンタリー映画「天から見れば」

正文さんは10歳の時、実家が営む製材所の機械に巻き込まれて両腕を失い、生死を彷徨いました。一命を取り止めましたが、今まで当たり前のように出来たことが自分でできなくなり、周囲からからかわれ、指をさされ、もう生きていてもしょうがないと自ら喉を突こうとしたこともあったそうです。

家に引きこもっていた中学校2年生の時、京都山科にある仏光院の尼僧である大石順教尼の元を訪れた正文さん。大石順教尼は義父に両腕を切り落とされるという壮絶な経験を乗り越え、その生涯を障がい者支援に捧げました。順教尼は口で筆を加え、絵を描く人でもありました。

「自分は何もできない」と想いを順教尼に話すと、返ってきた言葉は「弟子になりなさい」。でも、弟子になるためには条件がありました。

 

弟子になる条件

一つ目の条件は、正文さんの自宅のある大阪・堺から一人で仏光院へ通うこと。当時は順教尼のいる京都の仏光院まで片道約3時間、電車やバスを5回も乗り換える必要があったそうです。その度誰かに切符を買ってもらわなければならない。思い切って声をかけると両腕のない正文さんを見て逃げる人、罵声を浴びせる人、からかう人もいたといいます。でも、その人たちを「自分の先生だと思いなさい」と話した順教尼。社会には色々な人がいて、親切な人もいればそうでない人もいる。でも皆が社会を教えてくれる先生なんだ、と。この教えは、後述する正文さんが生涯大切にした言葉「禍福一如」につながっていきます。

もう一つの条件は「絵を描きなさい」。この時から正文さんは口に筆をくわえ、絵を描き始めます。口で筆を咥えていると苦しく、口も歯も痛くて、ポタポタと唾液がこぼれていく。一枚の絵がやっと完成した時、自分にもできることがあるんだと思えたといいます。

「何もできない」から「何でもやってみよう」、正文さんの思考が変わった瞬間でした。考え方が変わると生き方が変わる。絵を描くことを糸口に、正文さんは何でも挑戦するようになっていきます。

 

出来ないとしないはちがう

映画では、正文さんの日常も描かれています。正文さんは絵の具のチューブの蓋を足で開け、パレットに絞り出します。キャンバスを顎の下で挟み、勢いをつけて机の上にのせていました。自作の道具を使ってシャツのボタンをはめ、ベルトをし、自転車に乗っていました。

正文さんの奥さまの弥生さんによると、正文さんは字を書くのもとても上手で、お礼状を書くのはいつも正文さんの役割だったそうです。巻物のような紙に書いてくるくるっと丸め、最後に小さなかわいい絵を描いていたといいます。雑巾も上手に絞っていたとか。

出来ないとしないはちがう」。正文さんはよくそう言っていたそうです。「やってみたけど、できない」のと「最初から無理だと諦めて、しない」のはまるで意味が違う。「正文さんに言われたら説得力がまるで違う。本当にその通りだ、って思っていました」と弥生さんは話してくれました。

 

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2022年11月5日〜13日、土佐町郷土学習センターで「南正文展覧会」が開催されました。南正文さんは少年時代に事故で両手を失い、絶望の淵に迷いながら、口で絵筆を咥え、描くことを見つけた日本画家です。2012年に亡くなるまで、約900点の作品を残しました。

なぜ、南正文さんの展覧会を土佐町で開催することになったのか?

それは以前、町内で「Monk」というラーメン屋を営んでいた正文さんの息子、一人さんの「お父さんの絵をたくさんの人に見てもらいたい」という思いがあったからでした。

編集部は一人さんから正文さんの画集「よろこびの種を」を手渡され、絵を描くに至った経緯やお人柄を知り、ぜひ土佐町で展覧会をと企画しました。本来ならば2020年4月に開催予定だったのですがコロナ禍で延期を繰り返し、今回やっと、2年半越しの開催となりました。

 

心の深いところへ

展覧会スタート前日、高知放送「こうちeye」で展覧会会場の様子が生中継されたこともあり、町内はもちろん、遠方からも多くのお客さまが来てくれました。

左は取材してくださった土佐かつおさん。和田守也町長がご挨拶

 

体育館に展示された絵は、桜の花びらを何回も重ねて描いたという『活きる』や、二羽の鶏を描いた『共に』など30点。座ったり、絵の近くに寄ったり、お客さまは思い思いにじっくり絵と向き合っていました。

会期中、毎日2回、正文さんの生き方を描いたドキュメンタリー映画「天から見れば」を上映しました。

「この映画を見る前と後では、絵の見え方が変わりますね」と話すお客さまが何人もいました。特にご年配の方は、正文さんの人生を自分と重ね合わせているようでした。目を赤くしながら映画会場から出てくる方もたくさんいました。

会期後半は、友人の紹介で来たという人が増えていきました。「展覧会に行ってすごくよかったと聞いたので。本当に来てよかったです」と感想を伝えてくれた人も。

中には、自分のご主人が事故で寝たきりになってしまい途方に暮れ「どうやって立ち直ったのか、弥生さんに聞いてみたい」という方も。(弥生さんの許可を得て、弥生さんの連絡先をお伝えしました)

そういったお客さまの姿は、正文さんの人柄や生き方が、その人の内へ深く静かに染み渡っていっていることを伝えてくれました。その人の歩んできた人生にそっと寄り添うような、じんわりと優しく包んでくれるような力が正文さんの絵や姿にはあるのだと思います。

 

 

(「喜びの種を 南正文展覧会 その2」に続く)

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