鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「てぶくろ」 エウゲーニー・M・ラチョフ絵 , うちだりさこ訳 福音館書店

絵本「てぶくろ」が日本で翻訳出版されたのは1965年、58年前から読み継がれている名作です。

表紙を見るたび、母が何度も読んでくれたことが蘇ります。私も3人の子供たちと何度一緒に読んだことか。この絵本とのお付き合いはもう何十年にもなるのに、昨年初めて知ったことがありました。それは、このお話がウクライナの民話であったことでした。

このお話は、森を歩いていたおじいさんが手袋を落としてしまうところから始まります。その手袋に、森の動物たちが次々ともぐり込んでいきます。ねずみ、かえる、うさぎ、きつねが順番に登場し、「入れて」「どうぞ」を繰り返していく。手袋の中は当然狭くなっていくのですが、さらに交わされる動物たちのやりとりが興味深いです。

おおかみが「おれもいれてくれ」とやってきて、既に中にいる動物たちは何と答えるか?これまで同様「どうぞ」と言うかと思いきや、そうじゃありません。出てきた言葉は、「まあ いいでしょう」。本音はきっと「狭いんだけどな…、でもな…、まあいいか…」といったところでしょうか。ちょっとした複雑な心境が伝わってくる場面です。

次に来るのは、きばもちいのしし。同じく「いれてくれ」という彼に、動物たちは「ちょっとむりじゃないですか」。でもいのししは「いや、どうしてもはいってみせる」と入ってくる。すると「それじゃ どうぞ」と中に入れる。

最後にくまがやってきた時には「とんでもない まんいんです」とさすがに断る。でもくまは負けずに「いや、どうしてもはいってみせる」。すると、「しかたがない でも、ほんのはじっこにしてくださいよ」と折れ、くまは中に。結局皆が入って、手袋は「いまにもはじけそう」になる。

 

今まで「てぶくろ」を何十回と読んできましたが、表紙に「ウクライナ民話」と記されていることを全く意識していませんでした。

昨年2月に始まった、ロシアによるウクライナ侵攻。「ロシアとウクライナは兄弟国」とメディアでよく見聞きしますが、なぜ兄は弟の国へ攻め入ったのでしょうか。

1991年のソビエト連邦崩壊に伴って独立したウクライナ。その国の歴史は複雑に絡み合い、私が簡単に言えることではないのですが、ロシアやウクライナに暮らす人たちは、かつて「てぶくろ」の動物たちのように一つの大陸に集い、共に暮らしてきたのではなかったでしょうか。相手を「どうぞ」と受け入れ、「ちょっと無理じゃないですか」という時も、相手の言い分にも耳を傾け、何とか折り合いをつけてやってきた。この民話は、この土地の人たちはそういった営みを繰り返し生きてきたんだよ、と伝えるために作られたのではと想像します。

このお話の結末では、手袋が片方ないことに気づいたおじいさんが戻ってきます。そして、吠えた子犬の声に驚いた動物たちは手袋から這い出して「もりのあちこちへにげていき」、「そこへ おじいさんがやってきて てぶくろを ひろいました」と終わります。

最後におじいさんが手袋を探しに戻ってきたのはなぜか?それはきっと、おじいさんにとって、手袋が大事なものだったからではないでしょうか。森に落ちた手袋が、動物たちにとって新たな居場所となり、おじいさんにとっては変わらず大切なものであったのです。手袋をどう捉えるか?一つのものごとを考える時、ある一面だけでなく、多面的に見る必要もありそうです。

未だウクライナとロシアの戦争は続いています。一刻も早くそれぞれの国の人たちが、あちこちへ逃げないですむ状況になりますように。自分の場所で安心して暮らせるようになりますように。大切なものを大切にできる日常に戻りますように。心からそう願っています。

 

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読んでほしい

新年を迎えて

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昨年末、実家に帰省するため、高知龍馬空港から飛行機に乗り、窓から眺めた空はどこまでも高く、青く、澄んでいました。眼下の海はいくつもの波がさざめいては光り、その変わらぬ繰り返しが眩しくて目を細めました。山頂が白く染まった稜線が見え、連なるように緑深い山々が続いていきます。その谷間に道があり、家があり、街がある。そこには人の営みがあります。遡れば、山谷を自ら歩き、道を切り拓いた人たちがいただろうことにも思いを馳せました。

この空はどこまでもつながっていて、辿っていけば世界中どこへでも行くことができます。世界は広く、美しい。一方、この同じ空の元、ロシアによるウクライナ侵攻は続き、日本では元首相が殺害され、新興宗教団体の言動がより明るみに。度重なる値上がりに生活は圧迫され、コロナ禍の終わりも見えず。争いや憎しみ、行きどころのない閉塞感の感触に息苦しさを感じていました。

でも、土佐町での暮らしの中に救われるような瞬間がいくつもありました。近所で顔を合わせた人との「おはよう」や、晴れた日に交わした「いい天気ですね」といった何気ない一言。「元気にしてる?」「大丈夫?」という相手を気遣う言葉。ある日、玄関先に届けられていた野菜。届けてくれた人に「ありがとう」とお礼を伝えること。その出来事がどんなに嬉しかったか。驚くほど目の前の風景が違って見えました。

争いや憎しみを生むのも人間であれば、救うのも人間なのだと感じています。そして、その人間自身を助けてくれるのは、特別なことではなく、日々の何気ない、さりげない日常なのかもしれないと今思っています。そして、その日常こそが、人間らしさなのではないかと。

いいこともしんどいことも、楽しいことも悲しいことも、全部ひっくるめた中で何を支えに生きていくかというと、一見当たり前のような日常なのではないか。だから、当たり前のように毎日を送れるような社会であることが大事なのだ、とそんなことを考えた新年でした。

難しく考えすぎるのではなく、格好をつけるわけでもなく、人間らしい言葉を発し、行動する。当たり前を、何気ないことを大事に。そのことを忘れずに、この町での2023年を過ごしていきたいと思います。

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家族の一人が新型コロナウィルス陽性と診断された。12月に入ってから、町内の小中学校で新型コロナウィルス感染者が出ているという連絡が毎日のようにラインで届いていたので気をつけてはいた。陽性と診断されたのは今回で2回目である。
我が家は今年3月、私を含め家族の内3人が陽性になったのだが、お医者さんが言うには稀に何度も感染する場合もあるらしい。これはあくまで私の体験なのだが、多くの人が新型コロナウィルスに感染している今この時のことを記しておきたいと思う。

 

(「家族が新型コロナウィルス陽性に その1」)

 自宅での過ごし方

幸いにも体調は順調に回復している。子供たちは学校のノートパソコンを借り、オンライン授業を受けている。朝8時30分から繋がるのでいつも通り起き、朝ご飯を食べ、学校に行けないということ以外は普段と同じように1日を過ごす。画面越しに先生や友達とやりとりできて嬉しそうだ。同じく欠席中の友達が何人もいて、お互い手を振ったり、休み時間には教室の友達や先生と話している。その表情から、子供にとって友達や先生の存在は大きいのだと感じる。
先生は教室で授業しながら、画面の向こうにいる子供たちにも声をかけてくれる。学校でこれだけ流行っている中、自身の健康を保つことだけでも大変だろうに、日々の授業準備や学期末の面談も重なって本当に大変だと思う。加えて、頻繁にかかってくるだろう欠席や検査結果報告の電話対応、学校に来る子供たちの学校生活を回転させていくこと…。学期末ということも重なってやることは満載、パンクしそうなのではないだろうか。学級閉鎖、学校閉鎖になるかと思ったがそうはならなかった。

普段私たちは医療が必要な時は病院へ、子供たちは学校へ行くことを当然のように思っている。が、それは決して当たり前のことではない。当然と思われる営みが成立しているのはその場に立つ人たちが現場を必死に守ってくれているからだ。
コロナ禍になって丸3年、どの現場も綱渡りの緊迫した状態で、その中でもがき、何とかやりくりして日々を乗り切ろうとしているのが現状ではないだろうか。感染するかもしれないという不安、周囲の人が、自分が、家族が感染したという現実。その狭間で皆が必死に踏ん張り続けている。

我が家の場合、自宅で過ごせる位の軽い症状だったが、入院治療が必要な人もたくさんいる。ニュースでは感染した人や亡くなった方の人数が毎日何百人何千人と発表されているが、これは単なる数字ではない。一人ひとりの人がそこにいることを示す「1」は重い。「1」の向こうにその人を取り巻く人たちもいる。一体どれだけの人たちがこのウィルスと戦い、翻弄されているのだろう。何とか生活を回していかなくてはと懸命に、必死に、毎日を乗り切ろうとしているのだと思う。

 

助けてくれる人

今回私は陰性だったが、症状として頭痛があり咳が重かった。胸の奥から咳が込み上げてきて、咳をするたび苦しい。昨年3月に陽性になった時は倦怠感がひどく、起きること自体がしんどかった。できることなら一日中寝ていたかった。子供や持病のない若い人は体力があって回復が早いことが多いと聞くが、持病がなくても、あの咳や熱や倦怠感が伴った生活はかなりエネルギーを奪われる。
持病を持っている人や高齢で一人暮らしの人が感染した場合、体力的にも精神的にも状況を乗り切ることが本当に大変だと思う。誰か買物など助けてくれる人や声をかけてくれる人が近所にいるだろうか。実際、助けてくれる人がいると思えるだけで心持ちが全く違う。その存在のあるなしが乗り切れるか否かの境界と言っていいと思う。

 

ひとりじゃない

友人から「買い物行くんだけど必要なものある?一緒に買って届けるよ」というラインやメールが届く。玄関先を少し開けて「元気にしてる?」と立ち寄ってくれる友人も。果物やパン、作ったスイートポテトを差し入れてくれた人も。その気持ちが本当にありがたいと思う。私は人に生かされている。ひとりじゃないという気付き、ありがとうと感謝する気持ちが、靄がかかったような頭を軽くしてくれる。もしそれがなかったらと考えると恐ろしい。私は皆に支えられて生きていることをあらためて実感する。

普段から「大丈夫?」「何かできることはある?」と声を掛け合い、困った時は「助けてほしい」「手伝ってほしい」と言い合えるような、互いに助け合える人間関係をつくっていきたい。その関係は人間が人間として生きやすくなる方法の一つだと思う。伝え合える、言い合える関係を作れるかどうか。とても難しいことでもあるが、とても大切なことだと分かっているから諦めたくない。
相手を思いやる一言やさりげない何気ない気遣いが、自分の知らないところで誰かを支えているものだ。その何気なさの威力はなかなかのものだという自覚を持っていいと思う。優しくされたら嬉しいし、その優しさはその人が向き合う人へと伝播していく。これは私が40数年生きて感じている実感だ。それは自分は一人じゃないという気付きになる。一人じゃないという思いは人を強くさせる。
私はひとりじゃない。あなたはひとりじゃない。そのことをちゃんと覚えていたいと思うし、覚えていてほしいと思う。

2022年、コロナ禍丸3年。あと数日で新しい年を迎えようとしている。これからの未だ見ぬ日々がどうか少しでも良い方へ、どうか少しでも明るい方へ向かうようにと願っている。

 

 

 

写真:自宅待機中、友人が届けてくれたスイートポテト。

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家族の一人が新型コロナウィルス陽性と診断された。12月に入ってから、町内の小中学校で新型コロナウィルス感染者が出ているという連絡網が毎日のようにラインで届いていたので気をつけてはいた。陽性と診断されたのは今回で2回目である。我が家は今年3月、私を含め家族の内3人が陽性になったのだが、お医者さんが言うには稀に何度も感染する場合もあるらしい。

これはあくまで私の体験なのだが、多くの人が新型コロナウィルスに感染している今この時のことを記しておきたいと思う。

 

まず病院へ

12月19日、家族の一人が朝から体調が悪いと言って学校を休んだ。その日の晩に発熱、翌朝病院に電話をして様子を伝えると、10時半に来てくれと言われた。行ってみると病院の駐車場には知っている人が乗った車が何台も停まっていた。
「ああ、あの人も検査にきたのかな」とか「あのおじいちゃん大丈夫かな」と、誰の車なのかが分かる分、色々な思いがよぎる。
車で待っていると病院の受付担当の人が来た。フェイスシールドと手袋をして、ジップ付きのビニール袋を持っている。少し窓を開けて名前を言い、体温や現状を説明する。窓越しに、袋の中へ保険証や診察券を入れた。感染するかもしれないという不安もあるだろうに、病院にやってくる一人ずつにこうやって丁寧に対応しているのかと思うと頭の下がる思いがする。

 

PCR検査

熱がある家族がPCR検査をすることになった。病院一階、一番奥の角の出入り口前に車を移動させる。そこには防護服を身に付け、フェイスシールド、マスク、手袋をしたお医者さんが待っている。
車の窓をお医者さんの手が入るくらい開ける。検査される方は口にマスクをしたまま鼻だけ出して、開いた窓からお医者さんの手が伸びてくるのを待つ。
PCR検査は以前経験済みなので、子供は既に顔をしかめている。PCR検査は、鼻の穴から長い綿棒のようなものを奥へ奥へとぐいぐい入れる。これがもう、涙が出るほど痛い。痛みに耐える悲痛な声…。そしてどうも今回はぐいぐいする時間が長い。念入りにやっているようで、もうどうかやめてやってくれ、と思ってしまう。やっと終わった時、子供は顔を膝に埋め、しばらく動かなかった。
ここは町で一番大きな病院で、治療や診断を求めて多くの人がやってくる。お医者さんはこうやって日に何度も検査を繰り返すのだろう。そして一人ひとりの状況に合わせて検査結果を説明する。ひっきりなしにやってくる人たちへの対応や治療だけでなく、通院・入院している患者さんもいる。一体いつまで続くのか、出口が見えないまま走り続けてもう3年、医療従事者の方々の体力的、精神的なご苦労を思う。

 

陽性と陰性

もう一人の子は熱はなかったが、咳が出ていたので検査をすることになった。検査と聞いてもう涙目になっている。同じように、ぐいぐいぐいぐい。長い検査だった。もういいんじゃないですか、と口にしかけてやっと終わった。しっかり検体を採取しないと、ちゃんとした結果が出ないのだろう。泣いて泣いて、ティッシュがなくなってしまった。車をまた移動させ、結果を待つ。待っている間、今後の段取りを考える。当面の買い物は一昨日したから大丈夫、灯油も入れておいてよかった。仕事は?学校は?各方面に連絡する。
そうこうしている内に出てきた結果は、一人は陽性、一人は陰性だった。

 

「お母さんもやっとこうか」

私もかなり咳き込んでいた。その咳き込み音を聞いたお医者さんが「お母さんもやっとこうか?どうする?」。
私は熱はなかったが喉が痛かった。もう既に家族に一人陽性者が出ているから「みなし陽性にもできるよ」と言われた。「みなし陽性」とは、新型コロナウィルス陽性者の同居している家族に咳や熱など症状がある場合、検査せずにその症状で感染していると判断することをいう。
「その様子だと、熱がないだけで多分感染してますよ」と言う。検査しないで済むなら…と迷ったがやることにした。その方がはっきりしていいと思ったのだ。
「じゃあいきますよ」
鼻右穴の奥。痛くて痛くてのけぞってしまい「逃げちゃだめ!」と言われる。「やり直し、もう一回」と次は左の奥へ。こちらの方は上手くいったが、ぐいぐいぐいぐい念入りな検査となって、目から綿棒の先が出ると思った程だった。やっと終わって、娘がハンカチをそっと差し出してくれ、余計泣けた。

私の結果は陰性だった。お医者さんは首を傾げ「陽性でも出ない場合もあるから。多分感染していると思う」。
何のための検査なのかと思ったが、検査は一つの目安になる。でも100%確実ではない。そういうことなのだと理解した。薬をもらい、1週間自宅療養・自宅待機をすることになった。

 

 

写真:家の窓から見た風景。自宅待機中に雪が降った。朝起きたら一面銀世界。高知市内では観測史上最高となる14㎝の積雪が観測された。

 

(「家族が新型コロナウィルス陽性に その2」に続く)

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山の手しごと

ジンジャーシロップ

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秋冬の飲み物、ジンジャーシロップを作りました。

農業を営む友人に分けてもらった生姜を薄くスライスすると、もうそれだけで家中に広がるその香り。部活から帰ってきた息子が「あ、ジンジャーシロップ作ってる?」と聞いてきたくらいです。

てんさい糖をざっくり合わせてしばらく置くと、じわじわと水分が。そこへ近所の人にいただいた唐辛子、それからシナモンスティック、クローブ、水を加えます。レシピには「レモン汁」とありましたが、なかったので裏の畑のゆずを絞って入れました。

火を入れ、しばしコトコト…。その合間に家の外に出たのですが、外にも生姜とスパイスの香りが。深呼吸すると、冷たい空気と一緒に生姜は鼻を通り越し、脳まで届く気がします。

高知県は生姜の生産量日本一。11月、あちこちに広がる生姜畑に多くの人が集まって収穫が始まります。一年中美味しく食べられるように、大きな生姜をそのまま冷凍。使いたい時に取り出してすりおろし、また冷凍庫へ戻せるのでとても便利です。またはみじん切りにして冷凍しておいても重宝します。

今回、スパイス類はスーパーで購入しましたが、生姜や唐辛子は友人・知人から分けてもらったもの。本当は生姜や唐辛子も自分で作れたらいいかもしれませんが、シロップにお湯を注ぐたび、その人たちの顔が思い浮かんで、それはそれでいいのだと思えます。

残った生姜は千切りにして、醤油とお酒を加えて佃煮に。余すことなく生姜を使い切りました。秋冬の美味しい飲み物、保存食ができて大満足です。

 

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読んでほしい

思いがけない贈りもの

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軒並み値上がり、野菜も然り。今までスーパーで100円台で買えた葉物が200円台後半になっている。伸ばした手を引っ込めて、はたと考え込んでしまう。本当は何種類か欲しい葉物を二つでやめておく。「値上がりだって」なんて、いよいよ笑って言えなくなってきた。

かぶ、春菊、水菜、ほうれん草、ちんげん菜。ある日、近所の人に透き通るような緑の葉物を頂いた。スーパーで買ったらお札が必要になるくらいの量だった。鍋も気軽にできないな、と思っていたところに惜しみなく届けられた野菜。玄関先に現れたみずみずしい一山は、私の内側をすくいあげてくれた。

 

その日の晩ごはんは決まった。

まずは鶏がらスープの出汁を用意する。豚ひき肉にささがきごぼう、卵、味噌、少しの砂糖を加えて作る肉団子。沸いた出汁にポトリと落とす。きのこや豆腐、白菜を加え、そしていただいた葉物たちを思う存分ふわっとのせる。そうそう忘れちゃいけない、お餅も具の間に忍ばせて、しばし蓋をする。

湯気の向こうから「ほお〜、うまそう!」と声があがる。皆で鍋に手を伸ばす。水菜の先からは出汁がポタポタと溢れ、しみじみと、本当にしみじみと、おいしかった。ありがとうございます、と思った。

思いがけない、ありがたい贈りものだった。今まで、こういった出来事にどれだけ助けられてきただろう。

私がこれまで何とかやってこれたのは、いつだってそばに「人」を感じてきたからだ。

ここにあなたがいる。ここに私がいる。その実感を得られることで、昨日よりも前を向けた。

その週末、遅ればせながら春菊と小松菜とほうれん草の種を蒔いた。今からだと遅いかもしれないが、少しずつでも育つと良いなと思って今日も畑に足を運ぶ。もし上手く育ったら、今度は私が誰かに届けたいと思う。

 

 

写真左は、一緒に届いたポン菓子。その人はポン菓子とは言わず「ガリ」と呼ぶ。「昔は、機械を持った人が近所を回ってきた」と教えてくれた。

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読んでほしい

クロを積む 3

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すべては手作業

「クロは、オヤジもオジイも、ここの周辺のものはみんなやりよった。クロを積んで、冬に田んぼに配って、たたいて、土づくりをしていく。昔はそうしとったわけよ。今はそういうことがないなったね」

化学肥料が普及するようになるにつれて、「クロ」を積む人は少なくなっていったという。

「クロは、もう土佐町の人さえ知らんやろうね、特に若い人は」

そう言いながら、二人は子供だった頃の話をしてくれた。

小学生だった頃、田植えと稲刈りの時期には農繁期休暇があった。学校は1週間休みになり、子供たちは家の手伝いをしていた。

「堆肥を荷背うて、遠くの田んぼへ運んだなあ」

「そうそう、肥を柄杓ですくってなあ」

耕運機のような機械はなく、牛に鋤を引かせて田畑を耕していた。牛はあか牛。皆が牛を飼い、子牛が生まれたら子牛を売る。田畑や家々へ繋がる道は土の道で、牛が闊歩していたという。

苗を真っ直ぐ植えられるように定木を使って手植えし、鎌で刈った米は「ハデ干し」していた。木や竹で高いハデを作って、五段六段もハシゴをかけて、束にした稲を放り投げ、上の人が受け取って干していたという。

「台風でハゼがかやったら(倒れたら)ショックよ。また一つずつ立て直して。でもハデで干した米は太陽の光を浴びていて、そりゃあうまいんで」

何もかもが手作業だった時代。その土地のものを工夫して使い、その土地で生きるために食物を作る。人の排泄物は土に還り、食物の育つ土壌となる。今もクロを積み続ける二人が共有する記憶は、消えることはない。

 

左 田岡袈裟幸さん  右 西村卓士さん

 

 

人力から機械化へ

1975年(昭和50年)、地蔵寺地区と山を挟んで隣り合う立割地区までの道路ができた。他の地域も同様に、道という道が行き渡っていった。

今から約半世紀前のこの出来事は、人の暮らしを大きく変えた。

牛が運んでいた荷物を車が、手で刈っていた稲を機械が。人力から機械化へ。車は徐々に各家庭に普及し、若い人は外へ働きに出て行くようになった。

機械が入るように、小さな田を繋げて広くする事業も進められた。化学肥料が広く使われるようになり、「クロ」を積む人も減っていったという。

さらに時を経て、この10年で機械化はさらに進み、大型化。各家庭や集落で行っていた田植えや稲刈りは、大きな機械を持つ人が請け負うようにもなった。収穫はコンバインで一気に済ませ、籾摺りされた玄米が次の日には手元に届く。

田岡さんは「人間が楽になった」と言う。

便利になり、田畑に立つ時間は短縮され、その分、他のことができるようになった。

それは農業だけに関わる話ではない。今の人間の暮らしは、人間が追い求めてきた利便性の先端にあり、誰しもが大なり小なりその恩恵にあずかっている。

その一方で、今立つ場所の背後には、知らず知らずのうちに失われたものもある。今後、「今」が先端でなくなったとき、私たちは何を得、何を失っているのか。失うからこそ得るものもあるだろう。しかし、本当は失ってはならないものまで手放してはいないか、それを見ようとする眼を持ち続けることが大切なのではないかと思う。

「夏の草刈りはしんどい。でも家に帰って一杯のビールを飲んで、このビールが美味しいのよ!温度も気候も、昔とは変わった。でも、やめよったらいかんのよ」

「人間も自然体やき、健康や命を守っていくためには、その自然の流れの中におったら健康でおれるんじゃないろうかねえ」

田岡さんはそう言っていた。

 

やりよったことを残したい

「クロを残したい。こんなことを今でもやりゆうのか、ということを知ってもらえたらと思う」

西村さんはそう話してくれた。

今回の取材時に、編集部は西村さんから「クロのことについて、自分なりに書いてみたのよ」と、一枚の紙を手渡された。

 

土佐芝刈り歌・相川米で知られる土佐町は、県下でも有数の良質米の産地として発展してきました。

然し、昭和30年代からの国の農業構造改善事業により 土地改良を始め基盤整備は進み、特に機械と化学肥料の進出はめまぐるしいものがあり、昔ながらの芝刈り等を基とした土づくり風景はどんどんと姿を消していきました。近年では水田間の草(芝)は刈りとばしの状態となり、「田肥(たごえ)」としてはほとんど利用されなくなりました。

そんな中で町内の地蔵寺地区、字 “下り道” 周辺の 棚田では、今でも古き伝統を守りながら、草を刈り、 束ねて、クロを積みながら秋から春にかけて有機による 土づくりが実践されています。

この地区の美しい棚田風景、昔ながらの良き作業風景が捨て難いため、現在数戸の農家が高齢者となった今でもお互いに励まし合いながら、7月~8月の猛暑の中 「芝刈り歌」を口ずさみながら草を刈り、ていねいに束ねてクロを積み上げています。

いつ迄続くか解からないが、高齢者であるが故にお互いに励し合い、昔の原風景を懐しみながら 取り組んでいる次第。

 

この場所の50年間の変遷を知る西村さんと田岡さん。

「この50年で本当に変わった」という。田も、町も、世の中も。

移り変わっていく世界のなかで、変わらずに守りたいものがあるから今日も田に向かう。

今、懸命に踏ん張っている人たちは、今後ますます高齢化していく。これから10年後、この町ではどんな風景が見えるのだろう。

二人は言っていた。

「夏の暑い盛りに草を刈ることは、本当はしんどい」

でも、「西村さんもやりゆうけ、自分も、と思う」と田岡さんは言っていた。「それはわしも一緒よ」と西村さん。互いの背中を励みに田畑を守り続ける人たちがここにいる。

 

 

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読んでほしい

クロを積む 2

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 クロにするのにクロウする

田の畦に打ち込んだ棒を真ん中にして、時計回りに草の束を巻き付けていく。一人ではできない共同作業だ。巻き付けていくにつれ高くなっていくので、ハシゴをかけて作業する。最後の束は「傘を着せる」ように、全体を巻き込むようにしてくくりつける。こうすることで内側に雨が入らないようになるという。

そして、風で倒れないように紐を張って完成。

「いやー、きれいになった!」

二人とも満足そうな表情だ。

クロを積む西村さんと奥さまの佐枝子さん

それにしても、この作業量は並大抵ではない。

「クロにするのにクロウ(苦労)するがよ!」

まさに!という田岡さんの名言。笑い声が辺りに響いた。

 

冬、クロをほどいて田にばらす。この後、トラクターでたたく(写真提供 西村卓士)

完成した「クロ」はこのまま置き、12〜1月になったら「クロ」の束をほどいて田にばらし、土をたたく(耕す)。

「冬は水田が凍りつくから虫もよく死ぬる。この時期が一番いいんじゃ」

こうして迎えた春、「クロ」はその年の米を育てる土壌になる。

「病気に強い、うまい米ができるんじゃ」

西村さんも田岡さんも口を揃えた。

 

 

クロを積む 3」に続く

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読んでほしい

クロを積む 1

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一年で最も暑い7月下旬から8月。早朝から蝉の鳴き声と共に草刈機の音が響く。

ウィィィィン、ウィィィィン、ウィィィィン…。

夏の間は、遠くで反響するこの音で目が覚める。

夏の草は伸びる。大いに伸びる。つい先日刈ったばかりなのに、数日後には生き生き青々とした草が新たに伸びていてがっくりする。農家の方たちの苦労はいかばかりか。草を刈るたび、そう思う。

 

クロ

一方、その草は貴重な肥料にもなる。

土佐町の田の畦には、草でできたテントのような「三角形」が立っている。打ち込まれた棒を真ん中に、いくつもの草の束が巻き付けられてできており「クロ」と呼ばれている。

一年で一番暑い時期に刈った草でできた「クロ」は、昔からこの土地で使われてきた肥料のひとつだ。冬に、この「クロ」の束をほどいて田に入れ、田をたたく(耕す)ことで豊かなつよい土壌を作る。

時代の変化や化学肥料の普及とともに「クロ」を積む人は少なくなったが、今もこの「クロ」を肥料とし、お米を作り続けている人たちがいる。

 

西村さんの田とクロ

 

クロを積む

土佐町地蔵寺地区の西村卓士さんと田岡袈裟幸さん。この地域で生まれ育ち、お米を作り、この土地の棚田を守り続けている。

標高約350メートルの場所に広がる棚田には、二人が積んだ「クロ」があちこちに見え、田への道に沿って作られた水路には「飲んでも構わん」ほど綺麗な山水が流れる。

西村さんは夏の間、朝4時半に起床。6時には草を刈り、「クロ」を積む。

「草を長いことおいたら、大きくなって刈るのがしんどい。でも刈るのが早すぎてもまた次が生えてくる。そうすると、また草を刈りにいかないといけない。どのタイミングで刈るか、草の状態を見ながら決める」

ただ草を刈ればいいという話ではない。どう刈ったら草を束ねやすいか、刈る向きや長さを考えながら刈るという。「草を刈るのはこの人の方が丁寧で上手いんじゃ」と西村さん。そのそばで、奥さまの佐枝子さんが笑う。

 

「クロ」を一つ積むためには、14~15束の草が必要だ。

写真の岸(田と田の間の斜面)に生えている草が、約1束分の量。ということは、この量をあと14回は刈り、束ねる必要がある。

毎年、西村さんが積むクロは10個。少なくとも150束分の草が必要ということだ。これが西村さんの田、約3反(約3,000㎡)分の肥料となる。

「案外大変なのよ!」と笑い飛ばす西村さんの額には汗が滲む。

 

 「クロを積む 2」に続く

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読んでほしい

軸ある足元

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以下の文章は、2022年7月20日に発行したとさちょうものがたりZINE 10「土佐町のかたち」の巻末に、あとがきとして掲載したものです。

 

「軸ある足元」 文:鳥山百合子

昨年のもうすぐ稲刈りを迎えるという頃、大型台風が高知県を直撃する予報が出た。お米を作っている友人に「台風が逸れるといいね。心配やね」と声をかけた。すると彼は「なるようにしかならんきね」。心配を笑い飛ばすように手を振って、彼は軽トラックで帰っていった。私は見送りながらその言葉の意味を考えていた。

11年前に土佐町に来てから、私はこの地の人の姿に感じてきたことがあった。それは『この地の人は共通した「何か」をもっている』ということだ。その「何か」が何であるのか。考え続けてきたその答えを、友人の言葉が教えてくれた。

大地を耕し種を蒔き、丹精込めて育てても思い通りにならないことがある。この地の人は、人間の力でどうにかできることとできないことがあることを身体で知っている。それは諦めというよりも、自然に身を委ねざるをえない時があることを知る人間の謙虚さ、そして、その中で生きるために何とかやりくりして切り抜けようとする人間の粘り強さであると思う。それは自身の経験から得たもの、そして、先人たちの汗水流し働く姿を見ながら身に付けてきたものだろう。その体感は、ちょっとやそっとでは揺るがない足元をつくる。地に足をつけた足元が、私はずっと羨ましかった。

 

内側の違和感

私は神奈川県西部のある町で育った。自然が色濃く残り、田畑を駆け回って遊んだ。

畦道の脇には水が湧き、クレソンが生え、どじょうが泳いでいた。田に積まれた籾殻の山に飛び込み、寝転んで夕焼けを眺めた。小学校へ向かう道の途中には一本の大きな桑の木が生えていて、紫色に熟した実を手のひらいっぱいに摘み、一気に口に放り込んだ。捨てられていた家畜用のとうもろこしの実をほぐし、何かを燃やしているドラム缶に投げ込んだらポップコーンが飛び出して心底驚いた。土の上を駆け回っていた頃の記憶は、鮮明で懐かしい。

小学校高学年の頃、遊んでいた場所に重機が入った。桑の木は切られ、田畑は埋め立てられて住宅地になった。次第にそういった場所は増えていき、いつの間にか街全体を変えていった。

学生時代は満員電車で学校へ通った。運良く窓際に立てたら移り変わる外の景色をぼんやりと眺め、時には押し潰されそうになりながら息を押し殺して立っていた。あの頃、私は何を見て、何を考えていたのだろうか。振り返ってみれば、私はこの頃から、自分の内側にもやもやとした違和感を感じるようになっていた。

終点の新宿駅に到着すると押し出され、追い立てられるように駅のホームを歩いた。足元はいつもどこか知らない場所を歩いているかのようだった。四方八方店が並び、物やネオンや情報が溢れ、もっともっとと突きつけられているようだった。多種多様な選択肢があるはずなのに私は何を選びたいのか、何がしたいのかわからなくなっていた。そんな状況を何とかしなくてはと焦り、周囲と自分を比較して落ち込んだ。笑いながら内側では笑っていない、内側と行動が一致していない自分を感じていた。

働き始めても、親になってからも、その違和感は姿形を変えながら積み重なっていった。その違和感の正体を見ようとすることは怖く、正直に言うと、考えることから逃げていた。考えることを後回しにしたつけは必ずやってくる。いつの間にかそれは幾種類も幾重にもなり、いい加減に内側の整理が必要になっていた。

 

違和感を整理する

土佐町で暮らし始めて11年目になる。ここ数年で、長年抱えてきた違和感を感じることは少なくなってきたように思う。それはなぜか?

まず、移りゆく四季折々の自然の姿や、その中で暮らす人たちとのやりとりが私の内側に大きな影響を与えたようだった。

耕された土から立ち昇る蒸気に春を感じる。鮎泳ぐ川に飛び込み、耳元で水の粒が弾ける音を聞く。黄金色の田に稲穂を揺らす風の通り道を見つける。四季の営みの元、食べるものを作り、生きる人たちがいる。この土地で生きる知恵と技術を持ち、土地のものを上手に利用し工夫して暮らす。

私にはそういった知恵も技術もないが、地に足をつけて暮らす人たちを身近に感じることは心強く、喜びだった。そう感じる自分への違和感は1ミリもなく、とても気持ちよいものだった。

人間は人間である前にまず生物であって、命の源である自然の中に暮らすことは思っている以上に大きな影響を与えていると思う。幼い頃見た小さな湧水や甘酸っぱい桑の実、橙色の夕焼けの広がりを私は忘れたことはなかった。人間は土から離れない方がいい。その体感を改めて得たことは、抱えていた違和感に風穴を開けてくれた。暮らしている地を好きだと思えることは、本当に素晴らしいことだ。

そしてもう一つ。長年の違和感は、内側の「本当」の部分に蓋をして自分を誤魔化していたから生じていた。その気付きは大きかった。意外とシンプルな答えなのに、それが分かるまで随分と時間がかかってしまった。

違和感は放っておかない方がいい。気付いた違和感に気付かないふりをしていると、あったことを無かったことにする癖がつく。もし違和感を感じたら立ち止まり、それが何であるのか考えることが大切だと思う。すぐにその答えが分からない時もあるだろう。でも一番大事なのは自分の感じたことを適当にあしらったり、無かったことにするのではなく、ちゃんと見ようとすることだ。それは自身の足元を確かめることでもある。絡み合っていた違和感を一つずつ解きながら着いた先には、ちゃんと自分の足元があった。

 

足元はここにある

けれども、日々流れてくるソーシャルメディアやテレビ等の情報の渦に巻き込まれそうになる時がある。そんな私を救い上げてくれるのは、いつも「人」だ。

土佐町田井地区で理髪店を営んできた西森五明さん(P49)。今回の撮影を「今までの生き様を残しておくためにいいかもしれんね」と引き受けてくれた。

昭和7年生まれの澤田三月さん(P45)は、洋裁を勉強するため列車や船を乗り継ぎ、何十時間もかけて東京まで通ったという。「辛いこともたくさんあったけど、でも今はよかったなあって。人の気持ちがわかるようになった。無駄なことなんて一つもないわね」。

人生の先輩方がふと話す言葉は、柔らかで強い。曇りないその言葉はその人の佇まいと不思議なほど一致している。地に足のついた方と向き合うたび、私の足元が今どこにあるのかを感じる。

私たちは、スマートフォンやパソコンの画面上の情報ややりとりだけでわかった気になっていないだろうか。

私の足元は自身の元に、そして向き合う人との間にある。これからも、それは変わらない。

 

 

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