土佐町ストーリーズ

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嫁のへ

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昔、あるところに、それはべっぴんで気立ても良く、働き者の娘がおったそうな。

しかし、こんな娘にもひとつだけ悩みがあった。芋が何よりも好きで、芋なしでは生きてゆけんほどの芋好きじゃったそうじゃ。

縁談の話もたくさんあったが、なかなか嫁に行こうとはしなかった。そんな娘も親の勧めで、ようやく嫁ぐことになった。両親もたいそう喜んだが、娘を呼んで「ええか、嫁に行ったら、芋が出て三個以上食べたらいかんぞ。おまんは芋を食べたら、へが止まらんなるから。それがもとで離縁でもされたらおおごとじゃ」と言って嫁を案じたそうじゃ。

嫁いだ先の家では、べっぴんで働き者の嫁が来たとたいそう喜んだげな。

嫁も初めのうちは親の言いつけを守り、芋を食べざったが、一ヶ月ぐらいたったある日、どうしても我慢できんなり、芋を食べたと。それから毎日少しずつ隠れて食べよったが、次第に量が増えだした。

そしてある日のこと、姑が息子に「えらい最近、芋つぼの芋が減るが、どうしたもんじょう」と聞いたそうな。息子もわからんかったんで、嫁に「おまんは知らんか」と聞いた。嫁は「あては知りません」と答えたんじゃが、その日はあまりお腹がへっちょったもんじゃき、芋をどっさり食べちょった。

「あては本当に知りません」ともう一度言ったとたんに「プップップップ………」と、へが止まらんようになって、その勢いで空へ飛んで言ったそうな。

まっこと、芋の食べ過ぎは、怖いのう。

和田土良

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くせ地(黒丸)

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芥川から黒丸へ越す所の畝が丸山じゃが、その東に川を渡って行ったところにハヨがハエ言う所(く)がある。

以前は伐畑農業いうて、山を焼いては畑にして稗など作りよった。

その山を焼くに、人が中で火をつけよるに、そのまわりにずっと火をつけまわして、「早よう出え、早よう出え」と呼びまくって焼き殺したという。

そんでハヨがハエいうてここを耕すと祟りがあると言いよったが、今は植林になっちょります。

町史

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高須の地名と河内神社(高須)

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高須の北浦という所に大きな榎(えのき)があって、それに鷹が巣をこしらえちょった。

そして近くの家の子どもをさらっていくので、始末せんならんことになった。

狩人じゃったら祟りがないということで、狩人を連れてきた。鉄砲か弓じゃったかは知らんが、射たれた鷹は飛んでいって河内神社の坪(庭)に落ちた。

榎はそのままにしておいたらまた巣をこしらえてはいかんということで切ることになり、祟りがあってはということで、その榎から御神体をつくるからと神様にお断りの祈祷をして伐り倒したそうな。伐ったあとは田になっちょるが、京都の仏師に頼んで八体の神像を刻んでもろうたそうな。

町史

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聖が崖(上津川)

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上津川の谷の奥のずっと高いところに大きな岩屋(岩の中にできたほら穴)があって、源平の時分に平家の者が逃げ込んだ言う所じゃ。

そこを聖が崖(ひじりがだき)と言うが、そこへ逃げてきちょった者も捕まって首を切られたそうなが、その首が下へ流れて聖が渕まできて七日七晩渦を巻いたそうな。

その渕は上津川口から少し入ったところにあったが、今はもうダムに沈んで、もうのうなってしもうた。

町史

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むかしきゅうり

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たまらなく懐かしい人に会ったような気持ちで受け取った。

「野菜、取りにきいや」と声をかけてくれた人が手渡してくれたもの。長さ約30センチ、厚さ10センチ、重さ約1.5キロ。色は薄い緑で、少し黄色がかっている。その姿はまるでお腹をへこませたラグビーボールのようである。

その野菜の名は「むかしきゅうり」。

 

町のスーパーの野菜売り場で見かけるのは、気軽に片手で持ち、ガブッと丸かじりできる細長いきゅうりがほとんどだと思うが、「むかしきゅうり」がそういった場で売られているのをまず見たことがない。丸かじりで完食するにはかなりの根気がいる大きさであり、ましてや皮はけっこう硬い。多分、自宅用または近所の知り合い同士、その土地の間だけで出回っている野菜なのではないだろうか。

 

むかしきゅうりは、私にとって大切な人を思い出させる。

夏になると、「むかしきゅうり」を何度も持ってきてくれる人がいた。私が土佐町に来てから、毎年毎年ずっとだ。

その人、上田のおじいちゃんは、軽トラックの荷台にいくつも積んで来て「皮をむいて、小エビなんかを一緒に入れて炊くとおいしいで」と言いながら、手渡してくれた。その一つ一つはずっしりと重く、夏の太陽をさっきまで浴びていたんですよ、と言っているかのように内側から熱を放っていた。

大きめのむかしきゅうりを半分に割ると白い種が行儀よく交互に並んでいる。調理するときはそれを大きなスプーンか何かでこそげ取るのだが、おじいちゃんはその種を取っておいて、種の周りについてぬめりを山水で洗い、来年用の種として乾かして保存していた。夏の盛りにおじいちゃんの家に行くと、軒下にひかれた新聞紙の上にいくつもの白い種が散らばっていたものだった。むかしきゅうりを手にし、急にその風景が蘇った。

おじいちゃんは、今年の2月に亡くなった。

 

 

今年、むかしきゅうりを手渡してくれた人も「皮をむいて、煮て食べるとおいしいで」とおじいちゃんと同じことを言った。

その言葉を聞いて「ああ、上田のおじいちゃんから、むかしきゅうりを受け取ることはもうないのだ」と思った。同時に、おじいちゃんと同じきゅうりを育てている人がいるということが、どこか嬉しくもあった。

家に帰り、二人が教えてくれたように皮をむき、だしと醤油、小エビを一緒に煮て、クズでとろみをつけ、おろし生姜を添えていただいた。

 

 

「おじいちゃん、今年もむかしきゅうりと会えたよ」

そんな気持ちで、まだいくつか残っているむかしきゅうりを眺めている。

 

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びわの季節

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5月下旬、白やオレンジ色の袋をつけた木があちらこちらにあることに気づく。
びわの木だ。
鳥に食べられないように、びわの実の一つひとつに袋をつけるのだ。

 

土佐町で暮らし始めてからずっとお世話になっていたおじいちゃんがいた。

おじいちゃんの家にもびわの木があった。

ちょうど家の向かいに住んでいたおじいちゃんが教えてくれたこと、一緒に過ごした思い出は数え切れない。
しいたけのコマ打ちの仕方を教えてくれた。梅や柿を取りにおいでと言うために、朝出かけて行こうとする私を階段の下で待っていてくれた。しし汁をストーブにかけてあるから食べにおいでと電話をかけてきてくれた。
夕方、おじいちゃんの家を見て「灯りがついたなあ」と思っていたのは、おじいちゃんも一緒だったと知った時の気持ちは今も忘れていない。

 

毎年5月、おじいちゃんのびわの木には袋がかかって、白やオレンジの花が咲いたように見えた。その「花」が咲いてしばらくたった頃、おじいちゃんはいつも声をかけてくれた。

「びわをとりにおいで」

 

私の息子はびわが好きだ。おじいちゃんは高いところのびわはハシゴをかけて採って手渡し、びわを頬張る息子を目を細めて見ていた。

おじいちゃんは、息子をまるで自分の孫のようにかわいがってくれた。息子にたけのこの掘り方を教えてくれた。息子は学校から帰るとランドセルを置いて自転車でおじいちゃんの家に行き、一緒にテレビの時代劇を見たり、そのまま夕ご飯をご馳走になって、おじいちゃんの運転する軽トラで帰って来たこともあった。

おじいちゃんと息子は、気の合う友達のようでもあった。

 

確か土佐町での3回目の5月を迎えた時、やっと気づいた。おじいちゃんは、びわを息子に食べさせるために袋をかけてくれていたのだ。「結くんはびわが好きじゃき」と言って。

 

 

今年の2月、おじいちゃんは亡くなった。棺に入ったおじいちゃんはいつものように穏やかな優しい顔で眠っていた。声をかけたら起き上がって笑ってくれそうだった。息子は棺のそばに膝をつき「なんで、なんで…」と泣き崩れた。「おじいちゃんは結くんが大好きじゃったきねえ」と言いながらおばあちゃんも泣いていた。みんな泣いた。

 

おじいちゃんがよく薪を割っていた田んぼの畦や薪がたくさん重ねられた小屋の前を通る時、ふと、おじいちゃんの気配を感じることがある。
ここは、おじいちゃんが歩いた道。おじいちゃんが生きた場所。

 

 

今年もびわの季節になった。
おじいちゃんはもういない。

それでもびわは色づく。

おじいちゃんは、今日もどこかで見守ってくれている気がする。

 

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南京米の味

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筒井賀恒さん(昭和8年生まれ。85歳)の話

 

もう3年、はよう生まれちょったら戦争に行っていた。
戦争に行くかもしれないなと思っていた。

 

大東亜戦争が始まったのが小学校2年生の時、昭和16年12月8日。

それまでは満州事変や支那事変があって、小学校1年生か2年生の時に、配給で「南京米」っていう先の長いお米を馬に負わして運んで来た。南京米は中国から輸入してきたお米で、味のあったようなもんじゃなかったねえ。マニラ麻の袋に入っていて、船に積んで輸送してきたんでしょう。その匂いが染み込んで、米の味どころじゃなかった。今でもその味を覚えてる。

 

みんな食糧難の時代に育っちゅう。それなのに、どうして今、こんなに元気でいれるのかと思う。

 

小学校4年生くらいになったら「食料のいも作れ」って学校のグランドも畑にして、いもを作りよった。そんな時代だった。

小学校6年生の時に終戦になった。
6年生の時、男の子が何人もいて、友達はもう決めてしもうてた。航空兵になる、船に乗る、 陸軍へ行く…、そんな教育じゃったのよ。自分はどっちにしようか、うろうろしゆううちに終戦になった。時代の変わり目に、自分は生まれた。

 

戦争というたらね悲惨なものよ、話にならんくらい。どん底よ。
戦争がどんなもんだったかというと、国のため兵隊に行くことだけ、家に帰ってくるようなことを考えたらいかん。
脱走したら非国民じゃ、罪人扱い。 

 

今、若いもんに昔の戦争の時の話をしても、なんでそんな生活をしよったのか、と言うくらい。
品物がなかった時代のことを思うたらね、こればあ豊かな生活ができるとは夢にも思っていなかった。焼畑をして、高度成長の時代がずっと続いて、最近ちょっと不景気じゃいうけど、不景気じゃない。いちばん幸せな時代に生まれたと思う。

 

今、人生が終わりかけてるんじゃないかといろいろ振り返ってる。自分は何をしたやろう、と思ったりします。

 

 

 

*このお話をしてくれた賀恒さんの記事です。

筒井賀恒 (東石原)

高峯神社の守り人 その1

高峯神社への道 はじめに

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土佐柴刈り唄 後編(高須)

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ここでこの柴刈り唄のモデルとなった話を一つしてみようかのう。

江戸時代の終わりの頃、高須の台という所に常右衛門と言う、部落の世話をようやっておいでた人がおった。
ある日、笹山を越えて高知へ行く途中、土佐山村の菖蒲と言う所でお兼と言うべっぴんさん(美人)に出合おたそうな。

それからというもの常右衛門は、“寝ては夢、起きてじゃうつつの幻の”だったかどうか定かではないが、とにかく一目惚れをしたそうじゃ。そんで、どうしても自分の女房にしとうなって、口説きに行ったと。

そしたらお兼が答えて、「百晩ここまで通うて来たらおまさんの言うとおりにしちゃる。」言うたそうな。

そんで常右衛門は、次の日から笹山を越えてお兼の所へ通うことにしたそうじゃ。
今でこそ車があるが、当時のこと頼りになるのは自分の足だけで、それも険しい坂道で、片道約三時間はかかったであろうから、並大抵のことではなかった。

家族にも内緒で、仕事が終わるとすぐに出掛けて、朝方には誰にも気付かれぬように帰って来る毎日が続いた。

家族のもん(人)も、えらいぞうりがちびるがおかしいと思いよったと言うことじゃ。

ある日には、途中で子連れの猪に出合い、それを次の日おおかた言いかけて、ばれたらいかんので

「笹山には子連れの猪が………おりゃせんやろうかねえ。」

言うてごまかしたと言う話もあるそうな。

やがて九十九日通った晩のこと、お兼が「おまんさんは九十九日も通うて来たんで明日は来んでも来ることはわかっちゅう。」言うて常右衛門の熱心さに打たれて、めでたく結婚し、仲良く暮らしたいうことじゃ。

 

「土佐町の民話」より 池添好幸

 

土佐柴刈唄

無形民俗文化財  昭和四十一年五月十七日 町指定

《歌詞》

田肥ノー よしよやれ
よしよやれ た肥
ヨイショー ヨイショー
田肥よしよやりや ユホー
実がやどる
ハア ヤレショー ヤレショー (以上繰り返し)

来いとノー 誰が言うた
笹山こえて
ヨイショー ヨイショー
露に御袢の ユホー
紐ぬれた


来いでノー 来いでと
待つ夜は 来いで
ヨイショー ヨイショー
待たぬ夜に来て ユホー
門に立つ


鮎はノー 瀬に住む
鳥や 木にとまる
ヨイショー ヨイショー
人は情の ユホー
蔭に住む

朝のノー 露草に
刈り込められて
ヨイショー ヨイショー
鳴いて上るは ユホー
きりぎりす

柴刈れノー 草刈れ
やれ はげめ
ヨイショー ヨイショー
今年や米取ろ ユホー
嫁も娶ろ

俺がノー 土佐の
柴刈り男
ヨイショー ヨイショー
鎌の光でユホー
山へ行く

行きはノー 朝星
帰りは夜星
ヨイショー ヨイショー
昼は利鎌の ユホー
星が飛ぶ

土佐はノー よい国
南をうけて
ヨイショー ヨイショー
年にお米が ユホー
二度とれる

今年やノー 豊年
穂に 穂が咲いて
ヨイショー ヨイショー
道の小草も ユホー
米がなる

 

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土佐柴刈り唄 前編(高須)

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むかしむかし、まだ化学肥料のないじぶん(頃)には、五、六月になるとサッーと萌え出た、やりい(やわらかい)柴を刈って肥料として田んぼに入れよりました。

牛を使ってこなし、水を張った田んぼに柴を刈って来て入れ、鉈でこいつを二十センチメートルぐらいに叩き切りよりました。

田んぼの中でやったんで、下が泥ですろう。ボッシャン、ボッシャン頭から泥だらけになって叩き切るわけですらあ。

六月じぶんじゃったら、田んぼに柴を置いただけじゃなかなか腐らんですがねえ。
そんでオアシ言うて大きな障子の枠みたいに組んだ下駄をこしらえて、叩き切って拡げた柴をザンブリザンブリ踏んで行くわけですらあ。

柴刈りは男も女も家族総出でやりよりました。それから季節労働者を雇うたりもしよりました。
大栃の菲生(にろう:現在の香北町)あたりからもだいぶ来よったがねえ。

柴を刈るのも、田んぼで叩き切るのもどっちも重労働じゃった。刈った柴は、三束ずつくくって、六束をサス(突き刺し棒)で担うて来ましたのう。

一日刈る量は普通「一日六荷(一荷は六束)」と言いよったが、一反(約十アール)には二十荷ばあ入れよったろう。
よけい入れる場合もあって田んぼの水が見えんば入れることもありましたねえ。

こうした重労働の中で、「柴刈り唄」は、山のこっちでも向こうでもお互い励まし合うという格好で唄うたもんですのう。

「土佐町の民話」より 池添好幸

 

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掛穂の由来(石原)

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いつの頃からかはっきりわからんが、芥川主水と言う人がおったそうな。
猪や猿が多く、作物にわるさをするんで、山の中に小屋を作って毎晩追い払ったそうな。

ある朝のこと、小屋の棟から大きな足が下がってきたと。主水がこれを弓矢で射ろうとしたところ、

わしは三宝山に仕える者じゃが、この山の大神は、作物の豊作を願う神であるので
もうここに来る事はない

と告げ、鐘、太鼓を響かせて去って行った。
主水は伏し拝んですぐに家に帰り、再び小屋を作ることはなかったと言うことじゃ。

さて、その秋は、猪や猿の害も少なく豊作じゃった。
それでその初穂を山頂の大桧に掛けてたてまつったそうな。
それから毎年大みそかの夜に掛穂をするようになったと言うことじゃ。

またその後にこんな話もある。

ある年の秋、安芸郡の小作百姓の藤右衛門が、稲刈りを始めたところ、いつもの年の半分にも足らん実入りじゃった。
刈り入れはそのままにしちょいて、早速、加地子米(田んぼのかわりに地主に払う米)を減らしてくれるように
地主にたのみに行ったんじゃが、地主はうんと言わざった。

困った藤右衛門は初穂と新しい鎌を持って、三宝山に参詣し、刈り残した稲がどうか実って下さいとお祈りした。すると社殿から老人が現れ、

わしは山の神じゃが願いごとは確かに聞いた

と言うて、鎌を片手に大空へ消えていった。

それから、はるばる帰り着いた藤右衛門はその足で早速様子を見に行ってみると、
なんと稲穂は深く垂れて満作になっちょったと言うことじゃ。

それを伝え聞いて安芸郡から参詣する人も多くなったそうじゃ。

町史

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