2023年10月

笹のいえ

暮らしの周りにある命

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ある日、家で作業をしていると、バス停から走って下校して来た長男が、

「父ちゃん、にわとりの羽が道にたくさん落ちてるよ!」

と息を弾ませながら教えてくれた。

うちではいま四羽の雌鳥を放し飼いにしていて、彼女たちは日中その辺を自由に行き来している。

母屋からすぐの道路に行ってみると、確かに羽が散乱している。色から判断して、うちの鶏のものだろう。

ああ獣に襲われちゃったか、タヌキかハクビシンか。でもいつだったんだろう、僕はずっと家に居たのに襲われたときの叫び声は聞こえなかったな、などと考えていた。そして、そのあと心に思い浮かんだ気持ちは、悲しいとか可哀想ではなく、

「こんなことなら、早く食べておけばよかったな」

そう思った自分が少し意外だった。

そこには、我が家における貴重な動物性タンパク質を失った落胆があった。

実際これまでも、卵を産まなくなった雌鳥や年老いた雄鶏を絞めてきたから、「鶏は家畜であり、卵と肉を僕たちに提供していくれる有り難い生き物」と理解してる。しかし他方では、獣に喉元を噛み付かれ山中に引きずられて食べられてしまったであろう鶏の心中を想像すると、飼い主として申し訳ないという思いもある。

自然に寄り添う暮らしをしていると、生と死が隣り合っていることを実感する場面を目にすることがある。トンビが田んぼのカエルを捕まえ啄んでいたり、飼い猫がネズミやトカゲを咥えていたり、車に撥ねられたであろう狸の亡骸を道路の端に見ることもある。数時間前まで生きていた鶏の肉を調理し口に運び、僕たち生き物は他の命を取り込んで生き続けているという事実を経験する。

 

さてその後夕方になり、放し飼いの鶏たちが小屋に戻ってくる。最後扉を閉めるときに数を数えてみる。「いち、に、さん、、、し?」 なんだ四羽全羽いるではないか。

鶏が襲われたというのは早とちりであった。でもそのお陰で、暮らしの周りにある命と僕たちの繋がりについて向き合う良い機会となった。

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