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土佐町ストーリーズ

「私について」

9月になったのに相変わらずに暑い。それを言い続けてもう何年になるだろう。残暑というより、9月が暑いのは最早デフォルトになってきつつある。

特にイベントがない今日この頃、今回は私について少々深堀りして書いていきたい。

私は生まれも育ちも高知、生粋の高知県民。子供のころには”おしゃま”で“悪ことし”、大学では“はちきん”と呼ばれた性格の、ちゃきちゃきしているのが、私である。

保育園から小中高と、地元の学校を卒業した。大学は高知市内に進学し、新卒で社会人1年半は同じく市内で仕事についていた。

ところが、ストレスが溜まりすぎたらしく…。ある夏の日。気がつくと、病院のICUの隣のベッドにいた。そこで伝えられたのは、双極性障害混合型、適応障害(過適応)、重度不眠、その時勤めていた環境には就労不可、という事実だった。確かに、私は仕事の合間に1時間に1回は吐きながら、フラフラするのを物につかまりながらやり過ごしていた。今考えてみると、まともな働き方ではなかった。

双極性障害は聞きなれないと思うが、簡単に言うと躁鬱。鬱の気分、普通の気分、元気すぎる気分がある病気だと解釈していただくとわかりやすいだろう。厄介なのは気力が無くなる鬱ではなく、眠気も感じず謎の万能感がある元気すぎる時だ。なので、普通の時と元気すぎる時しか知らない人は、「この人普通の人じゃないの?」と思われがちである。

職もなく、生きる余力も気力もない。そんな自分が一人で生きていける訳もなく、土佐町に帰ることになった。初めの頃は、父も母も、私が生きているか、お昼休みや夕方帰ってきてすぐに、ベッドに確認しに来ていた。

そのうち春になり動けるようになると、庭を散歩したり山菜採りに行けるようになった。山の緑が、やけに身にしみたことを覚えている。道すがら会うご近所さんは、私の病気に理解があり、

「ゆかりちゃん、今日は元気そうやね。ぼちぼちやりゆかよ?」

と声をかけてくれる。私は、

「ぼちぼちやりゆうよ。カタツムリみたいなペースやけんど。笑」

と答える。ご近所さんは、

「焦ってもなんちゃーならんきね。ゆっくり休みもって行きよ。」

と肩をポンポンと叩いてくれた。

今思えば、私は随分と恵まれている。昭和の時代では、”鬱は甘え”と言われるものだった。昭和世代のご近所さんからは、そんな素振りは見られない。精神疾患を色眼鏡で見ることなく、対等に接してくれる人はまだ多くないと感じる。

―病気に理解がある人が身近にたくさんいる。たまたまかもしれないけれど、私の故郷はそんなところなんだ…。―

私は幸せなめぐり逢いのある土佐町が、また好きになった。

父も母も弟妹も、私のよく分からないこの病気によく付き合ってくれている。急にボロボロ泣き始めても、病気の症状のひとつで箸の持ち方が分からなくなっても、一つ一つ相手をしてくれた。

未だに、双極性障害混合型は不安定だ。気持ちのアップダウンがしんどい。更に眠剤の耐性が付いているので、寝付くことも難しい。体の代謝が落ち、食欲が増すような薬も飲んでいて、こんなに太ってしまった自分を、鏡で見るのが苦痛でたまらない。

でも、私がこうして、双極性障害混合型や、ほかの精神疾患を語るのは、”こういう人が、ここでマイペースに生きゆうよ。”と伝えたいからだ。そして私が私であるために、この病気であることを隠して生きていくことは、できなかった。

私が地域に溶け込んでいられるのは、小さな頃の私を、”おしゃま”で”悪ことし”の私を、みんなが知っているからかもしれない。もちろん、精神疾患については色んな考え方がある。土佐町でも、精神疾患の捉え方は様々であるはずだ。しかしこの町は、私にとって極めて生きやすい。

もし「とさちょうつれづれぐさ」を読んでくださった方に、心の傷や精神疾患があるとしたら、私は伝えたい。

「あなたが、ちゃんとあなたらしくある限り、大丈夫だよ。この町は懐の深い町だよ。」

と伝えたい。

終始自分語りになったが、土佐町は結構温かい場所だと伝わればこの上なく嬉しい。

現在私は、障害者手帳をもち、ヘルプマークをカバンにくっつけて生きている。通院は市内に2週間に1回、かなりの量の薬を、飲んでいる。まるで一品料理みたいな量で、笑ってしまう。

一生付き合う病気だけども、今はなんとか手綱を握ることができるようになってきた。カタツムリが何年もかけてやっと到達した、今。

そしてカタツムリが這ってきた足跡を振り返ると、右に左にブレているのに、虹色に光って見える。生命の軌跡だ。

今回のエッセイが、精神疾患や障害者の理解に繋がればいいと思っている。 そして、同じ精神疾患を持つ人の、目印になれればこんなに嬉しいことはない。

95年間のキヨ婆さんの思い出

95年間のキヨ婆さんの思い出 37

 

土佐町栗木地区に近藤潔さん(98歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2025年9月29日追記:潔さんは現在99歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

夏休みのこと

毎年8月1日から31日まで休みでした。

宿題は「こかげ」といって、全学年に出ていました。一日1ページだったのでしたが、私は一度に済ませて、その分は弟の子守りとかしていました。

暑いので大人の仕事もなく、子守りもしなかったので、お天気の良い日は川遊びに夢中でした。

時々父が川魚を取りに行く時は籠持ちでした。一日中川遊びをすると、夕方は疲れて、夜はぐっすりでした。

宿題を済ませていたので、また明日も川へ行こうとぐっすり眠ったのでした。

95年間のキヨ婆さんの思い出

95年間のキヨ婆さんの思い出 36

 

 

土佐町栗木地区に近藤潔さん(98歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2025年9月29日追記:潔さんは現在99歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

孝ちゃんとの思い出

麦山という集落は、十軒位の狭い集落だったように思う。同級生はおらず、ずっと下の「ナカダイ」と云う所に、勉強も一番、カケッコも早い「今朝乃」さんという人だけだった。向いの髙須や、学校から川下の人が多くて、一番家が近くの「上田孝男」君と遊んでいた。一才年下でした。

おばさんは、「トミヤン」と言って、いつもニコニコしていました。おんちゃんは、「ギコウ」さんといって、役場へ勤めていました。
その日は、学校が休みで雨が降っていました。孝ちゃん一人でした。

家の中で遊んでいて、孝ちゃんが、小さなビンの中の物を指で頭に塗り始めたのです。後で分かったのは、オンチャンが頭へつける「ポマード」だったのです。私のオトッチャンはそんな物をつけたことがなかったので知りませんでした。

坊主頭がネバネバになって、「キヨチャンもぬりや」。
私もオカッパ頭へ指先でぬって顔を見合わせて、ニッコリと。

その時、おばさんが帰って来た。二人の様子を見て、「マア」と言った切り、黙って孝ちゃんを風呂場へ引っ張って行った。
さあたいへん、物もよういわず帰る途中の小さな谷の水を、すくっては洗った。

幸い、坊主と違って髪があるので、あんまり匂わなかったと思う。そのまま帰ったが「カカヤン」も何にも言わなかったが、後でオバサンがカカヤンに話したのではないか、と子供心に心配した。

月日は流れて、お互い大人になっても会うこともなく、農協に勤めていた「孝ちゃん」の交通事故での訃報を聞き、悲しい思い出となりました。指折り数えて、85年前になります。

でも目を閉じると、ポマードだらけの孝ちゃんの笑顔が浮かびます。涙々です。

でも天国では、会えると思っています。私には、ポマードをいっぱいぬった孝ちゃんの面影しかありません。

95年間のキヨ婆さんの思い出

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(98歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2025年7月23日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

扁桃腺

私はカカヤンに似て背が低かったので、学校では前から二番目でしたが、元気で子守やお使いと走り回っていました。

でも学校に行くようになってから、時々喉が痛くなって、左の耳の後が少し腫れて痛くなり、カカヤンに「アンマコウ」を、貼ってもらいました。
学校では皆におこつられ(からかわれ)たが、三日位で治って、「アンマコウ」は、はいだ跡が黒く残って又々笑われました。

服む薬があったら笑われんのにと思っていたら、オトッチャンが石山の粘土で小さな壺を作ってきて、梅干しを五つ位入れて、囲炉裏の隅で焼いて、梅を黒焦げにして粉にして「服んだら、治る。扁桃腺ぢゃけ」。

その通りにしたら本当に良くなりました。誰かに聞いたんだと思いました。

それからも時々痛くて、黒い苦い薬を飲んで治りました。「アンマコウ」もいらなくなりました。

昔の人の知恵ですネ。現在と違って、知恵と経験だと思います。現在もセンブリ、オオバコ、切り傷にはヨモギの汁とか、お世話になりました。

土佐町ストーリーズ

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

越中富山のくすり屋さん

今から九十年昔、昭和初期の頃、私の生まれた土佐郡森村相川という田舎の村には、病院という所はなく、「オイシャサン」という人がいて、私の家のすぐ下に住んでいて、カゼで熱が出たりしたら服み薬だけで、注射とか聞いたことも見たこともなかった。昔から伝わってきた、野草の煎じ薬で養生していました。

そこで役に立ったのが、越中富山の置き付けの薬でした。年に一度の入れ替えに来ていました。着物の裾をお腰の上にからげて、鳥打帽を被って、小さな行李を三段位重ねて、広い紺の風呂敷に包んで背負っていた。

家には置き付けの薬箱があって、服んだ薬代を払って新しい薬と入れ代えて、その次に、子ども達の楽しみがあったのです。サービスのカレンダーやお箸等、そして最後に子どもの喜ぶ紙風船。フーとふくらませたら、花や人形の絵がいっぱい出てくるのです。それが欲しくて、兄妹三人で、側にキチンと座って待つのでした。子どもの数を見て、ニコニコしてくれるのです。薬屋さんが帰るのを待って、三人でフーフー膨ませて、キャーキャー言いながら家の中をまわって破れるまで遊んだ、本当に楽しかった懐かしい思い出です。

現代の子どもと違って単純な遊びでした。心も素直だったかもネ。
悪いことの多い現代、昔のように穏かな人生で終わりたいと思う毎日です。

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

筍売り

昭和21年終戦の翌年、和田ケ谷での初めてのお正月を過ぎた四月。大雪降らず、母も熱も咳も出ず、家族にとっては何よりも安心でした。四月は筍の生える季節。住んでいる所の少し上に、広いハチク竹の竹藪があって、筍が生え初めても地主が来ないので、父が千円で全部買い取り、妹と交替で、毎日中島、田井、森方面へ売りに行ったのです。

負い子一杯十貫位、大きなおいしそうなのを選んで、売れる売れる。毎日行っても、塩漬けにするとか、干しておくとか私達の事情を知ってか、疲れを忘れる位、嬉しい毎日でした。

妹は体格が良くて、十貫位は平気でしたが、私はチビ、負けず嫌いで頑張ったのでした。後から後から生える筍、思いがけない金儲でした。

中島に、チョウさんという朝鮮人が狭い軒先で魚を売っていて、毎日変わった魚を買って帰り、皆を喜ばせるのが楽しみでした。

77年昔の事です。たった一人生き残って、申し訳無く思ったり、遠い昔の思い出に涙し懐しんでいます。人の情を有難く感じ始めた若い頃の思い出です。

95年間のキヨ婆さんの思い出

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

カナバ

現在は、あまり見かけませんが、昔は雨着といえば蓑笠(みのかさ)だったのです。蓑は山の菅(すげ)という草を、乾燥させて編んだもの。笠は桧の木を薄く削ったもの。

カナバを形良く一定の巾に手で編んで、帽子の様に縫い合せたものを「キガサ」ともいっていました。最初は手仕事で、一ヒロ何銭で編んでいて、雨の日や、少しの間を見ての農家の女の内職でした。

「キヨも編んでみや」とカカヤンに云われて、始めたら面白く、暇さえあれば弟を負っていても、胴にくくり付けて、編んだ記憶があります。兄もたまには編んでいたので、兄、母、私と三人で、一定の時間に、誰が一番長く編むか、競争した事もありました。

印をつけて、「ヨーイドン」で頑張って、何時も私が一番長かった。

カカヤンの計略に、マンマとやられました。編み終ったものを8の字にまとめて、負って行って、次に編む品をもらって来るのでしたが、お金をもらった事が嬉しくて、頑張ったのでした。

お金を入れた布の袋を握りしめて帰り、小使いを一銭もらって何よりも嬉しくて、近所に「ケイサン」という、おんちゃんくのおばさんが「テツボー」を売っていたので、一本一銭で買えたのです。

帰り道しゃぶりながら、スキップで帰って来たのでした。モモタロサンの唄でも唄っていたカモネ。

カナバ屋さんは、駒野という所にありました。

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

錦を飾るはずの故郷へ             

 

土佐郡森村へ帰ったのでした。10年前、土佐町の相川を出てからの哀れな帰郷でした。

病母、赤ちゃんの妹、家族七人、村の避病院でしばらくお世話になりました。

母方の叔父が炭を焼いている和田ケ谷の山小屋へ、病気の母の住む小屋を作り、布団一枚家族の着替え一枚もない中、親戚、友人、大勢の皆様のお情けで、何とか一日一日を過ごせる様になったものの、小学六年生の弟は勉強中止でかわいそうでした。叔父夫婦も通っていましたが、私達一家の収入源にと、炭焼き一年生で始めたのでした。

親戚から貰い集めた古い斧、鋸で怪我は絶えず、アンマ膏代りに糊木の皮を張り、体格の良い妹に負けじと頑張り、暦の無い日を送ったのでした。

環境が良かったのか、母も元気で、家族皆のくつろぎでした。

 

一日一日を元気でと願っていた矢先、思いもよらぬことが。

山の地主から「結核菌は三十年は地の中で生きているから、今すぐ出て行け」。

なんということか。

不自由な中でも、一日一日を何とか「ガンバッテ」と思ったのに、目の前に突然黒幕が…。母がどんなに辛いか。

でも、捨てる神あれば、拾う神あり。「山奥で良ければ」と声をかけてくれる人がいて、又々人のお世話になり、今までより遠いけれど、二つ小屋を作り、移ったのでした。

植林雑木で、昼でも暗い様な所でした。下の道路からは今までの倍も遠くて、森の農協から配給米を負って帰るのに妹と苦労しました。途中で休めば日が暮れるので、帰り着くと背中の皮がはげて痛かった。

そうした辛抱が、その後の忍耐へと強くなったと思うのです。

 

*避病院…法定伝染病の患者を隔離・収容していた伝染病院のこと

 

 土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

語り残す戦争の記憶 〜帰ってきた母の話〜

 

昭和20年7月4日、高知大空襲。

突然の爆音に飛び起きて、廊下へ出た。他の患者も、「空襲、空襲」と大声で走り回っていた。

南の筆山の方は一面に真っ赤。熱気を感じ、見上げた空は真っ黒。ゴーゴーと爆音。シャーシャーと焼夷弾の落ちる音。地響き、真っ赤な火の玉。一瞬、気を失いそうになった。

何とかタオル、綿入れのソータ、筍の皮の草履を履いて道路に出た。その時はまだ、病院は火がついていなかった。

南の鏡川の柳原に出たら防空壕がいっぱいあることは知っていたので、必死で走った。目の前に焼夷弾の火の玉が大きな音と共に飛んできて「しまった」と思った瞬間に、目の前の側溝に飛び込んだ何人かと一緒に、隅っこにピッタリと伏せて、耳を指で潰した。このまま死ぬのではないかと思った。

市といっても、B29何機もで攻められたら短時間で焼け野原になるだろう。

頭の上からは爆音が遠のいたが、起き上がってみるのも危険と、しばらくして周囲の建物の倒れる音、焼ける音を聞き、立ち上がることもできず、このまま終わりかと思った。

やっと時間が過ぎて立ってみると、側溝の深さが自分の身長よりも高くて、足がかりも手掛かりもないことに気が付き、うろうろしていると、山内神社の社務所へ渡る狭いコンクリートの橋が見つかり、やっと参道を横切り、川沿いの防空壕へ。

周囲の変わり果てた様子に身震いした。衣服に火のついた人が叫びながら走っていたり、道路の真ん中に倒れた人が火だるまだったり。川に入っている人、草の上で倒れている人が大勢いた。体に火がついて川に飛び込んだ人、焼死した人たちだったのです。

道の両側の家の形はなく、残り火が燃えていた。その熱気、臭い。

消防団の人に、近くの第六小学校へ収容され、熱いお茶とおにぎりでホッとしたのも束の間、江ノ口の六人の家族の心配。早く確かめたい。もし家と共に焼け死んでいたら探しにも来ないだろう。病人が一人、生き残っても仕方がない。早く安否が知りたい。何とかして帰ろうと決心。

夕方、残り火のまだ熱い中を、道路の中央の整理されたところを一歩一歩と昭和町の我が家へ。愛宕町らしいところも焼け野原。

木造の江ノ口小学校もあるはずもなく、赤レンガの堀に沿って見渡す限り、真っ黒白。人影もない。もう少しで堀が終わろうとした時、突然「お母ちゃん」。6年生の次男が飛びついてきた途端に「フニャフニャ」とその場に座り込んだ。

家族皆が取り囲んで、涙の合唱。しばらくして「よう生きちょったネー」と父が一言。二度も探しに行ったが見付からなかったのでした。

何にも知らない赤ちゃんの妹は、姉の背中でスヤスヤと。

昭和20年7月4日、高知大空襲の思い出です。

95年間のキヨ婆さんの思い出

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

せりとり

小学5,6年生の頃だったと思う。高知市の家のすぐ北側から、久万川の堤までずっと田んぼでした。現在は立派な都会になっています。

稲を刈った後は、一面の草で真青で雑草に混ざって大きなセリが生えていて、故郷では、時々食べた美味しかった味を懐かしく、思い出して、地主さんに相談して時々食べた思い出があります。

当時5,6才だった弟がせりに良く似た雑草をひいて、いばったこと。たまにはお白和えにして、美味しかったこと。時期と共に思い出が蘇ってきます。