土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
ミカン水屋へ子守りに
小学校6年生の夏休みに、相川以来の子守りに行きました。昭和町の家の少し北から秦泉寺まで一面の田園でした。畦道を通って久万川の堤まで、朝露で足元はビシャヌレでした。
右へ少し行った所にミカン水屋の工場があり、可愛い男の赤ちゃんがいました。若いお母さんが、オンブして仕事をしていたが大きくなって無理だから子守りを、という事でした。
赤ちゃんの好きな私は早速OK、夏休み中引き受けました。男の子は女の子よりも重いことも経験済み、でもおネムの時以外は、三畳位の部屋で座って遊んでくれたのでラクチンでした。
昼食もごちそうになり、田舎での子守りを思い出しながらの一日一日でした。当時の小学校の夏休みは、8月1日から31日まで一ケ月、宿題は「こかげ」一冊だったので、全部済ませていたので安心でした。
お賃は親任せでした。毎日、美味しいミカン水も飲ませてくれました。当時は、お米一升三十二銭位でした。お使いに行ったので覚えています。赤ちゃんの名前は「トシボー」でした。
13才年下だったから今「80才」位かな。きっとお元気だと思います。懐かしい思い出です。
髙知でのたった一度の子守りの思い出です。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
土佐町生まれの土佐町育ち
2009年に国際デザインビューティカレッジのグラフィックデザイン科を卒業
30代の現在は二児の母で兼業主婦。
家事や育児の合間をみて、息抜きがてらに好きな絵を描いています。