先日、ご近所に住む純ちゃんが「これ、家にある?」と、古い赤茶けた冊子を見せてくれました。
それには「文集 杜の子 卒業特集号 土佐村立森小学校」と、表紙に書いてあります。
私が小学6年生の時に卒業作文を編集したものでした。
おもむろにページをめくっていくと、同級生で近所に住むチィちゃんの作文が出てきました。チィちゃんは、「日曜日の事」という題で、日曜日に裏山で遊んだことを書いていました。
お弁当を作って、お菓子を買って、裏山へ登り、木で囲いを作って、その中でお弁当を食べ、それぞれの家を作って遊んだこと。(当時、私たちは、その遊びを「基地作り」と言ってました。)「そうすると、雪がチラチラ降ってきたので、寒くて家に帰った」との経緯が、丁寧に書かれていました。
面白いのは、その時遊んでいたのはチィちゃんと私と私の妹と、もう一人、近所の咲ちゃんという子の4人だったことでした。
あれから60年。咲ちゃんは高知市の方へ行ってしまわれたので、その後は疎遠になりましたが、チィちゃんと私と私の妹とは、今も近くで遊んでいます。
ところで私の作文はというと、「思い出の六年間」という題です。一年生から振り返り、六年生までの思い出を書いてありますが、4年生からが興味深い。
4年生になると勉強がとても難しくなり、5年生になると急に怠けてばかりいた。すると父が机のそばのふすまに紙を貼っていた。
それには「五年生になってから、どうも遊びがすぎるようです。三代さんがその気なら、お父さんにも考えがあります。」と書かれていた。
そして6年生になると、母が二言目には「勉強しなさい!」と言うようになった。しかも、高知の塾へ行かされた。・・・と。
しかし、一回、二回ならいいが、だんだん行くのが嫌になり、足が重たくて塾へ着くのがとても近いように思えた。ついに夏休みには、塾へ行くのはやめた。・・・と。
しかし、私は何事につけても、いっしょうけんめいにやりたいと思う。と書いてある。
その思いとは裏腹に、中学に進む私に、母は「いっしょうけんめい勉強せんといかんぜよ!」と言ったらしい。
でもさすがに三学期になってからは「もう遊ぶばかりはしていられないな。」と思い、勉強の時間も多くし、手伝いもよくするようになった、と書いてあるが、またまた、母やおばあちゃんには「三学期になってあわてたち、いかなあね!」と言われたらしい。
それでも、最後に「これからは、母たちにそんなことを言われないように、だんだんとわたしの悪い点をなおしていきたいと思う。」と締めくくっている。
なんだか、けなげやと思いませんか?それにしても、これ程までに勉強嫌いな私やったとは!
今更ながら、納得です。