土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
お使い
相川にいる時から、弟の子守やお使いは私の仕事でした。
三才年上の兄がいましたが学校の成績も良く、色白でお金持ちの子どものようでした。兄は高知に行ってすぐ大阪に就職し、両親は働きに出ていて、お使いはいつも私でした。私よりも兄が大事にされていると思ったこともありました。
家の前の道を西に行くと愛宕町通りへ。右側の角にお米屋があって、いつも買いに行っていました。
店にはお米を一杯入れた箱が並んでいて、右から順に、一升二十九銭、次が三十銭、三十二銭と、値段を書いた札が立っていました。二十九銭のはあまりにも美味しくなかったので、母に言われ、三十一銭のを買ったのを覚えています。おいしい相川米を思い出しながらのお使いでした。
お金は円札が全然なかったので、バラ銭を布の袋(キンチャク)に入れて、首に掛けていました。五十銭は白い銀貨で、周りにギザギザが付いていたことを覚えています。今から八十年余り昔の事です。百円札は終戦後、出回ったと思います。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
武蔵野美術大学日本画学科卒。
嶺北地域の美しい景色と昔ながらの営みが続く人々の暮らしぶりに魅せられて2012年より土佐町へ夫と娘とともに移り住みました。
絵の中に住んでいるような毎日に幸せを感じて暮らしています。