野本亮

土佐町歴史再発見

ある衛生兵の遺品 ②

ある衛生兵の遺品② 宮村長兵衛(みやむら・ちょうべえ)

日露戦争の時に衛生隊の備品だった「行李」

「隊醫极 三乙」とある

これは滅多にお目にかかれない収納箱だ。

昨年度、「手回し洗濯機」とともに町内の宮村さんからいただいたもの。

上蓋を開けると内部の様子がよく分かる。

竹で編まれた「行李」がカンバス帆布地の布で覆われている。かなり頑丈そうなので風雨に耐えられるし、乱雑に扱っても簡単には壊れそうもない。

外側に「隊醫极 三乙」(たいいきゅう さんおつ)と印字されている。

「三乙」は恐らく大きさを示す規格で、「隊醫极」は備品名なのだろう。

宮村隆志さんのお話によれば、この資料の持ち主は、祖父の長兵衛さんだという。長兵衛さんは、旧森村の第12代村長で、助役も長く務めた地元の名士だった。(1)

宮村家では「日露戦争の時のもの」として長く保存されてきたというから、従軍した長兵衛さんが戦地から持ち帰ったもののようだ。(2)

本格的に調べてみると、この「行李」は旧日本陸軍で使用されたものだった。そして、「赤十字」が3箇所に縫い付けられていることから、戦闘部隊ではなく「衛生隊」の備品であることも分かった。

「醫极」とは、旧陸軍の衛生隊が携行した「行李」を指す。外箱は木製か革製で、衛生勤務に用いる医療機器や消耗品を収納した。

衛生隊では、「大行李」に炊飯具と糧秣(食料)を、そして「小行李」には衛生材料(消毒液や包帯)・患者被服・毛布・蚊帳・野戦用天幕を入れたという。

この資料は、その大きさから見て「小行李」と思われるから、上記の「容れ物」として戦場を行き来したに違いない。

「隊醫极」(行李)のような衛生隊の備品を一般の兵士が所有することはあり得ないから、長兵衛さんは、高知の郷土部隊・歩兵第四十四連隊所属(3)の「衛生兵」だった可能性が高い。

第四十四連隊では、職業軍人・予備役の区別なく、兵科が衛生隊所属と決まれば、大半が「高知衛戍病院」(高知陸軍病院)に送られ基礎訓練を受けた。実際、私の祖父もそうだった。

昭和4(1929)年のジュネーブ条約で、「衛生部隊及びその施設は交戦者によって保護される」(第6条)とされ、国際的に衛生兵が「非戦闘員」として規定された。

しかし、実際にはどれだけその理念は守られたのだろう。

この資料、よく見ると「赤十字章」の部分が黒くくすんでいる。

どうやら意図的に塗りつぶしたようだ。

「博愛」の象徴でもあるこの標章を、敢えて塗り潰したのが持ち主本人だったのなら、その理由を聞いてみたいと思うのは私だけだろうか。

(1)『森村史』(森村役場 昭和30年)では、村長在任期間を大正8年9月5日から同12年2月18日とするが、現存する「村議会議事録」によれば、大正10年2月の段階で15番議員、7月から2番議員(議事録署名議員)として活動しているから、全期間村長であったかどうかは不明。昭和12年6月からは、名誉助役に推薦され時の村長・志和守重を支えた。また、同13年2月26日の村会では、6人の地元出身兵の遺骨が帰還するため、議会の臨時休会を提案し、送迎に出た様子も記録されている。

(2)現在、宮村長兵衛が日露戦争に従軍した記録は確認されていない。だが本人が旧森村役場に提出した履歴書によれば、「明治38年3月11日陸軍二等看護長」任官とある。

(3)第四十四連隊は有名な乃木大将の第3軍に属し、旅順のロシア軍要塞攻撃にも参加。全期間を通じ2,287名の戦死者を出した。また多くの負傷兵が野戦病院に収容されたが、脚気にかかる者が続出し、死亡率も高かったという。以後、戦争における「衛生」の在り方が議論されるようになった。

土佐町歴史再発見

ある衛生兵の遺品 ①

 

衛生隊同期兵との記念写真(後列右側が祖父)

戦争末期久礼田地区警防団の集合写真

母方の祖父の名を窪添楠治という。明治44(1911)年南国市生まれで、家業は農業だった。華奢な体格だったので、家業である農業には就かず、高知市大津にある製材所の事務員をしていた。

徴兵検査の結果は芳しくなかったから、戦争が激しくなっても「召集されることはない!」と本人もまわりも思っていたそうだ。しかし、思いがけず赤紙(召集令状)がきた。昭和18年のことだった。

予備役兵だったため、この時は基礎訓練が中心だったのだろう。古いアルバムに、たった一枚だけ祖父が戦友と写った写真(遺品)がある。裏には「昭和18年9月21日 高知陸軍病院通週記念」(1)とあることから、衛生隊所属の予備役兵だったことが分かる。

祖父は虚弱で一人息子だったからか、危険な兵科に回されることはなかった。

一度除隊となり、地域住民の防空演習や避難訓練などを指導する「警防団」に属したが、程なく2回目の召集となり、今度は戦地へ赴くことになった。行き先は満州だった。「病院付衛生兵」か「隊付衛生兵」だったのかははっきりしない。

満州の現地部隊では「包帯所」(2)に勤務し、毎日毎日傷病兵の包帯の巻き替えをすることが主な任務だった。少し余裕がある時は炊事班に回され、現地で調達した大豆で煮物をこしらえたり、芋(ジャガイモ=馬鈴薯)をふかしたりする毎日だったという。

陸軍では、衛生兵のことを楽な兵科として侮蔑する風潮があった。射撃訓練はおろか、歩哨、不寝番、使役などから免除されていたからだろう。また、衛生兵がヨーチン(3)を塗ることしかできないとの誤解から、「ヨーチン」などと馬鹿にされたという話もあるが、祖父は包帯を巻くのが上手(4)だったため、傷病兵からはむしろ感謝されることが多かったという。

昭和20年4月、本土決戦に備えて部隊とともに高知に帰還。祖父は一度も前線に出ることなく敗戦を迎えた。祖父にとっての戦争は、いわば軍隊における裏方役。何の手柄話もない。

だが、孫としては、写真に写る祖父の顔を見るたびに、傷ついた仲間を救う任務に就いていたことを誇りに思う。

(1)高知陸軍衛戍病院(現国立高知病院)。歩兵第四十四連隊とともに高知市朝倉に開設された。3千6百坪余りの広さで、基幹職員は、院長(三等軍医正)以下23名であった(明治34年当時)。※オーテピアの参考業務による。

(2)包帯所には、収容部、治療部、薬剤部、発送部があり、炊事場が附属した。救急包帯処置のほか、副え木の装着なども行った。

(3)「ヨーチン」とは「ヨードチンキ」の略称。ヨウ素にヨウ化カリウムを加え、エタノールに溶かしたもの。消毒剤として戦地で使用された。

(4)満州では、胸部疾患(気管支炎)と凍傷に罹る兵が続出し、特に凍傷部位に包帯を巻くことは、衛生兵として高い技術を求められた。

土佐町歴史再発見

石田さんとの出会い

在りし日の石田さん

『土佐嶺北史談』創刊号 表紙

 

幻の機関誌第2号の投稿原稿

私発掘した土器片

「野本先生、お客さんです!」5時間目の空き時間に突然の来客があった。

急いで玄関に向かうと、穏やかな表情をした老紳士が待っていた。

「先生を山城へお連れしますよ

せっかくのお申し出ではあったが、6時間目もあるし、この時はやんわりとお断りした。

1ヶ月前、教育委員会からの要請で「土佐町歴史再発見」という講座をやらせていただいたのだが、その時に聴講された方らしい。私に何かを伝えたかったようで、その2日後にまた来校され、1冊の雑誌を置いていかれた。それが『土佐嶺北史談』の創刊号だった。

後で分かったのだが、件(くだん)の老紳士は、石田保範(いしだ・やすのり)さんといい、「土佐町史談会」の会長さんだった。恥ずかしながら、私はそれまで土佐町に史談会があることを知らなかった。

「土佐町史談会」とは、「土佐町を中心として、周辺を含めた地域の歴史、地理その他これに類する調査及び研究発表をし、地域の文化の向上に努めること」を目的として、1997年9月20日に結成された。

当初の会員は103名で、土佐町だけでなく、大川村、本山町、南国市、高知市在住の方や、埼玉・愛媛県など、県外の人たちも入会していた。

結成後、2年近く地道な活動を続け、1999年に待望の機関誌を刊行した。この創刊号では、朝倉慶景氏をはじめ、15名の会員の玉稿が並び、石田さん自らも5本の文章を寄稿している。A5版が主流の時代にA4版の機関誌はなかなかの迫力だ。

昭和59年(1984)に『土佐町史』が刊行されて15年が経過したせいもあるのだろう、新史料や新解釈に基づく投稿が散見され、創刊号の初々しさが伝わってくる。

例えば、朝倉氏は従来の森氏の来歴に異を唱え、潮江庄(現高知市)本拠説を展開。高石寛氏は、昭和36年(1961)に本山町から編入された大河内地区の歴史に触れ、下川鉱山のことを記述している。西村福蔵氏は、石鎚山の遙拝所「瀧倉さん」と、付近の洞窟に住む大蛇の伝説を語り、次回に続く内容となっている。

石田さんはというと、他の史談会との交流を重視し、土佐山田史談会の土佐町訪問を実現させた時の内容を詳細に記述している。また、愛媛の歴史研究家・信藤英敏氏(1)に「伊予から見る参勤交代道(土佐街道)」という論考を依頼するなど、史談会運営を多角的にしようとしていた。

石田さんは『大豊史談』30号(2)の「土佐町史談会設立のご挨拶」のなかで、「嶺北の歴史を知るには一町村単位で考えても充分ではない、」と述べている。

この思想は、機関誌のタイトルが『土佐史談』ではなく『土佐嶺北史談』であることからも明らかだ。

だが残念ながら、私が土佐町中学校を退職した翌年、石田さんは亡くなられた。

程なく息子さんから委員会に蔵書類の寄贈のお申し出があり、引き取りのための事前調査をすることになった。当時、土佐町民具資料館の資料整理ボランティアとなっていた私にも声がかかったが、何とも言えぬ不思議なご縁を感じたものだ。

息子さんによれば、石田さんは郷土史愛好家というだけあって、山林経営の傍ら、町内の旧家の系図や墓碑銘をほぼ調べ尽くしていたという。60年のライフワークだったというから脱帽だ。確かに書斎に遺された遺品のなかには、それをうかがわせるものが数多く遺されていた。

町内各地で私発掘を行って収集したものとみられる土器片や、地蔵寺の磨崖仏調査を行った時の記録など、今となっては貴重なものも多い。

だが、何より心を惹かれたのが、『土佐嶺北史談』第2号の原稿の入った封筒だった。第2号は諸般の事情により刊行されなかった幻の号である。(3)

遺された原稿一覧によれば、原稿の8割方は集まっていた。内容的には、野中兼山と地域開発に関するもの。シリーズ化しようとしていた戦争体験記。民俗学的な事例報告。土佐町郷土史研究の課題といった内容で占められている。

これがもし刊行されていたなら。何とも惜しい話である。

今振り返ると、私は石田さんのような本物の歴史家(郷土史家)との出会いに恵まれた人間だったが、それを十分に生かし、先輩たちのご恩に報いることができていない。

本当に情けないことだ。

「先生を山城へお連れしますよ

あの時、石田さんは私に何を伝えたかったのだろう?

(1)愛媛県東予の郷土史研究者。著作に『川之江合戦録』(自家版 1975)、『川之江城の研究』(自家版 1982)などがある。

(2)大豊史談会『大豊史談』30号 2000年

(3)土佐町史談会は創刊号を刊行した後、自然休会となり現在に至るという。

土佐町歴史再発見

身近に残る外来語②

社会科、特に歴史分野の鬼門に中世という時代がある。南北朝の対立だの、OO一揆だの、生徒たちは複雑怪奇な時代展開についていけず、半ば茫然自失状態で授業を受けている姿をよく見た。

私の授業が拙いせいもあり、何回やってもこの時代を上手くこなせたことはなかった。過ぎたことだが、当時の生徒たちには申し訳なく思う。

だが、中世も後半になると俄然生徒の瞳が輝いてくる。特に西洋文化との出会いは、ビジュアルな教材により、様々な授業展開が可能になるから授業者側も楽しい。

「南蛮文化」の授業では、ポルトガルやスペインからもたらされた様々な文化が、当時の日本人にいかに受容され、今日に至るかという内容で、必ず外来語を取り上げる。

パン(pan)・キャラメル(caramero)・ビスケット(biscoito)・カステラ(castella)(1)・コンペイトconfeito)などの食品や、マント(manto 異説あり)・カッパ(capa)・メリヤス(meias)・ボタン(botao)など、服装に関するものが多いが、実はこれらはすべてポルトガル語由来のものだ。

そして、忘れてはならないのが、「南蛮屏風」などに描かれるポルトガル人・カピタンや船員たちの服装だ。彼らの多くは、腰から太ももにかけて大きく膨らんだ短めのズボンをはいている。これこそが「カルサン」だった。

長崎の町を見物するカピタン

「カルサン」はポルトガル語の「カルソン」(calsao)が訛ったもので、本来は半ズボンを意味するらしい。

近世以降、日本人に広く受け入れられた「カルサン」は、「軽衫」という文字を当てられ日本語化した。そして、明治以降、本格的にズボンが流入しても、地方では山仕事などの作業着として使い続けられたのである。

土佐町民具資料館にある「カルサン」は、外来語(ポルトガル語)を由来にもつ貴重な資料であることが分かった。

外来語に由来を持つ資料は他にもあるのだろうか?

そんなことを考えながら今日も資料の山と向き合う。

(1)ポルトガル人によってもたらされたが、ポルトガル由来の菓子ではないという。

土佐町歴史再発見

身近に残る外来語①

ちょっとこの写真を見ていただきたい。

衣料コーナーの展示品だ。

時代劇などでよく見かける裃(かみしも)の上下のように見えるが、下衣の形状が明らかにおかしい。どうやら展示スペースの関係で、やむなくこの位置に展示されてしまった別物のようだ(現在は変更している)。

旧森小学校を民具資料館に改造した時、スペースの都合上、展示品の選定と展示方法には随分苦労したのだろう。そこかしこに担当者の苦労の跡が見え、頭が下がる思いがする。

ただ惜しいのは、展示室全体を通してのコーナー解説が足りないことと、資料ごとのキャプション(資料名)に説明文が少ないことだ。もちろんすべてのキャプションに説明文は不要だが、中には説明文付きにして欲しかったものもある。

このシリーズの第1、2回目でも取り上げたが、この地域では火縄銃のことを「種子島」と呼んでいた。なぜそう呼ばれていたかという理由を添えるだけで、展示がもっと説得力を持つようになる。

上記写真の資料などはその典型で、キャプションには「軽サン(モンペ風)」と書かれているが、個人的にはなぜ「カルサン」と呼ばれていたのかを知りたい。

歴民館の元同僚から提供してもらった、調査資料(1)によれば、この「カルサン」によく似た資料に「伊賀袴」(東石原中町家使用)というものがあり、戦後もしばらくは土佐町内で使われていたことが分かった。

さらに『民俗辞典』(2)などによれば、「カルサン」は山間部で使用された作業着のことで、様々な用途で用いられたとある(3)。そして、この「伊賀袴」のことを「カルサン」とも呼んでいたことをその時初めて知った。

だが、依然として「カルサン」の語源が分からなかったが、ある日唐突に思い出した。

「そうだ、南蛮屏風のなかのポルトガル人だ!」

(1)高知県教育委員会「民俗文化財分布調査表」1981~1982

(2)①橋尾直和『土佐弁ルネサンス 土佐ことば辞典』2000 ②『[絵引]民具の事典』河出書房新社 2008

(3)①によれば、男の仕事着袴で、「カルサンバカマ」とも呼ばれていたという。②によれば、「おもに農山村で仕事着や普段着の下衣に用いた幅の広い裾にひだを入れて輪状の縁布を縫い付けたものが多い」という。

土佐町歴史再発見

平成6年度新収資料のご紹介-その①

カモメホーム洗濯機

 

パッキン部

 

形状はシンプル

 

登録商標

 

歴民館のN氏と委員会のT氏による調査

博物館・資料館で働くことの意義を問われたら、間違い無く「新しいモノとの出会い」と答えると思う。

筆者が歴民館に勤めていた26年間、実に多くの「モノ=資料」と出会ったが、時代や人物の印象をガラリと変えてしまうような出会いが幾度となくあった。

例えば、和紙を張り固めて作られた甲冑との出会いもその一つだ。とある旧家から持ち込まれたもので、最初はまがい物かと思ったが、黒漆を塗った二枚胴の裏側に、製作した職人の名前と幕末の年号が朱漆で書かれていたことから、軽量化を計るため試験的に製作された珍品であることが分かった。

幕末の土佐藩にとって、藩兵の武装の軽量化は、洋式兵術を導入するうえで必須の課題だったのだろう。こんな形でその痕跡を見ることができたのは本当に驚きだった。

この資料との出会いにより、「甲冑と言えば、鉄と皮革で作られるもの」という私の既成概念がひっくり返ることになった訳だが、これこそが資料と向き合う時の醍醐味なのだろう。

そう言えば、最近民具資料館にも面白い資料が入ってきた。

それは、教育委員会の新人・T氏が持ってきた、町民からの寄贈品リストのうち、真っ先に私の目に止まったものだった。

ピカピカに輝く球形(冒頭写真)をした謎の物体で、正直まったく用途が分からなかった。早速、歴民館の元同僚・N氏(1)に見に来てもらった結果、その物体が洗濯機であることが分かった。

この資料の正体は「カモメホーム洗濯機」という。電化する以前の「手回し洗濯機」で、昭和32年頃、群馬県の林製作所から発売されたもの。(2)

球体内部の洗濯槽に汚れた衣類などを入れ、洗剤を溶かした熱湯を注ぎ、蓋を閉めゴムパッキンで密閉度を上げたうえでハンドルを回す。そうすると内部の気圧が高まるので、衣類の汚れが落ちる。湯を入れ替えて回転させれば「すすぎ」もできる優れものだ。

見た目が、当時話題になっていたソ連の「スプートニク1号」(3)に似ていることから、「スプートニク型」と呼ばれていたというのはご愛嬌。

残念なことに、同時期に生産・販売が開始されていた大手家電メーカーによる電気洗濯機に押され、昭和38年に生産は中止された。

注目したいのは、タライに洗濯板を載せ、石鹸粉でゴシゴシ洗濯していた段階から一気に電気洗濯機に移行したのではなく、人力と非電化機械の組み合わせによる洗濯の省力化が計られていた時代があったということだ(昭和38年生まれの筆者にとってこれは盲点だった)。

そして、その時代の波はこの土佐町にも確実に届いていた。T氏の聞き取りによれば、寄贈者が小学5年生の頃から自宅で使われていたものだそうで、昭和30年代の暮らしの変化を如実に物語ってくれる資料と言えるだろう。

災害の多い我が国において、電気を使わずに洗濯ができるこの製品は、大いに見直されるべき価値のある資料。

是非、小学校の授業などで活用してほしいものだ。

(1)筆者が民具資料館でボランティア活動を始めた当初から、高知県立歴史民俗資料館の民俗部門を中心に、物心両面にわたりご支援をいただいている。

(2)「豊富郷土資料館ブログ」(山梨県中央市)春日部市教育委員会ブログ(埼玉県)参照。

(3)ソビエト連邦が昭和32年(1957)に打ち上げた世界初の人工衛星。アルミニウム製の球体をしていた。

土佐町歴史再発見

気になる面の話

左「尉」右「姥」表面 能面のような様式

左「尉」右「姥」裏面 「うは」の墨書も残っている

2階の展示室に上がると、いつも目がいく資料がある。

白髪神社から寄贈された「尉」(じょう)と「姥」(うば)の面だ。

民具資料館の展示品のなかでも、これは異色の資料だろう。

この面は、かつて南国市岡豊町の県立歴史民俗資料館で展示されたことがある。

私が学芸員として着任する前の話だから、随分と昔の話だ。

同館の企画展「仮面の神々」の解説図録(1)によれば、神楽用の面が元々宮古野の白髪神社に7つあった。その後、越裏門(いの町)や寺川(いの町)、大藪(大川村)などにも白髪神社が創建されると、その度ごとに分けられて2つになったのだという。(2)

あくまで伝承の類だから真偽は分からない。だが信仰対象(白髪神社)の移動に面が絡んでいる点が面白いし、当地の白髪神社でかつては神楽が行われていたという話は新鮮な驚きだ。

長宗我部氏が森郷を支配していた頃の土地台帳『長宗我部地検帳』には、白髪神社の「大夫」(神主)と並び、「いち(佾)」(巫女)が記録されているので、少なくとも16世紀頃には巫女らによる神楽(舞)があったのだろう。

『土佐町史』の付図(小字図)を見ると、白髪神社から少し離れたところに「舞田」(まいだ)という小字も残っているから、この点からも神楽(舞)があったことを裏付けられる。

では、当地の神楽とはどのようなものだったのだろう?

この遺された面から推測することはできるだろうか?

今回、プロの写真家・石川拓也氏に撮影していただいたことにより、面の画像を誰でも見ることができるようになった。本当に有り難いことだ。

シャープな画像から、2つの面を凝視すると、全体にかなり痛んでいることが分かる。奉納用(3)ではなく実際に使用されていた証拠だ。この面、全体の雰囲気は能面のようだが、当地への導入時期はいつ頃だろうか。

16世紀後半には、土佐においても能の興業(4)が確認できるので、神楽の演目の一つとして、その頃導入された可能性は大いにある。その場合、面の発注者は森氏か長宗我部氏ということになるだろう。

だが、残念ながら年紀(墨書)がないため時代を確定することはできない。(5)

それにこの面、能面としては何か変だ。通常能面は白目の部分すべてを刳り抜くことはない。この面は白目まで刳り抜いているばかりか、刳り抜き方も独特である。(6)

また、驚くべきことに「姥面」の額には人の顔まで描かれているではないか!(7)

こうした面の状態から察するに、当地では能(または能に似た演目)は定着せず、面は神楽面として、地域独自の芸能(8)で使用された可能性が浮かんでくる。先代の宮司・宮元千郷(みやもと・ちさと)さんによれば、宮司家伝来の古文書のなかに「地舞」(じまい)を奉納した記録があるという。社殿の外に臨時の舞台をしつらえ、この面を付けて舞い踊った可能性があるというわけだ。

白目を刳り抜き、額に人面を描いたのは単なる誰かの悪戯か、はたまた失われてしまった信仰上の理由なのか。一度途絶えた芸能をもはや知る術はないが、少なくとも面を付けた舞いが、神楽が、かつてこの地にあったことは間違いなさそうだ。

兎にも角にも、気になる面だ。

(1)「仮面の神々-土佐の民俗仮面展」(高知県立歴史民俗資料館 平成4年)

(2)先代の宮司・宮元氏によると、以前この面は本川神楽のために貸し出されていたが、痛みが激しくなったため返してもらった経緯があるという。

(3)中世の国人領主(在地の有力武士)たちは、室町幕府の将軍や有力守護と等しく武家能を好んだ。そして、神聖な什器として、領内の崇拝社や氏寺、菩提寺などに能道具一式を保管させたという。(曽我孝司 『戦国武将と能』 雄山閣 2006)

(4)土佐神社蔵(高知市指定文化財)の面のなかには、近江の世襲面打ち、井関親信の作とみられるものがある。額の墨書銘に「干時享(禄)元年 八月廿六日」とあり、1528年に製作されたもの。「能のかたち NIPPON 美の玉手箱」(2012 福岡市博物館)参照。長宗我部氏とその一門化した国人領主による奉納とみられ、彼ら主催の演能会が、森郷を含む土佐国内各地で挙行されていた可能性がある。

(5)森氏によって持ち込まれ、長宗我部元親の支援による白髪神社再興時(「土佐町歴史再発見4」参照)、神楽で使用されたものであってもおかしくはない。だが、『神社明細帖』には「白髪神社」の宝物として、刀剣類や鉾、鏡などが見えるものの、この面に関する記述はない。『明細帖』には「その他、地下人(じげにん)ども奉納の品々これ有る」とあるので、その中に紛れていたのだろうか。

(6)意図的に白目まで刳りぬかれた面としては、大豊町西峰の木こり面(老人)、同   大砂子の婿面・嫁面、大川村井野川の女面、十和村三島神社の能面(尉風)などが   あるが、当地の面のように三角形に刳り抜かれてはいない。

(7)この情報は、高知県立歴史民俗資料館学芸員U氏のご教示による。

(8)長宗我部元親が晩年に制定した「掟書」には、「その家の主人が留守のとき、座頭・商人・舞々・猿楽・猿遣・諸勧進の者どもを家に招くな」という条文がある。当時の土佐では、武士や庶民層の間で様々な舞いが流行していたようだ。

土佐町歴史再発見

② 歴史が身近に感じられる瞬間

歴史の授業で、生徒に好きな時代を挙げさせると、必ず出てくるのが幕末だ。坂本龍馬や中浜万次郎の名はみんなが知っている。だが、私の授業では、超有名人の彼らの話はそこそこに、自分の先祖の話を取り入れるのが常だった。

幕末の土佐藩は公武合体派(1)だったが、土壇場で倒幕に舵を切った。そして、それを軍事的に可能にしたのが板垣退助だった。板垣は、土佐藩の誇る西洋式歩兵大隊を編成し、戊辰戦争では迅衝隊(じんしょうたい)の司令として部隊を率いた。

実は私の縁戚に当たる人物が板垣の部下だったらしく、その名を野本平吉直繁(のもとへいきちなおしげ)という。二番小隊の小隊長で、「従軍日記」を遺していた。この「日記」によれば、慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いでの会津藩兵と新選組は滅法強く、味方に多くの死傷者が出たことが記されていたらしい。必ずしも新政府軍の圧勝ではなかったのだ。(2)

同年2月14日、再編成を終えた迅衝隊は、江戸を目指して京都を立った。しかし、そのなかに平吉の姿は無かった。部隊の出発前、平吉は無断で宿舎を抜け出し、商家において金子(きんす)を借用しようとした。偶然居合わせた同僚に不正を見咎められ、逃走した挙げ句、市中で逮捕されてしまう。取り調べの結果、軍規違反の罪で斬首を命じられた。命じたのは板垣だった。(3)

板垣は軍規に厳しかった。しかし、だからこそ、戊辰戦争における土佐藩兵の規律は「薩摩・長州よりいい」と言われていた。時は流れ、自由民権運動が盛り上がっていた頃、板垣の演説会が北関東や東北地方などで盛況だったのは、案外こうしたことも背景にあったのかも?…などという話をすると、生徒たちは、私の先祖の話から板垣の人柄に思いを馳せ、歴史嫌いの生徒たちも、少しだけこの時代を身近に感じるのだった。

そう言えば、先日民具資料館で江戸時代の土地台帳をめくっていたら、土佐町内に領知(土地)を持っていた藩士の名前が見え、あるページで手が止まった。そこには何と「乾退助(板垣退助)」の名があった。

板垣退助の家は、江戸時代には「乾姓」を名乗っていた。乾家の先祖は甲斐国出身で、主人・山内一豊に従って土佐に入国している。江戸初期のことはよく分からないが、四代・正方の時には、御馬廻組頭を勤め、二百石取りの上士だった。興味深いのは、領知の内の十八石が何と現在の土佐町内にあったことだ。

ワクワクしてさらにページをめくると、今度は「野本平左衛門」(本家筋)の名が見えた。何の因果か、土佐町でも私の先祖は板垣退助と関わりがあったのだ。

まさに歴史が身近に感じられる瞬間だった。

「森村土免定」  旧森村の土地台帳(地租決定のための基本台帳)。乾家は現在の土佐町内(土居・北泉・宮古野・溜井・南泉・相川・南越・早明浦)に土地を持っていた。万延元年(1860)9月30日、土佐藩の免奉行(徴税責任者)に任命された乾退助は、乾家の土地も含めて、村内すべての土地に関する課税率を検査し、承認している。

江戸時代の退助の活動(当時25歳前後)を知る極めて重用な史料である。退助は自身の字にコンプレックスがあったといい、徹底的に自署を嫌ったというが、さすがにこれは本人のものだろう。

野本平左衛門は惣領家の人物とみられる。乾(板垣)退助の祖父・庄右衛門の弟が野本惣領家の養子となっていることから、乾家と野本家は親戚関係にあった。

 

(1)「公」は朝廷、「武」は江戸幕府のこと。土佐藩主・山内豊信(容堂)が徳川家に恩義を感じていたため、土佐藩は最後まで朝廷と幕府が協力して新政府をつくることを藩論としていた。
(2)迅衝隊が入京したのは、鳥羽・伏見の戦いが終わった後なので、この話は戦闘に加わった先発の藩士から聞いたことを書き留めたものとみられる。
(3)平吉の家は、元文五年(1740)年頃本家から別れた分家である。本人は品行方正、学問優秀で藩から表彰されている。山内容堂の小姓(こしょう)にも抜擢された期待の人材で、板垣の信頼も厚かった。

土佐町歴史再発見

① 歴史嫌いと歴史好き

「歴史嫌い!知らんでも困らんし…」。26年ぶりに教壇に復帰した私に、数人の女子から容赦ないダメ出しが出た。赴任直後は少々ボケ気味だったが、これで一気にヤル気スイッチがオンになった。

言うまでもないが、「歴史嫌い」の生徒に対する特効薬はない。色々思案したが、せっかく博物館にいたのだから、オリジナルのネタを授業に取り入れることにした。指導書どおりにやってもマンネリになるだけだし、何より教えている自分が面白くない…。

「同じ武士なのに源平合戦の平氏って何でこんなに弱いが?」「源頼朝(みなもとのよりとも)には、「の」を付けるのに、織田信長には何で「の」を付けて読まんが?」「金閣寺という寺はないのに何でみんなそう呼ぶが?」「徳川家の将軍の名前に「家」が付く人と付かない人がいるのは何でやろ?」「何で?」「何で?」のシャワーを毎時間浴びせてみる。

できる限り小道具も使う。例えば、漫画「サムライ先生」や「ベルサイユのばら」の一場面を拡大して示し、主人公の置かれた状況を発表させたり、火縄銃や頭形兜(ずなりかぶと)の実物を町の民具資料館から借りてきて、各部位の形状にどんな意味があるのかを考えさせる。

鉄黒漆塗頭形兜(てつくろうるしぬりずなりかぶと) 頭形兜は、それまでの兜表面の筋立てを無くし、僅か三枚の幅広の鉄板で成形され、頭にフィットするように考案された。戦国期に誕生した兜の一種で、火縄銃とセットで解説すると授業が盛り上がる。

完成されたフォルムは現代の視点で見ても斬新だ。映画「スター・ウォーズ」のダースベイダーのかぶり物にも採用されたことは有名。土佐町にこの兜があること自体興味深い。

三段(さんだんじころ)の三段目だけが金箔押しになっている。漆黒に浮かび上がる金の一筋。センス抜群!

 

 

班活動では、江戸時代の村絵図(土佐藩内の実物のコピー)を示し、庄屋と百姓の家の大きさを比べさせたり、村内の川に橋がかけられていない理由をまとめさせる。また、土佐藩の「参勤交代絵巻(写真)」に描かれている鷹や、袴を付けている武士といない武士などに注目させ、討論させるetc.。

こうした授業では、歴史の好き、嫌いにかかわらず大概の生徒がノってくる。教科書に答えがないからこそ面白いのだ。普段半分寝ている生徒でも、思いがけない発言をし、その日の主役になる。実は、この手法は学芸員時代の展示解説やワークショップで培ったもの。短い時間でお客の心を掴むには、初発の1分、いや10秒以内に何を投げかけるかで勝負が決まる。面白くなければ誰もいなくなってしまうのだから…。

歴史の授業に自信がなく、マンネリに悩んでいる社会科の先生方には、是非博物館のワークショップなどへの参加をお勧めしたい。すぐ使えそうな授業ネタがゴロゴロ転がっていて、楽しいこと請け合いだ。もちろん、こんな授業は毎時間できないし、やったからといってテストの平均点が上がる訳でもない。だが、確実に変化は起きる。

一年が経ったある日、冒頭で触れた女子の一人が、「せんせー、歴史最近マシになってきたで…」と笑顔で話しかけてきた。案外「歴史嫌い」の生徒ほど「歴史好き」に大化けすることがある。私は、ある意味「歴史嫌い」の生徒に鍛えられ、それが喜びにつながっていたのだとしみじみ今思う。

土佐町歴史再発見

② いにしえの白髪神社

古い神社というものは、人工的には決して造ることのできない、ある種の幽玄さが漂っている。

土佐町にはこれまでほとんど縁がなかったが、この趣のある白髪神社のことは以前から知っていた。

白髪神社 (宮古野)

白髪神社が、土佐の戦国大名・長宗我部元親と深い繋がりがあったことをご存じだろうか?「由来記」によれば、社殿が焼失した際、元親の発願によって再興されたのだという。棟札には、元服前の長男・千雄丸(後の信親)の名前もあるらしい。千雄丸は、22歳で戦死しているから、その名が記された棟札がもし現存していれば大変貴重なものとなる。

江戸時代の記録によれば、この親子による社寺の造営事業は、その後夜須八幡宮(天正2年)、滝本寺毘沙門堂(天正7年)、波介八幡宮(天正11年)、仁井田中宮・高岡神社(天正11年)と続いていくが、オリジナルの棟札が確認されているのは高岡神社だけだ。

20年以上前に見た『土佐町史』の掲載写真によれば、どうやら白髪神社にもオリジナルがあるらしいのだが、こればかりは直接調査してみないと分からない。「一度見せてもらえませんかねぇ?」と、親しくなった町の方に頼んでみた。すると嬉しいことに数週間後には段取りがついた。

調査当日、宮司さんの腕に抱かれて現れた棟札の1つは、間違いなく写真で見たことのあるものだった。「これはオリジナルだ!」心の中の声が呟いた。かなり傷んではいたが、墨で書かれた文字を凝視すると元親親子の名前が辛うじて確認できる。そして、後代に写した別の棟札により、その左横には「藤原高賢(森近江守)」の名も見えた。これは、森氏が長宗我部氏の配下になったというより、一体化したことを意味する書き方だと、その時直感した。

白髪神社 第42代宮司・宮元序定さん

白髪神社の棟札(右端がオリジナルとみられる)

右側が長宗我部元親・信親 左側が森近江守孝頼

なぜ元親は、森郷の白髪神社を特別扱いにしたのだろう?自身が滅亡に追いやった本山氏への鎮魂?それとも、森近江守孝頼に対する温かい配慮か?

森孝頼は嶺北地域でのいくさに敗れたあと、岡豊城主(現南国市)・長宗我部元親を頼ったという。その後、恩に報いるため数々の戦功をあげ、潮江城主(現高知市)に抜擢されると同時に、念願の本領・森郷(116=116ヘクタール)も返還されたという。しかし、これはあくまで『軍記物語』に記されていること。真実は分からない。だが、ボロボロに傷んだ棟札は、両者の絆が本物であったことを我々に教えてくれる。

帰り際、「あそこの奥の祠は元親公をお祀りしたものです」という宮司さんの声にドキリとした。何と森氏の末裔たちは、長宗我部氏が滅び、山内氏の時代になってもずっと元親の霊を祀り続けていたのだ!

あらためて絆の深さを感じながら境内を出ると、眩しい日差しとともに、学校のグランドから子どもたちの弾んだ声が聞こえてきた。悠久の歴史を物語る白髪神社と白髪山。

今も、そしてこれからも、町の人々の営みを静かに見守っていくことだろう。

※猿田彦(白髪の老翁)を祀ったことから白髪山と呼ぶようになったという説や、白く光る石が多いことから「白蛾」という文字が当てられたとする説などもある。