私の家の仕事は、昭和の始めは、「瓦焼き」をしていた。
近くの土場から粘土質の土を深く掘り出して、大きなサイコロ型に切って、それをリヤカーで運んで行く。その先には作業場があり、瓦型に作る所と、一つの焼き窯があった。そこの場所を「職場」と呼んでいた。
子供の頃には、祖父母と両親が、職場で瓦を焼いている姿を憶えている。
旧森小学校の瓦屋根の一部は、祖父の焼いた「稲瀬川」と刻印された瓦が使われていたらしい。その後は、スレート瓦の台頭で、昔ながらの手造りの瓦の需要が減り、家業を閉じた。作業場跡には、しばらく使われなくなった窯が取り残されていた。
窯の入り口は、子供が一人入れるくらいの大きさで、中は子供なら3~4人が座れる位の広さがあった。
小学生の私と妹は、その窯の中にワラを敷き、家の神棚にあったローソクとマッチを、親に黙って持って行き、おやつの干しかや干し柿を、ローソクの明かりの下で食べるのだった。もちろん、秘密基地なので、地域の他の子にも教えない。
日曜日には、ローソク一式と大阪の伯父がくれた、犬のぬいぐるみに背中にチャックがあり、手の付いたバッグを提げて行った。私の宝物だった。今、思うと、火を点けたりして火事になったら、大ごとだったと。
ある日、妹がいないので、基地に行ったと思い、走って行った。すると、二人だけの秘密にしていたのに、近所の友達を中に入れ、ローソクの灯りの下、仲良さそうに、おにぎりを食べていた。
「秘密基地やったのに」
私は、走って家に帰った。
「一人に話したら、他の人にも教えるろうに」
悲しくて悔しくて、泣いて泣いて、二段ベッドで眠った。
目が覚めたら、夜だった。それからは、秘密基地に行かなくなった。妹とも、仲直りしてないかも。