西村まゆみ

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

西村まゆみ

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『がんになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方、考え方』 関本剛  宝島社 

この本は、 43才の緩和ケア医師、 関本剛先生が語る残り2年の人生の過ごし方を綴った本です。

がん患者を看取るはずの医師が ステージ4のがんを宣告され 、看取られる側に足を踏み入れた時、「人間としてあるべき姿」について、自分自身に言い聞かせ、それを実行する。
人間が誰しも持っている「最後はこうありたい」という理想を価値あるものだと考えているし、「先生、私は美しく死にたい」そう答える老婦人は、「こうありたい」という願いよりも「こうはなりたくない」という意識が人間の行動を規定するのではないか。

ドイツの神学者、マルティン・ルターの有名な言葉がある。「たとえ世界の終末が明日であっても、 私は林檎の樹を植える」。

よく死ぬためには、よく生きなければならない。今は健康でも2人に1人ががんになるという現代の日本で、がんになるという未来を予測し、覚悟して生きている人は、どれ程いるだろう。

がん患者の側に立ち続けた関本先生は、抗がん剤治療を受けながら、今後、新たな薬や治療法が出現し、うまく奏功すれば…とい う期待を持ちつつ、 時々最悪に備えつつ、普段は最善に期待する」 という姿勢を貫いていらっしゃった。

けれども、関本剛先生は、2022年4月19日に自宅にてお子さんの声に笑顔を見せ、ご家族に見守られながら、穏やかに旅立ったそうです。先生はもういませんが、その想いは、皆の心に今も生き続いていくでしょう。

 

 

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私の一冊

西村まゆみ

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「ロザムンドおばさんの贈り物 」 ロザムンド・ビルチャー著, 中村妙子訳 朔北社

先入観なしに図書館で勧めていただき、手に取ったこの本は、7つの短編の物語でした。

イギリスの作家ロザムンド・ビルチャーの女性らしい細やかな描写と、何が始まるのかというワクワク感で読んでいるうちに素敵な結末を迎える。どの物語も 日常起こりそうであるけれど、 奇跡のような心に残る終りを迎える。

7の短編の中で、私は「忘れられない夜」が好きだ。おっちょこちょいの主人公に私がオーバーラップして、ドキドキハラハラ。ある夜の来客にとまどい、アッパレなおもてなしにヤッターとハイタッチしたい。とても共感できる物語でした。

他の6つの物語も、 登場人物がそれぞれに個性的で魅力がありました。起こってしまった事件にも、 心あたたまるストーリーがあり、 一気に引き込まれてあっと言う間に一冊読み終えました。

忙しい方も午後のひとときのティータイムに、手に取ってごらんになってはいかがでしょうか?

 

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私が小学生の頃(昭和三十年代後半)、初冬の休みの日の一つに、天気の良い暖かい日は、家の裏山の原っぱに、妹たちと簡単なお弁当を作り、ゴザを持って登って行き、ねころんだり木に登ったり、つき鉄砲のジュウ玉(青紫の草の実)を採って飛ばしごっこをして遊んだ。

時には、原っぱの奥にあった集水暗渠に入り下って行くのが肝だめしの探検だった。

それは昔の山の水路で、入口から下へ向かって三十メートル位あったろうか、子供ごころには、暗くて狭くて遠くて、とてもひとりでは入る気にならない様な不気味さがあった。

上級生の男子が先頭を切って暗渠に入って行くと、それに続いて私、妹と恐る恐る入って行く。

入口は、石でトンネルの入口の様にドーム形に重ねてあり、底は石ころが敷かれていて、手をついて入って行くとゴツゴツとして両手とひざが痛かった。

息を殺してドキドキしながら、男子に遅れない様に「ヘビが出てこんように」と祈りながら奥へ這って進んで行くと、出口の方が明るく見えてきて、ホッとして足取りが早くなった。

暗渠から出ると、元の原っぱまで戻るには、ヤブの中を傷だらけになりながら登って帰る。

今思えば、子供達だけで、狭くて暗い暗渠の中へ入っているなどと大人達は知らなかっただろうと思う。

親に内緒の遊びは、子供達にとっては小さな冒険だったのだろう。

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私の一冊

西村まゆみ

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「ライオンのおやつ」 小川糸 ポプラ社

「ライオンの家」というホスピスが 瀬戸内の島にあり、主人公の雫は30過ぎで痰のステージⅣと告げられて、一人で終わりを迎える決心をして、遠路はるばる海を渡り「ライオンの家」へ来た。

雫は「ライオンの家」が 大層気に入った。空気がおいしい、海が目の前に広がり元気になる気がした。そこでゲストと呼ばれる同じ病気の人達や、シスターやマドンナたちに囲まれ楽しんで暮らしてゆ く。

週に一度 日曜日の午後3時からおやつの時間がある。おやつの時間がくることで一週間経った事が判る。おやつの時間が生きる希望であり節目になっていた。

ゲストの 1人1人が、もう1度食べたい思い出のおやつをリクエストする事ができる。そして毎回くじ引きで選ばれる。最後まで選ばれない人もいる。それが人生なのかもしれない。おやつを前にすると誰もが皆、子供に戻る。おやつの時間は 皆子供の顔になって いるのだろう。

雫は不思議なことに死が近づけば近づく程両親の存在を強く感じるようになった。私が今、ここにいるのはすべて両親のお陰だったと。でも幼い雫を残して不慮の事故で亡くなって、母の弟に育てられた。

その後義父が結婚したい人が出来た時、雫はひとりで生きる事を選び家を出た。その義父と暮らしていた時に、初めて作ったのが「ミルクレープ」それをリクエストしていた。モルヒネで痛みを柔げるようになり、おやつの時間が来た。今のおやつは雫がリクエストした「ミルクレープ」だった。会いたくて会えなかった義父が来た。妹も連れて。雫さん会えて良かったね。

ホスピスに入る事で最後まで笑って暮らせて、 周りの人達の心づかいで悔いのない最期を迎える事が出来て、泣きながらもほのぼのとした時間を過ごせた物語りでした。

 

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私の一冊

西村まゆみ

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「あらしのよるに」 きむらゆういち作あべ 弘士絵 講談社

もう20年ほど前になるでしょうか。友人と書店で甥の誕生日プレゼントを買いに行った。しばらく絵本や図鑑を探していた。「あらしのよるに」を手に取り、立ったまま読むとヤギとオオカミの物語りで、すごく可愛くて切なくて引き込まれた。友人も「この本いい ね、 これにしよう」と。

隣りに「あるはれたひに 」と「くものきれまに」と並んでいたので、3冊買ってプレゼントした。甥が読み終ると借りてゆっくり読んだ。「いやー良かった」。

ヤギとオオカミが、真っ暗なあらしの夜に雨やどりした洞窟の中で知り合って気が合っ て、天気の良い日に会う約束をした。お互い引かれあい友達になるが、所詮ヤギとオオカミ。それぞれの仲間達に2匹が会っているのがバレて、仲間をとるか友達をとるか迫られ、2匹は裏切る決心をして約束の場所に会いに行き、どしゃ降りの雨の中、一緒に逃げようと決心する。

「ここまで来たら行くところまで行ってみますか」とヤギのメイ。「おいらそのかくごはもうできてやすよ」とオオカミのガブ。2匹は、大雨で増水した激流へとび込む。何とか生きていた2匹は追っ手に見つからない様に故郷を出る。

「私がガブと出合ってしあわせだと思ってるんです。命をかけてもいいと思える友達に会えて」とメイ。「そんな風に思ってくれる友達がいるなんて、オイら本当に幸せでやんす」とガブ。

次の年に「きりのなかで」「どしゃぶりのひに」「ふぶきのあした」を 買っ てコンプリートした。しばらくして「まんげつのよるに」を見つけた。シリーズの完結編は「ふぶきのあした」だと思って悲しい 物語りだと思っていたが、完全版と書かれた自分の為に買った「あらしのよるに」はハッピーエンドだった。今回推しの本を紹介する事になった時、一番にこの本が浮かんだ。

素敵なヤギとオオカミの物語り。

 

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ほのぼのと

職場の秘密基地

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私の家の仕事は、昭和の始めは、「瓦焼き」をしていた。

近くの土場から粘土質の土を深く掘り出して、大きなサイコロ型に切って、それをリヤカーで運んで行く。その先には作業場があり、瓦型に作る所と、一つの焼き窯があった。そこの場所を「職場」と呼んでいた。

子供の頃には、祖父母と両親が、職場で瓦を焼いている姿を憶えている。

旧森小学校の瓦屋根の一部は、祖父の焼いた「稲瀬川」と刻印された瓦が使われていたらしい。その後は、スレート瓦の台頭で、昔ながらの手造りの瓦の需要が減り、家業を閉じた。作業場跡には、しばらく使われなくなった窯が取り残されていた。

窯の入り口は、子供が一人入れるくらいの大きさで、中は子供なら3~4人が座れる位の広さがあった。

小学生の私と妹は、その窯の中にワラを敷き、家の神棚にあったローソクとマッチを、親に黙って持って行き、おやつの干しかや干し柿を、ローソクの明かりの下で食べるのだった。もちろん、秘密基地なので、地域の他の子にも教えない。

日曜日には、ローソク一式と大阪の伯父がくれた、犬のぬいぐるみに背中にチャックがあり、手の付いたバッグを提げて行った。私の宝物だった。今、思うと、火を点けたりして火事になったら、大ごとだったと。

ある日、妹がいないので、基地に行ったと思い、走って行った。すると、二人だけの秘密にしていたのに、近所の友達を中に入れ、ローソクの灯りの下、仲良さそうに、おにぎりを食べていた。

「秘密基地やったのに」

私は、走って家に帰った。

「一人に話したら、他の人にも教えるろうに」

悲しくて悔しくて、泣いて泣いて、二段ベッドで眠った。

目が覚めたら、夜だった。それからは、秘密基地に行かなくなった。妹とも、仲直りしてないかも。

 

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11月になるといろいろな店舗で、クリスマスケーキの予約受付が始まる。

私が、小学生の頃(昭和30年後半から40年始め)には、ケーキの予約は、森地区にあった栗生(くりお)商店で注文していた。私は誕生日が1月初めなので、母は毎年、ケーキを2個予約してくれていた。

現在と違ってケーキは生クリームではなくバタークリームで、バラの花や、ふきで作ったアンゼリカ、赤い玉のゼリーや銀のアラザンなどで飾り付け、長持ちするように作られていた。

もちろん一個はクリスマスに家族7人で分けて食べて、もう一個は、水屋(食器などを入れる棚)の、上の段に置かれて年を越すのだった。

上の棚には父親以外、背が届かないのでケーキは安泰のはずだ、と大人たちは思っていたに違いない。

ところが、子供達は「あのケーキのクリームを、ひと口食べたい」。そう思っていた。どうしたら、あそこに手が届くだろう…。

 

冬は、ご飯を炊いたら「おひつ」にご飯を入れ、ワラで作った「ふご」の中で保温するのだった。「おひつ」は桧で出来ていて、二升くらい入って、高さが50センチ位ぃの頑丈な入れ物だった。「ふご」の中に入れたら踏み台の様になり、子供ひとり上がってもびくともしない物だった。

ある日、私たち3姉妹は、ケーキのクリームをひと口食べたくて、「ふご」の上にあがりケーキの箱を降ろし、3人でひと口ずつ食べた。隠れて食べると、すごく美味しい!

ある日、ひとりで留守番をしている時に「ふご」に上がろうとした。が、中に「おひつ」が入ってなかった。私は「ふご」のフタを踏みぬいて穴をあけてしまった。私は「ふご」を壊してしまった。

それからは、ケーキのつまみ食いは、陶器で作った大きな火鉢の上にまたがってやっていた。わらで作った「ふご」の代わりには、花柄の電気ジャーを買ってもらった。

その上に乗った事はない。

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ほのぼのと

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私達の子供の頃の遊びのひとつに、同年代の男の子と一緒の時は、探検やチャンバラごっこなど、アクティブな遊びをすることがあった。

最近、従弟と、子供の頃の思い出話をすることがあった。

二人とも、一番に思い出す出来事が同じ体験談だった。

私は小学三年生、妹は一年生、従弟のM君は四年生、近所のS君も四年生で、その弟が一年生でした。

その五人で体験した事です。

ある秋の休日、集まってM君の家の庭で、梶ガラ(こうぞの枝の皮をはいだ物)で、チャンバラ遊びをしていて、もっと丈夫な刀が欲しいという事になり、近くの山へ、刀にする木を取りに行くことになった。

折りタタミ式のノコギリと、ナタを提げて五人は山に入って行った。色々と物色して、刀にちょうど良さそうな太さの、まっすぐな木の枝を見つけた。M君とS君が、人数分の木の枝を切ってくれて、M君の家の庭まで持って帰った。

まず、木の皮を剥ぐため、それぞれが、自分の刀を決めて、生木の皮をナイフで順番に剥いだ。手で持つ部分を二十センチ位残してキレイに、みがいた。汁が出たけど気にせずに夕方までかかって、五人は刀を仕上げた。その刀でチャンバラをして遊んで、それぞれの家に刀を持って帰った。

あくる朝、私の妹は手と顔が、まっ赤にかぶれてかゆくて、学校へ行けずに泣いていた。従弟のM君も体中が、まっ赤にかぶれて、学校を休んだ。私とS君と弟は、何の症状も出ずに学校に行けた。

母に昨日採って来て作った刀を見せたら、それは「うるし」の木で、触ったらかぶれるのに、皮をはいで汁まで付いたので、弱い二人は重症のかぶれになったそうな。

枝ぶりが良すぎるまっすぐな枝は「うるし」かもしれんので、触ったり採ったりしてはいかんと思った。

先日、従弟と、その話をした時も懐かしく想い出話に浸った。

あの時、一緒だった妹とS君は今はもう居ない。想い出を分かち合えるのは三人だけになった。

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ほのぼのと

梶蒸しの想い出

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真冬のこの時期になると、梶蒸しの事を思い出します。目を閉じると、懐かしい焼き芋の香りと、梶を蒸した香りがよみがえってくるようです。

私が小学生の頃は、冬に各家が総出で、土佐和紙の原料となる梶蒸しが行われていました。梶は、直径2メートル位の釜に、ひとかかえ位の束にくくった梶の木を10束位(だったかな?)、こしきの中に立てて入れて、高さ2メートル程の木おけをかぶせ、2~3時間蒸して柔らかくした後、女性と子供が1本ずつ皮をむいていく。

大人は木の杭を垂直に立てて、はぎ始めを作った梶を通してひっぱり、皮をむいていく。男性達は、その間に次の梶を蒸す。

 

沢山のたき木をくべて蒸すので、皆が食べられるように、さつま芋を灰の中にほうりこんで、ゆっくり焼き芋にする。その焼き芋の美味しいこと。それを食べたいので梶はぎを手伝うのです。

結(ゆい)で、各家々の梶の木を蒸してははぐので、4~5日かかって梶蒸しの行事は終える。剥いだ梶の木の皮は、各家庭がリヤカーで持って帰り、自宅の庭先や畑の畦に竹で干し場を作り、竹ザオをひっかけて皮を干して、夕方は夜露がかからないように片付けて、翌朝に干す。大変な作業で、梶の皮は出来上がる。それは冬場の大事な収入源だったと思う。

皮をはがれた梶の木は乾燥したら、梶ガラといって、風呂の焚き付けや炭をいこす時の火種にしたりと、一年中重宝していた。

今では梶蒸しの行事は、時折新聞紙上で記事を見かけるぐらいで実際に見ることはないけれど、冬になると、焼き芋の香りと懐かしい思い出が蘇ってくる。

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ほのぼのと

油を買いに

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食欲の秋です。私は特に揚げ物が好き!

今でこそスーパーに行けば、色々な油を売っていて、予算や用途に応じて選べる…。便利になったものです。

私が小学生の頃は、スーパー等は無くて、揚げ油を買うのには、空の一升びんを提げて川向いの地区の東側の北泉にあった店屋(てんや)の曽我部商店まで、てくてくと歩いて買いに行くのだった。

ある日のお使いで、私と妹二人は、その北泉まで一升びんを持って油を買いに行くことになった。今夜のおかずは、天ぷら!そう思うと重い油も、なんのその。歩いて十五分位かかるその道を、お店で油を一升びんに入れてもらって帰るのだった。

持つのは姉の私。ところが、帰る途中で雨が降り出した。傘は持って来なかった。二人の妹は、手に何も持ってないので、早足で帰り始めた。私は妹たちが急いで帰るのを目で追いながら、重い油の入った一升びんを両手で抱えて(今みたいに強いポリ袋やエコバッグは無かったし、買い物かごに一升びんは入らなかったので、手で持つしかなかった)、雨の中をゆっくり急いで帰っていく。

一升びんの口の廻りには、油を入れた時に付いた油分が残っていて、時々「ぬるっ」と滑る。私はトキワ橋を渡った所で、一升びんを持つ手を変えようとして「つるっ」とすべらして落としてしまった。

油の入ったびんは、雨の降る中、「ガシャン」と割れた!油は、ジャリ道に吸い込まれていった。割れた瓶の破片が散らばった。

雨は降っている。妹達は、どんどん遠ざかる。

私は涙が出た。何もかも私の責任。今晩のおかずはどうなる。

私は、一人雨の中を歩いた。

妹達は、油がなくなったのを知らない。おかずが天ぷらじゃなくなるのも知らない。

長女って損だ!

心からそう思った。

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