1933年(昭和8年) 生れの私は、小学校2年生の1941年 (昭和16年) 12月8日太平洋戦争が始まり、6年生の1945年 (昭和20年)8月15日、終戦の日を迎えました。
その日は、学校は夏休みでしたが、私は同級生数人と「当直」の当番でしたので学校に行っており、日本が戦争に負け、無条件降伏をしたことを先生から聞かされました。
戦中戦後で特に記憶に残っていることは、食糧難、食べる物がなく、ほとんどの人が飢えに苦しんだことです。
私の家は農家で、田圃では、 米と麦を作っていました。 収穫した米と麦は、保有米(一家の食べる分)を残して、残りは全部供出しなければなりませんでした。
これまで養蚕のための桑畑であった処も、食糧増産のため、桑の木を除去し、サツマイモを作りました。山の採草地も開墾し、 芋畑となりました。 サツマイモも供出の対象だったと思います。
これは私の家だけのことではなく、どこの家も米や麦は保有米を残して供出し、 草地や山林の開墾出来るところは開墾し、サツマイモを植えました。
また、戦争末期にはどの家庭も働き盛りの若者は、召集や徴用で狩り出され、 留守宅は高齢者・女性・子供達だけとなり、不足する労働力を補う為、 旧田井村に予科練が駐屯し、 私達が通称 「ヅンヅン山」 といっていたところを開墾して、芋畑をつくりました。面積については記憶していませんが、 広い芋畑が出来、命をつなぐ一助になったと思います。
田舎の農村地帯でさえ、このように食糧増産に努めざるを得なかったのですから、 都会は大変だったと思います。
1944年(昭和19年)頃から都会から疎開してくる人達が増え、 転校して来た同級生も10人位いたように記憶しています。
皆、食べることに精一杯でした。 特に疎開してきた人たちにとっては、 わずかばかりの配給ではお腹を充たすことは出来ず、畑を借りてサツマイモや、 南瓜を作り空腹をしのいでいたと思います。
(後編に続く)
*谷種子さんのことを書いた記事はこちらです。