土佐町ストーリーズ

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シバテン(高須・地蔵寺)その3

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(「シバテン その2」はこちら

 空腹にヒダル食いつく

空腹で山道を通ると「ヒダルが食いつくぜよ」と、言われる。

このヒダルもシバテンと同格ばあ、恐かった。腹を透かして山道を歩きよると、輪差にした葛が、山の中の枝からぶら下がってきて、「ちょっこりこれに、首を突っこんでみや」と言うたそうな。

突っこんだら最後、ギューギュー締め上げられておしまいぜよ、と言うのだった。

 

エンコウ、子どもの尻を抜く

正木の宮の渕にゃ、エンコウらがおってのう。そりゃ、頭のテンコス(てっぺん)に皿をのせちょる。

それに水がたまっちょるそうな。皿が傾いて、水がまけるとまったいが、水がたまっちょるエンコウはめっぽう強うて、川で泳ぎよる子どもの尻を抜くげな。

手と足の指には水かきがあって、泳ぎもうまい。キュウリが大の好物じゃけん、瓜を食べたら川へ遊びに行かれんぜよ、とも話してくれた。

 

 

私はシバテンもヒダルもエンコウも同一のものか、あるいは従兄弟同士の間柄ぐらいのもんじゃと、ずーっとこの事が長い間、頭に染み込んで、強がっていた者であることは真実である。

「シバテンの棲んでいたあたりにビルが建ち」

こんな川柳がテレビに出た事がある。

昔のシバテン街道の赤羅木峠には、今、県民の森、国民宿舎が建っていて、伊藤さんという方が、ひとりで番をしているそうだが、「シバテンは出んかね」いつか機会があってその方に会えたら、一ぺん聞いてみようと思っている。

式地俊穂

  土佐民話の会編「土佐民話(特集しばてん噺)」より

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シバテン(高須・地蔵寺)その2

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お婆さんは話を続けた。

『村には誰やら言うて、宮相撲の甲をとり、うまい、力の強い男がおった。

家の牛屋の口へ置いちゃある青石の盤持石は三十五貫(一貫は約3.7㎏)あるが、ひいといの事、あの石を、さし下駄はいて、肩口で二へんばあ、ゆすっちょいて、スッと肩へ持っていったばあの大力持ちじゃった。

 

シバテン、相撲を挑む

その男がある日、高知からお客に使うブエン(生魚)を買うて、ザルに担うて、戻りかかったげな。官山を廻ったくで、向こうの方から、こんまい子どもみたいな男が、ひょこひょこやって来た。小男は「オンちゃん、相撲とろう」と言うたげな。

「なにをいや、こびんす、相撲になるかや」と、一ぺんは断ったが、
「ほんなら、まあ来てみよ」と、胸をはった。

「そればあ言や、ちったあやるかや」と、魚カゴをそこへおろして、
「一番こい」と身がまえた。

相手は細うて、妙に生臭うて、のらくらしたような小男で、力もない奴じゃったけん、一ぺんにぶちつけたと。

ほいたらどうぜよ、小男は「オンちゃん、相撲とろう」と言うて、やちものう(限りがない)かかって来るちゅうが…。
こうやって、夜っぴと二人で相撲をとりゆう内に、夜が白々と明けたと。

力士もその頃になると、だれたけに「もうおこうぜや」と言うて、ザルを担うて帰りがけに、ひょいと魚のことに気がついて、フタを開けてみると、こりゃどうぜよ。魚はザルの前、後とも、全部、柴に化けちゅうと。今まで目の前におった小男が、スーッと消えて、周りには誰っちゃおらざったと。

男は「こりゃ、シバテンにやられた」と気付いて、フラフラになって家へ帰って来た。

「おら、ゆんべ、赤羅木でシバテンに会うたぜや。やりすえられた。朝まで相撲とらされたぞ。おまけに、ザルの魚が、みんな柴に化けてしもうたぜや。お客どころかそこすんだりよ。たかあやりすえられたぜや。おら、相撲がとれるき、けんど、おんしらあは、めったにあこ(あそこ)を通られんぞ」

向こうずねをこすりもって、こう話したと。

その話を聞いてから私は、そのシバテンに一目置くようになった。

「一番や二番は勝てても、朝までねばられちゃ、こりゃかなわん」

それからと言うものは、夕方、山道を通ることは止めにした。』

 

シバテンその3に続く)

 

 

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シバテン(高須・地蔵寺)その1

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昔から土佐町と土佐山村境になる赤羅木峠やその峰続きの山々には、シバテンとヒダルが、相川、地蔵寺川の渕には、エンコウが棲んでいた。

シバテンは、天狗の子どもみたいな生き物で相撲好き。
ヒダルは、山道の傍に隠れちょって、上から垂れ下がった葛の輪ざしに、「これにちょっこり首を突っ込んでみたや」と言うて、目の前にぶらさげる。げに心地の悪い隠者(世の中と縁を切って暮らす人)である。ヒダルの姿を見た者は、まだおらんようじゃが、シバテンは高知の往復、赤羅木峠、樫山峠かその並びの天道の山一帯に棲んでおって、天狗はだいたい工石の山が本拠だったらしい。

シバテンは、通りがかりの旅人に、「オンチャン、相撲をとろう」と、難題を吹きかける。まっこと手に負えん、こびんす(小さい子ども)じゃ。

私のお婆さんは、縁側でこの話を始めた。

 

シバテン、現る!

『相川から山を二つ越えた向こうが、高知のお街じゃ。村の若い衆が高知へ行って、朝から色々の買い物をし、用事をすまして、廿代の宿を出て、愛宕八丁を通り抜け、椎名坂を上り、高川から城を通ってこの峠にさしかかる頃には、六里(一里は約四キロメートル)の山道はとっぷりと暮れて、真っ暗な夜道になるのが常じゃ。

この辺一帯は官山(国有林)でのう、昼でも暗いぜよ。シーンと静まり返っちょって、妙な鳥が啼きよった。

「銘酒か焼酎か、酒、酒、酒…」

きいたこともない啼き声ぜよ。

一日のこと、下のベンスぢんま(おじいさん)がそこを通りかかったところ、あの山から、

「ベンス、ベンス、ベンス、ベンス…」

と呼びすてに、わしを嘲るように啼いたと言うて、こないだもベンスぢんまが、たいてえ機嫌が悪かったぜよ。

夜道は鼻をつままれても判らんばあの暗い道が、一里近う続いちょる。ここなくを通り抜けるにゃ、たいていのもんが往生したが、こういう風に手を伸ばいて、山手の岸をさすりもって歩かにゃ、谷へぶち転がる心配がある恐いくよ。

おまけに足元から、「ガサガサガサ」何やら走り抜ける音もする。木の枝から枝へ、天狗かモマ(ムササビ)か知らんが、「バサ、バサ、バサ」と飛ぶ音がして、めっそう心地のええ山越しじゃない。まっこと、何ぞ出てこにゃ嘘と思われるんばあ、啼くよ』

 

 

 

シバテン その2 に続く)

 

 

 

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樽の滝の話(田井)

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吉野川に地蔵寺川と汗見川が合流して程なく、南岸側に東西に走った国道をつっきるように、鳥井谷が流れ込んでいる。

この谷は田井山に源を発して、鳥井集落八戸をうるおしていて、水は冷たく、美しく澄んでいる。

樽の滝は、この谷の中程、国道から約二百メートル位登ったところに、雌雄二双となって流れ落ちていた。雄の滝の滝つぼから雌滝まで約二十丈程で、水の豊かめな時期には水しぶきが飛散し、水音が四方の山にこだまして勇壮であった。

当時、この雌滝の水口(水の取り入れ口)に、直径一メートル、深さ七メートルと思われる穴渕があって、誰言うとなく、そこに蛇が棲んでいることが信じられ、そのために部落が富んでいた。

田井上野部落古城に、権根(ごんね)という気の強い男がいて、こうした話を信じなかったものか、または、蛇に挑戦して自分の力を人々に示そうと考えたものか、その穴を鎚で打ち割り始めたのである。驚いたのは蛇である。滝つぼに覆いかぶさるように生い繁っていた、トガの大木の穴にはいこんでしまった。

権根は、尚も蛇を追求して許さなかった。ついに、トガの大木に火をはなった。炎々と燃え続ける火は、七日七夜に及び、蛇の死霊は谷川の水に泡となって流れ去った。それからというものは、不作が続きに続いた。部落の人々は、蛇のたたりであると考えたのであろう。霊をなぐさめるために小さな祠を建て、穴菩薩を安置して祭り、今も秋の実りの頃、その祭りは続いて行われている。

蛇を焼き殺した古城の権根は熱病にかかり、七日七夜「熱い熱い水をかけてくれ、水をかけてくれ」と絶叫しつつ死んだということである。

部落の人は、この谷を焼淡谷とその後呼ぶことにした。

今、鳥井谷をたずねる人はまれであるが、蛇の棲んでいた穴渕は、二メートル位残っている。

館報

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白姥ヶ岳の怪猫(伊勢川)

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むかしむかし、伊勢川に小平と言う人がおったそうな。

ある日、家から二里半(一里は約四キロメートル)はなれた白姥ヶ岳と言う山に、ぬた待(えものが来るのを待ちぶせする猟法)をしにいったと。朝から次の日の朝まで一夜を明かそうと、握飯、茶瓶などを持って、いつも行き慣れちゅう場所に打ち場を構え、猟をしよったそうな。やがて夕方になったんで晩飯の準備を始めたと。

その時、年の頃十五、六歳のかわいらしい少女が現れ「叔父さん、変わった所においでますねえ。」言うたそうな。ふと見ると、宮古野に住む姪のお六じゃった。小平は、これは曲者がお六に化けているにちがいないと思うた。

けんど、しぐさや声があまりにお六に似いちょるんで「おまんは、こんな夜中に一人で、ましてこのような人里はなれた山の中にどうしてきたぞ。」と問うた。するとお六は、いつもと変わらん笑顔で、「ここは白姥ヶ岳と言うて最も恐ろしい山の中、なんぼ生活のためじゃ言うても、罪もない動物を殺すんです。これからは殺生をやめて他の仕事をしてください。」と言うたと。

そしたら小平が「わしは、生まれてこの方の猟師ゆえに仕方がないが、ところでおまえは少女の身で、ましてこんな夜中に来るとは大胆なやつじゃ。今さら帰るわけにもいかんので、ここで仮寝をして朝早く帰れ。」と言うて、そこに横になったそうな。しかし小平は、油断せずに寝たふりをしちょった。

すると、丑の刻(午前二時)を過ぎる頃から、少女の姿がちょっとずつ変わり始めたと。目は大きく異様な光を放ち、口は広がり耳元まで裂け、身の丈も延びて七尺(一尺は約三十センチメートル)になったそうな。

小平は驚き「化物正体をあらわせ。」と言うて、刀を抜き、化物の脇の下を突き抜いた。すると化物は正体を現し、七尺余りの大猫になって、ものすごい悲鳴をあげて山奥に逃げていったそうな。

昔から白姥ヶ岳には化物が棲む言いよったが、その一つじゃったもんじゃねえ。

 

寺石正路編「土佐風俗と伝説」より(町史)

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伝次道(上野上)

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伝次道は、田井から高知市薊野に至る約36キロメートルの中ノ川越えと言われた旧往還(とおり道)の一部をなすものである。

中ノ川越えは、旧田井中学校裏手から山坂を登り、上野集落、大奈路(上野上)集落、伊勢川集落の上方の尾根を伝うようにして標高約1,000メートルの中ノ川越えの峠に出る。ここから南国市で中ノ川、大改野集落を経て薊野に至る。

大奈路の小笠原伝次と言う人が、田井より中ノ川までの道路整備に私費を投じてその監督に当たったので、伝次道の名で今に伝えられている。

弁当を片付ける暇もないほどに忙しく、あちこちに伝次の空弁当が転がっていたと言う話まである。

この道を三椏などの荷をつけた牛馬の通う姿が毎日のように見られたのは大正年間まであったが、戦後もまだ時々は旅急ぐ人の姿が見られていた。6~7時間かかり、日帰りは朝早く、帰り着くのは暮れ果ててからであった。遍路道は、伝次道の一部を通っていた。

伝次はなかなかアイディアマンで、燻炭と言って大きな穴を掘り、松の枝や柴を並べて焼き、これを肥料にしていた。毛皮の売買に目をつけたのか早くから大がかりな兎の飼育もしていたし、お前ら大きくなった頃は人間が空を飛び出すぞと話してくれたし、今から思えば、新知識を吸収し、実行力のある人であったと言う。

小笠原富春(町史)

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大谷山の怪奇(大谷)

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土佐町の森に竹やんという人がいました。

竹やんは炭焼の名人と言われるほど、炭を焼くのが上手であったと。炭焼は窯に木を立てて火をつけると、四日も五日もしないと窯の火を消すことができないので、夜の夜中でも窯の火の番をすることが多かった。

竹やんはひとつも淋しゅうない人であったそうなが、ある夏の夜、大谷山の山の中で一人、窯の番をしていたのは風もなく静かな晩であったそうな。夜中頃になった頃、俄に山の上の方からザーザーというかすかな音…。草木も眠る丑三つ時(夜中の二時頃)、どんな小さい音も聞こえてくる、そのザーザーいう音は次第に近づいてくる。

さすがの竹やんも身に危険を感じ、あわてて炭窯の前にあった桜の木に登って様子を伺っていると、その音は次第に大きく近づいてくる。

ザー、しばらくして、ザー。

月の薄明かりにすかして見ると、なんとその音の物体は四〜五メートルもあろうか、道いっぱいになって動いている。

ザーザーいう音と共に次第に身にせまってくる。

さすがの竹やんも恐ろしくなって木の上にしがみついて、ブルブルふるえていたと。

いよいよその怪物は窯のすぐ前までせまってきた。これはいよいよ、この怪物に食われるのかと覚悟をきめた時でした。

炭窯の燃える火の明かりでチラっと見えたのは、なんと大谷山のふもとに住んでいる長さんというおんちゃんである。長さんは、この夜中に竹ぼうきを作るための竹を束にして、足が不自由なものだから、両手をついて一歩進み、一歩進めば竹の束をザーッと引寄せ、引寄せては一歩進むその音であった。

竹やんも怪物の正体がわかり、やれやれと思って木の上からひととびに飛び降りたと。すると、今度はビックリしたのは長さんである。急に大きなものが木の上から落ちてきたので、足の不自由なおんちゃんが二間(四メートル)も一気に飛んでいたと。

竹やんは生まれて今まで、こんな恐ろしい目にあったことはなかったと。

 
 

*この昔話を教えてくれたのは志和保三郎さんです。

志和保三郎(上ノ土居)

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盤持ち(高須・笹ヶ谷)

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相撲と楽しんだ若者は、同じように盤持ちが好きだった。

祭りの日とかその他の休日には、必ずと言ってよいほど神社の境内に集まり、盤持ちに汗を流し、お互いの力を競い合った。これが当時の若者達のこよいない楽しみでもあり、かつ暗黙の伝統的掟でもあったわけである。

盤持ちとは、大石を抱き上げて肩に担ぐことであるが、この大石すなわち盤持ち石(力石)が方々の神社や、お寺の境内などに置いてあるのを最近までよく見かけたものである。

相川・高須地区には四ヶ所あったが、正木の宮に二個(二十八貫と三十二貫)、荒神様に二個(二十八貫と三十二貫)、お地蔵様に一個(四十二貫)、岩戸様に一個(三十七貫)である。正木の宮や荒神様の二十八貫の力石を担ぐ者はいくらでもいたという。

だがそれでも三十二貫(120kg)となるとその数はぐっと減ったというし、さすがに四十二貫(158kg)ともなると、これを料理する力自慢の者はそれこそめったにいなかったらしい。高須の八重霞(池添大三郎)は、正木の宮の三十二貫の力石をいとも簡単に持ち上げたり、一間(1.8m)近くも前に投げ飛ばしたりしたが、それでも肩にあげるとなると、それこそ見ている方が気の毒になるほど苦労し、うんうん唸りながら担ぐという有り様だったという。

盤持ちの最大のこつは、力だけに頼らないことだという。じわっと腰を下ろし静かに両ひざの所へ持ち上げ、そこで胸をぐっと力石にくっつけ、それから石が肩へ歩いてゆくようにじわじわ持ち上げなければ、ぎりぎりの石は決して肩に乗るものでないと、昔を語る古老たちの一致した意見である。盤持ちは絶対に力だけでは駄目で、それなりのコツが必要だという。大三郎ほどの怪力でも盤持ちは苦手だったようである。

嶺北一の盤持ち男として不動の地位を占めているのは、何といっても日本嶽萬治(やまとだけまんじ)をおいてほかにない。これを証明するかのように、土佐町役場入口の右側に、萬治の力石が立派な台座の上に座っている。

力石には「森村笹ヶ谷、日本嶽萬治、明治三十五年担ぐ、南泉上分有志同下分有志」と彫り込まれ、台石には「日本嶽萬治の盤持石、笹ヶ谷二番邸和田貞右門長男萬治、明治三十五年二十三歳の時かつぐ、重量一八四. 五キログラム(約五十貫)」とある。

このことを当時の新聞(明治34年12月25日)は、「土佐郡嶺北森村の笹ヶ谷日本竹(22)といふは、去る13日、同村土居にあれる目方四十五六貫の大石を何の苦もなく担ぎあげ、見るもの皆舌を巻きたりという」と言っている。

この力石は、以前は南泉の古野の道ばたに置かれていたが、土佐町役場に持ち込み、永久保存の措置をとったものである。

町史

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弁才天(高須)その3

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むかしむかし小栗殿いう豪士が樫山に来ておった。その娘が夜になると引地と言う所で、麻を積んで(つむぐ)来る言うて出かけて行きよったと。

ある日のこと、その引地と言う所の人に道でばったり出合うて、娘が毎晩お世話になりよります言うてあいさつしたところが、そんなこたぁちっとも知らん、家へは来ゃーせん言うたそうな。がでん(納得)がいかんもんじゃきに、オゴケ(糸を入れる物)の底板を抜いて糸を入れておいたと。娘はそれを知らんとオゴケをかかえてその晩もまた出かけたと。

そこで、引っぱっていっちょる糸をずうーとつけて行ったら、弁才天の所に出た。弁才天の田のふちに細長い水溜りがあったですがのう。それが池みたいになっていてガマがきれいに生えちょった。娘はそこに座って麻を織りよった。おっかあが行って、「オマンそんなくで麻を積みよるかよ。」言うたら、池の中にとび込んだ言うのう。それから蛇になってしもうたと。

おっかあはびっくりしてもどって来よって、じきに引地の上の畝で血がおりた(死んだ)と言うのう。そんでそこをチオレと言うようになったそうな。その上には山ノ神を祭っちょる。

町史

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仏ヶ森とボウドウ寺床(芥川)

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芥川から吾北村川窪に越える峠である。三宝荒神の最初の鎮座地(神の霊がその地にしずまること)である。

この地方の豪族が、この峠にあった河内神社に集まって会談しようとしたが、定刻を過ぎてもなかなか集まらない。立腹した土佐町側の豪族が、河内神社の御神体を奪い分けて帰ってしまった。だから土佐町側には河内神社が多いと伝えるところである。

三宝山由来記によると、土佐市宇佐浦の海中に光を発するものがあって、貞友という強力の武士が弓矢を構えると、それは龍神となって玉を舞い上げ、玉は仏ヶ森まで飛行して来たと言う。

仏ヶ森に至る道筋近く、仏ヶ森から約1500メートル芥川寄りにボウドウ谷があり、そこに寺床と称する所がある。谷川に沿うて石垣を設けて平坦地として、山手には石像を据えていたような形跡がある。仏ヶ森に飛来した玉体を追うてやって来た貞友なる武士が弓矢を構えると、それはたちまちに大神の姿となり、我を射れば返し矢でお前を殺そうと告げる。

それを聞いた貞友は大神に矢を放ったことを侘びて出家し貞友法師と名乗り、大神を祭るべく寺一宇を建立、これを宝峠寺と称したという。

その後、寺は消失し本尊などは吾北村清水の寺堂に移されたと言われている。一説にその寺堂は十王寺であると言われるが定かなことは分からない。

町史

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