土佐町ストーリーズ

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水分補給と熱冷まし

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2018年、1月。今年は本当に寒い。
南国土佐といえど、嶺北は雪が積もり、ここは高知でも雪遊びができる地域の一つでもある。
冬なので寒いのは当たり前だし、晴れた日のキリッとした寒さは嫌いではないけれど、今年は室内の結露が凍って窓が開かなくなったり、いろんな場所で水道管が破裂し、トイレもお風呂も入れないという話を聞いたりする。
やはり生活に影響してくると、いい加減早く暖かくなってほしいと思う。

 

寒くなってくると、毎年冬場に猛威を振るうインフルエンザ。
我が子の通う保育園でも大流行りで、3歳の息子も早々とインフルエンザBのお墨付きをもらった。
健康であるということのありがたさをひしひしと感じていた矢先、ん?なんだか私の体がおかしいぞ!ということに気がついた。
関節が痛いし、喉も痛い。
すると夕方になるにつれ、立っていられないほど腰と足が痛くなり、ちょっと熱っぽい。
布団に入って真夜中にはぐっと熱が上がり出した。
朝には熱は下がり、普段通りに仕事してまた夕方には微熱が出る。

そんなことを2日間繰り返すと、
「あ〜陰の時間(陽が落ちてから上がるまで)に熱出てるし、授乳してて体の血液と水分取られてるし、もうずっと不眠やし、最近疲れて食事も適当やし、陰虚(体の血液や水分不足)の熱が一気に出たな〜」と習った中医学を頭から絞り出して自分を分析してみる。

体調が悪くなって3日目。今度は朝から高熱が出た。
いよいよ生活に支障が出るかも・・・と、病院に行ったけれど、インフルエンザでもなく、ただの風邪という診断。

帰りにスーパーで買い物する気力もなかったので、家にある食材をぐるぐる考えながら、帰ってすぐやったのは干し貝柱をお湯で戻すこと。あとはひたすら次男とのんびりモードでゴロゴロしながらまったり過ごした。

食欲がないわけではないけど、こんな時はガッツリお肉!よりも体に優しい味付けの、喉越しがよくて水分多めの温かなお粥が体にしみる。

乾物やいつも体調を気にして常備している安心食材でのお粥は、切ってお鍋に入れるだけ。
私の体調に合った薬膳粥の出来上がり。

干貝柱と山芋のお粥

材料:
干貝柱・山芋・春菊・ご飯・塩
作り方:
干貝柱をお湯で半日戻し、山芋はいちょう切りに、春菊は細かく刻む。鍋にご飯、干貝柱の戻し汁、ほぐした干貝柱、山芋、水を加え煮る。春菊を入れ、塩で味を整えて出来上がり。お好みで醤油やごま油をたらして。

 

ほたて貝は体液をしっかりと補うのでのぼせや火照りに、山芋は滋養強壮に、春菊は乾燥による肺に溜まった余分な熱を取ってくれたりします。

たっぷり食べて、あとはいろんな家事や子供のことをとーちゃんに任せて、ゆっくり寝る!
解熱剤を使わなくても、朝にはすっかり熱も下がり、スッキリとした気分で起きることができました。

「ただの風邪」だったのか・・・? 真相は体のみが知る。
雪がチラつく中過ごした数日間でした。

 

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福寿草の咲く家

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一月のある日、「家を貸したい」という連絡が土佐町役場に入った。

住所を聞いて地図を片手に家を見に行った。舗装された坂道を上へ上へとあがっていくと途中で道が分かれ、右側の山道の方を行く。それは杉林の間を抜けていく細い道で、まだ雪がたくさん残っていたから車を降りて歩いていくことにした。

私の歩く音が聞こえる。ザク、ザク、ザク…。一歩一歩踏みしめながら歩いていくと、時々、杉林の中からサラサラサラ…という音がする。木に降り積もっていた雪が粉雪となって、小枝を揺らしながら落ちていく。

少し歩くと古い大きな牛舎があった。ところどころ屋根が抜けていて周りの壁がない。牛舎を支える柱が立っているだけの中で誰かが原木しいたけを育てているらしい。駒打ちされた木が何本も立てかけられていた。

さらに歩いていくと、遠くに目を細めるほど真っ白な開けた場所が見えた。そのまぶしさが嬉しくて思わず駆け出した。

 

家はここにあった。
山を切り開いたような場所にある日当たりの良い平屋の家。去年の12月まで大家さんのお母さんがひとりで住んでいたそうだ。そのお母さんは、今、土佐町の町なかに住んでいる。

不思議なもので、今はもう誰も住んでいない家でもその佇まいから、この家でどんな風に暮らしていたのかが伝わってくる。

母屋の勝手口の横にはドラム缶を切って作ったかまどがあった。
「家の裏山には春になったら、ゼンマイやイタドリ、ワラビも出るんよ。」と大家さんは言った。
お母さんがかまどで山菜を茹で、一年中食べられるように保存している姿が目に浮かんだ。

 

大家さんと一緒に裏山を歩いていると、雪の中にはっとするほどきれいな「黄色」を見つけた。

「福寿草!」

思わず声をあげると、大家さんは言った。
「母が大切に育てていてね。最初は小さな鉢植えを買って来てそれを植えた。福寿草は毎年少しずつ株が大きくなっていくんやけど、それを株分けして、また植えて、また植えて…。何年も繰り返してこうなったんよ。もう少ししたら、この裏山一面に福寿草が咲く。」

 

福寿草は春を告げる花。
お母さんは福寿草が咲く時を楽しみにしながら裏山を歩き、畑を耕し、この山の家で暮らしていたのだろう。

 

お母さんは山を降りた。

福寿草の咲く家は、この場所で暮らす人を待っている。

 

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玄関先の一升瓶

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家に帰ったら玄関先に一升瓶が置いてあった。
それが何なのか、誰からなのか、すぐにわかった。
わざわざ家に来てくれたんやなあ、と思いながら玄関の戸を開けて一升瓶をそっと家へ入れる。
一升瓶の口は和紙のような紙で覆われていて麻ひもでリボン結びになっている。ひもをほどいて和紙を取ってみると、古い服をちょきちょき小さく切ったものをきゅ、とねじって栓にしている。これは毎年一緒やなあとなんだか安心する。

この前、我が家のもち米をおすそ分けしたから、醤油の一升瓶と物々交換、ということだ。

 

こんな風に「玄関先になにか届いている」ことが、今まで一体何回あっただろうか。
ちょっと思い返すだけでも、冬は大根や白菜、干しいも。春は山菜、じゃがいも、たらの芽。夏は梅、トマトやカラーピーマン、米ナス、きゅうり、すいか。秋は柿や栗、柚子、さつまいも、しいたけ、なめこ…。季節を問わず、卵やもち米、こんにゃくや味噌、お米、カステラ、梅干し…。
玄関先じゃなくて庭の真ん中に、きゅうりの入った袋とおせんべいがどさっと置かれていた時はびっくりした。
「鶏にやって」と二番米が入った30㎏の米袋2袋や、食べ物じゃないけれど庭にどっさり薪が届いていたこともあった。おさがりの服も。

玄関を開けたらダンボールが置いてあって、手紙とその人が作った野菜と味噌が入っていた時もあった。
(大きな声では言えないが家に鍵をかけてないのだ!)

多分こういうことは私だけじゃなく、土佐町の人たちの間で日常的にあることだと思うのだが、一体どれだけのものがお金のやりとりなしに行き交っているのかなと思う。

都会ではもののやりとりが行われる時にはお金を介在するし、それが当たり前だと思っていた。でも、土佐町に来てからそうじゃないあり方もあるのだということを初めて知った。いただくばかりで何もお返しができていないのだけれど…。

ちょっと多めに作ったから、ちょっとたくさんもらったから、ちょっとたくさん採れたから、あの人に持っていこう。

あの人に持って行こうと思った時に、顔を思い浮かべてもらったんやなあということが何よりうれしい。

 

 

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村の名は。

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昭和28年10月1日に〝財政力をより強化し「地方団体に国より優先的に多くの仕事」をさせるため、町村単位の規模を人口7000ないし8000にすべきである〟というシャウプ勧告に基づき、町村合併促進法が3カ年の時限立法として施行されました。

 

簡単に言うと『3年以内に人口が7千人~8千人になるように合併してねー』ということ。

 

嶺西地域の村(森、地蔵寺、田井、吉野)でも、4ヵ村の助役による(昔は副町長のことを助役と呼んでいました)協議会が開かれ、何度も調査研究会において検討した結果、昭和30年2月22日の協議会でようやく森・地蔵寺・田井各村の合意が成立。

 

昭和30年2月28日に「合併条件に関する協議書」が三村の間で取り交わされます。

 

そして昭和30年3月31日、いよいよ「土佐村」の誕生です。

どうして「土佐村」という名称になったと思います?

村長の独断?住民投票?

いいえ、違うのです。

 

 

森村、地蔵寺村、田井村は吉野川支流に添った地域にあって、民情風俗・産業・文化とか生活環境がおんなじやし、由緒と愛着の情がすごく深くて共通した村。高知県は昔から土佐の国って言うし、森村 地蔵寺村は明治22年の地方制度の改正の時に、高知の中心的位置を保って「土佐郡」になった。

でも土佐郡の町村は、高知市に併入されたり吾川郡伊野町と合併したりして6村しか残ってない。そしたら、合併してできる新村の名前は、

 

土佐郡が発展するように

そして

『土佐』の名を永久に代表できるように

 

「土佐村」にしよう!

 

 

そんないきさつがあったらしいです。

素晴らしい。

『土佐』に対する強い思い入れ、強い愛着が感じられます。

 

 

ここで、「土佐町が生まれた日」を読んでくださった方は『あれ?』と思ったのではないでしょうか。

土佐町の名称を考える時、『土佐』という名称がつく市町村が多いき、他の名称にしよう!という話が持ち上がっていましたよね。

 

・・・この時の 強い気持ち・強い愛 はどこへ行ったんじゃい。

全然ど忘れ。

 

何はともあれこの時「土佐村」が生まれたからこそ「土佐町」があるのですね。

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そして、編入合併へ・・・

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「大渕・古味・井尻・下川・上津川」という地区があります。

今では、20数名しか居住者がいませんが、昭和の中期には700名を超える住民がいました。

今回は、この5地区で、かつて起こった熱い闘いの物語です。

 

 

森村・地蔵寺村・田井村の3村が合併して土佐村となったのが昭和30年のこと。

当時、嶺西地域には森村・地蔵寺村・田井村・吉野村の4村あり、その4村が合併について協議していました。

 

吉野村では「本山町と合併せよ!」という8地区と「田井地区と合併せよ!」という5地区が対立。

この5地区が「大渕・古味・井尻・下川・上津川」です。

結局、決着がつかないまま、吉野村は多数決により本山町と合併しました。

 

それから約5年間、この5地区が本山町から分町をして、新土佐村へ編入合併する闘いが始まります。

 

土佐村に編入合併することについて、住民の直接投票に持ち込むための運動が約3年間にわたって展開されました。

 

その後、運動が実を結び、住民投票が行われます。

住民投票については、時間制限なし(夜間の運動可)、個別訪問自由ということで7日間、昼夜兼行で激烈な運動が展開されました。

その当時、5地区を合わせると754名もの住民がいたため、住民投票の当日はその警備のため100名もの警察官が派遣されたといいます。

 

住民投票の結果、0.66票の差で、分町反対地区民が勝利する形となりました。

この結果を不服とした分町希望者は、本山町選挙管理委員会、さらには高知県選挙管理委員会に対し再審査を要求。

しかし共に受け入れられず、法廷闘争へと突入します。

 

訴状をもって高松高等裁判所に提訴すること10数回、審理の末、分町派の5地区はついに勝訴の判決を得ます。

高松高裁は『再審査の結果投票で無効とされたものの中に有効票があり、分町賛成票が1.33票強であった』と判断しました。

これに対し、県選管が最高裁判所に上告しましたが、最高裁が高松高裁の判決を支持し、分町派勝訴の判定が確定しました。

 

そして、昭和36年、本山町のうち吉野地区西部5地区が土佐村に編入合併することになったのです。

 

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土佐町が生まれた日

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土佐町はかつて、土佐村でした。

昭和41年頃から、町制の実施の希望が村民の間で高まり、昭和44年に町制施行が決定しました。

さて、ここで「新しい町名をどうするでよ?」問題が勃発します。

 

町制を施行するにあたっては、町制調査研究特別委員会という会が立ち上げられたそうで、新町名もその委員会で検討されました。

その当時、すでに「土佐市、中土佐町、西土佐村、土佐山村、土佐山田町」など、土佐という名称のつく市町村が多かったので、間違わんように他の名称にしたほうがえいんじゃない?という意見が多く、各委員が新町名を提案しました。

 

「嶺北町」

「水都(みと)町」

「吉田(よしだ)町」

「土北(どほく)町」

「奥土佐(おくとさ)町」

「早明浦町」

「昭和(しょうわ)町」

「登佐(とさ)町」

「美都(みと)町」

「大海(おおうみ)町」

 

さらにこの中から、「2つだけ選ぶとしたらどれがえい?」と選ばれたのが「嶺北町」と「水都町」。

委員会では決定的な名称は選定せず、この2つの中から住民投票で町名を選ぶことに。

 

その際、「候補の中にない町名を自由記載してよいか」という意見が出ます。

「えいろう。」「それも住民の意見じゃ。」

そうして行われた住民投票。

 

蓋を開けてみれば、自由記載の「土佐町」が一番多かったのです。

 

その結果に、すったもんだ てんやわんや あれやこれや あったという話も聞きますが、やはり住民の大多数が支持した土佐町、ファイナルアンサー。

 

そして、昭和45年2月20日に『土佐町』が誕生しました。

今となっては「土佐町」以外考えられませんが、もしかしたら全然違う町名になっていたのかもしれませんね。

 

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万次郎だけどジョンじゃない

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「万次郎カボチャを土佐町で作り始めたのは、うちの母やと思うがよー」

とおっしゃったのは土佐町役場に勤務している藤原美穂さん。

 

お母さんは川田慶子さん。

地蔵寺に住んでいる。

 

息子さんのお嫁さんは熊本出身で、お嫁さんのお父さんは種苗業を営んでいる。

25年程前、息子さんが結婚する時、お嫁さんのお父さんが、作っていた万次郎カボチャの苗を譲ってくれたそう。

最初の年は40数個も収穫があって、それがまた美味しい、収穫時期が遅い(霜が降りるまで大丈夫)ということで評判になって『作ってみたい』という人が増えたらしい。

インターネットで検索してみたら、日本では苗を売っているところが高知に一軒しかないんですって。

種間交雑種のせいか雌花しかつかず、種での販売はされていない。高知県の苗物屋さん(片山種苗)で苗が販売されているとのことで、その苗物店が生みの親だそう。

と、いうことは、熊本で作られていた万次郎カボチャも、高知出身ってこと???

 

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干し柿

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去年の秋の終わりに渋柿をたくさんもらった。
スーパーや近くの産直で買い物をしていると、知っている人に会うことは小さい町ではよくあること。
その日もたまたま普段は行かないような時間に産直に行き、出て来たところに、とさちょうものがたりではおなじみの百合子さんに会った。
百合子さんはいつも屈託のない笑顔で話しかけてくれる。
「柿いらない?」と笑顔で言われれば「いります。」と言いたくなる。

その柿も百合子さんが知り合いのおじいさんからもらったもので、たくさんあるという。(そのことについての記事はこちら
柿といっても渋柿。
今まで何回か干し柿を作ったことはあるけれど、カビてしまったり、なかなか上手にできたことがなかったので、もらってもうまく干し柿にできるのか、うまくいかなかったら・・・。
もらっていいものかどうか数分悩んだ末、「今年は寒いから上手にできると思う」という言葉を信じて試してみることにした。

 

大きな袋に入った渋柿はたくさんありすぎてなかなか手が出ず、数日袋の中で干されるのを待っていたけれど、家々の軒下に並んだ柿を見るたび、「今日こそは、今日こそは」と思いながら数日たち、やっと干すための皮剥きを終え、ビニールの紐に吊るされた。
お世辞にも上手にくくりつけて干せたとは言えない出来だったけど、誰かに見られるようなところに干してないのでよしとしよう。
一列に並んだ柿は、なんだか誇らしかった。
家の中のコタツに座って見える場所に、秋から冬の風物詩と言えるものが我が家にもある。
今まで他人の家にしかないものと思っていたものが我が家にもあるというのは、不思議となんだか嬉しかった。

自分の家に渋柿が干されたことで、他人の家の干し柿が気になる。
どんな種類の紐で吊るしているのか。どんな風に吊るしているのか。日を追うごとにどんな色をしてくるのか。など。

友人の家に遊びに行くと、これも同じく百合子さんからもらったという渋柿がシュロ(?)縄で干され、夕日色と言ってもいいようなきれいな半透明の色になっていた。それを見て我が家の干し柿との違いにびっくりもしたけれど、同じ人にもらった柿なのに干す場所で全然違ったものになるんだな〜と感心した。

我が家の柿はずっと干されたまま、お正月が来た。
おせち料理に入れたいなと思いながらも、両家の実家に帰ることになっていたので美味しい料理を期待して2日間でそれぞれの家に帰った。
旦那さんの実家に帰った時、料理の中に干し柿入りなますを見つけ、「お!作りたかったものがここにあるな〜。やっぱり作れということやな〜。」と思い、お正月明けてしばらくして干し柿入りなますを作ることにした。

干し柿入りなます
材料:
干し柿・大根・すりごま・砂糖・酢・塩
作り方:
干し柿はヘタを取って縦に開き、種子を取って細切りにする。
大根は太めの千切りにして塩をし、水が出たら絞る。
干し柿・大根・砂糖・酢・すりごまを混ぜ合わせる。
人参や雑魚などを入れても良い。

 

生柿は体を冷やすけれど、干し柿は胃腸を丈夫にして体を温める。
整腸作用もあるので便秘にもよく、二日酔いにも効果あり。
大根は消化不良や胃酸過多の時に。胃もたれや胸焼けをおこしにくく、二日酔いにも効きます。
生の大根は体を冷やすので、大根と干し柿を合わせることで体を冷やしすぎず、二日酔いにもきく、酒飲みにぴったり食材の組み合わせ!
ということになりますね。

ちなみに温めた大根は体を温めるので、ゾクゾク寒気のする風邪の時などは消化のよい大根おろし鍋などがおすすめです。
我が家の干し柿は、見た目は悪いけれど、ちょっと固めで程よい甘さの美味しい干し柿になった。
こんなに美味しくできたのは初めてのこと。
今年の寒さとあの場所で百合子さんに出会ったことに感謝しながら、今度はまだまだたくさんある干し柿をどうするか考えよう。

 

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編んでる?

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「最近編んでる?」「まぁ、編んでるよ」

 

ふと耳に入ってきた言葉。

この時期編むといったらマフラーかな?セーターかな?

 

これは、集落支援員さんの会話。

下瀬戸・黒丸と南川には、土佐町の中心部から車で1時間かかるのだが、それぞれ集落支援員さんがいる。

集落支援員さんは、地域に入って活動し、地域の現状や課題を把握して、どう対応していくかを役場と一緒に考えてくれる頼もしい存在。

 

そんな集落支援員さんは何を編むのか。

 

「背蓑(せみの)」だ。

 

農作業の時に、日よけや雨よけのために背中に背負う「蓑」。

 

下瀬戸・黒丸、南川地区では以前は背蓑の作り手がたくさんいたけれど、今ではたった一人しか作っていない。

そこで「背みのづくり保存会」というのを作って、その技術を教えてもらっているのだそう。

 

背蓑の原料は「菅(すげ)」という植物。

「良質な菅は寒い高地で霜が降りたやつなんやけど、最近あんまり取れんでね。低地のでも作れるけど、そういうのは何年かしたら萎れる」

とのこと。

 

「最近編んでる?」「編んでる編んでるー」

編んでいるのは、まさかの背蓑。

なんだかちょっぴり かっこいい。

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エンコウ渕(峰石原・東石原)

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峰石原の谷の渕の一つに、昔エンコウが棲んでいたと言われる渕がある。

土地の老婆おりえと言うものの年若い頃生んだ子どもは、生まれるとすぐに立って走りまわり、頭のいただきに皿のようなものがあったので、エンコウ渕のエンコウにみいられたものであろうと評判になって、家族の者が恐れて頭の皿に釘を打ちこんで殺したということじゃ。

また、東石原の惣川(そうかわ)のフクチビというところの渕にもエンコウが、棲んでいて、そこの近くの農家のおさとと言う娘が、そのエンコウにみいられてみごもったので、近所の猟師が鉄砲を持って渕をねらったと。

するとそれだけでエンコウはねらわれたところに弾に打たれた孔(あな)のようなものができて死んでいたと言われ、その後この猟師の一家には不幸がつづき、御祈祷でみてもらうとエンコウをねろうたたたりだと言い伝えられているそうじゃ。

 

町史(桂井和雄 「土佐の伝説」第二巻より)

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