中町禮子さんは土佐山村育ち。現在88歳。土佐山村のお百姓さんの家で育ち、子供の頃はお米はほとんど食べたことなかったと笑っていました。
土佐山村からだと高知市の空襲の時は上から見渡せて、空が真っ赤になり怖かった、忘れることはできん、と言っていました。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
「とさちょう山岳紀行」とは名ばかりの散歩道紹介コーナーになっているこの連載ですが、そのぐらい土佐町には素敵な散歩道が多いということでもあります。
元気な時も、少ししんどい時も、こういった自然豊かな散歩道を歩くことで、静かに整っていくことが多々あります。
今回はそんな散歩道の中から、田井山の東端の道をご紹介します。
上の写真の赤の三角のあたりから、下の写真のような素敵な細道が上に続いています。
登っていくとこんな感じ。おそらく幾世代も前の人たちが積み上げたであろう石垣に挟まれた小道が続きます。
登っていくとこの先には舗装路と合流します。田井山の奥に入っていく道にぶつかります。
下の写真のような、舗装はされていて歩きやすい道であると同時に、豊かな自然を感じることができる道。
少し目線を上げると、田井の街並みが一望できる高さまで上がってきました。右下の建物がマルニです。
生えている植物や風景はどんどん変わりますが一貫して「山の小道」。このような場所が日常生活の中にあることに幸せを感じます。
特に不調の時期には、朝のちょっとした時間にこういう場所を歩くことで、少しずつ調子を取り戻すといったことがあり、その価値を言葉で表すことは難しいのですが、とても貴重な環境だと実感します。
眼下にはハゼ干し中の稲束が。そしてその奥にはさめうらダム。前の世代、そしてさらに前の世代の人々が守ってきた風景です。
川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。
12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。
想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。
昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。
その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。
お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。
その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。