石川拓也

“4,001”

土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)

注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。

“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。

念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。

土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。  (敬称略・撮れたときに不定期更新)

4001プロジェクト

中町禮子(田井)

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中町禮子さんは土佐山村育ち。現在88歳。土佐山村のお百姓さんの家で育ち、子供の頃はお米はほとんど食べたことなかったと笑っていました。

土佐山村からだと高知市の空襲の時は上から見渡せて、空が真っ赤になり怖かった、忘れることはできん、と言っていました。

 

 

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4001プロジェクト

矢田美佐子(田井)

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本山町山﨑生まれ。89歳の矢田美佐子さん。木能津小学校から本山町立中学校で学びました。当時、同級生は13人だったそうです。

9歳の時に終戦。一度だけ校庭にジープに乗ったアメリカ兵が来たことがある、何か話しかけられたんだけど、その時は怖くて屋内に飛び込んだと言っていました。

 

 

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4001プロジェクト

西村民子

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西村民子さん、昭和5年生まれ(1930年)。現在は大谷に住われている民子さんは、元々は南川生まれ。

同じく南川のご親戚に子供がいなかったため、子どもの頃に養女になったそうです。

南川の方と結婚し、お子さんも4人育てられたそうです。北泉で田んぼを持っていたのでそちらに引っ越し、その時代はさめうらダムがちょうど着工の年だったと言います。

 

 

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とさちょう山岳紀行

田井山の散歩道

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田井山の散歩道

「とさちょう山岳紀行」とは名ばかりの散歩道紹介コーナーになっているこの連載ですが、そのぐらい土佐町には素敵な散歩道が多いということでもあります。

元気な時も、少ししんどい時も、こういった自然豊かな散歩道を歩くことで、静かに整っていくことが多々あります。

今回はそんな散歩道の中から、田井山の東端の道をご紹介します。

 

入り口はマルニの向かい側

上の写真の赤の三角のあたりから、下の写真のような素敵な細道が上に続いています。

登っていくとこんな感じ。おそらく幾世代も前の人たちが積み上げたであろう石垣に挟まれた小道が続きます。

登っていくとこの先には舗装路と合流します。田井山の奥に入っていく道にぶつかります。

下の写真のような、舗装はされていて歩きやすい道であると同時に、豊かな自然を感じることができる道。

少し目線を上げると、田井の街並みが一望できる高さまで上がってきました。右下の建物がマルニです。

生えている植物や風景はどんどん変わりますが一貫して「山の小道」。このような場所が日常生活の中にあることに幸せを感じます。

特に不調の時期には、朝のちょっとした時間にこういう場所を歩くことで、少しずつ調子を取り戻すといったことがあり、その価値を言葉で表すことは難しいのですが、とても貴重な環境だと実感します。

 

眼下にはハゼ干し中の稲束が。そしてその奥にはさめうらダム。前の世代、そしてさらに前の世代の人々が守ってきた風景です。

 

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土佐町ポストカードプロジェクト

2024 Aug. 森

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森 | 田中愛茉

 

8月の日差しの強いある日。森地区のヘリポート近くから川に降りた場所で泳ぎました。

撮影の最中にもカメラを一旦置いて川で泳ぎ、またカメラを手にして撮影という繰り返しを何度か行いました。

一緒に行って川遊びをしてくれたのは田中愛茉ちゃん。

慣れた素振りで元気に楽しそうにあちこち泳ぎ回ってくれました。

 

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4001プロジェクト

高橋敦子 (田井)

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高橋敦子さんは南川地区の生まれ。当時の南川地区の子供たちは川奈路という地区にあった南川小中学校に通っていたそうです。

その後いったん岡山の会社に就職した敦子さんは、高知に戻ってきて20歳頃に結婚。

お相手は大川村の方で、数年大川村に住んでいたそうです。

22,3歳ごろには田井に移り、以来ずっと田井に住われているそうです。

 

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4001プロジェクト

川村幸 (田井)

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川村幸さん、83歳。昭和15年生まれです。

古味地区で生まれ育った幸さん。さめうらダム建設の際に当時の古味地区はダムの下に沈み、新しい古味地区がさらに山の上方にできました。

幸さんのご家族、ご主人と二人のお子さんはそのタイミングで田井に移り、以来約60年、田井に住われています。

 

 

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4001プロジェクト

鍋島セイ子 (田井)

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昭和8年生まれの鍋島セイ子さんは北海道の十勝生まれだそうです。

祖父母、ご両親が共に土佐町から開拓移民として北海道へ移住。

聞けば当時は高知から北海道へそうして移住される方がとても多かったようです。

セイ子さんとご兄弟は全員が北海道生まれ。

やがて祖父母が土佐町に帰ることを決め、それに伴ってご家族も帰高したとのことでした。セイ子さん6歳のこと。

南国市領石の方とご結婚。ご主人は果物や野菜の卸業を営んでいた方。

当時土佐町の各地区にもたくさん存在した小売店やスーパーなどに生鮮食品を卸して回っていたそうです。

 

 

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4001プロジェクト

川村聰子 (田井)

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川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。

12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。

想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。

昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。

その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。

お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。

その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。

 

 

 

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4001プロジェクト

畠山都子 (和田)

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昭和2年の生まれ、畠山都子さんは97歳です。矍鑠(かくしゃく)としています。

和田地区生まれ、和田地区育ち。和田の方とご結婚され、お子さんが生まれるまで和田にお住まいだったそうです。

昭和40年田井へ移り、病院での給食を作る仕事を長らくされていたとのこと。

この年代の方々の共通点ですが、やはりご家族が戦争に出征されています。お父様が中国へ2年間。二人のお兄様も相次いで出征。

お父様は2年後元気な姿で帰ってこられたそうですが、お兄様は二人とも戦死され帰ってこなかったとお話しされていました。「兄は出征するとき泣いていました」とお話しされていたのが印象的でした。

 

 

 

 

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