「逃げるは恥だが役に立つ」 海野つなみ 講談社
数年前にドラマ化され、大流行したこの漫画。
最近初めて読んだのですが、思ってたのと大分違う!でも面白い!
色んな社会の問題がさりげなーく入ってて「あーわかるわかる!」ってなったり「あー、そんな考え方もあるのね」ってなります。
それぞれの恋の行方も気になるところです。
和田亜美
著者名
記事タイトル
掲載開始日
山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。
人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。
土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?
みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!
(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)
私の祖父は、33年ほど前に亡くなりました。
当時は葬祭会館などなく、川田葬儀社さんという葬儀社が道具などを手配してくれて、自宅でお通夜、葬儀を行っていました。
小さかった私の記憶に強烈に残っているのは、祖父の唇を湿った脱脂綿で濡らしてあげたこと。
お墓に大きな穴が開いていたこと。
その穴の中に祖父の入った棺が入っていったこと。
その時に誰かが「これが最後やきね、よく見ちょきよ」と私の肩を抱きながら言ったこと。
祖母が泣いていたこと。
昔は土葬が主流で、近所の人達が集まってお墓を掘っていてくれていたのです。
車が入れないような山の中のお墓です。
棺もそこまでみんなが協力して運んでくれたのでしょう。
葬儀のあとは、親戚や近所の人達が残って一緒に食事をとってくれ、呑みながら故人の話をするのです。
その時も、近所の方々が料理を作ったりお酒の用意をしてくださったりと、お世話になったのではないでしょうか。
お通夜の時も近所の方々が集まって、翌日の葬儀の段取りの相談などをしてくれていたのだと思います。
今では土佐町でも火葬が主流になっていて、土葬の申請はここ数年ほどで1件あるかないかだと聞きました。
我が家も納骨堂を建て、お墓は引き払いました。
葬祭会館ができ、お通夜、葬儀を自宅でしなくてよくなりました。
どうすればいいかは、業者さんが全部教えてくれます。
もう土を掘る労力も、棺を運ぶ労力も、自宅でお通夜・葬儀をするために準備をする労力も必要ありません。
それでも、そんな時代もよかったな、とふと思うことがあるのです。
そうやって、地域のつながりができていたのだな、と。
夜、暑いので網戸にして寝ていると、虫が入り込んでくる。
眠っているのに、太ももを何かが這う気配を感じると不思議なものでサッと覚醒する。
とっさに手で虫をつかむ。
何故つかむかというと、逃がして子ども達が刺されたり噛まれたりしてはたまらないから。
ある時はカミキリムシ。
ある時はカナブン。
とりあえず、勝手口からそっと逃がす。
今朝もまた太ももにモゾモゾとした気配を感じたので、とっさに握りこむ。
硬くてギザギザしたものが右手に収まってビクッとする。
ヒエッ。
これ何!?
暗闇で目をこらすと、ゲジゲジだった。
足が4~5本落ちて、布団の上で「ギギ・・・ギギ・・・」という音をたてながら動いている。
うへぇ。
何か、つぶしても動きそうだったので、ビニール袋に入れてゴミ箱に投入する。
もっとえいもん入ってこんかな。
クワガタとかカブトムシとか。
昆虫採集できそうやん。
私が住んでいる相川地区には、「二本杉子ども会」という子ども会があり、毎年夏休みに入ってすぐにキャンプをする。
釜でご飯を炊いて、カレーを作って、花火をして、子ども達は校庭にテントを張って寝る。
大人はその辺で寝る。
夕食後、子ども達はそれぞれに遊びはじめ、大人たちは慰労会へと突入する。
辺りが暗くなってきた頃、運動場の隅で子ども達が騒ぎ出した。
「セミの幼虫や!」
「脱皮しゆ!」
それは羽化というのだよ。
いそいそと見に行った私は、テンションが上がって写真を撮りまくる。
また大人の輪に戻り話をしていると、また遠くから子ども達が
「亜美ちゃん亜美ちゃん亜美ちゃん!!!!」と呼ぶ。
「セミが完全に出てきた!!」
「写真撮りや!」
さかさまに出てきていたセミがいつの間にかぶら下がり、しわしわだった羽が美しく伸びている。
「こっちにも幼虫いっぱいおるで!」
そう言いながらプラコップに3~4匹入った幼虫を見せてくれる。
「写真撮りや!」
「セミになったやつもおるで!」
「写真撮りや!」
いや、セミはいつでも撮れるきえいわ!と言いながらも撮る。
どうやら、すごいセミ好きのおばちゃんと認識されてしまったようだ。
今年は川原でキャンプファイヤーもした。
本格的に木を組んで火を点けると、結構な勢いで炎が燃え上がる。
暗闇の中で炎が幻想的に揺らめく。
何かあった時は、消防団の保護者もいっぱいおるき大丈夫大丈夫、と言いながら。
「まぁホース持ってきてないけど」
しかもみんな酔っ払ってるし・・・。
キャンプの最後はみんなで花火。
広々とした運動場で、みんなが思い思いに花火に火を点ける。
小さい子達にお姉さんが「やる?」と花火をわけてくれる。
「打ち上げ花火やるで」と大人が順番に火を点けると、子ども達が歓声を上げる。
並んだみんなの後ろ姿が可愛かった。
夏休みのはじまりだ。
彼女は大抵、雨上がりにひょっこり現れる。
去年亡くなった姑が、生前よく彼女についてこう言っていた。
「私がここへお嫁に来た頃からずーっとおるがやき」
「草を引きよったら、じーっと横で見よったがね」
「この家の主よ」
大先輩なのだが、彼女が現れるたびに私は挨拶するどころか
悲鳴をあげてしまう。
そんな彼女はヒキガエル。
デカい。
15cmくらいある。
私は“超デカい!!”と思っているのだが、この辺ではこれくらい普通なのだろうか。
その図体の割に動きは素早い。
一瞬目を離すと、遠くへ移動している。
あれがジャンプして飛び掛かってきたら・・・と思うと背筋がゾンゾンする。
なので、いつも刺激しないように気配を殺して通り過ぎる。
私と子ども達はこのヒキガエルが現れるたびに
『おばあちゃんの友達が出たー!!』
と大騒ぎする。
私がおばあちゃんになってもいるだろうか。
私が住んでいる地区では4月と6月と9月に『道つくり』があります。
地区の人達が協力して、草刈りや側溝の掃除をするのです。
9月の道つくりの前日、小学校6年生の息子が急に
「明日の道つくり、手伝いたい」
と言ったのです。
私が何回も何回もお願いして、やっと重い腰をあげて洗濯物を取り込むあの息子が!
皿洗いを頼むと舌打ちをしながらしぶしぶ皿を洗うあの息子が!
手伝いをしないとゲームさせないよ!!といつも怒られるあの息子(以下略)
一時の気の迷いかとも思ったけれど、当日息子は早起きをして父ちゃんと道つくりへ。
草刈り機を扱えるわけでもないので、集会所の草引きをまかされたのだけれど
やり遂げて、地区の人達と一緒に昼ご飯を食べて帰ってきた息子を見て
誇らしい気持ちになりました。
少子高齢化で、道つくりの人員がいないという声がチラホラ各所で聞かれる今日この頃。
まだまだ幼いと思っていた息子も、頼れるようになる日が・・・来るのかな?
文:和田亜美 絵:川原将太
土佐町で、カラオケボックスといえば田井の上村商店の横にある『すたあふるうつ』。
でも私が子どもの頃は、同じく田井にあるスーパー、末広ショッピングセンターの隣にサンライズというレストランがあって、
その横にもカラオケボックスがありました。
今ではレストランとカラオケボックスはなくなってオンベリーコというイタリアンレストランになっています。
小学校の頃、同級生とその保護者で、よく一緒にカラオケに行きました。
同級生のお父さんに “ミッキィ” と “テイジくん” がいます。
この ”ミッキィ” のイントネーションは、千葉県にある某ネズミの国のネズミの呼び方とは
また違ったイントネーションなのですが、それはそれとして。
この “ミッキィ” 、良く言えば個性的な歌声。
悪く言うと音痴でした。
ごめんねミッキィ。
その “ミッキィ” と “テイジくん” が2人で歌う定番の曲がありました。
山本コウタローとウイークエンドの『岬めぐり』。
2人は普通に歌っているつもりです。
でも、見事にハモるのです(笑)
奇跡のコラボレーション。
子ども達はもう大爆笑。
今では一緒にカラオケに行くことなんてなくなってしまったけれど、
また久々に聞きたい、2人の『岬めぐり』。
文:和田亜美 絵:川原将太
「ワシらぁが子どもの頃にはもうあった。誰が置いたのか、どうして置いたのか・・・」
土佐町役場の駐車場の片隅にひっそりと佇むお堂があります。
その中には一体のお地蔵さん。
そのお地蔵さんは、顔と手が白く、体は全体的に緑色で袴の部分が黄色。
白い顔には、黒いラインで目と瞼と口が描かれています。
そのお地蔵さんは化粧地蔵と呼ばれています。
最初に「化粧地蔵っちゅうのがあるんじゃ」と聞いた時は、いわゆる女性がするお化粧を想像したけれど
そうではなく、全体的に色が塗られている、そんなお地蔵さん。
「お四国巡拝みたいなことをして回りよった人、といういわれがあるけんど定かじゃないねぇ」
そう教えてくれたのは和田富雄さん。土居に住む80歳。
両サイドにも石像があり、こちらは欠けたり頭がなかったり。
「ワシらぁが子どもの頃にはもうあった。誰が置いたのか、どうして置いたのか・・・」
「お正月とお彼岸にはお大師様と一緒にお祭りするねぇ。お膳とお茶を用意して」
「地域を守ってくれゆうお礼にね」
お大師様と阿弥陀如来が、化粧地蔵が祀られているお堂の裏側に置かれています。
そのお堂の中には、昭和62年にこの化粧地蔵のことを取材した高知新聞の記事が
切り抜かれてクリアファイルに入った状態で置かれていました。
その記事は、喫茶「みなみ」の主人である和田裕吉さん(当時43歳)に聞いた話でした。
この化粧地蔵は、九州の山伏がここへ来て行き倒れになったものをお祀りしたものだと言われているとのこと。
もとは濡れ仏だったものを裕吉さんのお母さんが小さなお堂を作って安置されたとのことです。
この記事が書かれる数年前、裕吉さんが夜中にふっと目を覚ますと、
お風呂場に煙がもうもうと立ち込めているのを発見。
朝まで寝ていたら火事になるところだったけれど、目が覚めたのはお地蔵さまが助けてくれたのだ。
そう思ってそれ以来毎月十日と二十日にはお菓子を供えてお参りしていたそうです。
今でも、工事などでここを通る、という時などは建設会社の社長さんがお供えをしてお参りし、
「ちょっと通らせてください」とお願いするとのこと。
文:和田亜美 絵:川原将太
昔、自分が子どもだった頃は、友達と連れ立って川へ遊びにいったものだけど、
今自分が親になってみると、子どもだけで川へ行かせるのはとても不安。
そんな話をしていたら、町長登場。
土佐町長 和田 守也。昭和31年生まれ。
『相川には“オハル淵”っちゅうところがあってにゃあ、そこでは泳がれんと
親からキツう言われちょったんじゃ。』
『相川口からアラカシの坂を少し上ったら左手の川に大きな岩があるがにゃあ、
その辺を“オハル淵”っていうがよ』
『“オハル”という人が溺れて亡くなったき、泳がれんと言われよったがにゃあ。
本当かどうか知らんけど。』
『床鍋のカーブの辺も、“モチガ淵”とゆうて、泳がれんと言われよった。
こっちは餅を背負うて歩きよって、足を滑らせて亡くなった人がおるき
“モチガ淵”とゆうらしいけど、そんな話あるかにゃあ(笑)』
でも、昔の人達は、そうやって子ども達を危険なところに行かせないように
していたんだろうなぁ。
そういう言い伝えをたくさん教えてくれる。
町長の話は尽きない。
文:和田亜美 絵:川原将太