土佐町歴史再発見

土佐町歴史再発見

② いにしえの白髪神社

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古い神社というものは、人工的には決して造ることのできない、ある種の幽玄さが漂っている。

土佐町にはこれまでほとんど縁がなかったが、この趣のある白髪神社のことは以前から知っていた。

白髪神社 (宮古野)

白髪神社が、土佐の戦国大名・長宗我部元親と深い繋がりがあったことをご存じだろうか?「由来記」によれば、社殿が焼失した際、元親の発願によって再興されたのだという。棟札には、元服前の長男・千雄丸(後の信親)の名前もあるらしい。千雄丸は、22歳で戦死しているから、その名が記された棟札がもし現存していれば大変貴重なものとなる。

江戸時代の記録によれば、この親子による社寺の造営事業は、その後夜須八幡宮(天正2年)、滝本寺毘沙門堂(天正7年)、波介八幡宮(天正11年)、仁井田中宮・高岡神社(天正11年)と続いていくが、オリジナルの棟札が確認されているのは高岡神社だけだ。

20年以上前に見た『土佐町史』の掲載写真によれば、どうやら白髪神社にもオリジナルがあるらしいのだが、こればかりは直接調査してみないと分からない。「一度見せてもらえませんかねぇ?」と、親しくなった町の方に頼んでみた。すると嬉しいことに数週間後には段取りがついた。

調査当日、宮司さんの腕に抱かれて現れた棟札の1つは、間違いなく写真で見たことのあるものだった。「これはオリジナルだ!」心の中の声が呟いた。かなり傷んではいたが、墨で書かれた文字を凝視すると元親親子の名前が辛うじて確認できる。そして、後代に写した別の棟札により、その左横には「藤原高賢(森近江守)」の名も見えた。これは、森氏が長宗我部氏の配下になったというより、一体化したことを意味する書き方だと、その時直感した。

白髪神社 第42代宮司・宮元序定さん

白髪神社の棟札(右端がオリジナルとみられる)

右側が長宗我部元親・信親 左側が森近江守孝頼

なぜ元親は、森郷の白髪神社を特別扱いにしたのだろう?自身が滅亡に追いやった本山氏への鎮魂?それとも、森近江守孝頼に対する温かい配慮か?

森孝頼は嶺北地域でのいくさに敗れたあと、岡豊城主(現南国市)・長宗我部元親を頼ったという。その後、恩に報いるため数々の戦功をあげ、潮江城主(現高知市)に抜擢されると同時に、念願の本領・森郷(116=116ヘクタール)も返還されたという。しかし、これはあくまで『軍記物語』に記されていること。真実は分からない。だが、ボロボロに傷んだ棟札は、両者の絆が本物であったことを我々に教えてくれる。

帰り際、「あそこの奥の祠は元親公をお祀りしたものです」という宮司さんの声にドキリとした。何と森氏の末裔たちは、長宗我部氏が滅び、山内氏の時代になってもずっと元親の霊を祀り続けていたのだ!

あらためて絆の深さを感じながら境内を出ると、眩しい日差しとともに、学校のグランドから子どもたちの弾んだ声が聞こえてきた。悠久の歴史を物語る白髪神社と白髪山。

今も、そしてこれからも、町の人々の営みを静かに見守っていくことだろう。

※猿田彦(白髪の老翁)を祀ったことから白髪山と呼ぶようになったという説や、白く光る石が多いことから「白蛾」という文字が当てられたとする説などもある。

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土佐町歴史再発見

① 白髪山から町内を俯瞰する

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新学期だ。今年もピッカピカの1年生が入学してきた。どんな子どもたちかとワクワクしていたら、いきなりのコロナ休校。出鼻をくじかれた。教員も平日は自宅待機を命じられたが、ふと「休日ならいいか」と思い立ち、外に出てみた。

実は、赴任した頃から本山町の「白髪山」が気になっていた。校舎の窓から見える、古めかしい宮古野の「白髪神社」(しろひげじんじゃ)と関係があるのではないかと当て推量していたのだ。

右手奥に白髪山が聳える

車で途中まで行けるとガイドブックにあったので、近所の里山にでも行く気分で出かけたのが間違いだった。元々山城が好きで、全国各地の城を巡ってきたが、白髪山は1000メートルを軽く越える山。そんな所に山城はない。慣れぬ素人登山で、気持ちが悪くなり、頭がガンガンしてきた。「やめとけばよかった」と後悔し始めた時、気が付けば白骨樹林帯のど真ん中にいた。「白髪」の由来(※)はもしやこれかもと思いながら、最後の難所の岩場にさしかかった。ロープを掴んで慎重によじ登ると、数分で頂上に到着。そこから見た景色。まさに絶景だった。

白髪山から見た宮古野・南泉地区

「手の平サイズじゃん」。遙か遠くに見える土佐町は、マッチ箱のように小さく見えた。早明浦ダムが出来る前は、もう少しワイドに見えていたのかもしれないが、今は宮古野から南泉周辺しか見えない。かつては「白髪神社」を取り巻く杉の木立もはっきり見えていたことだろう…。

何となく信仰上の繋がりが感じられ、「よしよし」と、自分の見通しに満足し、悦に入って下山を始めた。ツガやヒノキの巨大な根っ子が山道を這い回っているせいで、油断するとすぐ足を取られる。3回ほど思い切りずっこけ、悪態をつきながら起き上がったその時、人外の気配を感じた。「鹿だ!」。思わずカメラを向けると、信じられない跳躍力でファインダーから外れ、一度だけこちらを振り向いたあと、悠然と森のなかに消えていった。

数週間後、やっと学校が再会した。早速、学括の時間に休み中の動静を語り合う時間があったので、土佐町が「手の平サイズ」に見えた話をしてみた。だが「そんな訳ないやろ!」というK君の一声にクラス全員が失笑し、これは笑い話で終わってしまった。

一番伝えたかったのは、自分たちの住んでいる町を俯瞰してみること。ドローンや衛星からみる景色ではない、高山からみる景色だ。この景色は、土佐藩の山奉行、さらには山猟師や修験者らも見た景色。何百年も変わらぬ景色なのだ。いつか自分たちの町を俯瞰してみてほしい。そう願いながら地理の授業を始めたのだった

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土佐町歴史再発見

⑤ 「民具資料館」という個性

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 4領目にとりかかった12月、懐かしい来客があった。少し背が伸びた中2のT君だ。

その日は人手が足りず、あまり作業が進んでいなかったので、早速彼にも手伝ってもらった。元々センスがあることは分っていたが、とにかく飲み込みが早い。作業の手順をすぐに覚え、即戦力になった。

 そう言えば、中学校の授業でも、T君のように飲み込みの早い生徒が多かったので、授業がやりやすかった。

 社会科はよく暗記物といわれる。確かに覚えることは必要だが、肝心なのは自ら視点を持って分析すること。・中学生のうちに地域の生の資料に触れる機会がもっとあればいいのにT君を見ていてあらためて思った。

 作業は終盤に差し掛かっている。解体した甲冑のパーツは本来の収納場所へ帰らねばならない。ところが、当然あるはずの鎧櫃が見当たらない。もう無くなってしまったのだろうか。いや、あったあった。見つけたのはくだんの委員会の精鋭たち。「せんせー、あった。でも「衣紋箱」って書いちゅうで」と、まるで中学生のような声がする。

 この作業をしていて一つ気付いたことがある。それは、ここはここの流儀があるということだ。以前触れた「種子島銃」の話とも共通するが、たとえ管打式に改造されていたとしても、所蔵者がそう呼んでいたのならそれでよいのではないか。狭小な資料観で地域資料の個性を消すことは、意味がないのではないか?

 迷った挙げ句、鎧櫃はそのままにした。所蔵者は明治以降、使われなくなった甲冑を鎧櫃と別置きにし、大切な着物を入れる衣紋箱(衣装箱)として使った。それはそれで家の歴史だ。民具資料館としては、そこを大事にすべきだと思う。

 とは言え、未練がましく鎧櫃の蓋を開けたり、閉めたりしていたら、見たこともないものが目に止まった。蓋の裏に貼り付けられた守札(まもりふだ)である。なぜこんな所に守札が?「武士が命より名を惜しんだというのは建前。そうありたいという願望。実際には死を恐れ、生き残ることを神仏に祈った」と、ある専門書に書いてあるのを思い出した。

 や胴に「南無阿弥陀仏」と刻んでみたり、兜の内側に守札を、胴の内側には小さい鎧仏(よろいぼとけ)を忍ばせることもあったらしい。武士も人間。考えてみれば当然だ。この鎧櫃の守札も死を回避するための神頼みに他ならない。

 郷士が、郷の外に出るのは、土佐藩の恒例行事「御馭初」(おのりぞめ)か、特別な演習の時だけである。戦さもない時代なので、命を懸けるほどの奉公はなかったはずだ。ではこの守札は何のために貼り付けられたのか。

 西村家の「家譜」によれば、幕末の当主・西村昌蔵が、藩命により大坂警備に従事している。恐らくこの鎧櫃を担いで住吉の土佐藩陣営か堺警備に赴いたのだろう。この守札をそっと偲ばせたのは、夫の身を案じた妻だったのかもしれない。

 数ヶ月後、無事昌蔵は帰還している。その目には、江戸幕府が崩壊していくさまをまざまざと刻み付けてきたことだろう。

 何気ない一つの資料から、日本史が透けて見えてくる。

 これだから資料整理はやめられない。

 

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土佐町歴史再発見

④ 鎧にみる郷士の誇り

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「あれ、何で立てっちゅうがやろう?」何度か展示室を往復するうち、ふと気がついた。

甲冑の展示は、通常「鎧櫃」(よろいびつ)と呼ばれる箱の上に胴を乗せる形で設置するので、当然座った格好になる。立たせた展示というのは、西洋甲冑などには例があるが、初めて見た。

 このままだと縅糸(おどしいと)に負担がかかりすぎ、最悪切れてしまう可能性があった。資料カードも作成しなければならないし、思い切って一度全部解体することを提案した。

以来、約3ヶ月間、1領ずつ解体し、部位ごとに写真を撮り、実測し、メモを取る。その繰り返しである。正直くじけそうになったこともあった。でも傍らには常に委員会の精鋭が3人も付いてくれている。この手厚い支援を受けては、途中で投げ出すことは許されない。

 3領目が終わったころ、昔お世話になった国立博物館の先生の言葉を思い出した。「土佐は五枚胴が多いんですよ」。確かにそのとおりで、資料館にある5領のうち4領は五枚胴だった。簡単に言うと5枚の鉄板を蝶番(ちょうつがい)で連結している胴のことで、畳んで箱の中に収納しやすく持ち運びにも便利である。

土佐の武士は機能性を重視したようだ。いやいや、機能性だけではない。「鉄地五枚胴具足(てつじごまいどうぐそく)」と付けた甲冑がある。特徴は、地味ながらとても頑丈であること。特に胴は甲冑師の腕がいいのだろう、肌、艶もいい。そして、とにかく重い。だが、戦さなどありはしない泰平の時代に、こんな重い胴が必要だったのだろうか。

 良く似た胴が昔の職場にも2領あった。矢野川家と片岡家の五枚胴だが2つとも重かった。土佐町の甲冑は5領とも西村家のもの。この3家に共通するのはいずれも土佐藩の下士(かし)、そしてその地域を代表する「郷士(ごうし)」の家柄ということだ。

 昔読んだ漫画に坂本龍馬の兄の権兵衛が、所属する組の演習に参加する場面があった。その武装は信じられないほど見窄らしく、上士からの嘲笑を買う。だが、実際の郷士の武装はそんなものではない。そもそも郷士は足軽ではない。郷士のことを極端に見下げた表現はいかがなものかと思う。

 確かに、非常事態に藩が足軽などの下士、軽格に貸与する「御貸具足」(おかしぐそく)というものがあった。その類いのものを郷士も所有していた可能性は否定できないが、西村家の甲冑は明らかにそれとは異なる。質実剛健、万が一の戦さでは決して遅れをとらない覚悟、それがこの重い五枚胴に込められている気がするのである。

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土佐町歴史再発見

③ 生活用具としての火縄銃

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② 天下泰平の世の火縄銃」の続き

 国境警備の番所に置かれたものの他、野中兼山が平時には直属の鉄砲足軽を山林伐採に当たらせていた記録があるから、そのことと関係があるのかもしれないが、それを差し引いても多すぎる。

 一つ考えられるのは、山に暮らす人々にとって、火縄銃を手離したくない切実な事情があったのではないかということだ。戦さはなくなっても、貴重な作物を喰い荒らし、時には村人を襲う害獣との戦いである。

 村々では、害獣駆除用の火縄銃を必要としていた。戦さ経験のある者が回りの村人たちに使用法を教え、本来武器であったはずの火縄銃を生活用具に転用していったのだ。こうした山に住む人々のしたたかさ、逞しさの前に、藩も火縄銃の所有を認めざるを得なかったのではないかと思う。(庄屋や藩の下役に銃と火薬、弾丸を別々に管理させるなどの厳しい取り決めはあっただろうが

 ところで、火縄銃は、故障して使えなくなると、銃身や機関部だけが外され、新しい部品と交換したうえで使用された。それを支えたのは、領内各地にいた鉄砲鍛冶である。戸時代の土佐には、中村・久礼・窪川・須崎・佐川・本山・片地・佐古・韮生・山北・白川・北川など、各地に火縄銃を造る職人がいた。そして、森郷にも「土州森住義頭」と銘を刻む鉄砲鍛冶がいた。彼の工房には、普段は野鍛冶をする下請け職人もいたはずだ。現在資料館にある古式銃を改造したのは、こうした職人末裔ではないだろうか。

 火縄銃は、命中精度が高かったものの、雨天時にはまるで使えないという致命的な欠陥があった。しかし、幕末に欧米から洋式銃が輸入されると、その先進的な構造に刺激を受け全国各地の鉄砲鍛冶により、火縄式から管打ち式への改造が試みられた。資料館にあるのは、まさにこの時期に改造された銃だったのである。

 銃の改造箇所をよく見ると、火縄ばさみを撃鉄に付け替え、火皿を金属で埋め、雷管を付ける細工がなされている。雨天時でも点火がスムーズに行なえるよう、ち主のために銃の性能高められているのだ。

 金次第で欧米式のライフル銃が買える時代になっても、式銃を使い続けた事実は、「モノ」や「道具」に対するこの地の人々の向き合い方を示しているような気がしてならない。 たとえ記録には無くても、先人たちの知恵と工夫がたくさんつまった「モノ」が目の前にある。「モノ」から地域の歴史を見ることの醍醐味を、ここの資料館は教えてくれる。

 民具資料館は、本当におもしろい

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土佐町歴史再発見

② 天下泰平の世の火縄銃

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① 民具資料館という個性」の続き

 ところで、この部屋の中で真っ先に目に止まったのは、甲冑ではなく、その脇に展示されている2挺の古式銃だった。1挺(銃身のみ)は一目で「摂津」で製造された古式銃と分ったが、もう1挺はよく分からなかった。早速、展示ケースに入らしてもらい、手にとってみた。重さ、長さともに実に扱いやすそうで、持った瞬間、これは戦さ用ではない直感した。

 学芸員をしていた時、ネタに困って「土佐の砲術史」という苦し紛れの展示会をしたことがある。今思えば経験不足の生煮え企画だったが、古銃を見る知識だけは多少付いたので、ピンときたのかもしれない。

 江戸時代の侍が「砲術稽古」で使用する銃は「士筒」(さむらいづつ)という。流派にもよるが、比較的口径が大きく、ずっしりと重く派手なのが特徴だ。それとは明らかに異なるこの素朴な銃は、城下に住む武士が扱うものではない。それによく見ると機関部のディテールも何かおかしい。

 早速、委員会の資料台帳を見せてもらった。するとこの銃は「種子島銃」(たねがしまじゅう)となっていた。「種子島銃」とは、一般的に火縄式の古式銃のことを指す。でも、この銃には火縄を装着するための「火縄ばさみ」がない。改造されているのだ。

 そもそも土佐町には火縄銃はあったのだろうか?根本的な疑問が沸いてきた。学芸員気質はこの歳になってもなかなか消えない。ムズムズしてきたのでちょっと調べてみた。

 寛保3年(1743)の『郷村帳』という藩の記録によれば、現在の土佐町を構成する村々には、多くの火縄銃があったらしい。その数、何と216挺!これには驚いた。

 土佐では、戦国末期頃より盛んに鉄砲が造られるようになった。そして、文禄(1592~1595)の頃には、領内すべての地域に標準装備されていた。長宗我部元親は「我が家中では鉄砲を撃つことは特別なことではない。家老から足軽まで誰でも撃てるからだ」と豪語したという。長宗我部氏の改易後、新国主・山内氏が入国してきたが、早々に隣の本山郷で一揆が起きた。当然嶺北地域には厳しい目が向けられ、武器もすべて没収されたはずだ。なのになぜ200挺を越える銃があったのだろう

③へ続く

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土佐町歴史再発見

① 民具資料館という個性

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「ここの資料館おもしろい!」と、思わずつぶやいた。

教員として赴任してきた4年前、初任者向けの町内巡りに参加した時のことだ。

資料館の展示物はどれも控えめで、ごく普通の印象ながら、よく見ると個性的で、それぞれ奥行きの深さをもっている。そう、土佐町の子どもたちと同じだ。

 この町に来る前は、四半世紀ほど県立の資料館に勤めていた。仕事柄、全国の大規模な「資料館」や「博物館」を見てきたが、正直「おもしろい」と思ったことはなかった。豪華な美術品、最新の映像機器、精巧なレプリカを、「これでもか」と見せられても、途中で飽きてきて、「もう出よう」という気分になったものだ。

 対象的なのが町や村の小さな資料館だ。予算も人も少ないのだろう。色あせたパネルや、傾いたままの資料を見て、ハラハラすることもよくあったが、展示自体はめちゃくちゃ個性的で、「おもしろい」。

 地域の資料館は、当然地元と繋っている。「これは○○さんくのが」「○○さんはさすが職人、よう使いこんじゅうねえ」そんな声が聞こえてきそうな資料館は、まさに生きている資料館。「県立館」とは違う魅力があるのだ。

 退職後の選択肢は色々あったが、ボランティアとして、この町の資料館のお手伝いをすることにした。教育委員会の方たちと協力し、一点一点資料カード作りから始めたのたが、毎回何かしらの発見があって、実に楽しい。

 土佐町の資料館は、正式には「民具資料館」という。ただの「民具館」ではないところがミソだ。旧森少学校の2階を改造し、手前から「通史」、「衣・食・住」、「生業」などのテーマで構成される。展示品はすべて町内で使われていたものだから迫力が違う。

 なかでも心惹かれるのが、「通史」の部屋だ。手作り感満載のキャプションや、試行錯誤して拵えた展示備品の数々が、オープン時のスタッフの苦労と努力を偲ばせる。

 町立レベルで、常時甲冑を4領も出している館も珍しい。これもただの民具館ではない、「民具資料館」の面目躍如といったところか。

②へ続く

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