山村の変りようが激しい。人が居らぬ家は家囲いの杉垣が伸び放題で、家をすっぽり包み隠している。柿や柚子は木で熟れ朽ちていて、その実の色が何とも物悲しい。
田も畑も、雑草はもちろん、雑木が生い茂って、今は林である。米や野菜を作っていた田畑で、イタドリを採るようになっている。
元は田んぼであった雑木地でイタドリを採りながら、不意にドジョウのことが思い浮かんできた。子供の頃、稲を植える前のこの田で、ドジョウをとったのである。とるというより、掘り出したというのが正しい。
田植えに備えて水を溜めた田の泥の中に、ドジョウが居たのである。それも川から遥かに上った山田である。
稲が生長すると田の水を落とす。そして稲刈りを迎え、そのあとは全く水がなく、土が固まっている。そんな中でどう生き延びたか知らないが、翌年田植え時に水を溜めると、土が軟かくなった泥の中に、ドジョウが姿を現わすのである。
当時の山村の子の遊びの主なものは、渓流の魚釣りと、山での小鳥とりであった。それに田でのドジョウとりも加わっていた。田植え前の土が軟かい時は、ドジョウもよくとった。
これは釣るのではなく、手で掴まえるのである。
ドジョウは泥の中に隠れている。ところがその居場所は、すぐ判る。泥の表面に空気孔とでもいえる小さな穴をあけていて、その下に居るのである。
穴を見つけると、その両脇に両手を突っ込み、一気に泥を掘り起こす。そして、隠れ場所から掘り出されたドジョウが、身体をくねらせてピンピン跳ね回るのを掴まえる。1時間に20や30は掴まえた。
泥の中に居たので、3,4日から1週間ほど、真水に入れて泥を吐かせた。
祖母がよくドジョウ鍋にしたが、結構な味だったという記憶がある。魚が極端に不足していた戦時下の山村だけに、余計にそう感じたのかもしれない。
煮るだけではなく、アメゴやイダなどから思いついて、炭火で塩焼きにもしてみた。よく焼くと、頭から骨まで食べることが出来、新しい調理法を思いついたと、嬉しくなったことであった。
そのドジョウも戦後しばらくして、農薬が普及してくると、1,2年ほどで姿を消した。
イモリも居なくなった。田に水を引き込む溝などによく居たが、背が黒く腹が赤くて、余り気持のいいものではなかった。
ドジョウを掘り出した田にはいま、雑草や背丈より高い雑木が茂っている。全く様変りした田だが、その底には、さまざまの思い出が埋まっている。
掴んだドジョウの跳ねた感触は、まだ掌にある。