山峡のおぼろ

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ヤリカタギ

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山の村で、雨の日に風が強くなると、大人たちから

「ヤリカタギが走りはじめた」

という言葉が出た。ヤリカタギは、「槍担ぎ」の方言である。

見ると、雨が風のぐあいで柱のようになり、それが何十本も連なっている。その柱の高さは何十メートルもあり、それが風に流され、山に沿ってすべるように動いている。相当な速さである。

小学校の高学年になると、「槍担ぎ」のことを言っているんだということが判り、色んな想像を当てはめてみた。

柱の集団が、槍を担いで戦場に駈ける武士の大軍のように見えた。だからいつ頃かは判らないが、ヤリカタギという言葉が出たのだろうと思った。

テレビもない時代だったので、当時の子どもたちは、本や新聞の連載時代小説をよく読んだ。特に「立川文庫」は歴史上の豪傑を主人公とした小説シリーズで、みんなで回し読みをしたものであある。

共にヤリカタギを見ながら、

「あれは関ヶ原の合戦に行く東軍じゃろか、西軍じゃろか」

とか、

「豊後戸次川の合戦で、薩摩軍と戦って討ち死にした長宗我部信親の軍が突撃しよるところじゃろ」

などと、想像を楽しんだ。

ヤリカタギが通りすぎると、裏の白い木の葉が風に揉まれて裏返しになり、山のあちこちで白い大きな固まりになって揺れた。何かが爆発したような様相であった。

それを見て、

「そりゃあ、撃ち合いが始まったぞ」

などと、また勝手な想像をこじつけて、大声ではしゃぎ合ったこともしばしばであった。

裏返しになった葉の白い集団は、さまざまに形を変えた。

風に流されて大きく波打つように見えたり、2本の木が風に揉まれた時は、まるで大きな白熊がじゃれ合ったり、取っ組み合いをしたり、風船がふくれたりしぼんだり、色んな連想を呼ぶ形になった。

こういう情景は、山育ちの友人たちと、今もよく話し合う。

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竹馬・缶馬・孟宗竹馬

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同窓会などに出ると、在校当時の思い出話に花が咲くのは当然である。それと共に、育った環境が同じ者同士で、遊んだ方法などを語り合うのも楽しい。

山育ちの友と合槌を打ち合いながら、

「そうや、そうや、俺もそれをしたよ」

と話に興じる。時には女の同窓生も、

「私も、遊び道具は鎌やナイフや鋸やった」

と言って割り込んでくる。

春はアメゴ釣り、夏は潜ってアメゴ突き、冬は小鳥とりと、みんな似たようなことをして育ってきた。

家での遊びでは、竹馬、缶馬、孟宗竹馬の話題がよく出る。

竹馬と缶馬はみんなが作っていた。缶馬は缶詰の空いたのを逆さまにして、上部の両脇に紐を付けて手綱のようにし、2つの缶に乘って歩く。

竹馬では坂道はもちろん、冬の冷い川を渡るのが面白かった。入って渡るには水が身を切るように冷いので、竹馬は最適の道具である。と、誰もがそう思って誘い合い川に行った。しかしそれは甘い考えであった。

うまく渡れることもあったが、水底の石で竹馬がすべって、横倒しに落ちる。また、砂にめり込んで竹馬を引き抜くことができず、焦ってもがいているうちにバランスを失ってドブン。こんなことの方が多かった。それにもこりずに、川へ行き続けた。

缶馬の方は竹馬ほど頑丈ではない。空き缶であるだけに、時には体重のかかりぐあいによって、ぐしゃりとつぶれることがあったり、錆びて使えないこともあった。

戦時中であり、物資は配給制で、缶詰は少なかったので、缶馬作りはすたれていった。

ある時、子供たちの間で誰言うとなく、

「孟宗竹が缶の代りになる」

と言い出すと、

「そりゃあ、ええ。やろう」

と忽ち衆議一決、鋸を持って竹林へ走った。そして缶詰ぐらいの大きさの孟宗竹を切り出すと、節が缶詰の底に見合うようにうまく切り、それこそあれよあれよという間に、缶馬ならぬ孟宗竹馬を作り上げた。

これは缶よりも強く、安定もよかった。

それに乘って遊ぶうちに、はじめは缶詰と同じような高さにしていたのが、次第に高くなっていった。高い方が竹馬感覚になり、歩くにも工夫が要って面白かった。

こんな体験は同窓生の多くに共通のことだが、その内の1人が、

「こんな話、孫たちにはもう通じんわ」

と言った言葉に、みんな黙って、うなずいていた。

 

編集部注:写真の孟宗竹馬は、栗木地区の近藤雅伸さんが作ってくれたものです。みつば保育園のご協力のもと撮影させていただきました。ありがとうございました。

 

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茶碗を狙って

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小学校の 4年生か5年生の頃、アメゴ釣りに行き、瀬で釣っていた。

その時、対岸から伸びている柳の枝が邪魔で、瀬を渡ってナイフで切った。すると、

「柳を切ったらいかん、いかん」

川の上を通る道路から、声が降ってきた。見ると近所のおじさん・大崎清道さんだった。

“いかん、いかん”というように手を左右に振り、そして川を指さして、“そこへ行く”というしぐさをして下りてくると、

「柳の下はアメゴが隠れる所じゃきに、切ったらここから逃げて、釣れんようになるぞ」

と言った。

「テグスが柳に掛かって切れるきに」

と、柳を切った理由を言うと、

「柳をよけて放ればええ。貸してみ」

と私の釣竿を取り、それを振って餌を飛ばした。テグスがするすると伸び、餌がみごとに柳を避けて水面に落ちた。驚く私に、

「練習して、練習して、そうして慣れていくしかない。そうせざったらテグスを切らすだけじゃ。こっちへ来てみ」

と言われ、広い河原へ連れていかれた。そこで清道さんは目立つ色の石を1つ拾い、10メートルほど先に置いて、

「あの石を、餌を放り込む場所じゃと思うて、色々の角度から放り込んでみ」

と言って帰りかけたが足をとめて振り返り、

「帰ったら庭に茶碗を置いて、それを狙うてやったらええ」

と言ってくれた。

家に帰るとすぐ、欠けた古茶碗を探した。そしてその日からすぐ、庭で茶碗を狙って、上から、斜めから、横から竿を振った。

もちろん最初からうまくゆくはずもなく、餌代りの重りは茶碗の右や左や向うや手前に落ちた。

それでも毎日やっているうちに、重りがカチンと音をたてて茶碗に入る回数がふえていった。その音がすると、独りで手を叩いて喜んだ。

この練習は高校の頃まで、折りにふれてやった。練習という堅苦しい感じのものではなく、趣味を生かした遊びだった。

ただ、清道さんに言われて庭でやった頃は、懸命に取り組んでいた。これは本当に真面目な練習であった。その結果、柳などに引っかけてテグスを切らすことも減っていった。戦時中、戦後の物資不足の折りだっただけに、釣り具の損失が減ったことは嬉しかった。

 

撮影協力:茶碗・藤田純子さん 釣り道具・近藤哲也さん お二人ともありがとうございました!

 

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機関銃

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小学生時代の、川や山での楽しい思い出とは別にただ1回、戦争を実感する恐ろしさに触れたことが忘れられない。このことは同級生たちと長い間、思い出話の種になっていた。

石原小学校の6年生だった昭和19年(1944)、太平洋戦争終戦の前年だった。

ある日、校長が教室にやってきて、次のように言った。
「兵隊が明日、運動場で機関銃の実弾射撃訓練をするという連絡があった。向かいの山へ向けて射つから、そのあたりへ行かんようにと、家の人に言うちょいてや。生徒みんなは運動場で見学じゃ」

機関銃の射撃は、読んだり聞いたり、映画で見たりしてはいたが、実際に見るのはみんな初めてであった。それだけに、貴重なものを見ることができるという楽しみも湧いた。

それは、当時の子供たちは「無敵帝国陸軍」とか「無敵連合艦隊」などの言葉や、「敵は幾万ありとても…」の歌などで、徹底した軍事思想教育を受けていたので、軍に関心を持つことが多かったからであろう。

いまは町営住宅があるが、当時は運動場だった。そこで射撃訓練が行われた。

当日、全校生徒が運動場に集合した。大人も何人か見に来ていた。

兵隊は10人ほどだった。機関銃を地面に据え付ける兵隊を見て、当時の軍国少年たちは、
「カッコええねや」
とささやいたりしていた。機関銃は2丁だった。

生徒たちは射手の背後に、遠く離れて集合させられた。

射撃は、向かいの新道(しんみち)と呼ばれる地域の山に向かって行われた。
「射てえっ」
指揮官の鋭い号令と共に、2丁の機関銃が火を吹いた。

銃声が強烈であった。連射する音は耳をつんざくだけではなく、腹にもひびくようだった。山峡にこだまがこだまを呼んだ。多くの生徒が耳を手で覆っていた。射撃は2分ほどで終わった。

射撃が始まるまでは、
「おらも大人になったら、機関銃射ちになる」
と言っていた軍国少年たちだったが、銃声がやんだあとは、
「あんな大きい、こわい音がする銃はよう射たん」
と、びびってしまって、うなずき合っていた。

翌20年(1945) 春に小学校を卒業し、旧制海南中学校(現小津高校)に入学した。ここでは郡部出身の同級生から、同じような射撃訓練の話をよく聞いた。

7月4日に高知市は大空襲を受け、焼け野が原となった。「高知県史」によると、死傷、行方不明者が計1112人。家屋の全半焼と全半壊が計1万2237戸という大きな被害が出た。

私たちは7月末に高岡郡能津村(現日高村)に学級疎開をし、そこで8月15日の終戦を迎え、高知市に帰った。

秋になると、進駐してきたアメリカ兵の姿を多く見るようになった。日本は負けたという実感に包まれたが、一方でもう戦争はないという安心感が、大人たちの言動にはっきりとあらわれはじめたことが、子供心にも読みとれた。

その年末、高知市へやってきた祖父から、
「どんな目的か知らんが、アメリカ兵の一部隊が石原へやってきて、すぐにどこかへ行った。その時、郷の峰の道路からジープが1台こけたが、兵隊は助かったそうじゃ」
ということを聞いて、嶺北の村までアメリカ兵が行くのか、と驚いたことだった。

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水車の幻想

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今は簡単に米が搗けるようになって姿を消したが、かつては山峡の村のあちこちに水車があった。それは生活に大変必要な役割を持っていた。

川のほとりの適当な場所に水車小屋を作り、近くの水を堰き止める。その堰を「車堰」といった。そこから小屋へ水路や樋で水を引き、小屋に付いた水車を回す。その水車の回転力が、小屋の中の杵を持ち上げて搗く。

水車は何戸かが共同で持ち、交代で使った。朝から翌朝まで使うのが普通だった。

小学生の頃から、祖母を手伝って、よく水車に行った。朝、玄米の入った米袋を、祖母の半分ぐらい背負って行き、夕方か翌朝、搗けた米を取りに行く。

時には夜になって、
「朝まで置いたら搗き過ぎるかもしれん。水路の水を半分ぐらいに減らしてきて」
と言われ、一人で提灯を持って水車小屋に行った。戦時中で懐中電灯などはなかった。提灯を持って一人で行くのが妙に楽しかったので、子どもが処理できる用件の時は、夜でも大体一人で行った。

提灯はろうそく一本の明かりだから、少し離れた場所は薄ぼんやりとしか見えない。

歩いて行く途中の岩や木などが、動物や人などに見えたりする。提灯を動かすと、それが微妙に変わるのが面白かった。その先は真っ暗だが、怖いとは思わなかった。

ある時は、歩く後ろの闇に青白く光るものが動いていた。動物の目だと思ったが、猪のように大きいものではなかった。

それが段々と近付いてきて、姿がぼんやりと見えるようになると、家からついてきた猫だった。淋しかったのか、私の足に身をすり寄せて鳴いた。抱き上げるとまた鳴いた。

水車小屋に入ると、ねずみの気配でも感じたのか元気に走り回ったが、ねずみは見えなかった。

蛍のシーズンには、提灯の灯を消してやると、幾つかの蛍が寄ってきて、目の前で舞ってくれた。

秋には、くつわ虫とすず虫がよく鳴いた。

くつわ虫は、提灯を近付けると一瞬鳴き止むが、またすぐに鳴いた。とまった葉をかすかに振動させて、ガチャガチャと賑やかに鳴いた。

くつわ虫と対照的なのが、すず虫である。

リーンと鳴く音はどこから来るのか判らず、提灯を突き出して探し回り、やっと石垣の中で鳴いているのを突き止めた。明かりが弱いので、姿は見えなかった。

そのため、ろうそくをはずして石垣に近付け、中を見るとすず虫がよく見えた。灯を逃げるように後ずさりしながらも、鳴き続けていた。限られた区画での幻想のようだった。

これよりも少し地味だが、こおろぎも鳴き続けていた。

冬には道端の雪が、提灯の明かりで薄黄色に変わったりした。

春にはふきのとうの影が、五重の塔みたいに見え、さらに提灯の位置をあちこち変えて、影が微妙に変化してゆくさまを楽しんだ。

このようにして水車への夜の行き帰りに、足をとめる楽しみが季節ごとにあった。

水車のきしむ音も、杵が米を搗くリズムのよい音も、山村での欠かせぬ生活音とでも言えるものだった。

それは相当な年数を経た今も、耳にこびりついている。

 

撮影協力:和田登美恵さん

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研ぐ

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家内の友人2人から、包丁を研いでほしいと頼まれたことがあった。4丁ずつだった。

それを研ぎながら、刃物研ぎを覚えた小学生の頃を懐かしく思い起こした。

農林業だから、当然身近に刃物が多くあった。包丁はもちろん、鎌、柄鎌、手斧、鉈、のみ、かんな、きりなどをはじめ、自分が遊びに使うナイフもである。それらの刃物を祖父が研いでいた。

小学校の3,4年生の頃から、研ぐことに興味を持ち、見様見真似で自分のナイフを研ぎはじめた。祖父は最初、

「手を切るきに、やめちょけ」

と言ったが、ナイフを取り上げたりはしなかった。そのため私は研ぎ続けたが、研げば研ぐほど、切れ味が悪くなった。

それを遠目に見ていた祖父がある日、私が研いでいたナイフを手に取って見ていて、

「こりゃあ、丸研ぎじゃきに、切れん」

と言った。そして、ナイフの刄に手の親指の腹を直角に当てて、

「こうして、ゆっくり引いてみ」

と言って指を引いた。言われたようにしてみると、指が抵抗感なしに刄の上をすべった。

次に祖父は、よく研いだ鎌を持ってきて、

「同じようにしてみ」

と言われたので、やってみると、

指が刄にざらざらと引っかかって、スムーズにすべらない。

「引っかかる」

と言うと、

「それが切れる刄じゃ。刄の角度を考えて研がんと、切れる刄にならん。よっしゃ、教えちゃる」

それから折りあるごとに、私の後ろに立って、砥石と刄の角度を注意してくれた。

研いでは親指の腹を当て、また研ぐ、ということをくり返した。そして木や竹を切ってみた。

半月もすると、指がざらざらと刄に引っかかるようになり、試し切りでもよく切れるようになった。

その間、何度か手を切った。砥石から刃がすべって切る。大した傷ではなかった。半年ぐらいで、手を切ることはなくなった。そうなるとナイフだけでなく、自分が細工物に使う鎌も研いだ。

その頃から、ちびた刃物で無理に切ろうとすると、刄がすべって危いということも判ってきた。

研ぐ刃物の種類は次第に拡がり、小学校5年の時に祖父から、

「山やら畑でみんな忙しいきに、みんなが使う刃物を全部研いでや」

と言われた。父は戦地に行って、家族は祖父母と母だった。その3人が使った各種の刃物を、夕方仕事から帰るのを待って研ぎ、残ったのは翌朝研いだ。

砥石も荒砥、中砥、仕上砥を使い分け、6年生の頃には、祖父が使う剃刀も研いだ。

自分が研いだ鎌や手斧や鉈などを、みんなが気持ちよく使っているだろうと思うと、学校へ歩く気分も軽かった。

 

*撮影協力:高橋通世さん(上津川)

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山の音や声

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山村育ちの友人たちと話している時、よく出る話題は、山の村ならではの音や、鳥や虫の声などのことである。

まず春。
庭の池の氷が割れる音を聞けば、厳しい冬も終わりに近いと、気分が先へ開ける。
そして陽射しが暖かくなると、あの家この家から、冬の間に凍った畑の土を掘り返す鍬の音が聞こえてくる。
晩春には鶯の声を聞いて、頭の中でも体感でも春が定着してくる。

夏の夜、忘れ得ぬのは唐黍の葉ずれの音である。風の強い時はすごいほどだった。
殆どの家で唐黍を植えていたが、その葉が伸びてくると、風に揺られてこすれ合い、交響曲となる。風につれて、遠くの家の畑から段々と近寄り、我家の畑で踊るように音をたて、次第に遠ざかる。暗闇の中だけに、怖い思いがするくらいだった。

秋はなんと言っても脱穀の音である。別の機会にも書いたが、爽やかな秋空の下での収穫賛美歌とでも言えるものだった。
もちろん、すず虫、くつわ虫の鳴き声も、秋の夜の主役である。その主役の音にまじってこおろぎが“俺も居るぜ”とばかりに存在を主張していた。

そして冬。
最近は雪が余り積もらないが、私の子どもの頃は、30センチの積雪は珍しくなかった。そんな日はよく、「尺は積もったのう」という会話が交わされた。
雪が生み出す音も今は懐かしい。家を守る家囲いの木の枝が、雪の重みで折れる鋭い音や、屋根に積もった雪がどさっと落ちる重苦しい音も、まだ耳に残っている。

年中通して聞こえたのはー。
これも別記したが、や湧き水から引いていた懸樋の水の音である。
炊事場の水桶や池に日夜落ちる水音は、生活の伴奏曲とでも言えるものだった。

水といえば渓流の瀬音である。特に夜はその音が家にまで届いていた。高知市から来た客などは眠りをさまたげられていた。その渓流で回る水車のギーッという音は、村の人々の食生活を支えていた。夜は風向きによっては、米を搗く杵のトントンという音も、やさしいリズムを伴って届いてきた。

朝の目ざまし時計代りの役割を担っていたのは、家々から聞こえる鶏の声である。どの家かの“一番鷄”が鳴けば、次は家という家から一斉に鳴き声が湧いた。それで目をさますのは人間だけでなく、なぜか牛が鳴いた。鶏ほどではないが、次々と鳴き声が拡がってゆく朝もあった。

地球温暖化で、色んな面での変化、変動が言われる。それに伴って、「あの頃は、こうだった」という思いが、さまざまな面で浮かんでくる。

 

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傷あと

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一つの傷あとを見るたびに、もう70年以上も前のことが鮮明に浮かんでくる。

小学校6年生だった昭和19年(1944)の夏休みのある日。金突鉄砲を持って、川へアメゴを突きに行った。

走って行く途中の道路で転び、硝子の破片で、左の手の平の、親指の付け根あたりを切った。驚くほど血が出たので、右手でそこを押さえながら、一時は茫然としていた。

少し痛みと出血がおさまって川へ行き、傷を洗ってみると、思ったより深い。そのうちふと思い出し、いつもしているようによもぎの葉を摘んだ。それを右手だけで揉んで、汁を傷につけると、飛び上がるように痛かったが、血が殆ど止まった。

それを見ていて頭をよぎった思いは、家族はもちろん、近所の大人がこの傷を見たら、必ず医者へ連れて行かれ、医者は縫うだろうということであった。

そうなれば、治るまでは川に行くことを間違いなく止められる。それはいやだ。しかし、この傷ではやはり医者だろうか。一生懸命に“打開策”を考えた。その結果、金突鉄砲などの道具をひっ掴んで、家に駈け戻った。

祖父母と母は山仕事に行って、家には居ない。

早速、富山の置き薬の中から消毒薬を取り出して、傷口にかけた。血は出ていなかったが、川に居た時よりも開いていた。

そして縫針に木綿糸を通して、傷口を縫った。それまでにけがをして、村の医者に縫ってもらった時のことを思い出しながらであったが、当然そう簡単にいくものではない。

第一、生身に針を刺すのだから、痛さで涙が出た。それでも右手と口を使って糸を結びながら、5針縫った。縫ったあとは、妙に痛みがやわらいだことを覚えている。

包帯をすればばれるので、富山の貼り薬を傷にかぶせ、家では左手を握って、傷が見えないように細心の注意を払った。川にも時々行った。長時間水につけるのは避けた。

10日か半月ぐらいで、傷は治った。その間、誰にもばれなかった。

しっかりと肉が締め付けている木綿糸を抜く時は痛かった。はさみで糸を切り、それをピンセットで引き抜いた。痛みと共に血が出たが、大したことはなかった。

今、左の手の平の傷あとを見ると、その左右に、虫の足のように短い傷あとが出ている。それが縫ったあとである。70年以上の年数を経て消えそうなものだが、よほど不器用に縫ったのだろう。不器用なのは当然である。

生傷で川に入って、よく化膿しなかったものだと思う。その一方で、当時の川の水は、生傷にばい菌が入らないくらいにきれいだったろうか、とも思う。

その翌年、旧制の中学校に入学したが、同級生の中に

「俺も切り傷を自分で縫うたよ」

と言う友人が2人居た。

 

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風を切る鎌

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台風のたびに、一つの風景を思い出す。

猛烈な風が吹く山村の家の門か庭で、一本の竹竿が立てられていた。その竿の先に結び付けられているのは鎌である。

私の子どもの頃は、今のように観測技術が進んでいない時代だから、風と雨が強くなって「時化じゃ」と慌てて、防衛に走り回ったものであった。

色んな対策の中で、鮮明に覚えていることが一つ。鎌を結びつけた竹竿が門先に立てられたことである。

父は出征で居なかったので、祖父が立てたり、叔父が立てたりした。叔父は分家して近くに居たので、主に叔父が立てた。

どうしてこんなことをするのだろう、ということは、民話的な発想から子ども心にも推察できた。台風の風を切り裂いて、やっつけようということだろうと。

叔父に聞くと、

「放っちょいたら風が大悪さをするきに、鎌で切り刻んでやって、弱らそうとするがよね。いつ頃からこんなことをしよるか知らんが」

という答えであった。やっぱりそうか、と思った。

山の村の台風は、山を真っ白にする。

木の葉の多くが裏を返して、白い塊となる。それが風の通過と共に、山を走り過ぎる。

それと共に、雨が何本もの柱となって、連なって吹き流されてゆく。

この雨の柱を「槍担ぎ(やりかたぎ)」と呼んでいた。たしかに槍を担いだ兵の集団が、無数に駆けているようであった。

そんな中で、鎌を付けた竹竿は滅茶苦茶に揺れた。鎌は踊り狂うようにして、風を切りまくっているようだと子ども心に思った。

しかし、竹竿が折れることもあった。そんな時は叔父を手伝って、強風によろめき、ずぶ濡れになって、竿を立て替えた。

時には雷を伴っていたこともあった。そんな中での作業だった。

今思うと、雷鳴と稲光りの中でずぶ濡れで動いていたことは、ぞっとするほどの無謀な行為である。しかし叔父も怖がる様子はなく、必死に竿を立て替えた。鎌が風を切り裂くように、雷をも切ってくれると見ていたのかもしれない。

あとでは、「よく雷に打たれざったよ」と、叔父と話したことだった。

鎌を立てる風習は時代と共に減り、いつのまにか消えた。

しかし今でも、山の家の門先で、台風を切り裂く鎌が立っていたことは、よく似合う風景だったという思いが残っている。

 

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富山の薬売り

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少年時代の思い出の中で、いまはもう見なくなったなあと、妙に懐かしさを覚えるのが“富山の薬売り”である。
「越中富山の薬売り…」と歌にまでなっていて、その姿はまさに山里に欠かせぬ点景でもあった。
たしかに、大きな荷物を背負い、年に一度か二度、富山からやってくる薬売りさんは、どの家ともなじんで、親戚の人が来るような感じだった。
各家に置いてある薬を補充し、服用した分の精算がすむと、出された茶を飲みながら、しばらく話した。全国各地を回っている人なので、その話は結構な耳学問になった。

 

小学生の頃までは、時々富山のおもちゃなどを土産にもらったので、その人が来るのを心待ちにするようになっていた。まだ戦時中であった。
薬売りさんは西石原の旅館に何日も泊まって、薬を置いてある家を回る。そのため家で会うだけでなく、小学校に行く途中や帰る途中に会うと、しばらく同じ方向へ一緒に歩くこともよくあった。そんな時には富山の色んなことを聞いた。

驚いたのは雪のすごさであった。道ばたにある杉の木に近寄り、目の高さぐらいの所に手を当てて、「富山では、これぐらい積もるのは珍しゅうないからね」と、笑顔で言ってくれた。

楽しかった思い出の一つに、アメゴ釣りの時のことがある。
一人で釣りに行って、夢中で瀬を見詰めながら餌を流していると、水面に人影のようなものが映った。
見上げると、薬売りさんが橋の欄干から身を乗り出すようにして、私を見ていた。太陽を背負う位置だったので、影が水面に落ちていたのだ。
私が挨拶代わりに手を上げると、薬売りさんは水面を指さして、そこに行く、というしぐさをし、渓流に下りてきた。そして、「ちょっとやらせて」と言って、私の釣竿を操りながら、富山で子どもの頃から釣ってきたと、楽しそうに話してくれた。

アメゴは釣れなかったが、薬売りさんの目の輝きはまだはっきりと記憶の中にある。

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