山峡のおぼろ

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ドジョウ

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山村の変りようが激しい。人が居らぬ家は家囲いの杉垣が伸び放題で、家をすっぽり包み隠している。柿や柚子は木で熟れ朽ちていて、その実の色が何とも物悲しい。

田も畑も、雑草はもちろん、雑木が生い茂って、今は林である。米や野菜を作っていた田畑で、イタドリを採るようになっている。

元は田んぼであった雑木地でイタドリを採りながら、不意にドジョウのことが思い浮かんできた。子供の頃、稲を植える前のこの田で、ドジョウをとったのである。とるというより、掘り出したというのが正しい。

田植えに備えて水を溜めた田の泥の中に、ドジョウが居たのである。それも川から遥かに上った山田である。

稲が生長すると田の水を落とす。そして稲刈りを迎え、そのあとは全く水がなく、土が固まっている。そんな中でどう生き延びたか知らないが、翌年田植え時に水を溜めると、土が軟かくなった泥の中に、ドジョウが姿を現わすのである。

当時の山村の子の遊びの主なものは、渓流の魚釣りと、山での小鳥とりであった。それに田でのドジョウとりも加わっていた。田植え前の土が軟かい時は、ドジョウもよくとった。

これは釣るのではなく、手で掴まえるのである。

ドジョウは泥の中に隠れている。ところがその居場所は、すぐ判る。泥の表面に空気孔とでもいえる小さな穴をあけていて、その下に居るのである。

穴を見つけると、その両脇に両手を突っ込み、一気に泥を掘り起こす。そして、隠れ場所から掘り出されたドジョウが、身体をくねらせてピンピン跳ね回るのを掴まえる。1時間に20や30は掴まえた。

泥の中に居たので、3,4日から1週間ほど、真水に入れて泥を吐かせた。

祖母がよくドジョウ鍋にしたが、結構な味だったという記憶がある。魚が極端に不足していた戦時下の山村だけに、余計にそう感じたのかもしれない。

煮るだけではなく、アメゴやイダなどから思いついて、炭火で塩焼きにもしてみた。よく焼くと、頭から骨まで食べることが出来、新しい調理法を思いついたと、嬉しくなったことであった。

そのドジョウも戦後しばらくして、農薬が普及してくると、1,2年ほどで姿を消した。

イモリも居なくなった。田に水を引き込む溝などによく居たが、背が黒く腹が赤くて、余り気持のいいものではなかった。

ドジョウを掘り出した田にはいま、雑草や背丈より高い雑木が茂っている。全く様変りした田だが、その底には、さまざまの思い出が埋まっている。

掴んだドジョウの跳ねた感触は、まだ掌にある。

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濁り網

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山育ちで同年配の人と話す時、多く出る思い出は、渓流での楽しみである。

竹の釣り竿や金突鉄砲などを、自分なりに工夫改善して作った苦労話などは、みんなに共通している。

大雨で増水した濁流を恨めしげに眺め、早く水が引いて澄んでほしいと、祈るような気持ちになった時、窮余の策としてとった方法も、

「やった、やった。俺もやった」

と、うなずく者が多い。その方法はー。

 

大増水すると、魚が濁流の中で浅い所へ散らばっているのではないかと思ったのである。そこで、長い柄を付けたすくい網を持って、渓流へ走った。

日頃はそこを歩いている河原も、濁流に沈んでいる。危なくて入ることは出来ない。

まずは安全な岸を歩いて激流を見ながら、ここと思う所を探す。

激流が河原を覆っているが、岸の近くになると流れが幾分ゆるくなり、地形によっては水がゆっくり回っている。そういう場所を狙った。激流に耐え兼ねた魚が、そこに逃げ込んでくるのでは、と思った。

そして岸に立って、濁り水を網ですくう。所かまわずすくうのである。

空振りをすることが多かったが、時には思わず複数の魚が入ってきた。濁って水中が見えないことが、却って期待感を増した。

とれる魚はさまざまであった。モツゴが一番多く、次いでハエ、イダ、ゴリで、アメゴも案外とれた。時にはウナギが入ることもあり、網の中で暴れ回るのを魚篭に入れるのに難儀した。

最初から意外に効果が上ったので、それからも濁流の時の恒例になった。

魚が多くとれる場所は、その時の濁りぐあいや水量などによって、そのつど違っていた。それを探すのが最初の仕事だが、次つぎと網を入れて回り、大当りした時は、空に向かって叫びたいような気分になった。

当然のことながら何度も行っているうちに、水量と濁りによって魚の集まる場所が、大体判ってくる。そこを自分の秘密の拠点にして、誰にも言わず真っ先にそこに行った。

そこが当る時も外れる時もあったが、当れば嬉しいし、外れても他を探す期待感の方が大きかった。

もちろん、澄んだ渓流での各種の魚とりが楽しいが、濁流から上げた網の中で跳ねる魚の姿も、まだ目に浮かぶ。

 

 

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終りに当たって「婉なる哉故山…」

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「山峡のおぼろ」の執筆を依頼され、引き受けた時、何を書こうかということが、具体的には即座に浮かんでこなかった。

思い浮かぶことは多々あったが、何にしぼり込むかということで2,3日迷っていた。

そんな折り、壁に掛かっている司馬遼太郎さんの色紙を見た時、ふとひらめいたことがあった。

産経新聞大阪本社で、司馬さんの「竜馬がゆく」の連載を担当し、次の「坂の上の雲」の連載を担当していた時、父が西石原の山で脊髄を痛める大怪我をし、これによって産経を退職して高知に帰った。

その時、餞別として司馬さんから色紙を頂いた。それには、
「婉なる哉故山 独座して宇宙を談ず 為窪内隆起君 司馬遼太郎」
と書かれている。これを見ていると、頂いた時の司馬さんの、
「大阪と違うて、土佐の山河はきれいやろ。そんな中で育った自分に返って、ゆっくり各種の思いに浸ったらええよ、という気持ちで書いたんよ」
という言葉が頭に甦ってきた。

小学校3年の時の昭和16年(1941)に太平洋戦争が始まり、中学校1年の昭和20年(1945)に敗戦となった。その間、色んな物が不足し、不便となり、敗戦の頃は物資不足のどん底であった。

殆どの家の青年、壮年の男は軍隊に入り、村人は老人、女性、子供が多かった。

子供でも小学校の高学年になると、農作業の手伝いなどをした。

その一方で、子供だから色々の遊びもした。テレビもない時代であり、外で遊ぶしかなかった。当然、山や川で過ごすことが多かった。

色紙を頂いた時の司馬さんの言葉が甦った時、戦中、戦後の苦しい時代の、子供たちのことを書こうと決めた。これも1つの時代の史実になるだろうという気になった。そして書いたのが、この40本の話である。

人それぞれに体験があるだろうが、自分としての“あの頃”を、思い出すままにまとめてみた。

余談だが、司馬さんの色紙には、懐かしいエピソードがある。

「婉なる哉」の「哉」の「ノ」が抜けているのに気付いたので後日、書き加えて頂くようお願いした。すると、
「君が退職と聞いて、気が動転してたんやろな。これもその時の正直な気持ちやろから、そのままにしとこうや」
と、笑いながら言われた。いかにも司馬さんらしい、思いやりに満ちた言葉である。

「山峡のおぼろ」は、司馬さんの色紙の言葉に後押しされて書き進むことができた、という思いが強い。

前述のように当時は、働き盛りの男性は軍に入っていたので、山や川での遊びや、その他色々のことを教えてくれたのは、村のじいちゃん、ばあちゃんたちだった。

思い出の中に、そういう人たちが多く浮かんできた。

書くに当たり、折りにふれて上手にすすめて頂いた担当の石川拓也さん、鳥山百合子さんに、心からお礼を申し上げたい。

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継ぎ竿

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山村の子にとって、竹は遊び道具作りに欠かせない材料であった。突き鉄砲、竹とんぼ、竹馬、釣竿など、人それぞれの思い出の中に残るものである。

私もそうであった。まず作ったのは多くの子と同じように、突き鉄砲だった。

銃身となる竹筒に、紙を濡らして丸めたものや、草の実を弾丸として詰め、それを小さな竹で押して、空気の圧力で飛ばす。

的となる目標物を置き、それをめがけて射って、命中率を競ったりしたことだった。

広辞苑では「紙鉄砲」とあるが、自分たちは「突き鉄砲」だった。大抵の子がこれを作っていた。

そのあと私がのめり込んだのは、釣竿作りであった。小学校に入る前から渓流釣りを始め、まずモツゴ釣り、ついでアメゴ釣りとなっていったことは、これまでも別の機会に何度か記した。その釣竿は自分で作った。

今のように強化プラスチック製の釣竿などはもちろん無く、釣具店で売っている竿もすべて竹製であった。村には釣竿を売る店がないので、自分で作るしかなかった。

渓流釣りの入門編とも言えるモツゴ釣りには、ニガタケで竿を作った。この竹は子供がよく利用する笹竹で、広辞苑にはメダケ、カワタケ、オナゴタケ、アキタケ、シノダケ、シノベダケなどの異名があるが、村ではみんな「ニガタケ」と呼んでいた。

この竹を何本か切り、自分の手に合う太さと、力に合う長さ、重さのものを選んで釣竿にした。

木の枝が水面上に伸びたりしている所では、それに引っ掛ってテグスが切れることがあるので、広い所を選んでモツゴを釣った。

モツゴ釣りを卒業してアメゴを釣り始めると、竿に気を使わねばならなくなった。

アメゴの場合は、木の枝などの障害物がある瀬などで釣ることが多い。そんな場合にはモツゴ釣りの1本竿では長すぎる。

川だけではなく、川へ行く途中でも、長い竿は不適当と思うようになった。

モツゴの場合は、道路から川へ下りる道を通って行き、広い楽な場所で釣る。

しかしアメゴは、よいポイントに早く行きたいため、道がなくても道路から薮をくぐって、そのポイントに行くこともある。そんな時には長い竿が邪魔になって歩きにくい。

ポイントでは前述のように、障害物があると、長い竿では使いにくい。

そこで考えたのが、大人たちが使っている継ぎ竿であった。これなら邪魔な障害物があっても、竿を短かく縮めて釣れる。薮をくぐる時もそうすれば楽である。

そう思ってまず、2本継ぎの竿を作った。これは割合楽に出来た。

ニガタケを適当な長さに何本か切り、太い方を元にする。それにはまる竹を選んで穂先にした。場所によってはそれをはずして、半分の長さにして釣ればいい。薮をくぐる時も楽になった。

そのうちに同じやり方で、3本継ぎを作った。元になる竹はシチクを使うこともあったが、思考錯誤しながら作るのは、苦労というよりも楽しみが大きかった。

竹は真っ直ぐのように見えるが、意外に曲った部分がある。曲ったままでは釣竿として使いにくいので、そこを矯め直して作った。曲りを直すのは、余り難しくはなかった。

これは釣りをする大人から、

「青竹のうちに、火であぶって直せ。竹が枯れてからやったら、焼けてしまうきに」

と言われ、実地に習った。

青竹を炎であぶると、簡単に曲りが直せる。思うように矯め直して、そこに水をかけて冷やすと、元に戻らず、真っ直ぐになる。楽に出来た。

今は強化プラスチックの釣竿を使っているが、“あの頃”の思い出は消えることがない。

 

 

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釣りと鍬

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西石原の我家の、川をはさんだ向いを北向(きたのむかい)と呼んでいる。

そこに寺坂庄吉さんというじいさんが居た。うなぎのひご釣りの名人であった。

父もひご釣りをしたが、習おうとすると、

「庄吉じいが名人じゃきに、ついて行ったらええ」

と言われ、じいさんに頼むと、

「そんならついて来いや」

と、気軽に引き受けてくれた。もう70年以上も前の、自分が小学生の時だった。

何回目かの時、自分で竹を削ってひごを作り、釣針をつけて持って行った。

川へ着くとすぐ、じいさんが、

「針へみみずをつけて、その岩でやってみや」

と、一つの岩を指さした。子供心に、うなぎが居そうにもない岩だと思えた。そう思って、じっと岩を見ていると、

「岩の下のここから、この方向に差してみい」

と言われたので、ひごを差しこんだ。2メートルほどのひごが、半分ほど入った。その時、ぐいっと強い引き込みがあった。

「そうれ、うなぎが食いついたじゃろ」

庄吉じいさんが言うより早く、私は力まかせにひごを引いた。ずしんとした重みが感じられ、途端に動悸が激しくなった。同時にひごの手応えが、すっと消えた。

「無茶に引っ張ったきに、はずれたんよ」

じいさんは、食いついた相手の動きに合わせてゆっくり引き出し、最後に確実に掴むやり方を、身振り手振りをまじえて教えてくれた。そのあと、

「そのへんでやってみいや。わしはちょっと帰ってくる」

と言って、川から立ち去り、しばらくして鍬をかついで帰ってきた。

「道路から川へ下りるあの道が、こないだの大雨でずたずたに崩れちょる。川へ来る人が転んで大怪我をしたらいかんきに」

そう言って、薮の中の崩れた道を直しはじめた。相当時間がかかりそうであった。

その姿を見ながら、さっき聞いた釣りのコツを思い出し、思い出しながらやってみたが、全くうなぎの手応えはなかった。

じいさんのところへ何度か聞きに行こうと思ったが、向こう鉢巻で汗だくになって、一生懸命に鍬を振るっている姿を見ると、声をかけるのがはばかられた。

その間幾つかの岩にひごを差し入れたが、全然駄目だった。

ほぼ1時間ほどして、じいさんが川へ下りてきた。

「うなぎが食いついたかや」

と聞かれたので、

「あれからあと、ひとつも行き当らん」

と言うと、

「またいつでも教えてやるきに。まあさっき言うたように、しばらくやってみい」

と笑顔で言い、うまそうに煙草を吸った。

じいさんのうなぎ釣りの妙技は、それから後もしょっちゅう見た。

今は亡き庄吉じいさんを思うたびに、釣りの名人技はもちろんのことだが、川へ来る人たちの安全のため、道直しに大汗をかいていた姿が鮮やかに浮かんでくる。

撮影協力:筒井良一郎さん

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コツを身につけよ

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旧地蔵寺村の村長だった田岡幸六さんに、渓流で色々教わったことが、今でも忘れられない。

幸六さんは、うなぎのひご釣りの達人と言われていた。私は小学生の頃から、日曜日には川へ走って、その名人芸をしばしば見た。

父もひご釣りをしていたので、私もそれにならってひご釣りを始めたが、一向にうまくならず、アメゴ釣りに熱中した。

幸六さんは、アメゴ釣りでも達人であった。父はアメゴ釣りはしなかったので、幸六さんについて行くことが多かった。自由自在に振る竿さばきを懸命に見ながら、その技を真似した。

忘れられないのは、一緒にアメゴ釣りをした、ある日のことである。私は中学生だった。

幸六さんは何尾か釣ってから、

「今日はこれで終了」

と言って竿を納めた。いつもならそれで帰るのだが、その日は釣り続ける私のあとをずっとついてきた。

その間に私は何尾か釣り、一つの渕で1尾釣り上げた時、幸六さんから、

「今日はそれで納めにせえや」

と声がかかった。

「今日はまだ釣れそうなきに、もうちょっとやってみる」

と答えると、

「まあ聞けや」

幸六さんはそこの岩に腰を下ろして、煙管で煙草を吸いながら、

「よう思い出してみいや。いまのアメゴ、ここなら釣れるという自信があったろう。それまでの釣り方を見よると、何となく餌を流してみたら、たまたまアメゴがそこに居ったきに食いついた、そのように見えた。けんど、いまのは最初から自信満々で、アメゴの居る流れへ餌を振り込んだ。それがアメゴ釣りのコツというもんよ。そう思わんかや」

アメゴ釣りは小学校に入る前からやってきたが、それを聞いて自然にうなずくような気分になった。幸六さんの言葉は続いた。

「そんな時はすぐに切り上げて、釣れたそのコツを一生懸命に思い出して、しっかり身につけておくことよ。そうせざったら、またええ加減な釣り方に戻ってしまうもんじゃ。そのため、めったにない会心の釣りが出来たその時はさっさと納めて、そのコツを噛みしめたらええ。まあ今日は、わしの言うことを聞いちょき」

その言葉は薄れるどころか、年齢と共に、自分の中で定着してきたような気がする。

幸六さんの思い出で、もう一つ忘れられないのは、川で一緒に、硝子の破片拾いをさせられたことである。

河原で硝子瓶などが割れて散っているのを見るとすぐに釣りをやめ、二人でどんな小さな破片でも拾って、安全な場所へ捨てた。水中にある破片も、箱瓶を使って丹念に捜し、拾い上げた。

「川は、はだしで入る人が多いきに、こんな破片を踏んだら大ごとじゃ。自分も、こわいと思うろうがよ」

この言葉を何度も聞いた。

 

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奇縁・奇遇

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今は空気銃も免許制だが、私の子供の頃は皆、自由に使っていた。

小学校の高学年になると、戦地へ行った父が置いていった空気銃を持って、山で小鳥を追った。

空気銃にからむ1つの思い出がある。

山で、小鳥が居ないので木に残っている熟柿を射って遊んでいると、背後から、

「空へ弾丸が抜けるようにせにゃいかんぞね」

と声がかかった。振り返ると、地下足袋、巻脚絆姿で、肩に猟銃を掛けた見知らぬ中年の人だった。そして、向うの方を指差しながら、

「向うに畑があるろう。人が居ったらおおごとになるぞね。柿を射つならもっと真下へ行って、空へ抜かにゃいかん」

穏やかな言い方であった。そして背中のリュックから取り出した“ほしか餅”を渡してくれ、にっこり笑って山の奥に行った。

その言葉は、子供心にもじわりとしみ込んだ。それからは熟柿はもちろん、小鳥を射つ時も、獲物の向うを必ず見極めるようにした。

帰って、その人の年恰好を祖父に話すと、

「時々山で見かけるが、知らん人じゃ」

と言った。

 

終戦の昭和20年(1945)に私は旧制海南中学校に入り、高知市に下宿した。

戦災が徐々に復興し、中学校野球も復活して、旧制城東中学校の前田祐吉投手が、名投手の名をとどろかせた。

前田投手の投げるのを見に、高知市営球場に行った時、山でのあの人と会った。3年ぶりぐらいだった。

その人は私が中学校に入っていることを喜んでくれ、アイスケーキを買ってくれて、山での“あの時”の思い出も話した。

 

その後私は高校、大学を経て昭和30年(1955)に産経新聞大阪本社に入社し、35年(1960)に、社会部から北陸の福井支局に転勤した。その福井支局当時のことである。

福井に於ける大きな取材源である曹洞宗大本山永平寺へ取材に行った時のこと。

小さな谷川沿いの参道を上ってくる観光客を狙って撮影した。

人の列が過ぎ去ってカメラから目を離した時、のんびりと周辺の写真を撮りながら上ってくる人が居た。

近付いて目が合った瞬間、双方とも相手の顔を見詰めて立ち止まった。相手は60歳ぐらいの人だった。

その人が先に口を切った。

「間違っていたらごめんなさい。むかし高知の山で、空気銃を持っていた子供さんじゃありませんか」

瞬間、脳裡に石原の山、高知市営球場と、15年以上も前のことが甦ってきた。

初めて会った山では“ほしか餅”を貰い、2度目に会った野球場ではアイスケーキを買ってもらった。

その時の情景を思い浮かべながら、3度目に会ったこの時は私の方から永平寺門前の店に誘い、越前料理を食べてもらった。

その人は戦時中、肺浸潤が治ったばかりで、体力回復のために、あちこちの山野を歩き回っていた、ということであった。

谷川のせせらぎが聞こえる老杉下の店で1時間ほど、思い出を遡らせながら話し合った。

そのあと、その人は東尋坊観光に行った。

思い出話に熱中して、相手の名を聞く気が回らなかったのであろうか。或いは3度会って話もしているので、相手の名を知っているような錯覚をしていたのであろうか。

その人の名は今も知らない。

 

 

撮影協力:高橋通世さん

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怖かったなあ

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◯小学生の時の夏、アメゴを突きに渓流に行った。

目的の渕へ、藪をくぐって下りていると、右足にひんやりしたものが触れた。半ズボンだったので、足はむき出しである。露で濡れた草がからみついたのかと思い、足元を見て、ぞっとした。身がすくんだ。

青大将が足に巻きついていた。私の足が頭を踏みつけていたため、尻尾の方から足に巻きついたのであった。

巻きついた部分が微妙にじりじりと締まるようなので、夢中で右足を振った。頭を踏まれていた重しがとれたので、青大将はするすると身をくねらせて、あっというまにしばりをほどき、藪の中に入って行った。

あの冷い感触は、しばらく右足に残った。

 

◯あまり得意ではなかったが、ひご釣りでうなぎを釣った時のこと。

竹ひごとうなぎを左右の手で引き合って、うなぎがはずれないようにし、魚篭を置いてある方へ歩いた。その途中の岩の上でうなぎが暴れて釣針がはずれ、手から落ちた。

慌ててうなぎを押さえたが、目の前に動く物が見え、それを確かめた時、恐怖が身体に走り、飛び退った。うなぎは手から岩の上に落ち、くねりながら水中に落ちて逃げたが、それはもうどうでもよかった。

岩の上に居たのは蝮であった。渓流の岩の上に時々居る。みんな「ハメ」と言っていた。

ハメは私に驚かされて怒ったのか、三角型の鎌首をもたげていた。

「ハメを見たら、へたに近寄らずに、長い棒ででも必ず殺しちょき。人が食われたら大ごとじゃきに」

祖父や大人たちからいつも言われていて、それまでも何度かハメをやっつけたことがあった。

この時も長く太い流木を使って、ハメを処分した。

 

◯アメゴを釣る時、青蛙の子を時々餌にした。今の養殖放流アメゴとは違って、当時の天然アメゴは、青蛙の子によく食いついた。

その日、岸近くに伸びている柳の葉の下の流れに、その餌を投げ込んだ。こういう葉陰の瀬で、よくアメゴが釣れた。ところがー。

岸から長いものが、青蛙めがけて伸びてきた。青大将であった。大慌てで釣竿をしゃくり上げ、青蛙と逃れさせようとした。が、その前に青大将が食いついた。

力まかせに釣竿を上げようとしていたところだったので、釣針が青大将の口にがっちりと掛った。勢いで青大将の上半身が水面上に一旦引き上げられたが、頭を激しく振りながら、また水の中に落ちた。こんどは釣竿が強い力で引き込まれ、折れそうに大きく撓んだ。

私も驚いたが、青大将の方もそれ以上に驚いたに違いない。猛烈に暴れ、これでは釣竿が折れる、と思った。

なんとか手元に引き寄せて首を押えれば、釣竿ははずせるだろうが、もしかして手を噛まれるかもしれない。腕に巻きつかれるのもいやだ、と思った。

そこで四苦八苦して、ゆっくりゆっくり釣竿を縮めてテグスをつかみ、はさみを取り出して切った。

青大将は釣針が口に刺さったまま、柳の葉の下に消えた。

 

撮影協力 細見優太

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夜網

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カーバイドランプ

私は少年時代、渓流で楽しむことが多かったが、父も渓流が好きであった。

夏には潜ってアメゴ突きもしていたが、50歳頃以降はもっぱらウナギのひご釣りであった。

竹を割って2メートル近い細ひごにし、その先端に釣針を付け、太いみみずを餌にして釣るのである。

ウナギの潜んでいそうな岩の下にひごを差し入れ、食いつくとひごをたぐり寄せ、岩から出てきたウナギを水中でつかむ。右手にひご、左手にウナギをつかんで、釣針がはずれないように引っぱり合う。

その恰好で父は、河原に置いてある魚籠の方へ、笑顔で何度もうなずきながら、小走りで行っていた。

私も何回となくひご釣りをやったが、どうしても成果が上がらず、結局諦めた。

私が中学生の頃、父が投網を買った。そして何日も庭で練習をして、渓流に行った。

私も網を投げる練習をしたが、なかなかうまく拡がらなかった。時には網の裾に付いている鉛のおもりが額に当って血を出したりして、諦めた。

父が投網を打ちに行くのは昼間だったが、私が高校生の時の夏休みに、夜打ちに行ってみたいと言いはじめた。明かりを持つ人が必要なので、私がついて行った。

まだ戦後の物資不足の頃だったので、懐中電灯は手に入らなかった。ちょうちんか石油ランプしかなかった。

しかし、ちょうちんのろうそくは明かりが弱く、石油ランプでは硝子カバーを岩に当てて、割れてしまうおそれがある。

迷っている時、夜打ちの経験者が、

「カーバイドがええ」

と教えてくれた。カーバイドは炭化カルシウムで、これに水を加えるとアセチレンガスが発生し、火をつけると燃えて明かりになる、と聞いた。

幸いその照明用器具も手に入り、それを持って、何度も渓流に行った。

夕食を終えてから行くので、帰りは真夜中になる。しかし楽しく、面白かった。

カーバイドの灯はランプより明るい。私がそれを差し出して水面を照らし、そこへ父が網を打つ。

明かりが届く僅かの範囲外は真っ暗である。網が水面に落ちる音と、瀬の流れと、水が渕に落ちる音以外は静かである。カーバイドの燃える匂いが2人を包んでいた。

両岸は森林で、その枝が渓流に覆いかぶさって、時々風でざわつく。その中で網を打つ父の動きが、大岩に影絵となって映る。まるで巨大な怪物が踊っているようであった。

そんな幻想的な雰囲気の中で、私は父のたぐり寄せる網から、アメゴやイダなど、時にはウナギまで拾い集めた。アメゴもウナギも岩から出て、夜遊びをしていたのか、とも思った。

暗闇の中だっただけに、思い出も遠い夢のようだ。

 

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防空壕

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昭和20年(1945)の春、石原の小学校を出て、旧制の海南中学校に入学した。

高知市の西町に家を借りて、母と2人で住んだ。父は戦地に居り、石原の実家には祖父母が居た。

太平洋戦争が悪化の一途を辿っていることは、食糧や各種物資の不足などから、ひしひしと感じられた。小中学生の疎開も始まっていた。

一番心配なのは空襲であった。各地への空襲のニュースを聞くたびに、「高知市はいつやられるろうねえ」ということが日常的な会話になっていた。

空襲が気になるのか、春の終わり頃に祖父が馬車曳きさんを雇って1人で、防空壕掘りにやってきた。馬が曳く荷車に鍬やスコップ、鋸や手斧、金槌などの道具と、木材、板などを載せ、自分もその上に乗って来た。当時60歳過ぎだった。

家主さんの了解を貰って翌日から、庭で祖父の防空壕掘りが始まった。朝から晩まで、食後の休憩もとらずに続けた。昼食後に母が、

「ひと休みしたら」

と言っても、

「明日にでも、いや今晩にでも空襲があるかもしれんきに」

向う鉢巻で作業に熱中していた。

私も日曜日はもちろん、ほかの日も学校から帰るとすぐ、自分に出来る手伝いをした。

まず胸のあたりまでの深さの、5,6人は入れる長方形の堀が出来た。堀の内側には板で壁を作り、一辺には階段がついて板が敷かれた。

天井になる部分には厚い板をかぶせ、掘り積んでいた土をその上に盛り上げた。こんもりとした壕になった。

1週間ほどで終った。祖父は、

「思うたより早う出来たが、途中で空襲が来やせんかと、気が気じゃなかったぞ」

と、吐息をつくように言っていた。

排水設備などは無いため、雨が降ると水が溜まり、そのつどバケツで汲み捨てた。それでも、防空壕がある安心感は大きかった。

空襲警報が出るたびに、その壕に逃げ込んだ。

そして7月4日未明の、あの高知大空襲。もちろん、その時も壕に入った。

しかし、それまでとは全く様相が違っていた。飛行機の爆音が異常に近く、それがいつまでも続き、それに爆発音がまじってきた。

そのうち、

「空が真っ赤じゃ」

近所の誰かの叫び声でみんなが壕から飛び出し、揃って小高坂山へ逃げた。

山から見る高知市は、空も街も赤く染まり、それがどんどん拡がっていた。

幸い、我家は助かった。

その日の夕方祖父が、石原から歩いて様子を見にやってきた。

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