渡貫洋介

笹のいえ

お味噌汁さん、ごめんなさい

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食事の約束のひとつに「気を入れて食べる」というのがある。

自分が何を食べているのか、どんな風味や味がするのか、好きなのか嫌いなのか。食べものを口に運ぶときは、目の前の食事に関わった人々に感謝をもって食べてほしい。気持ちが食事に向かっていないと、食べきれずに残したり、逆に食べすぎたりすることがある。もちろん会話も食事を美味しくする要素だから、おしゃべりは結構だが、盛り上がり過ぎると食べることが疎かになってくるので、親の注意が入る。

それでも、その言葉が耳に入らず、例えばご飯や味噌汁あたりをひっくり返すことがある。

そんなとき僕は、彼らを叱る。時に子どもを泣かせてしまうくらい強く怒る場面もある。それは、食べものを大切にしてほしいという僕の想いだ。

 

しかし、そんな偉そうなことを言う僕に、事件が起きた。

ある日の夕食で、僕は掴んだ汁椀を滑らせ、こぼしてしまったのだ。

「しまった!」と思った。けれど、覆水盆に返らず。こぼした味噌汁は、もう碗に戻らない。

子どもたちの目線がテーブルに広がる味噌汁に集まり、次に僕を見る。普段「食べものを大切にせよ」と説教する父ちゃんが粗相をしたのだ。静まり返った食卓で、「このあと何が起こるのだろうか?!」と固唾を飲み込む子どもたち。

そんな状況に少し焦った僕の口から咄嗟に出た言葉は、「お味噌汁さん、ごめんなさい」。

それは自分でも意外な謝罪だった。お椀が濡れてて滑っちゃったとか言い訳もできただろうが、それをせず、僕は味噌汁に謝った。状況を見守っていた子どもたちはこの言葉に納得したらしく、幾分自分たちの姿勢を正してから食事を続けた。

 

写真:文章とは全く関係なくて恐縮です。屋根の雨樋から地面に落ちる雨が音を立てるほどしっかりと降る雨の日。数日前におばあちゃんから送ってもらったシャボン玉を持ち出して、叫び声をあげながら走り回る次男と次女。風邪を引かないかと心配する僕の気持ちは彼らに届かず、「やれやれ」と思いつつも、とっても楽しそうなのでシャッターを切った。

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笹のいえ

屋根の存在理由

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隣合う薪小屋と子どもの遊び小屋には屋根がなかった。どちらもそのうち取り付けようと思っていたが、他にもやることがあったので延ばし延ばしになっていた。

ある日、遊び小屋をキレイに掃除しはじめた長女から、雨で部屋が濡れるから屋根をつけてほしいとお願いされた。考えてみれば、薪が濡れたら困るし、いずれ建物も腐ってしまう。じゃあ、やりましょうか、と僕は重い腰をあげた。

使う資材は、家にあるいただきものの木材、捨てずに取っておいたトタンやブルーシート、廃瓦など。購入したのはアスファルトルーフィングという屋根に貼る防水シートだけだったが、後で考えてみると、これも他の廃材(ハウス用のビニールシートとか)で代用できたと思う。「これは買わなきゃいけない」という思い込みからなかなか抜けられない。買うか、作るか、他の方法か、どの選択を取るかは状況によりけりなのだけど。

時間を見つけては、ひとりコツコツ作業をしていたので数日を要したが、幸い雨に振られる前に終えることができた。

完成した屋根のおかげで、もう雨のたびに「薪が濡れちゃうな」とか「床が濡れちゃって、子どもたちが遊べないかな」と気を揉まなくても良くなった。そうか、屋根も、必要なのか。

 

屋根も、と言うのには訳がある。

笹のいえに住みはじめる前、町営アパートから通いつつ母屋の改修作業をしていた。そのときは、角部屋の錆びているトタンの壁を撤去し、新しく壁を作る予定だった。

壁が無くなり、柱だけとなった空間から目の前の景色が一望できた。テーブルと椅子を置き、淹れたての珈琲を飲んでいると、ちょっとしたカフェみたいでリラックスした。もう壁なんかいらなくて、このままでいいじゃんって思うくらいだった。

しかしその夜、雨が振り出し、風も吹いた。翌朝、この部屋はびしょびしょに濡れていた。

そうか、やっぱり壁は必要なのだな、と納得し、計画通り土壁を作ることにした。

ほとんどの建物に屋根や壁があるが、当たり前過ぎて、その理由を実感する機会は少ない(僕の場合)。無いところからスタートしてみると、その存在理由が身に染みて理解できる。

 

結論:屋根も壁もあった方が良い

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笹のいえ

みっつのランドセル

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春がやって来て、うちの小学生が三人になった。

記念すべき新学期初日に、僕は三人と一緒にバス停までついていくことにした。

朝日の当たりはじめた細い林道にランドセルがみっつ、右に左に揺れながら進んでいく。

背負った大きな荷物にまだ慣れない次男を気遣ってか、姉兄はつかず離れず、ゆっくりした歩調で歩いている。兄は弟に学校の様子や心構えのようなことを一丁前にレクチャーしてる。

 

彼らは、六年生 四年生 そして一年生になった。

だから、この風景は一年間限りだ。

あれ?でも、うちにはまだ年少さんと一歳児がいるから、また見られるのかな?

歳の差を頭で計算していたが、答えが出る前にバス停に到着。

程なくバスがやって来て、目の前に止まった。

乗降口が開いたけれど、どうしたらいいかわからない弟の背中を、姉がとんと押して、乗り込んでいく。座席を指差して座らせ、自分は隣に座った。普段喧嘩ばかりしているが、こんなとき兄弟っていいなと思う。

ドアの閉まるブザーが鳴り、バスは発車した。

僕は家までの帰り道をひとり歩きながら、「そうか、五人中、三人小学生になったのか」としみじみ思う。

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笹のいえ

おうちでしごと

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仕事は家の周りでするのが理想的なライフスタイルだと考えている。

親離れするまで子どもの側で時間や体験を共有したいという想いがあるからだ。

幸運なことに、家には毎日やり切れないほどの仕事がある。

 

僕が何かをしていると、「父ちゃん、なにしゆうが?(なにしてるの?)」と近づいてくる子どもたち。そんなときは、どんな作業なのか、なるべく分かりやすく説明するようにしている。自分の親が毎日何をし、それはどんな意味があるのか、ということを理解してここで暮らしてほしいと思う。話のあとは、「ふーん」と言ってまた遊びに戻るときもあれば、「やりたい」と手を貸してくれるときもある。

「在宅仕事」のデメリットは、子どもたちからしょっちゅう声を掛けられ、予定していた仕事が終わらないところか。まあでも、そうなったらまた別の日にやればいい。なんてそんなこと言っているから、仕事がどんどん溜まっていくのだけれど。

ウイルスの感染拡大を受けて、小学校が休みになった日があった。兄姉が行かないなら僕も保育園行かない、と次男。

平日の日中に子どもが全員家にいるなんて珍しいことだった。「今日はお休み」という気持ちの盛り上がりも手伝ってか、朝から五人仲良く遊んでいた。

僕は割った薪をクローラと呼ばれる運搬車に載せて、薪棚に運んでいた。次女が「なにしゆーが?」とやって来る。エンジンを止め話をしていると、他の子たちも集まって来た。「乗ってみる?」と聞くと四本の手があがった。

エンジンを掛けるとけたたましい音と振動が全身を包む。

作業用機械だから、乗り心地なんて皆無だし、ありったけの声を張り上げないと隣の人と会話もできない。しかし荷台にぎゅっと乗り込んだ五人は、なんだがとても楽しそうだった。

敷地内とゴトゴトと10分くらい移動して、元の場所に戻ってきた。「うるさかったね」「すごいゆれたね」と口々に感想を言い合い、また別の遊びをはじめていた。

僕は深呼吸をひとつして腰を伸ばし、ふたたび 薪の山に向かった。

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笹のいえ

ターザンがやって来た

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目の前に現れた男性の姿を見て、僕は言葉を失っていた。

彼の肌は健康的に浅黒く、腰まで届く長髪、胸板は厚く逞しい。

 

そして、なぜかフンドシ一丁だった。

 

<和製ターザン>と言う表現がぴったりな彼は、生まれてまだ間もない娘を大事そうに抱えながら、

「連絡していた誠です。まこっちゃんって呼んでください」

と丁寧に自己紹介した。

運転席から優しい雰囲気の女性が出てきて、よろしく、とお辞儀をしてくれたとき、僕はやっと我に返って、まだ少し混乱する頭を下げ挨拶した。

まるでONE PEACE(読んだことないけど)に出てきそうなキャラ設定の家族で、最初戸惑った僕の心が次第にワクワクしてくる。場をオープンにして良かった、と思う。だってこんな出立(いでたち)の人と縁が繋がるなんて、ラッキーでしかない。

見た目からは想像しにくいほど、物腰の穏やかな話し方な「まこっちゃん」は、旅の途中に寄ったブラウンズフィールドで僕らのことを聞き、九州に帰る道中で、笹を訪問してくれた。彼らは地元を盛り上げようと、地域住民と繋がって地場産食材を使った加工品を原材料から育てて加工販売を生業としている。その他にもイベントを運営したり、地場産業のお手伝いしたりしているそうだ。仲間と一緒に忙しくも充実した毎日を送っているのが、話しから伝わってくる。

この辺の川の水がとても澄んでいると褒めてくれたので、近くの川に案内した。

時は10月上旬。水温と日差しに夏の面影は無い。しかしそんなことお構いなしに、まこっちゃんはざぶんと飛び込み、気持ちよさそうに泳いでいた。その姿は人魚にも見える。触発されたうちの次男も一緒に入ったが、すぐに出てきて寒さに震えていた。

水を滴らせながら、岩の上に堂々と立つまこっちゃんは、やっぱりターザンだ。

ぜひうちに泊まってほしかったのだが、その日は僕らに別の用事があったので、また会うことを約束してお別れした。

数時間の滞在だったが、数年分のインパクトが残った出会いだった。

 

その夜、まこっちゃんのインスタをチェックしてみると、なんとフォロワー2,000人以上の有名人だった。彼の投稿や活動の様子を見ながら、またワクワクしたのだった。

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笹のいえ

予約卵

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二年前友人から三羽を譲り受けてからはじまった我が家の養鶏。二羽の雌鳥たちは毎日一二個の卵を産んでくれたが、七人家族の消費には追いつかず、また子どもたちの要望もあり、去年春に中雛を四羽購入、現在は八羽飼っている。

産卵するペースが鈍る冬の間にも関わらず、最近の母さん鳥たちは多いときには五つ以上の卵を産み落としてくれることもある。

巣箱をチェックすると、床にちょこんと鎮座している卵様。その佇まいに何故か癒される。

採れたものはサインペンで日付を書いて、台所の専用カゴに入れる。

ある程度数が貯まってくると、長女あたりから「そろそろ、いいんじゃない?」と提案がある。

家族全員で食べるのに一二個では足りないから、余裕をみてまあ十個くらいあれば夕食のおかずの一品として満足できるくらいの量になる。

しかし、大人気食材である卵には、「家族のおかず」よりも優先順位の高いイベントがある。

それは、「お弁当の日」である。

保育園や小学校では年に数回、お弁当を持参する日がある。

我が家では、お弁当のおかずはかなりの確率で、その子のリクエストが聞き入れられる習慣がある。そして、卵料理はこれまたかなりの確率でおかずランキング上位を占めるのだ。

自分のお弁当の日に卵のストックが無いと、とても悲しい気持ちになる。

なので、知恵のついてきた長女長男なぞは、その日が近づいてくると、卵を予約するようになった。

「明後日お弁当の日だから、卵二個取っておいてよ!」と言った具合だ。

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笹のいえ

場をオープンにする

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我が家であり、宿でもある、笹のいえ。

暮らしの場をオープンにすると、訪れてくれる人がいる。

自作したモバイルハウスで日本を旅しているフランス人・ピエールさんもそのひとりだ。

一月下旬、笹にやって来て、三日間滞在した。元ジャーナリストでドキュメンタリー映画監督の経験もある彼とパートナーは、1トントラックの荷台に建てた、廃材を利用して作った小さな家で寝泊りしながら、全国を移動している。そして持続可能な暮らしを営む人びとに会い、共に身体を動かし、話を聴いているという。この旅で出会った人たちから、生き方の本質を学ぼうというのだ。

ピエールさんのパートナー・けいさんは中国で生まれ、現在は日本の国籍を持つ。普段はふたりで旅をしているが、このときは東京に出掛けていて、残念ながら会えなかった。しかし異なる環境で生まれ育ったふたりが、縁が繋がった日本という国の素晴らしさをSNSなどで発信しているというのはなんだか不思議な人生の巡り合わせだ。

泊めてもらう代わりに何かお手伝いを、というピーちゃん(ピエールさんのあだ名)と、薪割りすることになった。数日前に地域の方からいただいた雑木が山積みになっていたのだ。僕がチェンソーで玉切りした丸太を、彼が斧で慣れた手付きで割っていく。寒い日の作業だったが、徐々に身体が温まり、心身がほぐれていった。一緒に作業をし、おしゃべりし、時間を共有すると、お互い不慣れな言葉でのコミュニケーションではあるけれど、その壁は次第に薄くなっていく。ピーちゃんは、昔ながらの日本家屋が周りの環境に寄り添うように建てられた造りであること、またそこで暮らす人びとも自然と共に在ることについて熱心に話してくれた。僕も、彼の国での循環型生活について質問し、それぞれの共通点などを話し合った。

いつの間にか、学校や保育園から帰宅した子どもたちが周りに集まって、おやつを食べたり、遊んだりしてる。見た目も言葉も自分たちとは違う、ちょっと変わった家に住んでいるピーちゃんとの交流は、子どもたちの心にどんな記憶を残しただろう。

翌日、モバイルハウスの中を見せもらった。僕たち家族だけではもったいないので、彼に話をして、興味ありそうな友人にも事前に声を掛けて集まってもらった。

室内は限られたスペースに、暮らしのアイテムがたくさんのアイデアとともに収納されていた。

ミニキッチンやベッド兼ソファ、ソーラーパネルでの発電など、狭い空間に上手に収まっていて、必要最低限にして充分。そこここが遊び心が溢れ、オープンマインドな雰囲気を感じ取ることができる。屋根に登る梯子に使われれている天然木の湾曲や窓には飾られているけいさんの絵の温かさが心地良い。装備されていないお風呂やトイレは、公共の施設を利用するそうだ。

「訪問先で他の場所をお勧めされて、行きたい場所がどんどん増える」あるとき、ピーちゃんはちょっと困ったように笑いながらそう語っていた。まるで風のようにルートを決める彼らの旅のスタイルが、行く先々で受け入れられている証拠だ。

最終日の朝。僕らは「また会おう」と約束して、握手をした。そして車はゆっくりと走り出し、次の目的地へ出発して行った。

小さくなっていくモバイルハウスに、僕はエールを送った。

 

彼らのプロジェクトについてはこちら↓ *プレッジ(支援)は終了しています。

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笹のいえ

ファーストさんに行ってきた

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地域に眠っている鹿の角を加工し、販売する。

日頃余熱暮らしをしている僕としては、「使われていないものを再利用する」というコンセプトだけで、グッと来てしまう。これをガチャという遊び心をくすぐる方法と合体させ世に送り出す、という発想が、創造力の乏しい僕には、ちょっとした雷が落ちたくらいのメカラウロコ感があった。

しかもそれを住民と協力して、収益を生み出す。そんなことも、とさちょうものがたりが普段からこの地のコミュニティと深く繋がっていることを表している。

所有者の使われていなかった角が有効活用され、購入者に夢を与え、作り手の所得にもなる、まさに「三方善し」のアイデア商品だ。そこまで利用されれば、元々の持ち主である鹿も本望で、四方善し、かもしれない。

 

僕とこの商品との関わりは三ヶ月ほど前から。

拓ちゃんから鹿角加工のバイトをしないかと声を掛けてもらった。

角を適当な長さに切断し、紐を通す穴を開け、研磨するまで。商品になる工程の半分といったところだが、この後どうやって商品が完成するのか気になっていた。

そんな思いを汲み取ってくれたのか、今度は百合子さんから、実際の作業を見にいかないかと誘ってもらった。日程を決めた数日後、加工済みの鹿角と共にファーストさんを初めて訪れた。

自己紹介もそこそこに早速一緒に作業を開始。

慣れない場所と人たちに僕は少し緊張していたが、利用者さんと職員さんの普段通りであろうやり取りにちょっとずつ気持ちが解れていった。

作業は分担制。紐を決まった長さに切る人、穴に通し結ぶ人、説明書きと鹿角をカプセルに入れる人、、、僕の手を離れた鹿角たちがこんな場所でこんな人たちに可愛がってもらっているのか、と親心にも似た感情を抱きつつ、お手伝いをさせてもらった。

淡々と進む作業の合間に、彼らといくつかの会話を交わし、頷いたり笑ったりした。

カプセルに詰められた鹿角が段ボール箱のスペースを埋めていき、あっという間に(本当にあっという間に)、予定していた作業時間が終了した。少しの休憩を挟んで、その後は別の作業があるという。多忙なスケジュールの中、僕たちを受け入れてくれた皆さんに感謝し、施設を後にした。

帰りの車中、運転する百合子さんと、あんな風に作業しているんだね、少しの時間だったけれど一緒に手を動かせて良かったね、と言い合った。こんな小さな経験の積み重なりが、作り手としての自覚や商品への愛着になるのだろう。

加工場で僕はひとり鹿角加工をするが、次回からは彼らの笑顔を思い出しながら少し温かい気持ちで作業をするだろう。

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笹のいえ

バランスをとりながら

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僕が移住先に自然豊かな場所を選んだのは、子どもたちが取り巻く環境やそこに棲む生物たちに興味を持ち、山川で遊び逞しく成長してくれると願ったからだ。

豊かな自然に囲まれたこの環境では、四季折々の風景や動植物を観察することができるし、山や川で遊び場には事欠かない。木の枝や竹などを使って道具やおもちゃを手づくりしたらさぞ楽しいと思う。

 

しかし、子どもたちは、僕が勝手に妄想していたほど野生児には育っていない。

理由のひとつは、

僕が一緒に遊べない、ということだろう。

ここでの暮らしはなかなかに忙しい。土を耕し、火を熾し、食す。シンプルな生活だが、ひとつひとつの行程に手間が掛かり、あっという間に一日が過ぎていく。例えば、生活に欠かせない薪を手に入れようと思ったら、現場に行って、チェーンソーで適当な長さに切り揃え、軽トラの荷台に載せて家まで運び、斧で割って、棚に積んで乾燥させる、と言った具合。僕が家で費やす時間は長いが、子どもと向き合うひと時は意外と少ない。遊びに行こうと誘いたいが、やらなければいけない暮らしの作業があって、子どもたちとの時間を十分に捻出できない。

そして、今まで海の近くで住んでいた僕は、山や川での遊び方をほとんど知らない。釣り糸の結び方からどの野草が食べられるのかなど、未だ知らないことばかりだ。山道を歩くことにもコツがある。そんなことすら身に付いてない。僕の乏しい経験ではたとえ山や川に連れていっても、自分自身楽しみ方が分からず、子どもたちの好奇心も引き出せないだろうという負い目がある。

だからと言って、子どもたちに「ほら、こんなに遊び場があるよ、行っておいで」と言っただけでは、彼らもどうしていいかわからない。親を含めた先輩が一緒になって時間を過ごすことで、子どもは多くを学び、そのうちに自分たちで行動ことができる。そのお手本がいなければ、子ども自身が興味を持つ機会すらないとも言える。

幸運なことに、この地に様々なスタイルで暮らしている仲間たちのおかげで、川遊びしたり、虫取りをしたり、地域ならではの体験させてもらって、子どもたちは彼らなりにこの環境に慣れ親しんでいるようだ。

うちの子たちはネット動画を観るのが好きだし、親類に譲ってもらった電子ゲーム機に夢中にもなる。外には素晴らしいフィールドがあるのに、家でスクリーンに集中するなんてもったいない。しかし、それはあくまで僕の中の常識なのだ。ああしろこうしろと口煩く言わなくとも、子どもたちはそれぞれのバランスをとりながら、未来を生き抜いていくだろう。それは、これまで僕が過ごしてきた世界とは異なる。僕が学んできた価値観だけを押し付けてしまえば、子どもたちは時代遅れの人間となってしまうかもしれない。次世代へのバトンの渡し方もバランスが必要だろう。

 

写真:家から数分の河原にある巨石を登る長男。滑って落ちやしないか見ているだけで冷や汗が出るが、何事もないようにスルスルと登っていった。彼のバランス感覚は、すでに僕より上だ。

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笹のいえ

余熱暮らし

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家の改修などDIYは、あるものや廃材を利用。

日々の煮炊きや風呂の湯沸かしには、解体や間伐で不要になった木を薪にして使う。

回収した使用済み天ぷら油で車を走らせ、

道具や服、食材から子どものおもちゃも含めて、いただきもの多数。

 

僕らの暮らしは、他人が使い切れないもの、いらなくなったもので成り立っている部分が多い。

 

 

似たような生活をしている友人が「僕は、人の余熱で生きているようなものだ」と語ったことがあった。

新品(を購入すること)を最初に生じるメインの熱だとして、時が経ち持ち主が不要になった、または古くなった物を余熱と表現したのだ。薪ストーブの火を見ながら酒を飲んでいた僕は、その言葉を聞いて、そんな生き方も悪くないよなと思いはじめていた。

 

僕が何かをもらうとき、引き取るとき、それが相手にとって「嬉しいこと」であるかどうか考える。

例えば、廃材や廃油など、捨てるときに手間や処分料が掛かる場合がある。大量に余った食べ物は腐らせたり捨てられたりしてしまう。

そんな余熱を引き取って、再利用する。それは、相手はもちろん、僕らにとっても「嬉しいこと」なのだ。

 

写真:薪ストーブやかまどに火が入ると、発生した熱が家から出ていってしまう前にどうにか利用する。それぞれ適温と思われる場所にやかんや鍋などが所狭しと並ぶ。

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