渡貫洋介

笹のいえ

十三年ぶりの夫婦時間

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今年度に入って、僕たち夫婦の生活に大きな変化が訪れた。それは、「子どもがいない時間」が現れるようになったことだ。今年度から末っ子が保育園に通うようになり、実に13年ぶりに夫婦だけの時間ができるようになった。

第一子である長女が生まれてから今年の三月まで、特別な場合を除き、僕ら夫婦の周りにはいつも子どもたちがいた。しかし、四月からは平日には毎日のように二人きりになる機会が訪れるようになる。

数ヶ月前、この事実に気づいたときの僕たちの反応はある意味対照的だった。

僕は、これまで子どもたちに時間を割かれてなかなかできなかった農作業を一緒にしたり、静かな環境でお互いが思っていること考えていることの共有、それから子どもがいると行きづらかったカフェや美術館に行くことなど、何からはじめようかと考えていた。
一方で、妻は「子どもがいない日が来るなんて」と涙ぐんでいた。もちろん、僕と同じように新しいことを楽しみにしている部分もあっただろうが、寂しさが先に立っていたようだった。

さて、実際にはどうなったか。

思っていたほど夫婦の時間が確保できないことがわかってきた。子どもが五人もいると、誰かが学校や保育園を休むことがあるし、夫婦それぞれの用事や作業もあり、相変わらず忙しい。

つまり、これまで通り過ごしていたのでは、やりたいことはなにも起こらないのだ。

Googleカレンダーをチェックして相手の希望と都合をLINE*で確認し、新しい予定を入力し、その日を迎える。要するに意識的に計画しないと実現しないのだ。当たり前と言えば当たり前、しかし13年の間にすっかりやり方を忘れてしまったようだ。

子どもの成長フェーズによって、僕ら夫婦の在り方や付き合い方も変わってくる。常に意識しておきたいことのひとつだ。

 

*歳のせいか、約束や聞いたことをすぐに忘れるようになった。後々やりとりを確認できるように、大事なことは記録に残すようにしてる。

 

 

写真:土佐町の「Ombelico」さんで友人に撮ってもらった一枚。ふたりでレストランでランチなんて、何年ぶりだろう。

Thanks to 前田きおみ

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笹のいえ

次女の一言

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ある日のこと。

保育園から帰ってきた次女が「とうちゃん、あそぼ!」と声をかけてきた。倉庫で何かの作業をしていた僕は、いつものように「これが終わったらね」と答えた。しかし、同時に「これ」が今日中に終わらないことを知っていた。

それを聞いた次女は僕の方をじっと見つめて、はっきりとこう言った。

「とうちゃんとあそんでもらったことない!」

驚いて振り返った僕の頭は真っ白で、言葉が出てこなかった。彼女がそう言うなんて、思ってもみなかった。

遊んでもらったことがないなんて、そんなことはないだろう。時間があるときには遊んで「あげている」じゃないか。あのときも、このときも。反論の言葉が喉まで出かかった。

しかし、ともうひとりの僕が疑問を投げかける。

本当にそうか?

もっと彼女との時間を捻出することはできなかったか?

「あとでね」と言いながら、次の瞬間スマホでどうでもいい投稿をスクロールしていたことは一度や二度ではなかったはずだ。そんな僕の様子を彼女は観察していて、だからこそ、口を突いて出てきたのが冒頭の言葉だったのではないか。

その考えが心に広がったとき、なんだかとても恥ずかしくて、気持ちがソワソワした。忙しい毎日に流され、いつも何かに追われているように感じていた僕は、彼女の一言で、子どもと遊ぶ時間さえ惜しいと思っている自分に気づかされたのだ。

僕は家の周りで仕事をすることが多い。それは、子どもたちに親の働く姿を見てほしかったからだし、親としても子どもたちの成長を身近に感じたかったからだ。しかし、その環境に慣れてしまうと、いまの僕のように時間の使い方を勘違いしてしまう。

たとえば、農作業をしているとき。子どもたちが遊びたがっているのに、「いまは忙しい」と言ってしまうことが何度もあった。その度に子どもたちは残念そうな顔をしながら去っていく。しかし、彼らが僕のそばで遊びたがっている理由は単純で明快だ。今日あった嬉しかったこと悔しかったことを聴いてもらい、今日初めてできた何かを見てほしいのだ。

そんな大切なことを、忙しさにかまけて見過ごしてしまう自分がいた。自分が何をしているのか、何が本当に大切なのかを自覚しなければ、家族との大事な時間を見過ごしてしまう。次女の一言は、そんなことに気づかせてくれたのだった。

 

写真:次女と三女。こんな表情もいまだから見られるのかもしれない。心身の成長とともに変化して、記憶はどんどん過去になっていく。

 

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笹のいえ

父子醤油搾り旅

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今冬は二年ぶりの醤油搾りとなった。

水と塩を混ぜ、天地返ししたり発酵具合を観察したりして大体一年が経過した醤油麹。子どもたちに味見をしてもらうと「しょっぱい!でもおいしい!」と評価をいただいたので、いつもお世話になっている搾り師・トキさんに連絡をして、搾りの段取りを付けてもらう。

長野県まで軽トラでの移動となるので、助手席のパートナーとして毎回子どもをひとり連れて行くことにしている。

これまで、長女長男がそれぞれのタイミングで同行し、貴重な体験をした。醤油搾り旅は、うちの子たちにとって、成長の登竜門的イベントなのだ。今回、小学二年生の次男・耕丸(たがまる)に声を掛けると、「行く!」と元気な返事が返ってきた。

移動距離600キロ弱、休憩しながら片道約10時間。この時間をふたりでどう過ごすかが旅の快適度を左右すると言ってもいい。

息子には、車内で何をするか考えておいて、必要なものを荷物に入れておくように伝えておいた。さぞたくさんの遊ぶものを用意してくるのかと思ったら、彼が用意したのは、「ドラえもん」の単行本一冊だった。

かくして、当日早朝6時ごろ家を出発し、親子ふたり旅がはじまった。

早々に本を読み終わった息子は、オヤツに手を伸ばし、Youtube鑑賞をし、何度かウトウトしつつ、僕としりとりなどした。もっと退屈するのかと思ったら、楽しそうなのが意外だった。普段兄妹と一緒だと自分のやりたいことをやりたいだけすることが難しいので、狭い座席の上とは言え、自分だけの時間を満喫していたのかもしれない。

暗くなる前にはトキさん宅に到着し、翌日翌々日と醤油を搾らせてもらった。

*搾りの様子は、記事「醤油搾り」にあるので、ご興味ある方は覗いてみてください。

作業中、耕丸はたくさん手伝いをしてくれた。醪をお湯で溶いたり、醤油を移し変えるときも、とても慎重に動いていた。知らない間に、僕のスマホを操り、記録動画すら撮ってくれていた。

さて、無事に搾り作業を終えて、予備日として空けておいた四日目はノープラン。雪が積もっていたら、スキー場で遊ぶのも楽しそうだなと考えていたが、一日中しとしとと雨が降る予報で、外出は諦めて室内で過ごすことにした。

トランプなどして大人たちも一緒に遊んだが、特に彼がのめり込んだのは、絵を描くことだった。

壁掛け時計や寝ている猫など目に付くものを、もらった木板の上に、彼独特の捉え方でペンを動かしていく。

その姿を見て僕は、思い出した。彼はこだわりの強い芸術家タイプなのだ。

苦手なことはやりたくないが、好きなことはとことん集中して力を発揮する。彼の場合、それは対象物を細部まで描くことだったり、魚一匹を骨になるまで丁寧に食べることだったり、昼寝中の猫をずっと撫でることだったりする。

五人兄弟の中で、身体は華奢な方だし、口下手だし、勉強はあまり得意とは言えない。のんびり屋でナイーブ、年齢より幼く感じる場面もある。だけど、そんなことは些細なことなんだ、と僕はこの旅で彼を見直すことになった。どんなことでも、それが他の子たちと違っていても、気が済むまでやらせてやりたいと思う。

 

多忙な暮らしの中で埋もれてしまいがちな子どもたちの成長や変化に、僕はもっと気づかなければ。

 

 

お醤油関連の記事はこちら。

 

息子と旅に出る

醤油搾り

醤油と暮らし

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笹のいえ

十回目の米つくり

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新年のご挨拶を申し上げます。

地震や事故が続き、驚きとともに明けた新年。被害に遭われた方々のことを思いながら、今年はどんな一年になるのかと心配が先に立つ。心がモヤモヤするが、それでも巡る季節とともに自分ができることをやっていこう、といつもの結論に至る。

 

つい先日稲刈りを終えたと思っていたのに、いつの間にか年が変わり、最初の月も三分の一が過ぎた。

高知に来て田植えをはじめたのが2014年と記録にあったから、去年で十回目の米つくりだった。

米つくり一年目は、笹の敷地内にある五畝ほどの田んぼではじまった。知識も農具もほとんど揃っていない状態だったから、ご近所さんにお知恵や道具をお借りしたり、見よう見まねで作業していた。時間と労力は掛かっていたが、新しい暮らしの中で、家族が食べる主食を自給する喜びは大きかった。失敗も多々あったが、有り難くも毎年収穫をすることができた。その田んぼの様子を認めてもらえたのか、その後地域の方々に声を掛けてもらって、いまは四枚約二反半で稲作している。家族で消費する以上の量が採れ、余剰分は物々交換したり、ポン菓子や米粉などの加工品にして活用している。

引越し前の千葉でも田んぼをやっていたが、場所が違えば、気候もやり方も違う。地域の方にアドバイスをもらいつつ、自分が理想とする農法を十年たった今でも模索している。

なるべく道具に頼らないようにと、田んぼに作った苗床に直接種を播き苗を育てた年があった。農機械が登場する前の農法で苗箱などの資材を必要としないが、作業が大変だった。手で苗を一本一本引き抜き束にしなければいけないし、いつの間にか隣に生えている稲そっくりの稗(ひえ)を選らなくてはならず時間がとても掛かった。腰は痛くなったが、意外と苦ではなかった。陽春の中、友人たちとおしゃべりしながらの作業は心地よいひとときだった。

ポット式の育苗箱(*1)約80枚に種籾を三四粒手で蒔いた年は、ひとりで作業をはじめたが、これはとても間に合わないと急遽友人たちに連絡とって手伝ってもらい、五六人で丸二日掛かった。またある年は竹で建てた「はで(*2)」が台風で倒壊し、濡れて重くなった稲藁束を掛け直したこともあった。ピンチを脱したのはいまでは良い思い出だし、翌シーズンへの改善点となった。

最近では、より長く続けられるようにと考え、ある程度の機械化をしている。

田植え機や稲刈り機は古い型ながらも利用しているし、前作ではコンバインを友人から借り、あっという間に稲刈りが終わってしまって、今更ながら機械の力に脱帽した。

ここまでの道のりを振り返ってみると、日本の稲作の歴史をこの十年で辿ってきた感がある。

いろいろ試してみて、「地域の農家さんのやり方が一番」という結論に落ち着きそうだ。彼らが長い時間を掛けて改善してきた結果がいまの農法やシステムであり、それは人の負担を大幅に減らしてきた。各作業にはそれぞれ理由がある。そんな当たり前を自分の身体で実感できたのは貴重な経験だ。

 

そんなこんなで、十一回目の米つくりがはじまる。

今回はどんなやり方をしようか、収量や味はどう変わるか。

いまから心配しつつ、楽しみにしてる。

 

 

写真は、2013年の稲刈りの景色。はでの竹竿に寄りかかる当時三歳の長女・ほの波は、この春で中学校二年生になる。

 

*1:ポット式育苗箱 地域では苗箱と呼ぶ。苗を育てる育苗箱一枚に448個の穴が空いており、そこに専用の機械で育土と種籾を入れて、田んぼの苗床に置き育苗する。田植え時に根を切ることがないので、活着しやすい。

:2:はで 刈り取った稲束を掛けて天日乾燥させる干し台。地方によって様々な形があり、「はぜ」「はざ」「稲木」などとも呼ばれる。

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笹のいえ

暮らしの周りにある命

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ある日、家で作業をしていると、バス停から走って下校して来た長男が、

「父ちゃん、にわとりの羽が道にたくさん落ちてるよ!」

と息を弾ませながら教えてくれた。

うちではいま四羽の雌鳥を放し飼いにしていて、彼女たちは日中その辺を自由に行き来している。

母屋からすぐの道路に行ってみると、確かに羽が散乱している。色から判断して、うちの鶏のものだろう。

ああ獣に襲われちゃったか、タヌキかハクビシンか。でもいつだったんだろう、僕はずっと家に居たのに襲われたときの叫び声は聞こえなかったな、などと考えていた。そして、そのあと心に思い浮かんだ気持ちは、悲しいとか可哀想ではなく、

「こんなことなら、早く食べておけばよかったな」

そう思った自分が少し意外だった。

そこには、我が家における貴重な動物性タンパク質を失った落胆があった。

実際これまでも、卵を産まなくなった雌鳥や年老いた雄鶏を絞めてきたから、「鶏は家畜であり、卵と肉を僕たちに提供していくれる有り難い生き物」と理解してる。しかし他方では、獣に喉元を噛み付かれ山中に引きずられて食べられてしまったであろう鶏の心中を想像すると、飼い主として申し訳ないという思いもある。

自然に寄り添う暮らしをしていると、生と死が隣り合っていることを実感する場面を目にすることがある。トンビが田んぼのカエルを捕まえ啄んでいたり、飼い猫がネズミやトカゲを咥えていたり、車に撥ねられたであろう狸の亡骸を道路の端に見ることもある。数時間前まで生きていた鶏の肉を調理し口に運び、僕たち生き物は他の命を取り込んで生き続けているという事実を経験する。

 

さてその後夕方になり、放し飼いの鶏たちが小屋に戻ってくる。最後扉を閉めるときに数を数えてみる。「いち、に、さん、、、し?」 なんだ四羽全羽いるではないか。

鶏が襲われたというのは早とちりであった。でもそのお陰で、暮らしの周りにある命と僕たちの繋がりについて向き合う良い機会となった。

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笹のいえ

九月を迎えて

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九月になった。

夏休みが終わっても、子どもたちはまだ遊び足りなそうだし、学校組が久しぶりの登校準備でバタバタしているのを見ていると、彼らはもっと夏休みが続いてほしいと思っているだろうな、と思う。でも、僕は8月が終わって心底ホッとしてる。

今年は僕にとって、長い夏だった。

夏休み前から上のふたりは小笠原に旅に出掛けた。帰ってくるとすぐに「笹の夏休み」がはじまり、今年もたくさんの小学生たちが遊びに来てくれた。そのあと息つく間もなく、土佐町と交流のある青森県十和田市の小学生の受け入れがあったり、地域のイベントであるレイホクゴロワーズ(注1)やとさっ子タウン(注2)へ参加したり、と毎日のようにあちこち出掛けていった。これらのイベントに親が参加することはなかったが、それでも送迎やらその間の下の子たちの相手やらがあるし、その間も田畑や鶏の世話、草刈り、そしてもちろん家事もいつもどおりある。

日々の暑さにも辟易としていた。

ある日少し無理をして炎天下で草刈りしたら熱中症の手前になってしまったらしく、珍しく熱が出た。二日ほど寝てなんとか復活したが、仕事は二日分遅れた。加えて台風などの影響で雨が多く、予定通りに進まない。そんな気の焦りもあって、心がいつも落ち着かない状態が続いた。もうくたくただった。

それでも、できることをコツコツやっていると、そのうち朝晩は涼しくなり、日中の殺人的とも思えた太陽の日差しが穏やかになり、草の伸びもいっときの勢いはなくなった。自然はうまくできてるなと思う。

なんだか愚痴のようになってしまったけれど、もちろん喜びもたくさんあった。

ひとりバスに乗って福岡県の友人に会いに行った長男、笹を訪れたお兄ちゃんお姉ちゃんたちと交流したことでグンと成長した感のある次女と三女、まだまだ幼いと思っていた次男は習っているソフトバレーボールのリーダーに抜擢された。長女は小屋で飼いはじめた鶏の世話をよくしてくれる。それぞれできることが増えて、みな頼もしい限りだ。一緒に過ごす時間が長い夏休みだからこそ、彼らの心身の変化も身近に感じられた。

新学期がはじまって一週間が経ち、子どもたちから「夏休み気分」が少しずつ抜けてきたようで、ペースを取り戻しつつある。親も夏の余韻をまだ暮らしのあちこちに感じながら、次にやって来る季節への準備をする。でもまあたいていは間に合わないので、僕らなりにできることを無理せずコツコツやっていこう。

 

写真:夏休み終盤には親しい家族たちと徳島県海陽町へキャンプに行った。広い砂浜と空に、山育ちの子どもたちは大興奮だった。

 

注1:レイホクゴロワーズ 嶺北の自然の中で行う二泊三日のアドベンチャーレース。ラフティングやマウンテンバイクなど、様々なアクテビティーを子どもたちが協力しながらクリアしていく。

注2:とさっ子タウン 高知市内施設内に二日間の架空の町が出現し、コミュニティ運営を体験する。

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笹のいえ

なんでー?

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末っ子(二歳半)が「なぜなぜ時期」に突入し、もう数週間になる。一般的には二歳から六歳に起こる行動で、人生で一番好奇心旺盛な期間であるらしい。

僕はこれまで四人分の体験があるが、期間や頻度、質問の内容がそれぞれの子によって違うのが面白い。

 

例えば、ある日の午前中、母屋での会話。

末っ子「なんで、にいにいとねえねおらんがー?」

(どうしてお兄ちゃんとお姉ちゃん(家に)いないの?)

僕「学校と保育園に行ってるよ」

末っ子「なんでー?」

僕「そこで、お勉強したり、運動したり、お友達と遊んだりするんだよ」

末っ子「なんでー?」

僕「うーん、なんでだろうね。行っても行かなくてもいいと思うけど」

末っ子「なんでー?」

僕「うーん、それは、、、」

 

いつも僕が答えに困って黙ってしまうか、適当にお茶を濁すかして会話が終わったり、次の話題に移ったりする。納得のいく回答が得られなくても、彼女はさほど気にしていないようで、別の遊びに夢中になってたりする。僕はやれやれと自分の仕事に戻る。

二歳児に対して、これぞ名答!という返答ができず、悶々とすることもあるが、彼女の好奇心が萎んでしまわないようにできるだけ真摯に、向かい合っておしゃべりしたいと思ってる。ただ、多くの場面において、たまたま忙しいタイミングだったり、他の話の途中だったりして、「ちょっと待ってて!」と彼女を置いてけぼりにしてしまうこともしばしば。後になっていつも反省する。

そんな頼りない父ちゃんを見限ってか、最近の彼女はひとり遊びをする時間が増えた。

おもちゃや人形を両手に持ち、それぞれの役になりきって、お話している。親バカながら、とても可愛い。

 

写真:なんとも映えない構図で申し訳ないが、飾らない僕らの暮らしの一コマ、ということでご容赦いただきたい。洗濯物の前でぶどうを頬張る下の三人。普段しょっちゅう喧嘩するが、口に美味しいものが入っているときは物静かで、極めて友好的である。

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笹のいえ

夏休みと親ばなれ

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小笠原に住む先輩が笹に遊びに来たとき、「今度はうちにおいで」と長女長男を誘ってくれた。これは良い機会と、当の本人たちが返事をする前に、僕は「行きます!」と言っていた。そんなわけで、長女と長男と付き添いの友人が、早めの夏休みをスタートさせて、小笠原村父島へ滞在することになった。

高知から小笠原へ行くには、なかなかの長旅となる。

夜8時過ぎ高知駅で深夜バスに乗り込み、翌朝に東京八重洲着。そこから電車で浜松町に移動し、11時に出港するおがさわら丸に乗船する。さらに24時間、南へ南へ船を進め、やっと父島に到着する。家を出発してから約41時間、移動距離1,800キロを経て、やっと現地に着く。交通網の発達した現代で、世界のどんな場所よりも遠い場所のひとつだろう。でもここは東京都。走る車は、品川ナンバーだ。

父島は以前僕が数年間暮らしていたところで、奥さんと出合った思い出深い場所でもある。僕たちの第二の故郷だ。その島で自分の子どもたちがどんな経験をしてくるのか、お土産話をとても楽しみにしてる。

 

一方、留守番組の五名は、上のふたりが不在なことで、いろいろ気づきがありそうだ。

長男長女には洗濯物の片付けやお風呂や部屋の掃除、食器洗いなどを担当してもらっていたが、これを僕ら夫婦でこなすことになる。これが地味に時間を取られて、ふたりが家庭において大切な「働き手」であることを身をもって感じてる。

一番大きな変化となるのは、次男だろう。

お姉ちゃんお兄ちゃんがいるときは、三番目として、のほほんとしていたが、突如としてそうはいかなくなった。

母ちゃん父ちゃんが家事や下の子たちにかかりきりになるわけだから、以前にも増して「自分のことは自分で」やらなければならなくなった。親から頼まれごとが多くなり、下の子たちからはあれしてよこれやってよとリクエストが飛んでくる。普段からマイペースでのんびり屋、小学校二年生になってもまだ幼さが残る次男の頭の中は、きっとこんがらがっているに違いない。側から見ても大変そうだと思うが、この試練?によって、彼の成長スピードが加速しているように思える。

その下の次女三女も、頼れるふたりがいないことで、何かを感じているように見える。しきりに「いつ帰ってくるの?」と聞いてくる。滞在先の友人からスマホに送られてくる写真や動画を一緒に見ながら、早く会いたいとせがんでくる。

あるとき奥さんと、子どもが三人のときってこんな感じだったかねーと思い出話。あの頃は子育て大変だと思ってたけど、三人でも五人でもやっぱ相変わらず大変だね、と笑い合う。

これまでは家族全員がひとつの単位だったけれど、子どもたちが大きくなるにつれ、今回のような「別行動」も増えるだろう。

もうはじまっている子どもたちの「親離れ」を、楽しみながら見守ることにしよう。

 

 

写真:小学校行きのスクールバスが来るバス停まで歩いて二三分だが、ひとり行くのはまだ不安とのことで、僕か妻に付き添ってもらう次男。彼の「親ばなれ」はもう少し先みたいだ。バスを待っている間、彼と二人きりのおしゃべりタイムは、大家族では貴重なひとときだ。この日は、前日に捕まえたカミキリムシをクラスメイトに見せると虫かごを持って行った。

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笹のいえ

ミツバチ時間 寒露〜冬

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続き

 

話は前後するが、僕はスズメバチの来襲の二週間ほど前に蜂蜜を収穫(採蜜)していた。

ミツバチたちが巣箱内に蓄えた蜜は、冬の間の貴重な食事となる。蜜が足りないときは、人が砂糖を水で溶かしたものを与える。給餌が十分でないと、群れが飢餓に陥り、全滅する恐れがある。分蜂したその年は蜜量やミツバチの数が少ないことがあるので、そんな状況では採蜜せず、越冬できる糖を確保しておくが必要だ。

僕の巣箱は五段まで成長し、蜂の数も多く、活発で、多少採蜜しても問題ないと考えた。家族からの期待もあった。
ある日の午後、上から二段分、パン切り包丁で巣箱を切り離してみた。巣房の断面は等しく並んでいて、数学的だった。房内は蜜で満たされ、傾いた陽の光が反射してキラキラと輝いていた。小さな虫たちがこれほど正確かつ美しく作り上げた芸術を、驚きと感謝をもってしばらく観察した。
台所に移動して、巣を取り出し、中身をボールで受ける。黄金色の蜂蜜が自重で滴り落ちてくる。子どもたちの手が伸び、指で蜜をすくい、口に入れた。しばらくの沈黙のあと、「おいしい!」「あまい!」と口々に言い合う。僕もひと舐め。ただ甘いだけでなく、いろんな味が凝縮していると感じる。ミツバチとこの環境がつくった、オンリーワンの蜂蜜だ。

働き蜂たちが毎日何往復もしてせっせと集めてくれた自然の恵みをしばし味わう。「いまだけハチミツ食べ放題」な状況は、子どもたちにとっておとぎ話みたいなひとときだっただろう。まだ箱内にいたミツバチに刺されてしまった子もいたが、目の前にあるたくさんの蜂蜜に集中していて、痛みも気にならない様子だった。充分堪能してから、巣に重石をして数日放置。採れた蜜は全部で一升くらいだった。小瓶に分けて保存する。蜜蝋は一旦冷凍。後日湯煎して不純物を取り除き、ミツロウラップや保湿クリームなど自作する予定だ。

さて、その後さらに季節が巡り、冬がやってきた。越冬対策として、巣箱を麻袋で覆い、給餌を定期的に行った。しかし、寒さが厳しくなるにつれ、群れの元気が無くなっているようだった。連日気温は氷点下近くまで下がり、寒い冬となった。

ニホンミツバチはこの地域に昔から生存していたわけだから、人の助けを借りなくとも冬を越せるはずだ。しかし、全ての群れがそうであるとは限らないし、別の原因でその寒さに耐えられないこともあるだろう。毎日数匹の蜂たちの死骸をみることになった。寒さは続き、蜂たちは死に続ける。給餌の頻度を上げるなどして、対策してみるがあまり効果は感じられない。

負の連鎖を断ち切ろうと、僕ができることは実行した。あとは早く春が来るようにと祈るくらいしかなかった。しかしその想いが通じることはなく、一月末にやってきた大寒波のあと、群れが全滅したことを確認した。巣を取り出してみると、最後まで残った働き蜂たちは、巣房に頭を突っ込んでそのままの姿勢で冷たくなっていた。身を寄せる仲間が居なくなり、ついに自らのいのちも凍らせてしまった。その直前に彼らはどう思っていたのだろうか。また、女王蜂の姿は見つけられず、その辺も理由のひとつかもしれない。

夏の大量死やスズメバチの攻撃、採蜜過多、巣箱の設置位置など原因として考えられることはいくつかある。特に問題がなくとも越冬できない群れもいるらしい。

僕にとってはじめての養蜂は残念な結果となったが、いまでも羽音がするとその姿を探してしまうことがある。ミツバチたちのいる時間は、豊かで学び多き日々だった。

 

お終い

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笹のいえ

ミツバチ時間 夏〜初秋

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前回

 

7月下旬のある日、掃除のために底板を引っ張り出すと、板の上で数匹のミツバチが死んでいた。周辺を探すと、巣の周辺あちこちに亡骸が落ちていた。5月にやって来た群れは順調に成長し、蜂は数千匹に増えていた。その中の数えるほどが死んでいても不思議ではない、と思っていた。しかし、それから毎日死んだ蜂を見つけることになる。死んだ個体のほとんどは、舌を出したまま絶命していた。

問題を感じた僕は、蜂を飼っている友人に原因を訊いた。

彼の見解は、農薬が原因ではないかとのことだった。

蜂たちが、どのくらい遠くまで飛んで、どこの花から蜜を集めて来るのか分からない。死因がなんなのかも明確に判断する手立てもない。しかし雑草の成長がピークを迎えているこの時期、もしかすると、どこかで撒かれた除草剤などが関係している可能性はある。薬が掛かってしまった彼らが、這う這うの体で巣まで戻ってきて、命を落としたのかもしれなかった。もちろん、農薬を撒く意味も理由も理解しているつもりだ。しかし次々と消えていく小さないのちのことを考えると、なんとも切なく、やるせ無い気持ちが湧き上がる。さりとて、僕は蜂たちに「蜜集めをやめて」とも「別の場所に行っておいで」とも語れない。無力さを痛感することになった。

それから一週間ほど、日々蜂たちは死に続けた。数十匹を数える日もあった。
しかし雨が降った日を境にその数はグンと減り、ミツバチたちは何事もなかったようにまた淡々と蜜や花粉を運ぶようになった。

その後巣はさらに大きくなり、重ねた箱は五段に達した。全体の重さは15kgほどになっていたと思う。

 

季節は進んで、10月。

今度はスズメバチが巣箱の周りを偵察する姿を見るようになった。

彼らはミツバチの巣に侵入し、蜂蜜や幼虫を食料として利用する。
だからこの厄介な天敵が巣門に近づくと、ミツバチたちは羽を震わせ警戒した。
ある日、体格で勝るスズメバチの数匹が、その強力な顎でついに巣門の木を齧りだした。入り口を広げて押し入ろうとしている。防戦一方のニホンミツバチは、なす術がないようで、周りをブンブンと飛んでいる。
このままスズメバチが箱内に入ると、ミツバチの群れが巣を放棄して逃げ出してしまうことがある。僕はネットを検索したり、友人や先輩に話を聞いたりして、対策を考えた。巣門前に石を置いてスズメバチが近づけないようにし、ネズミ捕獲用の粘着シートを箱の屋根に置いた。一匹のスズメバチがシートに引っ付くと、仲間を呼ぶ匂いを出す。その匂いに寄ってきた別の個体もシートにくっついてしまうという、彼らの習性を利用した罠だ。日を追うごとにくっついているスズメバチが増え、そのうち諦めたのか、姿を見なくなった。巣箱への粘着シートの上でもがいているスズメバチたちに対して申し訳なく思ったが、巣を守るために必要だった。

 

自然の厳しさを知った夏が過ぎ、そしてついに採蜜の秋を迎える。

 

続く

 

写真:巣門にある石の間には、小柄なニホンミツバチが通れるくらいの空間を作っておく。屋根の粘着シートは強力でスズメバチがよく捕れたが、野鳥がくっついてしまったこともあり、設置場所に工夫が必要だ。

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