鳥山百合子

メディアとお手紙

高知新聞 閑人調 15

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とさちょうものがたり編集部の鳥山が、2023年春より、高知新聞の「閑人調」というコラムに寄稿させていただいています。

このコラムには数人の執筆者がおり、月曜日から土曜日まで毎日掲載。月初めにその月の執筆者の氏名が掲載され、コラム自体には執筆者のペンネームが文章の最後に記されます。

鳥山のペンネームは「風」。月に2回ほど掲載されます。

シシ肉

猟師さんからシシ肉をいただいた。狩猟期間中、数人で山に入りイノシシを追い、銃で撃つ。血抜きしてさばいた肉は仲間と平等に分け、そのうちの一つを届けてくれたのだ。受け取った肉の塊はずしりと重い。

薄紅色の肉はみずみずしく、ところどころ白や黒のイノシシの毛がついている。

私はシシ肉が好きだ。臭いというイメージを持つ方もいるかもしれないが、そんなことはない。血抜きの方法やさばき方によって味は全く異なるというから、知り合いの猟師さんはこの道の達人だ。

薄く切って焼き、塩コショウしていただいた。シンプルだが一番おいしい食べ方だと思う。シシ肉は甘い。一口食べるたび、体の内側にエネルギーが注ぎ込まれる。今食べているのは昨日まで山を駆け回っていた命。人間は命をいただいて生きている。均等に切り売りされたものだけを食べていた時には得られない体感だ。「私は生かされている」。その体感が日常から切り離されれた時、人間は大切な何かを失うような気がする。

太古から繰り返されてきた生きるための営みが、この地では日常として存在している、猟をし、自ら育てた作物を食べて暮らす人を近くに感じるだけで、背筋がしゃんと伸びる。

(風)

 

2024年2月8日の高知新聞に掲載されたコラム「閑人調」です。

猟師さんからいただいたシシ肉について書きました。

切ったまま、塊のまま、イノシシの毛や血がついた、どさっと手渡される肉。ツヤツヤと光って、みずみずしい肉。さっきまで山で駆け回っていただろう肉。食べたらエネルギーが満ちる肉。シシ肉をいただくたび、人間はだれかの命をいただいて生きていることを強烈に感じます。猟師さんがいて、山に猪がいるからこそ得られる体感です。その体感を得られる環境は、実はなかなかないのかも…。

シシ肉はとてもおいしいので、いただいたら小躍りします。塩コショウして焼いて食べるのが最高ですが、野菜をたっぷり入れたシシ汁もおすすめです。

 

 

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前編

 

境内を歩く

境内へ出て、神社の周りを散策しました。写真左の大きな杉の木は、途中で三股に分かれています。「みんなのひいおじいちゃんやひいおばあちゃんが子どもの頃、股の間をくぐって遊んだんですよ」と宮元さん。

「へえー!3つが一本にまとまってるんや!」とか「だんだん長くなっていったんか!」と杉を見上げる子どもたち。

 

白髪神社の御神木。一度火事で焼けたけれど、また生えてきたそうです。樹齢約600年、今までに何度も落雷を受けながら、白髪神社の入り口に立ち続けています。

 

常夜燈を熱心に見ていた子も。「中にろうそくを入れて、火をつけて灯りにしていたんですよ」という宮元さんのお話に「へえーそうなんや」。微笑ましい光景です。

 

「冬の朝8時ごろ、参道の正面の山からお日様が昇ってきます。その時、お宮に光が当たってパッと光ります」と宮元さんが話すと、「そうなんや!建てようと決めた人がそういう場所に建てたんだ!」という子も。

ちなみに、滋賀県の白髭神社でも、朝日が昇る際、神社や鳥居に光が当たるそうです。ルーツである白髭神社と方角的に同じように作られているのだと思う、と宮元さんは話してくれました。

 

たくさんの質問

子どもたちから宮元さんへ、たくさんの質問が。

○「神様っていたんですか?」

→昔も今もいますよ

 

○御神木は最初から立っちょったんですか?

→御神木は神様が来てから生えてくるので、最初から生えていたと思いますよ

 

○「なんで火事になったんですか?」

→戦国時代に近くで戦いがあって、風が吹いて火が燃え広がったんです

 

○「あの箱(お賽銭箱)にはいくらくらいお金が入るんですか?」

→うーん、お正月の時は1万円よりもうちょっと入ります

などなど。

「神様は見えるんですか?」という質問も。

「見えないけど、神様はあちこちにいますよ。八百万の神(やおよろずのかみ)といって、日本には八百万の神様がいると言われています。いつもみんなのことを見守っていますよ」

 

質問の時間は終わり、もう帰る時間に。

子どもたちは何度も振り返りながら、学校へ帰って行きました。担任の蔭田先生は「普段は入ることのない本殿に入ったり、宮元さんのお話も聞けて、子どもたちにとってすごくいい経験になったと思います」と話してくれました。

かわいく、微笑ましい質問をたくさんする2年生の子どもたち。その姿を見ながら、子どもたちは今、自分にとって大切な人や大切な場所、大切な風景を心に宿す時間の中にいるのだと感じました。

「いいこともしんどいことも色んなことがあるけれど、お白髪さんはいつも、頑張ってね、とみんなを見てくれていますよ」と子どもたちに語りかけていた宮元さん。

子どもたちが自分の育った町を懐かしく思い出すとき、きっと、白髪神社のある風景も心に浮かぶことでしょう。

 

 

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土佐町小学校2年生の生活科の授業には「町たんけん」という単元があります。町内のスーパーや施設、商店などを訪れ、働く人の様子を見たり話を聞く活動です。事前に行きたい場所を話し合い、訪れる場所を決め、子どもたちは探検に出かけます。

2024年1月29日に行われた「町たんけん」。
子どもたちの中には、白髪神社に行ってみたいというグループがありました。担任の蔭田晴敬先生は「白髪神社の境内を散策し、由緒を聞きたい」と白髪神社宮司の宮元序定さんに相談すると、宮元さんはもちろん!と快諾。白髪神社は探検先の一つになりました。

宮司の宮元さんから、もしよかったら取材に来ませんかと編集部にご連絡をいただきました。常々「子どもは地域の宝です」と話していた宮元さん。学校や保護者の方の許可をいただき、取材させていただきました。

 

土佐町小学校2年生、白髪神社にやってきた

白髪神社と土佐町小学校は宮古野地区にあります。

左 大きな杉の木の元に白髪神社はある。右 四角の長い建物が土佐町小学校

近くには保育園もあり、子どもたちが保育園児の時には白髪神社周辺を散歩し、マラソン大会では神社の前の道を走ったり。子どもたちにとって白髪神社は、いつもそばにある馴染み深い場所です。

まずは本殿へ

先生と一緒に7人の子どもたちがやってきました。

挨拶をして、本殿の中へ。

脱いだ靴の先は、本殿へ向けて置きます。

 

本殿の中に入りキョロキョロしながら、どこか緊張した面持ちの子どもたち。宮元さんが太鼓をたたくと背筋がしゃんと伸びます。

 

白髪神社の由来

まずは白髪神社の神様にご挨拶。宮元さんは白髪神社の由来を話してくれました。

ここは白髪(しらがみ)神社といいます。「おしらがさん」とか「しらが」という人もいます。昔は白髪大明神と呼ばれていました。

滋賀県琵琶湖の北に滋賀県で一番古い神社、白鬚(しらひげ)神社があります。湖の中に赤い鳥居がある神社で、白髪神社の神様はこの白髭神社からきています。

昔、滋賀県に森近江守(もりおおみのかみ)という人がいました。その人は白髭神社から預かった宝物を持って、本山町汗見川の奥、冬の瀬という所にやってきました。そして冬の瀬の一本杉の元に、宝物をしずめました。

しばらくすると、宝物をしずめた所に白髪大明神のご神像が舞い降り、森近江守に「長磯村(現在の土佐町森地区)を開墾しなさい」と告げました。森近江守は長磯村を開墾し、森村を作りました。森村はここ宮古野地区から地蔵寺地区までをいいます。

そして、奥宮と呼ばれていた冬の瀬からこの場所を本宮と定め、白髪神社が建てられました」

「おしらがさんができてから、今年で1076年目です」

「え!1076歳っていうことか!すごーい!」と子どもたち。

「白髪神社の神様は天狗さんです。約7mくらいあって、鼻は1m。目は赤くて悪い神様を寄せ付けない、すごい力がありますよ」と宮元さん。

「でかっ!」

思ったことをすぐ言葉にできる子どもたちがとても素晴らしい。微笑ましいです。

 

(後編に続く)

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メディアとお手紙

高知新聞 閑人調  14

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とさちょうものがたり編集部の鳥山が、2023年春より、高知新聞の「閑人調」というコラムに寄稿させていただいています。

このコラムには数人の執筆者がおり、月曜日から土曜日まで毎日掲載。月初めにその月の執筆者の氏名が掲載され、コラム自体には執筆者のペンネームが文章の最後に記されます。

鳥山のペンネームは「風」。月に2回ほど掲載されます。

芋つぼ

近所のおばあちゃんの畑には芋つぼがある。畑の脇に立つ三角屋根の戸を開くと、大人2人が入るくらいの深い穴が現れる。そこは岩で囲まれ、厚く敷き詰められたもみ殻の中にサツマイモを入れておくと、冬の間も傷むことなく保存できる。

しゃがんで滑るように穴へ入る。足元はふかふか、もみ殻の中に手を入れると「ぬくいろう」とおばあちゃん。かき分けると大小さまざまな芋が出てくる。探すのに夢中で不意に立ち上がると、屋根に頭をぶつけるので要注意。ネズミがかじった芋もあるけれど、その部分は除けばよい。

さあ帰ろう、と芋の入ったカゴを抱え、見上げた入り口向こうの空はまぶしかった。

家に戻って山の水で芋を洗い、湯をゴンゴン沸かした大釜でゆでる。皮をはいで薄く切り、わらを敷いたえびらの上に並べる。わらのおかげで裏面にも風が通り早く乾く。日の当たる特等席に並んだ黄金色の芋たちは何だか誇らしげで、ずっと眺めていたかった。

これは7年前の出来事だが、昨日のことのように思い出せる。願わくばもう一度、おばあちゃんと芋つぼに入り、あったあったと言いながら芋を探したい。続くと思われた日々は戻ってこない。だからこそ今日という日が尊く、まぶしい。

 

2024年1月25日の高知新聞に掲載されたコラム「閑人調」です。

今回は「芋つぼ」について。芋つぼは、冬の間、サツマイモやカボチャ、里芋などの芋類が傷むことがないよう保存する場所のこと。記事掲載後「懐かしい」「家にもあったよ」という声が届きました。もしかしたら、今も現役で使っているよ、というお家はあまりないのかもしれません。近所のおばあちゃんの芋つぼに入らせてもらったことは貴重な経験でした。

2024年のスタートは地震や事故など心痛む出来事が続きました。朝を迎え、日常を過ごせることは決して当たり前ではないのだと痛感しています。

「続くと思われた日々は戻ってこない。だからこそ今日という日が尊く、まぶしい」。

このことを忘れないように、この記事を書きました。

 

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読んでほしい

猪肉

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猟師さんから猪肉をいただいた。

昨日猟に行ったそうで、大きな肉の塊を届けてくれた。一塊が入れられたスーパーの袋の内側にも外側にも血がついている。

銃で撃った猪は、共に猟をした仲間と平等に分けるそうだ。持ち帰った分をさらに知り合いに分ける。私はその内のひとつをいただいたという訳だ。

厚い脂身、薄紅色の肉。ところどころゴワゴワした白や黒色の硬い毛もついている。これは昨日まで山で生きていた体だ。

今晩、この肉は私の胃袋に入る。

一番美味しいと思う食べ方は薄く切り、塩胡椒して焼く。たったそれだけなのだが、食べれば身体内に注ぎ込まれるようなエネルギーを感じる。猪の肉は私の細胞をつくり、身体を支える一部となるのだ。

猟の期間は三月末まで。その間、捕らえられた猪はこの地で生きる人間の糧となる。

 

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読んでほしい

野焼き

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12月から1月、土佐町では煙たなびく風景をよく目にします。

田にカヤ(ススキ)やカジを集めて火を放つ、野焼き。集められた何箇所かに火を入れると、すぐにパチパチと小さな音をたて、たちまち火が広がっていきます。オレンジ色の炎が高く立ち上がるのはほんの一瞬、しばらくすれば火も音も少しずつ静かになっていきます。

「田んぼの中の方へ草を入れちょいて、火を付ける。田の岸の際で火をつけたら、岸へ燃え移っていくから。燃やしている時は見ちょかんといかん」

野焼きをしていた人がそう教えてくれました。

「燃やさんと、田をトラクターでたたけない。巻き付くきね」

「昔は“秋肥”といって、稲刈りが終わったら、草を刈って田に入れていた。昔は稲刈りが終わったら、食み切り(*はみきり)でザクザク草を切って、田んぼに入れていた。肥料の代わりやね。今はそんなする人は、おらなあね」

燃えた草は灰となって田の土を肥やし、次の年の稲を育む土壌となります。

「雨がぽろぽろするような日に火を付ける。風がビュービュー吹く時にやったら、岸にでもうつったらもう大変よね」

ふと顔を上げると、遠く山間の田からも煙が上がっているのが見えました。

毎年、毎年、繰り返されてきた営み。一年という時間が巡っていくことを感じさせてくれる風景です。

 

 

*食み切り…固定された受刃と持ち手のついた包丁の間に藁や草を挟んで切る道具。牛や馬などの餌を「食み(はみ)」と言い、その餌を切ることに使われていたため、そう呼ばれる。ペーパーカッターのような形状。

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メディアとお手紙

高知新聞 閑人調  13

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とさちょうものがたり編集部の鳥山が、2023年春より、高知新聞の「閑人調」というコラムに寄稿させていただいています。

このコラムには数人の執筆者がおり、月曜日から土曜日まで毎日掲載。月初めにその月の執筆者の氏名が掲載され、コラム自体には執筆者のペンネームが文章の最後に記されます。

鳥山のペンネームは「風」。月に2回ほど掲載されます。

 

同郷

11月、京都国立博物館前で信号待ちをしていた時のこと。後部座席の息子が隣に停車した車に手を振っていた。「どうしたの?」と言いながら見ると、60代くらいのご夫婦が親しげにこちらを見ていた。その表情につられるように私も窓を開けてあいさつすると、お二人はますます笑顔に。

運転席の男性が一言、「妻は仁淀川町の出身です!」。

え!こんな所で高知出身の方と出会うとは!

「私たち、土佐町から来てるんです」と答えると、助手席の女性が身を乗り出すように「近いですね!来年5月に帰ります!」。

次の瞬間、信号は青に。「また!」と互いに手を振り、走り去る京都ナンバー。

多分お二人は停車する際に、隣が高知ナンバーだと気付いたのだろう。同郷と知り、もうそれだけで親しみを込めた視線を送ってくれたのだった。

「高知」。この言葉には強力な引力があると思われる。同郷というだけで声をかけずにはいられない。声をかけられたら応えずにはいられない。時には握手を交わすような勢いさえある。気持ちが伝わってくるようなその人間らしさが、とてもいいなと思う。

わずか30秒ほどの出来事。お二人の優しいまなざしを今も忘れられないでいる。

(風)

 

2023年12月12日、高知新聞に掲載されたコラム「閑人調」です。

前月に訪れた京都での出来事を書きました。高知ナンバーを見ただけで、親しみを持ってくれる。話しかけてくれる。そして、それに応える私。こういった出来事が生まれてしまうのがなんとも高知の人らしい。京都にいるのに、強烈に高知を感じた出来事でした。

なんというか、こういった何気ないやりとりに救われるような気持ちにもなりました。

 

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山の手しごと

お正月飾りを作る

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12月、土佐町の川田絹子さんがお正月の玄関飾りの作り方を教えてくれました。

今年で4回目となる開催。毎年楽しみに参加する人が増えているそうです。編集部の私(鳥山)もその一人。

 

川田絹子さん

絹子さんはお正月飾りだけでなく、折り紙作品やシュロの葉で作るバッタなど何でも手作り、田んぼも畑もやるスーパーお母さん。

お正月飾りは、「お正月飾りのチラシを見て、“家にも藁があるがやない。家にあるもんでできるな”と思って、作り始めた」と話してくれました。

 

早速スタート!

まずは絹子さんの実演から。参加者の方に説明しながら、軽やかで鮮やかな手さばきを見せてくれます。

 

まずは、藁が柔らかくなるように藁をねじることから始めます。そうすることでピンとまっすぐだった藁がしなやかになって、扱いやすくなります。そして束ねた藁を3つに分ける。

これは絹子さんの田んぼで収穫したもち米の藁です。もち米の藁は長く、飾りを作るときにちょうど良いそうです。

 

綯う

絹子さんの鮮やかな手さばきをご覧ください!手を水で濡らし、3つに分けた藁束の内の2つを「手のひらの中で転がすように」、綯っていきます。

最後まで綯えたら、ワイヤーなどで留めます。

 

藁束を分けた内の残りの一つを手のひらで撚りながら、先ほど綯った縄の「谷」に入れていきます。「谷」とは、綯った縄目と縄目の間のこと。「入れていく」という感覚が私にはどうしてもわからず…!絹子さんに全部やってもらいました笑

こうすることで、一本の縄になります。

 

「こうやろうかねえ?」隣の人同士、話しながら作ります

 

綯った縄からピンピン出ている藁をカットします

 

一人一人に丁寧に教えてくれる絹子さん

 

綯った縄を輪っかにして、ワイヤーで留めます。絹子さんが持ってきてくれた稲穂を添えました

 

お正月らしい飾りをプラスして、なんとも華やかな玄関飾りが出来ました!

 

参加者の皆さんで記念写真

「山や庭にある松や南天、ウラジロやユズリハを付けてもいいですよ」と絹子さん。

それらは全て土佐町の山にあるものです。大きな町では買わないと手に入らないものが、この町にはすぐそばにあります。

お正月飾りを作り、新しい年を迎える心がまえも整いました。

2024年が全ての人にとって、より良い年となりますように。

皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

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(前編はこちら

98歳

この日、二軒目のお宅へ。10月末に98歳を迎えた窪内節さんのお家です。窪内さんは90歳まで裏山にハシゴをかけて鎌で草刈りをし、95歳まで畑仕事をしていたそうです。

窪内さんは40年以上毎日書いているという日記を見せてくれました。まずは日付とお天気。その日にしたことや思ったことも丁寧に記してあります。
「新聞を毎日読んで、日記を書く。そしてごはんを食べる。それが私の仕事です」

 

窪内さんは50代の時、個室に入院している人の付き添いの仕事をしていたそうです。畳一枚分くらいのスペースを与えられ、寝泊まりしながら約10年生活したそう。

「この仕事をして毎月給料をもらえるのがうれしかった」
何度もそう話していました。

パーキンソン病と認知症の方の付き添いでは「歯がない人にはすり鉢ですりつぶして食べさせましたよ。お刺身が好きな人には毎日お刺身を食べさせて。話をよくしてやらないといけないから、よく話もしました」

「それが心の栄養ですものね」と県立大学の小林さん。うんうん、とうなずく窪内さん。

「頑張って100歳まで生きなきゃと思って。晩ごはんを食べたらホッとします」と静かに笑っていました。

同じ敷地内にある隣の家には娘さんが住んでいて、食事を作ったり、畑仕事をしたり。「よくしてもらっています」と話されていました。

 

帰り際、娘の谷川禮子さんと話す竜野さん

娘さんである谷川禮子さんと山下さんは同級生。山下さんは谷川さんに、今日最初に訪れ留守だった家の人の様子を聞いていました。

やはり入院されているとのこと。どうしているのかがわかって少し安心したようでした。地域のつながりとその関係の細やかさが見える一コマでした。

 

 

「お医者さんが必要なんです」

かねてから山下さんは、高齢になっても地域で暮らし続け、人生の最後を自宅で迎えられる地域にしたいという思いがあったそうです。

人生の最後を自宅で迎えるためには、まず在宅訪問をする医師がいることが必要です。

やりとりを見守る山下秀雄さん(左)

在宅医療に対応している医師と連携がとれていれば、自宅で息を引き取った後、速やかに「死亡診断書」を書いてもらうことができるのだそう。(死亡診断書は葬儀や火葬など、さまざまな手続きを進めるために必要なものです)

もし連携が取れておらず自宅で亡くなった場合、警察を呼び、検視を受ける必要が出てきます。検視の目的は、死亡した背景に事件性があるかの確認になるため、自殺や他殺、死亡した経緯に関係なく実施することになります。

「穏やかに人生の最後を迎えるためには、お医者さんが必要なんです」

山下さんがそう話されていたことが印象的でした。

 

地域で暮らし続けるために

地域で暮らし続け、自宅で人生の最後を迎えたい。それは多くの人が願うことだと思います。

それを実現するために必要なことは何でしょうか。

必要な医療や福祉のサービスにはどのような種類・内容があり、何を利用できるのか。サービスを利用するための相談はどこへ行ったらいいのか。

自宅で人生の最後を迎えるためには、長期的に介護できる家族がいるかどうかも重要だと竜野さんは話していました。そうなると介護する家族のサポートも必要です。

どう生きて、どんな最期を迎えたいのか。それは各個人の自身への問いであり、家族の間での問いでもあるのだと思います。普段から考え、話をしていく必要性を感じました。

 

自分の人生を生きること。生き抜くこと。それは一体どんなことなのか。答えはひとつではなく、人それぞれにそれぞれの答えがあることなのだと思います。初めて同行させていただいた石原高齢者訪問で、何だか大きな宿題をいただいた気持ちです。

また次回も同行させていただけたらと思っています。

 

 

撮影:竜野健司さん

訪問を終え、石原集落活動センターへ戻ると、竜野健司さんが用意してくれたお昼ごはんが。訪問した皆でいただきました。ごちそうさまでした!

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2023年11月、土佐町石原地区で「石原高齢者訪問」が行われました。

これは、土佐町石原地区(東石原・西石原・峯石原 ・有間)に住む高齢者のお家に伺い、会って近況を聞いたりする活動で、集落活動センターいしはらの里の事業の一つになっています。

土佐町の田井内科と早明浦病院に勤める土佐町在住の医師・竜野真維さんが、できるだけ多くの住民の方と知り合いたいと毎月1回この訪問を続けています。

この日は県立大学看護学部の小林秀行さん、高知大学の医学生や地域おこし協力隊の方も一緒に回りました。

訪問の前に、いしはらの里協議会 会長の山下秀雄さんと竜野さんが訪問活動について説明してくれました。(撮影:竜野健司さん)

 

土佐町・峯石原へ

約6年前、当時石原の集落支援員だった山下秀雄さんが「高齢者の方の暮らしを見てみませんか」と竜野さんに声をかけ、この訪問活動は始まりました。

訪問にはいつも山下さんか、同じく集落支援員の中町和正さんが同行しています。「山下さんや中町さん、地域の民生委員さんがいつも一緒に来てくれるから、こうやってお家を回れるんです」と竜野さん。

この日は午前中だけの訪問日で、峯石原地区の訪問に行くことに。

くねくねした山道をのぼって一軒目の家へ。いつも季節ごとの色とりどりの花が咲いているお家です。山下さんが玄関先から声をかけました。
「おはよう。おるかよ〜?」
返事は聞こえず、誰も出てきません。ポストにはたまった郵便物が見え、しばらくの間留守にしているようでした。「もしかしたら入院しているのかもしれない。ちょっと聞いてみよう」と山下さん。これから行く他の家の人に聞いてみようという訳です。

 

標高700メートルの場所で

次に向かったのは、標高700メートルの場所にあるお宅。西川正子さんのお家へ向かう途中の坂から、見事な雲海が見えました。

山下さんが「おるかよ〜」と言いながら庭へ入っていきます。
「竜野先生が来てくれたよ〜」
家の玄関前のすぐ下は斜面になっており、畑にブロッコリーや葉物野菜が育っています。玄関前の通路には手すりが付けてありました。

しばらくすると、
「はーい、まあまあ、ありがとう」
家の中から声が聞こえてきました。ガラガラと玄関が開き「まあまあ、久しぶりねえ」と元気そうな声が。

「お元気ですか?体調はどうですか?」と竜野さんが声をかけると、「自分のことは自分でそれなりにごちごちよ。坂をおりたりとかできんけんど。2月で80歳!元気な、もう!」とにっこり。

 

高知大学の学生さんが、西川さんの血圧を測り始めました。西川さんご自身も看護師だったそうで、学生さんの手元をじっと見ながらアドバイスもされています。

「玄関前に柵をつけたんやね」と山下さん。
「そうそう、そうすると安心して歩けるきね」

何気ない会話からその人の日々の様子が伝わってきます。

「春にきた時は、ぜんまいがたくさん干してあったんですよ」と竜野さん。南側を向いた屋根付きの干し台にはカゴがずらりと並んでいます。軒下には収穫した玉ねぎが下がり、プランターには立派な大根や葉物野菜が。きっと、畑まで降りていくのはしんどいので、玄関近くにプランターを置き、野菜を育てているのでしょう。

帰り際、西川さんは訪問した6人全員に缶コーヒーを手渡してくれました。私は西川さんから一番離れた場所にいましたが、玄関先から顔を出し、私の方を見て「もらったかね?」。

「はい、いただいてます」というと「そうかそうか、よかった」と言って顔を引っ込め、玄関先に座っていました。

足が痛いだろうに私が見えるよう立ち上がり、玄関の戸から上半身をのぞかせ、こちらを見る姿。ポケットに入れた缶コーヒーが、何度もそのやりとりを思い出させました。何気ないそのふるまいから、その人となりが伝わってくるのでした。

 

 

特別扱い

竜野さんが研修医だった頃のこと。山奥の僻地にある診療所で、地域に腰を据えて診察する自治医大の先生に出会い、その時から地域医療をやりたいと思ってきたそう。

「病院勤務の場合、患者さんと医師としての付き合いになるけれど、地域に住む医師となると住民同士としての付き合いになる。患者さんを病気になって初めて知るのではなく、その人が地域で生活している姿を知った上での診療がしたかったんです」

「みんなを特別扱いできたらいいな、と思って」と竜野さん。

医師と患者という関係以前に、人間同士としての関係を築きたい。互いの存在を大切に思い合えるような関係を土台とし、その人にとって必要な医療を提供したい。

相手が自分にとって「特別」になるのは、相手のことを好きになるから。好きだから相手を大切にしたい。医師と患者でありながら同じ住民、同じ人間である。その上で、医師として自分にできることとは?

「特別扱いできたら」。竜野さんの考える地域医療の在り方が伝わってくるような言葉でした。

向き合う人の目を見つめて優しく丁寧に話し、その人のお話に耳を傾ける竜野さん。行く先々で地域の方が「竜野先生」と呼ぶ声を聞き、その声色から竜野さんがどれだけ地域の方から信頼されているかが伝わってきました。

 

(「石原高齢者訪問 2023年11月 後編 」へ続く)

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