2019年7月

“4,001”

土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)

注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。

“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。

念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。

土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。  (敬称略・撮れたときに不定期更新)

4001プロジェクト

岡林増榮 (下瀬戸)

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下瀬戸の山の上で、山菜の栽培を行なっている岡林増榮さん。

手にしているのは幻の山菜と呼ばれる「しおで」です。しおでは6月あたりがシーズンで、この写真を撮影した7月初旬は収穫が終わりかけの頃でした。

幻の山菜と呼ばれるだけあってしおでは栽培するのが大変難しいそうです。土佐町の中でも(おそらく四国内でも)しおでを栽培しているのは岡林さんのみということ。こうして栽培して収穫できるようになるまで相当のご苦労があったようです。

それにしても職場がこの風景ってすごくないですか。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「土佐町の民話」 土佐町の民話編集委員 土佐町教育委員会

土佐町に伝わる民話を集めたこの本は今から28年前に作られました。土佐町史編纂時に町内に広く呼びかけ、収集、整理されたものだそうです。

「とさちょうものがたり」の中のカテゴリーのひとつである「土佐町ストーリーズ」でも、この本の民話を紹介しています。

和田守也町長もこの本の編纂に関わっていて、本の挿絵を描いています。「この本を作った時点でも民話がどんどん町から消えていくのを感じていた」と話していました。

この本のはじめには、こう書かれています。

『民話は、昔の人の暮らしや社会の様子を知ることができます。温故知新という言葉があります。先人の生活や文化の中から新しい町づくりや産業振興についての知恵を学ぶとともに、郷土史を身近なものとして理解し、郷土愛が生まれることを願うものであります』

28年後の今、先日行われた幸福度調査アンケートでは『地域の伝説や民話をどれくらい知っているか』という質問がありましたが、「全く知らない・あまり知らない」という人たちの割合がとても高いことがわかりました。この結果をどう捉え、どうしていくのか町全体で考えていく必要があるのではないかなと思います。

この地の先人たちが積み重ねてきた暮らしの上に今の暮らしがあるということ、毎日見ている風景の向こうにある奥ゆきを忘れないでいたいと思います。

鳥山百合子

 

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(前編はこちらから)

 

しかし4年目のある日、「いかんと思うてほたくっちょった」育苗箱をふと見た時、岡林さんは目を疑いました。

「芽がでゆう!」

それは貝割れ大根のような、細く小さな芽でした。

 

「そりゃあ、うれしかったよ!そりゃあ、うれしいで!」

 

岡林さんは芽が出た条件を独自に研究し、大きくなったものをポットに植え替えて畑へ移植。毎年少しずつ株を増やしながら植え続け、畑の面積を広げていったそうです。

 

「こればあ(これくらいの大きさ)のしおでが一番美味しいで!」と岡林さん

 

「何十万、何百万という種があるきね、100万位は畑に落ちちゃあせんろうか…。でも、ほとんどは生えん。なんぼ落ちたち条件が揃わんとね。芽が出たらしよいでよ(育てやすい)。条件がよかったらずっと生える」

「とにかく種から苗を立てるのが難しかった。芽がでるまでが苦労した。全部1人でやらないかんかったし。今の状態になるまで20年ばあ、かかった」

「もしあの時、芽が出ていなかったら、今、全然しやせんで」

 

 

アナグマに掘り返された後に出てきたしおでの新芽

 

猿にしおでの先をかじられ、アナグマに根元を掘り返され、うさぎもイノシシもいる。日々、動物たちとの戦いです。

それでも岡林さんはこの場所でしおでを作り続けています。

 

瀬戸地区で生まれた岡林さん。

「県外に出たいと思ったこともある。でも、どこ行ったち働かないかんしね。ああでもない、こうでもないと、ある程度はあずってせないかん」

岡林さんのしおでの畑の目の前には雄大な景色が広がっていました。はるか下の谷間に見える一本の白い筋から、どうどうと地の底から駆け上がって来るような水音が響いてきます。

「あれは瀬戸川。正面の山、あれは東門(ひがしかど)山。左は岩茸山で、左向こうが黒丸の集落。右奥は大師山で、右後ろは安吉」

自分の立っている小さな一点は、連なる山々とちゃんと繋がっているのです。

 

 

岡林さんは教えてくれました。

「しおでを取り終わって1ヶ月くらいした後、土が見えんなるばあ葉が茂って、しおでの棚が真っ青になる。それは綺麗で!青白い花が何万と咲いて、ミツバチがどんどん来る。不思議なんじゃけんど、昼は来ん。夜に蜜が出るんじゃろうかね、しおでだけは夕方、仕事から帰る時分にブンブンブンブン来る。」

 

「その時、また見に来たらえいよ」

それは、しおでを育てている人にしかわからない自然の営みです。

 

「しおでを、いろんな人に、ようけ使うてもろうてよ、送ってくれと言われたらうれしい」

岡林さんはそう話してくれました。

 

 


 

お土産に、両手がいっぱいになるほどしおでをいただきました。

 

岡林さんオススメのかき揚げを作ってみました。

 

 

しおでのかき揚げ

【材料】しおで・小麦粉・塩・水

①しおでを食べやすい大きさに切る

②小麦粉に水、塩を加え、とろりとした衣を作る。(卵を加えたり、小麦粉の代わりに米粉を使っても美味しいです)

③しおでと衣をからめてからりと揚げる。

④塩をパラリとふって、熱いうちにいただく。

 

 

少しモチっとしてた食べ応えがある食感。ついついもう一つ、と手を伸ばしたくなる味です。

 

土佐町だけで育てられているしおでの収穫は、7月上旬まで。

「幻の山菜」と呼ばれるしおでを、ぜひ多くの方に味わっていただけたらと思います。

 

*岡林さんと出会うきっかけをつくってくれた土佐町の島崎直文さん、ありがとうございました!

 

 

 

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私の一冊

藤田英輔

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「ほんもの探し旅」 小林泰彦 ヤマケイ文庫

1975年頃、若者向け月刊誌に掲載、連載されたものを集めて文庫化(2014年発行)した本。約40年前です。

現在の日本に本物を造(作)り、使う文化があるか?(有ります!工業製品はどれも本物でしょうが)

現在も昔も本物は認知されます。永く使用でき、財産や生命を守ってくれるもの、そんな物は完成まで労力や時がかかります。

だからそれに似合う対価が発生します。

価値が高いか安いかは、各々の価値感が決めることです。

修繕できるもの、直せば以前より使い勝手が良くなるもの。そんな物を造(作)り、そして使うことが、細くても良いから永く続いてほしい。

藤田英輔

 

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幻の山菜。
山菜の王様。

土佐町にはそう呼ばれる山菜があります。

その山菜の名は「しおで」。

 

「しおで」との初めての出会いは、何年か前に近所のおばあちゃんと一緒に梅をとった帰り道でのこと。それは田んぼの畦に生えていました。くねくねとした茎から細いツルをいくつも伸ばした細いアスパラのような植物をポキンと折って、

「これはしおで。さっと湯がいて食べてみや。美味しいで」

とおばあちゃんは手渡してくれたのでした。

 

その美味しさは、アスパラに野生の味が加わったと言ったらいいでしょうか。おばあちゃんに教えてもらったしおでの味が忘れられず、毎年の梅の時期に田んぼの畦や道端を歩いてはしおでを探す日々。でもなかなか見つかりません。野生のしおではいつでもどこにでも生えている訳ではないのです。

そんなある日、近所のスーパーの産直市で「立派なアスパラ」のようなしおでが束になって売られているのを見た時は、本当に驚きました。

 


 

土佐町にはしおでを栽培している人がいます。
土佐町瀬戸地区の岡林増榮さん。
瀬戸地区は土佐町の街中から車で50分ほど。アメガエリの滝や稲叢山、瀬戸川が流れる山深くとても美しい場所です。

 

岡林さんがしおでを育てている畑は標高800メートルの場所。岡林さんは土佐町で指折りのゼンマイ農家さんで、いくつものゼンマイ畑を抜け、落ちたら助からないだろう細い山道を上がっていったところに畑はあります。

 

 

遠く向こうまで広がるしおで畑。
よくぞこの場所に畑を作ったなあと眺めていると「元はここはゼンマイ畑やった」と岡林さんは話してくれました。

 

「太いのは茎の先に一本しかできないんやけど、大きいのよりか小さいのが美味しいで。花が咲きゆうろ、これも一緒に食べられる。一般の野菜よりも貴重価値が高いんやで」

岡林さんはそう言いながら手でポキポキ折って収穫していきます。

 

「僕が好きなのはかき揚げやね。美味しいで!生のを切って、衣とあえて揚げる。あとは油で炒めてだしを加えて、卵とじにしても美味しいで!」

「取れ始めは6月半ばから、7月10日くらいまでやね。高知市の城西館や土佐町のスーパー末広に出荷してる。高知で作っているのは僕ぐらいのもんじゃないろうか。四国でも聞いたことない」

 

 

今から30年以上前、ゼンマイの後に収穫でき、収入になる作物はないだろうかと考えていた時のこと。

ある日入った食堂で、隣に座ったトラックの運転手らしいおんちゃんたちの声が聞こえて来たそうです。

 

「『しおで』というのは、そりゃあ美味いぞ!なあ!美味いわにゃあ!」

 

岡林さんは、野生のしおでの味をもちろん知っていたので、その言葉で「しおでを育ててみよう」と決心、育て方を聞こうとすぐに農協や農業普及所へ相談に行きました。けれども育てたことのある人が誰もいなかったため資料は何もなく、岡林さんは1人で試行錯誤を始めました。

まずは野生のしおでを根ごと引いて、畑に植えてみたそうですが、なかなか育たない。しおでは株を中心に半径2メートル以上ぐるりと根を伸ばすため、山から引いてくるとどうしても根が切れてしまうからだそうです。

「根が切られるのは、しおでには死活問題。植えてもようよう生きちゅうばあよ。そればあ根がはっちゅう。そりゃあすごいぜよ」

「根を大事にせないかん。だったら種からやってみようと思った」

 

小さな花火のようなものが、しおでの花

しおでには小さな黄緑色のつぶが集まったつぼみが付いていて、だんだんと大きくなり花が咲くと「まん丸のブローチ」のような形になるそうです。そして真っ黒い種ができます。

育苗箱に種をまき、条件の違う色々なところへ置いて苗をたてようとした岡林さん。3年間、待てど暮らせどいっこうに芽が出ず、何回も「もうやめろうか…」と思ったそうです。

(「幻の山菜 しおで 後編」に続く)

 

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私の一冊

藤田純子

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「ちひろのアトリエ」 いわさきちひろ 絵, 松本猛 文 新日本出版社

この本の中でちひろさんは、「大人になる」と題して、次のように書いています。

「人はよく若かった時のことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを、何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。

私は一見、しあわせそうな普通の暮しをしていました。けれど生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、なにごとにも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。

そんな頃に私は戻りたくはないのです。今はあの頃よりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで何十年も失敗を重ね、冷汗をかいて、少しずつ少しずつ、ものがわかりかけてきているのです。何で昔にもどれましょう。」(後述略)

私はまるで自分を見ているように共感しました。しかもこの年になってまだまだ、ものがわかりかけている、としか思えないのです。

日常の出来事や出合いから、小さな子どもたちからも新しい見方を学ぶことが多いのです。

この本から良い刺激をいただけたことはもちろんです。

藤田純子

 

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4001プロジェクト

土佐町消防団田井分団(操法選手)

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左から 古谷雅之 島崎祐企 池添篤 三木智史 岡村哲治 町田健太

 

土佐町消防団田井分団・操法の選手たちです。

大変不勉強ですみませんが、「操法」という競技の存在を、土佐町に来るまで知りませんでした。

2年前の操法大会で、わけもわからず選手をやり、町の平和と安全がこのように守られていることを初めて知った次第です。競技の結果は散々で個人的に全選手中の最低点(!)を叩き出しました。その節のことは関係各位に改めてお詫びいたします。。

話が逸れましたが、操法のこと。

各地区の消防団が、補助員含めて6人のチームを作り、消防車の操作から火点に見立てた的をホースの水で倒すまで、動作の正確さとスピードで競います。

僕自身(石川)が(あまり役には立っていないのですが)田井分団に所属しているため、記録係としての出動となりました。

田井分団が本番を終え、ホッと一息ついたところでの一枚。背景には見えてないのですが、さめうらダムが霧の中に佇んでいます。

 

 

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私の一冊

西野内小代

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「空白の五マイル」 角幡唯介 集英社文庫

 

この本が出版され新聞に紹介された時に、とても気になったのですが手にする事なく数年が経過しました。

先日文庫本の棚で再会。

人跡未踏のチベット奥地にあり「空白の5マイル」と呼ばれている秘境の探検ルートが舞台です。半ば伝説として語り伝えられている場所です。

成功体験のノンフィクションと思いきや、結構重い内容でした。男のロマンというようなきれい事では片付けられません。

「空白の5マイル」に単独行で果敢に挑んだ作者の壮絶な軌跡の記録です。

西野内小代

 

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先日、以下のような記事を紹介しました。

本山町の障がい者支援施設「しゃくなげ荘」が新たにオープンしたカフェのスタッフポロシャツを、とさちょうものがたり x どんぐりのシルクスクリーンで作りました、という記事です。

 

 

カフェレスト しゃくなげ

 

今回は、その続きです。

しゃくなげ荘から、今度は本部で職員さんが着るためのスタッフポロシャツを発注していただきました。

しゃくなげ荘は、職員さんたち参加のコンペにより、胸と背中のデザインを自ら制作したそうです。「できることは自分たちで」の姿勢が素晴らしいなあと思います。

そして、できたのがこちら!

デザインを職員さんたちが考えていると聞いてから、どんなデザインになるのかと私たちもワクワクしていました。

職員さんも「ポロシャツ、すごく楽しみです!」と言ってくださっていて、とてもうれしく思いました。

 

胸のデザインはこちらです。

背中と胸の絵はそれぞれ別の職員さんが描いたのだそうです。

 

 

そうそう、「しゃくなげ荘スタッフポロシャツ」制作から、下の写真の道具を導入しました。「プリントマシーン」です!

 

版を固定しているので、常に同じ位置にプリントすることができます。今までの方法と比べ、想像以上にスピードが上がり、制作側みんなで驚いたのでした。

 

もちろん一枚一枚手でプリントすることには変わりません。今まで通り、丁寧に制作していきたいと思います。

 

完成したポロシャツをしゃくなげ荘にお届けしました。「お〜、いいですね!」というお声がうれしかったです!

同じ場で働く人たちが頭をひねって考えたデザインのポロシャツ、とてもいいなと思います。

昨年から始めたシルクスクリーンが少しずつ認知され、広がっていることに感謝しています。

ありがとうございます!

 

 

 

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山峡のおぼろ

爪・髪の毛

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あの日のことは、今でもはっきり覚えている。昭和18年(1943)、小学校5年生の時であった。学校から帰ると、祖母と母が縁側に腰掛けて泣いていた。祖父は山へ仕事に出ていた。私をみて祖母が何か言ったが、涙声で何を言っているのか判らなかった。

近付いて行くと祖母から、

「お父ちゃんから、こんな手紙が来たんよ。読んでみて」

と、一枚の便箋を渡された。3行か4行の短い言葉が書かれていた。楷書で、子どもの頃の私にも意味がわかった。

「今は元気だが、自分にもしものことがあれば、これを身代わりと思って下さい」

ということが書かれていた。大変な話だが、身代わりとは何だろうと思い、祖母を見ると、横から母が、

「これを見てみ」

と言い、

「ゆっくりと開けんといかんぞね」

と、小さな紙包みを渡してくれた。白紙を折りたたんで包んだものが二つだった。

開けようとすると母は、新聞紙を広げて縁側に置き、それを指さして、

「この上で、そろそろ開けて」

と、震えを帯びたような口調で言った。

 

中に大事なものが入っていて、それが落ちてはいけないのだと、子ども心にも察せられたので、新聞紙の上でゆっくり白紙を開いた。開きながら、妙に胸が騒いだ。祖母と母の表情がそうさせたのかもしれない。

まず出て来たのは、爪であった。もちろん父の爪だと思った。両手の指の爪を全部つんだと思われる数であった。

もう一つの包みからは、短く切った髪の毛が出てきた。兵隊は丸刈りだから、それを切った髪の毛はほんとに短いものであった。

これを送ってくるとは、ただごとではないという思いが、じわりと身体中に広がった。

 

母は時々声をつまらせながら、

「もし戦死しても、遺骨は届かんやろ。これを送るきに、遺骨と思うてくれ、と書いてあるんよ」

と言って、また激しく泣いた。祖母も顔がくしゃくしゃになった。

しばらくして祖母が、

「住所を書いてないきに、どこに居るやら判らんねえ。こんなものを送ってくるということは、こわい戦場へ行ったとしか思えんねえ」

途切れ途切れに呟きながら、その手紙を仏壇に供えた。

夕方山から帰った祖父は、その手紙と爪、髪の毛を見ながら、

「わしも日露戦争の旅順二百三高地の戦いで負傷したが、なんとか生きて戻ってきた。あいつも生きて返して下さいと、ご先祖さんに頼まにゃいかんのう」

と言って、仏壇に合掌していた。

 

父はそれから全く音信不通で、家族には諦めに近い気配が出ていた。

そんな雰囲気の折り、終戦翌年の昭和21年(1946)の春に、何の前ぶれもなく父が復員してきた。夢ではないかと思う帰宅だった。

父はシンガポール攻略戦に従軍し、占領したあともそこに駐留していた。そして敗戦後はイギリス軍の捕虜となって抑留されていたそうである。

 

父はあの時送ってきた爪と髪の毛を、

「命を守ってくれたご先祖様に、お礼を言わにゃいかん」

と言って、自家の墓地に埋めた。

 

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