僕が移住先に自然豊かな場所を選んだのは、子どもたちが取り巻く環境やそこに棲む生物たちに興味を持ち、山川で遊び逞しく成長してくれると願ったからだ。
豊かな自然に囲まれたこの環境では、四季折々の風景や動植物を観察することができるし、山や川で遊び場には事欠かない。木の枝や竹などを使って道具やおもちゃを手づくりしたらさぞ楽しいと思う。
しかし、子どもたちは、僕が勝手に妄想していたほど野生児には育っていない。
理由のひとつは、
僕が一緒に遊べない、ということだろう。
ここでの暮らしはなかなかに忙しい。土を耕し、火を熾し、食す。シンプルな生活だが、ひとつひとつの行程に手間が掛かり、あっという間に一日が過ぎていく。例えば、生活に欠かせない薪を手に入れようと思ったら、現場に行って、チェーンソーで適当な長さに切り揃え、軽トラの荷台に載せて家まで運び、斧で割って、棚に積んで乾燥させる、と言った具合。僕が家で費やす時間は長いが、子どもと向き合うひと時は意外と少ない。遊びに行こうと誘いたいが、やらなければいけない暮らしの作業があって、子どもたちとの時間を十分に捻出できない。
そして、今まで海の近くで住んでいた僕は、山や川での遊び方をほとんど知らない。釣り糸の結び方からどの野草が食べられるのかなど、未だ知らないことばかりだ。山道を歩くことにもコツがある。そんなことすら身に付いてない。僕の乏しい経験ではたとえ山や川に連れていっても、自分自身楽しみ方が分からず、子どもたちの好奇心も引き出せないだろうという負い目がある。
だからと言って、子どもたちに「ほら、こんなに遊び場があるよ、行っておいで」と言っただけでは、彼らもどうしていいかわからない。親を含めた先輩が一緒になって時間を過ごすことで、子どもは多くを学び、そのうちに自分たちで行動ことができる。そのお手本がいなければ、子ども自身が興味を持つ機会すらないとも言える。
幸運なことに、この地に様々なスタイルで暮らしている仲間たちのおかげで、川遊びしたり、虫取りをしたり、地域ならではの体験させてもらって、子どもたちは彼らなりにこの環境に慣れ親しんでいるようだ。
うちの子たちはネット動画を観るのが好きだし、親類に譲ってもらった電子ゲーム機に夢中にもなる。外には素晴らしいフィールドがあるのに、家でスクリーンに集中するなんてもったいない。しかし、それはあくまで僕の中の常識なのだ。ああしろこうしろと口煩く言わなくとも、子どもたちはそれぞれのバランスをとりながら、未来を生き抜いていくだろう。それは、これまで僕が過ごしてきた世界とは異なる。僕が学んできた価値観だけを押し付けてしまえば、子どもたちは時代遅れの人間となってしまうかもしれない。次世代へのバトンの渡し方もバランスが必要だろう。
写真:家から数分の河原にある巨石を登る長男。滑って落ちやしないか見ているだけで冷や汗が出るが、何事もないようにスルスルと登っていった。彼のバランス感覚は、すでに僕より上だ。