矢野ゆかり

土佐町ストーリーズ

「私について」

9月になったのに相変わらずに暑い。それを言い続けてもう何年になるだろう。残暑というより、9月が暑いのは最早デフォルトになってきつつある。

特にイベントがない今日この頃、今回は私について少々深堀りして書いていきたい。

私は生まれも育ちも高知、生粋の高知県民。子供のころには”おしゃま”で“悪ことし”、大学では“はちきん”と呼ばれた性格の、ちゃきちゃきしているのが、私である。

保育園から小中高と、地元の学校を卒業した。大学は高知市内に進学し、新卒で社会人1年半は同じく市内で仕事についていた。

ところが、ストレスが溜まりすぎたらしく…。ある夏の日。気がつくと、病院のICUの隣のベッドにいた。そこで伝えられたのは、双極性障害混合型、適応障害(過適応)、重度不眠、その時勤めていた環境には就労不可、という事実だった。確かに、私は仕事の合間に1時間に1回は吐きながら、フラフラするのを物につかまりながらやり過ごしていた。今考えてみると、まともな働き方ではなかった。

双極性障害は聞きなれないと思うが、簡単に言うと躁鬱。鬱の気分、普通の気分、元気すぎる気分がある病気だと解釈していただくとわかりやすいだろう。厄介なのは気力が無くなる鬱ではなく、眠気も感じず謎の万能感がある元気すぎる時だ。なので、普通の時と元気すぎる時しか知らない人は、「この人普通の人じゃないの?」と思われがちである。

職もなく、生きる余力も気力もない。そんな自分が一人で生きていける訳もなく、土佐町に帰ることになった。初めの頃は、父も母も、私が生きているか、お昼休みや夕方帰ってきてすぐに、ベッドに確認しに来ていた。

そのうち春になり動けるようになると、庭を散歩したり山菜採りに行けるようになった。山の緑が、やけに身にしみたことを覚えている。道すがら会うご近所さんは、私の病気に理解があり、

「ゆかりちゃん、今日は元気そうやね。ぼちぼちやりゆかよ?」

と声をかけてくれる。私は、

「ぼちぼちやりゆうよ。カタツムリみたいなペースやけんど。笑」

と答える。ご近所さんは、

「焦ってもなんちゃーならんきね。ゆっくり休みもって行きよ。」

と肩をポンポンと叩いてくれた。

今思えば、私は随分と恵まれている。昭和の時代では、”鬱は甘え”と言われるものだった。昭和世代のご近所さんからは、そんな素振りは見られない。精神疾患を色眼鏡で見ることなく、対等に接してくれる人はまだ多くないと感じる。

―病気に理解がある人が身近にたくさんいる。たまたまかもしれないけれど、私の故郷はそんなところなんだ…。―

私は幸せなめぐり逢いのある土佐町が、また好きになった。

父も母も弟妹も、私のよく分からないこの病気によく付き合ってくれている。急にボロボロ泣き始めても、病気の症状のひとつで箸の持ち方が分からなくなっても、一つ一つ相手をしてくれた。

未だに、双極性障害混合型は不安定だ。気持ちのアップダウンがしんどい。更に眠剤の耐性が付いているので、寝付くことも難しい。体の代謝が落ち、食欲が増すような薬も飲んでいて、こんなに太ってしまった自分を、鏡で見るのが苦痛でたまらない。

でも、私がこうして、双極性障害混合型や、ほかの精神疾患を語るのは、”こういう人が、ここでマイペースに生きゆうよ。”と伝えたいからだ。そして私が私であるために、この病気であることを隠して生きていくことは、できなかった。

私が地域に溶け込んでいられるのは、小さな頃の私を、”おしゃま”で”悪ことし”の私を、みんなが知っているからかもしれない。もちろん、精神疾患については色んな考え方がある。土佐町でも、精神疾患の捉え方は様々であるはずだ。しかしこの町は、私にとって極めて生きやすい。

もし「とさちょうつれづれぐさ」を読んでくださった方に、心の傷や精神疾患があるとしたら、私は伝えたい。

「あなたが、ちゃんとあなたらしくある限り、大丈夫だよ。この町は懐の深い町だよ。」

と伝えたい。

終始自分語りになったが、土佐町は結構温かい場所だと伝わればこの上なく嬉しい。

現在私は、障害者手帳をもち、ヘルプマークをカバンにくっつけて生きている。通院は市内に2週間に1回、かなりの量の薬を、飲んでいる。まるで一品料理みたいな量で、笑ってしまう。

一生付き合う病気だけども、今はなんとか手綱を握ることができるようになってきた。カタツムリが何年もかけてやっと到達した、今。

そしてカタツムリが這ってきた足跡を振り返ると、右に左にブレているのに、虹色に光って見える。生命の軌跡だ。

今回のエッセイが、精神疾患や障害者の理解に繋がればいいと思っている。 そして、同じ精神疾患を持つ人の、目印になれればこんなに嬉しいことはない。

とさちょうつれづれぐさByゆかり

「野中祭」

以前「かまちを守る人々」でも少し触れたが、今回は「野中祭」についてお話ししたい。

​このお祭りは、土佐藩の家老・野中兼山の名を冠している。「新井堰」と”かまち”の工事に取り組んだのが、野中兼山なのだ。町史に詳しい川田勝さんにお話を伺うと、もともとは新井堰水利組合が「鏡峯寺(きょうほうじ)」で野中兼山と先祖への法要を行い、奉納相撲を催していたのが始まりだそうだ。しかし時代の変化とともに組合単独での開催が難しくなり、当時の森小学校区(現在は廃校)の実行委員会が引き継ぐ形で、今の野中祭へと発展していった歴史がある。

​野中兼山は江戸時代、藩政の舵を取り、各地で新田開拓や用水路・漁港の整備を推し進めた人物だ。だがその工事は、想像を絶する過酷な労働だったと伝わっている。私が子どもの頃に教わったエピソードで強く記憶に残っているのは、「あまりの仕事の辛さに、『大便に行ってくる』と言い残し、そのまま走って逃げてしまった人がいた」という話だ。

​重機など当然なかった時代。猛暑や極寒のなか、ただ人力で土を固め、石を組み上げていく作業はどれほど過酷だったのだろうか。真冬の冷たい地蔵寺川の水量を止める工事で、どれだけの苦しみや犠牲があったのかと思うと胸が痛む。

​現在は、兼山と工事に尽力した先祖たちの功績を称え、昼間に鏡峯寺で「兼山祭」という法要を執り行ったあと、夜には「野中祭」として盆踊りや福引、打ち上げ花火で賑わう祭りとなっている。

お祭りに向けて地元の人々は朝早くから、旧森中学校のグランドに集まり、ボランティアで清掃作業を行うのだ。そして祭りが終わった次の日も後片付けを行う。「野中祭」は街の善意で成り立つお祭りだ。

​夏は田畑を潤し、冬には防火用水として町を守るこの“かまち”を、未来へ残していくことを誓い合う。今、田んぼの稲はちょうど出穂(しゅっすい)の時期を迎えている。どうか豊かな実りをもたらす天候に恵まれますようにと、私たちの祈りが届くことを願うばかりだ。

​◇

​……と、少し堅い話になってしまったが、ここからガラッと雰囲気が変わる。野中祭の最大のお楽しみといえば、間違いなく「福引」である!

​18時50分の福引券配布開始の時刻には、すでに盆踊りの会場を1周取り囲もうかという、長蛇の列ができる。配る福引はおおよそ700枚に対し当たりは180以上。何しろ、下1桁の数字が合えば当たるのだ。下1桁の賞品はボックスティッシュ5箱パックだが、当たればやっぱり嬉しい。この写真では撮りきれないほど列が並んでいる。

​中でも主婦層の熱い視線を集める一番の人気商品は、意外にも「町指定ゴミ袋半年分」である。皆さんそれを虎視眈々と狙っているのだ。

​野中祭の福引のコンセプトは、ズバリ「浅く広く、痒いところに手が届く」。特に今年は「酷暑、防災」がメインコンセプトだ。派手な液晶テレビや最新家電などはないが、非常食になるカップ麺1箱や簡易トイレ、防災リュックパックなど、「もらって困る人は絶対にいない」絶妙なラインナップばかり。

​何を隠そう、私の父は長年この福引係を務めている。小学生の時、買い出しで懐中電灯を30個ほど買い出しに行った記憶もあるが、今となってはどれも懐かしく温かい思い出だ。

​そして、福引抽選会の司会も父である。困ったことに絶妙なオヤジギャグをかますものだから、私たち家族は微妙な気持ちになる。だが、お祭りの真ん中、盆踊りのサークルの中央にやってくる当選者は「あの人が当たっちゅうねぇ」という周囲の視線を一身に浴びることになる。そう考えると、父のあのフランクで場を和ませる態度は割といいのかもしれない、と最近思い始めている。あと、子供が当選して、おっかなびっくりやってくるのを見るのは、なんとも微笑ましい。この写真は下一桁に当たった人々の列である。一等は自転車だ。エコである。

​そして、お祭りの夜を彩る「盆踊り」も忘れてはならない。

私が小学生の頃、森地区には熱心な踊りの先生がいた。そのため、他の地区の盆踊りに比べて演目が随分と本格的で、難しかったのだ。練習は夜、1か月前ぐらいから行う。保健福祉センターのあじさいホールで先生を中心に練習するのだ。花笠音頭、ソーラン節、土佐町音頭など、そしてもちろん、よさこい踊りも。

よさこい踊りはなんだか勝手に踊れるのでいいのだが、他の踊りはそうもいかない。今でも花笠音頭のワンフレーズが頭に浮かぶ。両手に花笠を持ち、

「ちょんちょんくるりんぱ、ちょんちょんくるりんぱ」

心の中でそう唱えながら、大人たちの身振りを真似て必死について行ったものだ。

そして本番の踊りの合間、休憩時間に配られるキンキンに冷えたジュースの、なんと美味しかったことか! これこそが、私の忘れられない小学生の夏の思い出だ。

​「ど田舎のお祭りだから年々参加者が減っていく……」と思われがちだが、野中祭の参加者は結構多い。最近は技能実習生と思われるお姉さんが、色鮮やかな民族衣装を身にまとって参加してくれていたのがとても印象的だった。「とさちょうものがたり」にエッセイを寄せているメリケさんも、盆踊りに参加されていたりと、国籍も世代も超えて輪が広がっている。

なんにせよ、高知県民はお祭り騒ぎが大好きなのだ。

私はこの野中祭が、ずっと残っていて欲しい。子供が光るおもちゃを光らせて走り回り、親に叱られる。でも本気で怒ったりはしない。どこかお祭りに来た人々は、夜店の明かりの非日常感にウキウキとして、浴衣をひらめかせる。様々な色のかき氷を食べる、おめかしした女の子たち。日焼けして真っ黒で、ギャーギャー言いながらたむろする男子集団。まさに、青春!

大人たちはそれをゆったりと眺めながら、キンキンに冷えたビールを飲む。私の世代は、みんな可愛らしい子供を連れてやってきていた。

そしてこれからも先祖の偉業を忘れることなく、”かまち”の豊かな流れを享受する。

この老いも若きも楽しめる、ド田舎のお祭り。できる限りずっと続いて欲しい、そう願うばかりである。

とさちょうつれづれぐさByゆかり

原爆忌

こんにちは。いよいよ8月である。

 

連日の猛暑に「今年は酷暑日が何回あるのだろう」と、空恐ろしくなる今日この頃だ。

 

​さて、8月といえば原爆の日、そして終戦記念日がある。私の趣味は俳句なのだが、俳句の世界で“8月”という季語を用いる時、そこには「原爆があった、終戦を迎えた」という歴史的な背景を含んで使われることが多いらしい。原爆忌という季語もそうだ。

(※テレビ番組で、俳人の夏井いつき氏が仰っていた言葉。)

 

​土佐町のWebサイトで、原爆忌について語ることが可能であるか?

執筆にあたってそんな迷いもあった。しかし私は、自分なりのアンサーを見つけることができた。そしてその答えは、私自身の古い記憶の中に、ちゃんと散りばめられていたのだ。

 

​夏休みのことだ。確か低学年だった記憶があるが、定かではない。しかし忘れもしない、登校日の「平和学習」で初めて原爆の話を聞いた時。私は、その恐ろしさに心底縮み上がり、帰宅一番優しかった父方の祖母の元へ駆け込んだ。

「ねぇおばあちゃん、原爆って知っちゅう? すごい怖いでね。また使う人がおったらどうしよう…….。」

キンキンに冷えた麦茶を出してくれた祖母に、不安いっぱいで尋ねたのを覚えている。

​祖母はいつにもなく真剣な目をし、1945年、子どもだった頃の記憶を辿るように話し始めた。

「大川に住みよった時、ちょうど朝、山に登りよってねぇ。そしたら遠くの北の空がピカッと光ったがよ。びっくりしてしばらく見よったらねぇ、どんどん空が真っ赤になってきて……後から聞いたら、あれが原爆やったんやないろうか。」

​当時の私は「そんな遠いところまで見えるものなのなんだなぁ…。」と驚きつつも、祖母のその言葉は幼心に深く刻み込まれた。

​しかし大人になるにつれ、私は「あれは祖母の勘違いだったのではないか」と思い始めるようになった。何しろ距離が離れすぎている。瀬戸内海もあれば四国山地もあるのだから。

 

そこでふと思い立ち、現代の技術である「AI」に尋ねてみることにしたのだ。

​返ってきた回答を要約すると、こうだった。

『十分にあり得ます。原爆の強い閃光(ピカ)は、100キロ以上離れた空をも白く染めます。実際、愛媛や四国の山間部でその光を目撃したという証言もあります。また山に登っていたのであれば、その後の火災によって空が赤く染まった様子を視認できた可能性も十分に考えられます。』

(※もちろんAIも間違えることはあるが、科学的・地理的な裏付けとして十分だった。)

​「おばあちゃんは、間違っていなかった。本当にあの原爆の光と空を見ていたんだ」

祖母の言葉を裏付ける事実を知り、驚くと同時に、一瞬でも疑ってしまった自分を深く恥じた。

 

​現在は特別養護老人ホームに入り、家族の顔も分からなくなってしまった認知症の祖母。けれど、彼女がかつて語ってくれた戦争の確かな記憶は、こうして私がしっかりと受け継ぐことができたのだ。

​祖母は大川村で育ち、のちに早明浦ダムの建設に伴って土佐町へと移住してきた。父も6歳まで、今は水底となった大川村の集落に暮らしていた。

 

​「戦時中はとにかくひもじかった」と祖母はよく言っていた。さつまいもを煮て干し芋を作る際、同じ鍋で何度も煮込むと、最後に甘いエキスのようなものが残る。それをすくって食べるのが、当時の祖母達兄弟の密かな楽しみだったそうだ。「芋飴」と呼んでいたように思う。また、非常食にしようと彼岸花の球根の毒抜きに挑戦し、毒抜きが足りずにトイレに駆け込む羽目になった、という笑い話も教えてくれた。(彼岸花はかなり毒性があるという事なので、笑うに笑えない話だったが…)

​また、相川に嫁いだ祖母の姉(私にとっての大叔母)は、学徒動員で長崎にいたそうだ。実際にあの巨大なキノコ雲を、この目に焼き付けたと話していた。もっと詳しく話を聞いておけばよかったと、亡くなった今になって悔やまれてならない。

 

​土佐町に直接爆弾が落とされたという話は、私は聞いたことがない。(※もしご存知の方がいたら教えてほしい。)

けれど、祖父母や曾祖母の世代に耳を傾ければ、そこには確実に生々しい戦争の記憶が存在している。土佐町にも忠霊塔があるように、戦争の痕跡は私たちが気づかない意外な場所に転がっているのだ。

今の平和は、先人たちの苦難と後悔、そして「二度と繰り返さない」という強い信念の上に成り立っている。その志を受け継ぎ、次の世代へと繋いでいくことこそが、今を生きる私たちの役割ではないだろうか。

​都市部の大空襲や原爆の被害だけではない。地方の小さな町や村にも、それぞれの戦争の記憶が確かに残っている。語り部となる世代が極めて少なくなった今、もしご家族に戦争体験者や当時の空気感を知る方がいらっしゃるなら、ぜひその話を聞いてみてほしい。そしてそれを、これからの時代を生きる「人生の指標」にしてほしいと切に願う。

 

とさちょうつれづれぐさByゆかり

十七夜

土佐町の夏祭りは、中島観音堂の祭り「十七夜(じゅうしちや)」で始まり、「野中祭」で終わる。

これが、私が物心ついた頃からの、我が家の、そして町の決まり事のようなものだった。

正式には「十七夜祭(じゅうちやさい)」と、ポスターにはある。恐らく土佐町民は縮めて「十七夜(じゅうしちや)」と呼んでいるだろう。

中島の観音様は、急勾配の階段を登りきった先に鎮座している。階段には赤いぼんぼり提灯が灯り、ノスタルジックな思いにとらわれる。

まずイカ焼きの匂いを鼻に吸い込み、一歩敷地に足を踏み入れると「夏祭りが始まった」という独特の情熱と熱気に包まれるのだ。

この観音様は雨乞いにご利益があるらしく、不思議と当日に夕立が降ったり、祭りそのものが雨に見舞われたりすることもよくあった。今年は珍しく降らなかったが、来年はどうだろう。

そもそもなぜ「十七夜」というのか、全くわからなかった。そのため責任者に問い合せたところ、『昔は旧暦の617日に開催されていたからではないだろうか。』との事である。もし他に理由を知っている方がおられたら、ぜひ教えて欲しい。

小学生の頃の私は、この「十七夜」の日をまだかまだかと、心待ちにしていた。

観音様にお参りを済ませたら、友達とかき氷を頬張りながら奉納相撲を眺め、屋台を回ったあと階段に座ってよもやま話に夢中になる。これこそが、待ちに待った夏の最初のお楽しみだった。

やがて少し年頃になると、お祭りの楽しみ方も変わってくる。夕立が去った後の少し湿った空気が浴衣にまとわりつき、歩くたびに下駄の隙間に砂が入ってざらつく。「髪型、崩れてないかな……」祭りの途中で、飾りをさした髪を気にするのは、この時期ならではの苦労だった。「アイツ、来てないかな?」と周りを探す。そんな年もあったように思う。

未成年は22時以降の外出が禁止されているため、21時を過ぎる頃になると学校の先生やPTAの方々が補導のために巡回を始める。

私たちは見つからないように、そして少しでも長くこの特別な空間にいたくて、22時ギリギリまで粘るのだ。そしてタイムリミットが来ると、まるで蜘蛛の子を散らすように各自の家へと帰っていく。

大人になった今、あの追われるような帰り道さえも愛おしく思い返される。もう二度と戻ることはできないけれど、私はあの場所で、間違いなく子供時代というかけがえのない時間を存分に味わい尽くしていたのだと思う。

今回、私1人祭りに足を運んでみたが、昔のような気持ちは抱かなかった。子供たちが親に連れられて、歳上の子供たちは、友人たちと浴衣姿でホットクを食べていた。金髪にピンクの浴衣の外国人の姿も、昔は想像もつかなかった。その時代だからこそ、味わえる楽しみ。

酷暑の薄暮の祭り会場には、私の懐かしく愛おしい思い出だけが漂っていた。

とさちょうつれづれぐさByゆかり

”かまち”を守る人々

こんにちは。

初めまして。矢野ゆかりと申します。

(以前、私の一冊で長々と持論を垂れ流していたので、それを目にした方はお久しぶりです、と言うべきでしょうか。)

日本酒が蛇口から出てきそうなところに住んでいると言えば、どこの誰か分かるかもしれません。ローカルすぎる、それが、土佐町の良いところだと私は思います。

この度、合同会社風の石川さんにオファーを頂き、「とさちょうものがたり」にエッセイを連載させていただくことになりました。

つい最近、高新のツアーで京都の北野天満宮に行ってきました。撫で牛を見かけたら、というか牛の像、全部を撫でてきました。私に文才をお与えくださいとお願いしましたが、さすが菅原道真公、お仕事が早い!早速こんな素晴らしいお仕事が舞い込んできて、びっくりしています。実技で文才を磨けというお導きでしょうか。

菅原道真公と牛には深い縁があり、『撫で牛』と呼ばれるものがあります。学業成就や、足腰が強い牛にあやかって足を撫でると頑健になるなど、いわれがあります。

それはさておき、エッセイを書いてみない?と言われ、二つ返事にはい!と答えたものの、いざ書くとなるとどのようなものが良いのか、悩むものですね。

ですから無難に、今回は季節のことに触れてみようかと思います。四国もいよいよ梅雨明けしましたね。空が眩しく感じますが、暴力的な日光が照りつけています。

梅雨の間の雨も、つい最近も九州に線状降水帯が現れたのに、高知県は特に酷いことはありませんでした。良かったと、胸を撫で下ろした人も多かったのではないでしょうか。

雨が降り地蔵寺川が増水すると、一部の人々に重要なミッションが発生するのはご存知ですか?皆さんが日常で必ず目にしているもの。かまち。床鍋の新井堰から、流れてくる用水路のことです。新井堰を管理する係と、各地区にこのかまちの水門を管理する人、彼らの背に重大ミッションが課せられるのです。

まず、大雨が降ると、新井堰の堰が自動で倒れ、かまちに大量の水や流木などが流れ込むことがないようになっています。さらに下ると、山から流れ落ちる沢がかまちに直結する場所がいくつもあり、そこに水門があります。それぞれの地区に係の人がいて、土砂やゴミが溜まってつまらないように、水門を調節します。地蔵寺川の水量が平常に戻ってくると、新井堰を元に戻す係が堰を戻します。そして、いつも通りのかまちが戻ってくるのです。

皆さんどうでしょう。何となく目にしていた田畑を潤すかまちは、こういうシステムになっていたんだ、という気づきになって貰えるとうれしいです。ご先祖さまがそれを培っていたことを思うと、ありがたい気持ちになります。

新井堰とかまちが造られたのは江戸時代、土佐藩の家老野中兼山が指揮したものです。これについてはいずれ、『野中祭』についての時にお伝えできたら、と思います。

初めてのエッセイですが、こんな感じで続けていきたいと思います。私自身のこと、家族のこと、時事ネタなど、土佐町に関わることを書いていきたいです。

どうぞよしなに、お付き合い下さい。

私の一冊

矢野ゆかり

「情報資源組織論」 田窪直規 樹村房

お久しぶりです。

めちゃくちゃ久しぶり過ぎて困ってしまいますよね。

体調が悪いので何も出来ないことも多く、落ち込むことばかりです。その中でも父の還暦のお祝いのセッティングや、母の日などを祝いました。他に父や母、家族のみんなや友人が、ささいな幸せをくれます。

正直に言うと、今は体調がめちゃくちゃ悪いです。でもルールを作って何とか生きています。朝はできるだけ朝食をとり、昼間は自由、昼食は食欲がないので食べたくなったら食べる、夜もできるだけ夕食をとり、なるべく入浴し、お肌のケアはほぼ必ずして、あとは自由です。最近は睡眠時間が極端に短くなり、集中力が落ちているのが目下の悩みです。薬を変えてみたところ、精神状態が非常に悪くなり、気分転換に私の一冊を書いてみました。

そして、更に今私は司書資格の勉強中です。集中力が落ちている中、理解がめちゃくちゃ難しい本を読みました。専門用語満載で、とても苦しみました。なんちゅうこっちゃ

タイトルは「情報資源組織論」です。

この本は、図書館における情報という資源をいかに組織化するかという内容です。皆さんご存知無いかもしれませんが、ほぼあらゆる図書館は、所持している書籍をデータ化し、ネットワークで共有しあっています。(独立した図書館もあります)そのデータは著者名や出版社、キーワードなど多岐に渡ります。また、組織化という点で、データを利用するためのシステムがいくつかあります。例えば、図書館の背表紙に貼られている背ラベルには、所在記号と呼ばれる、データを活用するための分類がのっています。他にも日本十進分類法(NDC)などの手法があります。

とまあ、ややこしくて大変なんですよ。司書になるためには。好きなファンタジーとかでは無いし、ワクワクもドキドキもしません。ひたすらにストレスです。こんな本、読んだこともありません。というか、前述の本の内容合ってるんでしょうかね?()私の理解力ではちょっと、出身大学ですらこんな教科書なかったですよ

でも、司書になるためには、このような知識が必須なんですよね。仕方がないですが、自分の興味のない本を読むのは本当に苦痛です。皆さんも、資格を取るために勉強なさることもあるかと思いますが、こんな思いをしながらなさるのでしょうか。そう思うと、仕事に必要だからと、資格を沢山持っている父はすごいと思いますし、医療系の資格を撮った弟も相当苦労したんだなと思いました。

そして私は司書資格をとって、病の身で無事図書館に就職できるのだろうかという不安があります。生きていくのは難しいですね~。はぁ。

何やら尻切れトンボですが、

さて、次にお会いできるのはいつになるでしょうか?

わかりませんが、またお会いできるのを楽しみにしています。

おわり

私の一冊

矢野ゆかり

「ろいろい とさちょう」 とさちょうものがたり作, 下田昌克 絵  合同会社風

お久しぶりの登場、矢野です!
本を読む気になれず、こんなに時間が経ってしまいました。こんな私が読書を趣味と言っていいのか、困ったものです。そんな中、編集部の鳥山さんがある絵本のページを送ってくれました。

今回はその絵本を紹介したいと思います。私が書いていいものか悩みましたが、読んでみて数々の思い出と懐かしさが込み上げてきたので書かせていただくことにしました。「ろいろい とさちょう」土佐町のオリジナル絵本です。作者はとさちょうものがたり、絵は下田昌克さんです。この絵本は珍しく蛇腹になっていて、表と裏で楽しむことが出来ます。実は私と父と母も登場しています。そっくりすぎて思わず笑ってしまいました。(モデルなった時の私は痩せていた時だったようで、今とはサイズがちがいます 笑)

あまり詳しく書くと、これから読む人がつまらないと思いますので、どんなところで思い出があるのか、ちょこちょこ書かせてもらいます。

まず、川が出てくる場面。土佐町の子供は小学生から高校生まで、夏は川にお世話になります。男女年齢関係なく大人数で行けば大丈夫という謎の安心感で、繰り出していました。私は他のページにも出てくる岡部商店で“ちゃん”と呼ばれるモリを買って、魚を突いていました。同級生の男の子と一緒にどこまで深く潜れるか競争したり、岩から飛び込んだり、焚き火で魚を焼いたりしました。
1つここで懺悔をするとすれば、肝試しで岩から飛び込みをしていた時に、調子に乗った私は妹の背中を押したらしいです。皆さんは決して真似しないでください。陽菜、ほんまごめんなさい。
川の底に潜って体を空に向けると、水面がゆらゆら青い空がおぼろげに見えます。表面と違って川底の水は冷たく、そばをゴリ(底に済むハゼのような魚の総称)が泳ぎ、川の水がしゅんできて、川と一体になった気がするのでした。
絵本には書かれていませんが、川遊びのプロは水着の上に白いTシャツを着ます。泳いでいるのがよく見えるということと、川の虫達(アブやテジロ)が黒色を好むので、自然と白いTシャツを着ていました。今はどうなんでしょうか…。

次に三島と東境が出てくる場面。いつも5月の終わりから6月の初め頃に、蛍が飛び始めます。この時期はみんな田んぼの畦を刈ったりするのですが、ここの用水路は刈りません。蛍の寝床になるからです。私が物心着く頃からそうでした。そして夜は街灯を消して、蛍が飛べるようにします。このことを当たり前だと思ってくださる人々に、私は誇らしい思いを抱きます。
小学生の頃、蛍を見に行った時、先代の土佐酒造の社長さんに会いました。その時うっかり「おじちゃんは頭がぴかぴかやき、蛍も間違うね」と言ってしまい、父にしばかれた思い出があります。社長さんは「ほんまじゃ、まっことそうじゃねぇ」と笑ってくださったことを覚えています。

南川地区が描かれたページ。優良運転者のマークがついた軽トラに、イノシシかどんと載っています。友人は子供の頃、軽トラの荷台で解体されていたイノシシを見て、イノシシを食べられなくなったそうです。独特の匂いがするとも言っていました。林道にイノシシの頭が落ちていたこともあったそうです。
イノシシは毎年必ず食べていますが、猟師さんや捌いた人で味が全く違うので驚きます。私をかわいがってくれていた、ノブさんという今はもう亡くなったおじいさんがいますが、私の身長ぐらいある大きなイノシシを撃ったことがあると教えてくれました。イノシシと交通事故に会うと、車が廃車になることもあるそうです。もののけ姫に出てくる大イノシシたちも、あながち間違いじゃないなぁと恐ろしく思ったことでした。

森地区の野中祭。父が福引係でいつも抽選会の司会をしています。はっきり言って、つまらないギャグを言うのは本当にやめて欲しいです。お願いします。

次にさめうらダム。カヌーに乗ったラヨシュ・ジョコシュさんが描かれています。私の弟が高校生の時、ラヨシュさんにカヌーを習っていたのですが、「裕太、ノーマッスル」と言われていました。だいぶ傷ついたようで、今でもAmazonプライムデーにプロテイン買い溜めして飲んだり、仕事終わりにジムに通っています。でも、ひょろひょろです。

相川には祖母のお姉さんが住んでいました。赤牛を飼っていて、お邪魔する度に見せてもらっていました。特に目が印象的で、Cカールのマツエクをどっさりつけたようなまつ毛、うるうるの黒目がちな大きな目、性格もおっとりしていて本当に可愛いです。

この絵本を読んでいると、土佐町民は誰もが自分の思い出が蘇るのではないでしょうか。描かれている人を見て、「どこどこの、あの人じゃないかな?」と思ったり、「もしかして、これ私?」なんて、思ったり。そして、関係ない人が読んでも、自分のふるさとのことを思い出すことでしょう。
この絵本は本当にたくさんの人の協力で完成した絵本です。本を作ること自体、1人ではできないことですが、下田さんや編集部の地道な取材があってこそ、リアルな土佐町が描かれているのだと思います。このコラムを読んでくださっている方も、ぜひ、「ろいろい とさちょう」読んでみてください。自分だけの土佐町が見えてくるはずです。

右手にのしかかってくる飼い猫の頭が重いので、そろそろ筆を置きます。
読んでくださってありがとうございました。
最後に、世界がもっと平和に、世界がもっと優しくなりますように。祈って。
終わり。

 

私の一冊

矢野ゆかり

「14ひきのこもりうた」 いわむらしげお 童心社

こんにちは!

ゆかりです。頑張って書いてみましたよ。

随分と春めいて参りました。花粉や黄砂がすごくて、鼻を取り外して洗ってしまいたいです。去年よりも酷い気がします。はっくしょい。むずむず。飼い猫が甘えてきて、鼻がやけにしっとり湿っていて、しまさん(飼い猫の名前)も花粉症かしらなんて思ってしまいました。しまさんは気持ちよさそうに撫でられていました。

さて今回の私の一冊はまたまた絵本です。

いわむらかずおさんの『14ひきのこもりうた』です。ネズミの家族を描いた14ひきシリーズは、割と有名ではないでしょうか。母が買ってくれていたので全冊ではありませんが、シリーズであります。

私はいわむらかずおさんの、筆のタッチがとても好きです。ネズミたちの毛並みや草木の豊かな緑、夕方独特の暖かな空気。夕飯のきのめのシチューや、薪焚きのお風呂に憧れたものです。14匹の1匹いっぴきに特徴があり、シンプルな文章にそれが垣間見えます。私は以前ネズミを飼っていたのですが、絵と実物がそっくりです。手足や耳の感じがとてもリアルです。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、10匹の子供たち。14匹の大家族の賑やかな夜がふけていきます。お母さんにお話を読んでもらって、子守唄を歌ってもらって子供たちは眠りにつきます。小窓に小さな虫がいるのが、なんとも可愛らしいです。

子守唄は優しいメロディで、心が暖かくなる言葉選びです。この子守唄には思い出があります。どんな時だったか忘れてしまいましたが、妹や弟に歌った記憶があります。昼間だった気がします。母や父の真似をして背中をポンポン叩いて、ねむねむねむのき はをとじて…”。今思えばそんな歳も変わらない子供同士なのに、私はお姉ちゃんぶりたかったんだなぁと思うのでした。

またこの本は装丁をめくると別の絵が隠れています。そこも楽しいところです。手に取ったら是非めくってみてください。

ではこの辺で筆を置きます。

世界の人々がこの絵本の中身のように、家族で当たり前の幸せを得られますように。心から祈っています。

 

私の一冊

矢野ゆかり

「12のつきのおくりもの」 スロバキア民話 福音館書店

こんにちは!お久しぶりです、ゆかりでございます。

あっという間に3月になってしまいました。水がほどけ、硬い木の芽も緩み、日が長くなっています。もう春がそこまで来ています。とは言え、雨の日は底冷えがしますし、市内に比べて寒いのは仕方が無いですよね。さて、最近の話題と言えばなんでしょうか。やっぱりロシアとウクライナの戦争に尽きるでしょうね。我が家では毎日話題にのぼります。どうして戦争になるのでしょう?底知れぬ恐ろしさを感じます。このまま第三次世界大戦なんてなったらどうしようと不安が募るばかりです。もちろん1番不安なのはウクライナ国民だと思います。人間にとって一番大変で大切なのは平和で、どうか世界が平和になるよう祈るばかりです。

さて、私の1冊に入りましょう!

今回は東欧スロバキアの民話、

12のつきのおくりもの」です。

画像を見てお気づきかと思いますがこれ、こどものとものバージョンです。私が保育園の年中さんの時に貰った本です。(20年以上前!!)母が大事に取っておいてくれたものです。

この民話の主人公はマルーシカという働き者で美しい少女です。いつも継母と継姉ホレーナに虐げられています。彼女らはマルーシカを追い出そうとして、とうとう無理難題を言って真冬の森にお使いに行かせます。昔話の定番です。マルーシカは仕方なく、泣きながら真冬の森に行きます。そして12の月の精の焚き火に出会います。そこで彼らに助けてもらうのです。美しいすみれ、溢れるほどのいちご、驚くほど美味しいリンゴ。それぞれの月の精が、マルーシカが無理難題を出される度に助けてくれるのでした。

この本の好きなところは、素敵な絵です。カラフルで細かい柄のスカート、雄々しい焚き火、コロコロしたいちごや、真っ赤に熟したリンゴ。ついついページを見入ってしまいます。私は幼い頃夜寝る前に、絵本の読み聞かせをしてもらっていました。間接照明のオレンジの明かりと母の優しい声、ページをめくる音、今でも鮮明に思い出せます。寒くて毛布の端を掴んで、母に擦り寄っていた事も、何となく思い出されました。皆さんもこんな経験あるのではないでしょうか。母や父、祖父母に本を読んでもらったり、お話をしてもらったこと。私は食い意地がはっていたので、食べ物の出てくる話が大好きでした。私にとって、かけがえのない思い出です。

母は私達弟妹の、保育園時代の絵本をほぼ残してくれています。絵本は同じ話でも色んな作画があるので、この本たちは宝物です。私はもし子供が出来たら、同じように本を読んであげたいと思っています。

それでは今回はこの辺で。

また絵本の話を書きたいと思っています。

どうか全ての人々の平穏を祈ります。

おわり

 

私の一冊

矢野ゆかり

大変遅くなりました!

「私の一冊」においてのレアキャラ、ゆかりです。

煮詰まっているうちにあれよあれよと日が過ぎ年を越え、まさか1月になるとは。びっくりです。私がグツグツに煮詰まっている間、色々なことがありました。オリンピックに新型コロナの第6波、米中関係悪化に米露関係の悪化、個人的には最近起きたトンガの海底火山の噴火と原因不明の潮位変動がありますね。新型コロナによって生活が一変したことは、もはや日常とかしていまが、特に新型コロナの変異株・オミクロン株の急激な拡大は目を見張るものがあります。まるで何かが人間に試練を課しているかのようにも思えます。人間が人間以外の生き物に、常に変化や災いをもたらす事=試練と考えれば、余り変わらないかもしれませんが

さて、前座は置きまして、ラストの7巻も後半です。

前回はナウシカがシュワの墓所へ向かうところで終わっていました。続きからです。

ナウシカは隠された庭からでてくると、蟲使い達と城爺に会います。蟲使い達はナウシカについて行くため、大事な蟲達を殺してまで着いてきたのでした。ナウシカはその覚悟と犠牲に涙を流しますが、蟲使い達は「泣かないで」と慰めます。意外かもしれませんが、私はこの些細なシーンが好きです。何故なら、使命の為に自分が尊く思うものを犠牲にする精神を持つ蟲使い達と、そのようなことをさせてしまうナウシカのカリスマ性にリアリティを感じるからです。

さて、ナウシカは姿の見えないオーマの姿を探します。オーマは先に墓所へ行き、事をなそうとしているのでした。ナウシカ達は急いで後を追います。その頃シュワの墓所では、トルメキアのヴ王が墓所へ攻撃を仕掛けていました。墓所の守りは硬く、犠牲は増えるばかり。そこへ巨神兵が現れます。オーマです。彼はヴ王へ戦闘中止を要請するものの、武力を持って墓所を鎮圧しようとするのでした。大きな被害を与えたものの、ほぼ相打ちのような形になり、彼は深い空堀の中に落ちてしまいます。

全ての武力を失い、道連れは道化師のみとなったヴ王の元に、墓所から使者が現れます。墓の主がヴ王と会うというのです。時を同じくして、エンジンを損傷し墓所の上に不時着したガンシップには、アスベルとミトがいました。ミトは重傷の様子ですが、「この墓は生きている」と極めて冷静な状況判断をします。ミトは死ぬ覚悟をし、アスベルを巨神兵がつけた傷口から内部に潜入させ、自分は残って墓へ追撃を加えるべく動いたのでした。

ヴ王が墓の主と会おうとしていたとき、ナウシカは墓所へたどり着きます。そして「王以外は入れない」という墓所の住民を一瞥で制し、堂々と墓所の主の元に向かいました。

墓所の主の元で、ヴ王とナウシカは出会います。墓所の主とは、全体に文字が浮きでた肉塊でした。墓所の住民達はここで、墓所の主に、夏至と冬至に浮き出てくる文字を解読するためにヒドラとなり、何百年も生きているのでした。

墓所の主はヴ王とナウシカにあるものを見せます。それは学者と思わしき人物達の群れが、語りかけて来るものでした。「君たちは長い浄化の時にいる」「いずれ清浄の地へいける」と言葉が投げかけられます。しかし、ナウシカはもう理解していました。その言葉がまやかしであることを。ナウシカは墓所の主の言葉を真っ向から否定し「真実を語れっ」と言います。

墓所の主は返します。「………どの真実をだね? あの時代どれほどの憎悪と絶望が世界をみたしていたかを想像してみたことがあるかな?」「有毒の大気 凶暴な太陽光 枯渇した大地 次々と生まれる新しい病気とおびただしい死」「ありとあらゆる宗教 ありとあらゆる正義 ありとあらゆる利害 調停のために神まで作ってしまった」と。

ここでひとつ。思いませんか?これって今の話?と。

『風の谷のナウシカ』を初めて読んだ時はあまり感じなかった事が、最近急に実感を増してきたように思えます。新型コロナが次々と変異し拡大しているのを見たからでしょうか。数年前のエボラ出血熱の流行も頭を過ります。(極域の永久凍土は今も溶け続けていますが、その中には何百何千もの未知なる菌が潜んでいると言います。熱帯雨林もそうです。)そして、宗教対立による戦いや国家間の関係悪化、移民問題。マイクロプラスチックやCO2による地球温暖化といった環境破壊。私達はこれからどのような世界に生きていくことになるのでしょうか

本編に戻ります。あと少しですのでお付き合い下さい。

墓所の主は「人類はわたしなしには亡びる」と言い、ナウシカは「それはこの星がきめること」と返し、命を光と呼ぶ墓所の主に「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ」と言い放ちます。ヴ王も「朕は墓守にはならんぞ お前には仕えん 自分の運命は自分で決める」と同調します。墓所の主は彼らを殺そうと攻撃しますが、ナウシカは瀕死のオーマを呼び、主を倒すのでした。オーマも同時に力尽き、ナウシカに看取られて死んでいくのでした。

さて、ここでもちょっと。私、ヴ王が好きなんです。クシャナの敵役として「毒蛇の中の毒蛇」と称される冷酷なヴ王ですが、物語の各所には彼が王たる所以が見られます。クシャナやナウシカとは違うカリスマ性を持っている人物なのです。それを証拠にヴ王は、もっと早くナウシカに会いたかったと言い、ナウシカを庇って死にます。もしも、もっと早くナウシカがヴ王と出会っていたら、トルメキアと土鬼の戦はなかったかも知れません。しかし、この戦がなければナウシカがこの世界の真実に気付くこともなかったと思えば、運命を感じさせるものがあります。そんな物語を作る宮崎駿に、計り知れぬ何か強い意志を感じたのでした。

そして、ナウシカの「いのちは闇の中のまたたく光だ」というセリフ、深い感銘を受けました。まず初めに、私が思い描いたのは、母親の体内で羊水に浮かぶ赤ちゃんのイメージ。さらに目を閉じても、チカチカと光る太陽の残影。夜中の街灯に蛍の光。まったき光がいのちなのではなく、清と濁があり、光と闇両方抱えるものこそいのちなのだという視点は的を得ていて、様々なことに共通するだろうと思います。また、またたいている、というのが、いのちの多様性や変化を表していて素敵だと思うのです。

墓所の主の死後、ナウシカ達は彼女を追ってきたクシャナや、チチクにで迎えられます。その光景は、焼けただれた大地が朝日に照らされ金色にひかり、ナウシカの衣服は墓所の血によって深い青にそめられ、蟲使い達が喜びの舞を踊っていました。「その者青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」と同じだと、チヤルカ達は涙を流していました。

そしてナウシカは言います。「生きねば。」と。

辛くても苦しくても、血を吐いても、生きねばと。

そしてこの出来事は、子々孫々と伝えられてゆくことが語られ物語は終わります。

私達は現代において様々な状況に置かれています。一個人として、家族や地域社会という単位で、職場で、SNS上でといった様々な側面を持ち、そして多種多様な生き方をし、自然とのかかわりも色々です。ナウシカの言う「生きねば。」は、自分が自分でいることに疲れた時、ふと原点に戻らせてくれる、そんな言葉です。結局、私達は生き物なので、生きることが最も尊く、かつ難しいことなのだと思います。

前を向いて生きる。辛くても。

そう思わせてくれる物語が、『風の谷のナウシカ』という物語なのではないでしょうか。

長い話でしたが、これで終わりになります。

少しでも『風の谷のナウシカ』の魅力が伝えられたら、幸いです。

コロナ禍の中で働く全ての人にエールを。

闘病中の方や後遺症に悩む人にエールを。

亡くなった方に弔いを。

それでは、また。