4001プロジェクト

“4,001”

土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)

注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。

“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。

念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。

土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。  (敬称略・撮れたときに不定期更新)

4001プロジェクト

美並恵子(三島)

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美並恵子さん、昭和8年生まれの92歳。

汗見川沿いの沢ケ内という集落で育った恵子さん、沢ケ内小学校を卒業とともに敗戦を迎えます。

その後は戦後体制の吉野中学校。7人兄弟の長女だった恵子さんは、卒業後は幼い妹弟のお姉さんとして家の仕事を切り盛りします。

田んぼ、山の仕事、炭焼き、お百姓のやることはなんでもやったそうです。

 

 

 

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高橋康子(田井)

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田井の高橋康子さん、昭和17年生まれ。田井の商店「岡部」さんのお家に生まれた康子さん。

当時の田井の子どもたちと同様、田井小学校から田井中学校へ進みます。

そのまま嶺北高校を卒業した康子さんは、当時中島にあった「文化服装学院」という洋裁の学校へ。2年かけて洋裁の勉強。その後は田井の「山中百貨店」で洋裁の仕事をしていたそうです。

当時は既製品が現在のように溢れている状況ではなく、服を買うと言えば「山中百貨店」のようなお店に行き、採寸から始めて作ることが普通だったようです。

 

 

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山下登 (田井)

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田井に住む山下登さん、御歳81。私(石川)のご近所さんです。

季節問わず、朝にはこうして車イスで散歩を楽しむ登さんのお姿が私の自宅前で見かけられ、「いつか写真を取りませんか?」とお話ししていました。

なかなかタイミングが合いませんでしたが、先日登さんの姿を自宅前で見かけて、やっと実現した写真です。

 

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高橋敦子 (田井)

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高橋敦子さんは南川地区の生まれ。当時の南川地区の子供たちは川奈路という地区にあった南川小中学校に通っていたそうです。

その後いったん岡山の会社に就職した敦子さんは、高知に戻ってきて20歳頃に結婚。

お相手は大川村の方で、数年大川村に住んでいたそうです。

22,3歳ごろには田井に移り、以来ずっと田井に住われているそうです。

 

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川村幸 (田井)

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川村幸さん、83歳。昭和15年生まれです。

古味地区で生まれ育った幸さん。さめうらダム建設の際に当時の古味地区はダムの下に沈み、新しい古味地区がさらに山の上方にできました。

幸さんのご家族、ご主人と二人のお子さんはそのタイミングで田井に移り、以来約60年、田井に住われています。

 

 

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鍋島セイ子 (田井)

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昭和8年生まれの鍋島セイ子さんは北海道の十勝生まれだそうです。

祖父母、ご両親が共に土佐町から開拓移民として北海道へ移住。

聞けば当時は高知から北海道へそうして移住される方がとても多かったようです。

セイ子さんとご兄弟は全員が北海道生まれ。

やがて祖父母が土佐町に帰ることを決め、それに伴ってご家族も帰高したとのことでした。セイ子さん6歳のこと。

南国市領石の方とご結婚。ご主人は果物や野菜の卸業を営んでいた方。

当時土佐町の各地区にもたくさん存在した小売店やスーパーなどに生鮮食品を卸して回っていたそうです。

 

 

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川村聰子 (田井)

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川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。

12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。

想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。

昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。

その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。

お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。

その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。

 

 

 

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畠山都子 (和田)

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昭和2年の生まれ、畠山都子さんは97歳です。矍鑠(かくしゃく)としています。

和田地区生まれ、和田地区育ち。和田の方とご結婚され、お子さんが生まれるまで和田にお住まいだったそうです。

昭和40年田井へ移り、病院での給食を作る仕事を長らくされていたとのこと。

この年代の方々の共通点ですが、やはりご家族が戦争に出征されています。お父様が中国へ2年間。二人のお兄様も相次いで出征。

お父様は2年後元気な姿で帰ってこられたそうですが、お兄様は二人とも戦死され帰ってこなかったとお話しされていました。「兄は出征するとき泣いていました」とお話しされていたのが印象的でした。

 

 

 

 

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和田八重子 (森)

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上津川で生まれ育った和田八重子さん。八重子さんが子供の自分は、上津川の子供たちは井尻という地区の井尻小学校へ通っていたそうです。

上津川地区からは山を降るように一里(約4キロ)ほど。

現在は井尻地区はダムの下に沈んでいます。

八重子さんはその後ご結婚され森地区へ。以来ずっと森地区にお住まいだそうです。

 

 

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西村寿次 (地蔵寺)

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地蔵寺に生まれた西村寿次さん。昭和12年生まれ、現在86歳。

地蔵寺の農家さんで長らくお米を作り、大工さんをやったり。屋根瓦を葺く仕事を25年されていたそうで、その時分には室戸から中村までお仕事で頻繁に行き来する暮らしをしていたそうです。

 

 

 

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