田井に住む山下登さん、御歳81。私(石川)のご近所さんです。
季節問わず、朝にはこうして車イスで散歩を楽しむ登さんのお姿が私の自宅前で見かけられ、「いつか写真を取りませんか?」とお話ししていました。
なかなかタイミングが合いませんでしたが、先日登さんの姿を自宅前で見かけて、やっと実現した写真です。
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土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)
注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。
“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。
念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。
土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。 (敬称略・撮れたときに不定期更新)
川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。
12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。
想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。
昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。
その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。
お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。
その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。