山村育ちの友人たちと話す時、秋の脱穀機の音が忘れられないということをよく聞く。
山村の田は、家の近くにもあるが、山の中腹や、それよりも更に上の高地にも多くあった。稲を刈り取ったあと、その田で脱穀することが多かった。今のような電動の脱穀機ではなく、足踏み機であった。
父は応召して居らず、祖父母と母で田畑や山林を守っていた。
稲刈りの作業には私も、小学校の5年生の頃から、日曜日には家族と共に山の田へ行った。
稲は刈って、それを乾かしてから脱穀する。その時に扱いやすいように、稲は手頃な量に束ねていた。
脱穀機は分解出来ないので、そのままで運ばなければならない。人が背負ったり、牛に背負わせたりして運ぶ。山の坂道だから、人はもちろん、牛でも難儀して上った。
私も背負って上ったことがあったが、小学生の頃は無理で、中学生になってからであった。上る途中で何度か、道脇の石や木の切り株に脱穀機を下ろして、足腰を休めた。
終戦の昭和20年に高知市の中学校に入学したので、日曜日や“農繁期休暇”には手伝いに帰った。
戦中、戦後の窮迫した時代であったが、脱穀の時の思い出は意外に爽やかである。晴れ渡った秋空の下で、脱穀機が回る音と、稲穂から籾を落とす音が、なんとものどかで、のびやかであった。
主に祖父が脱穀機のペダルを踏んで作業したが、時には私も交代して手伝った。
青い空と、澄んだ山気と、その中に拡がる脱穀作業の音が、今も身体に残っている。