2019年2月

山峡のおぼろ

棕櫚縄

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部屋の壁に「こぶて」のセットが掛かっている。西石原での少年時代、山で小鳥をとるために作ったものである。

「こぶて」といっても判らぬ人も居るだろうが、山の子にとって大切なものであった。

弾力ある跳ね木にセットを取り付ける。そして木の実や、籾のついた稲穂などを餌として仕掛ける。鳥がそれを食べようとして桟木を踏むと、それがはずれ、跳ね木が仕掛けを強く跳ね上げ、鳥をバタンキュウとはさみつけるという仕組みである。

仕掛けは横木や桟木止めや、それぞれの部品になる木を、細くて強い紐で結び付けている。

今はどんな紐も買えるが、物資不足の戦時中だから、すべて棕櫚縄である。

棕櫚縄は、いわゆる「棕櫚の毛」で作る。幹からこれをはぎ取り、その毛を目的に合わせた分量に裂き分け、それを綯うのである。こぶて作りはこの棕櫚縄綯いから始まる。

棕櫚の毛は固くて、扱いやすいものではないが、こぶてを作りたい一心で、最初は大人のやり方を見様見真似で始め、小学校の5年生の頃には自由に綯っていた。そうなると、色んな使途の縄を綯うのが楽しかった。

 

棕櫚縄は本当に強いものである。こぶてに使うのは細い紐、といった大きさだが、跳ね木が跳ねて引き詰めても、切れたことはなかった。

その強さは、日常の仕事に活かされていた。

牛や馬の引き綱は殆ど棕櫚縄であった。牛馬が少々暴れても切れなかった。中学生になると祖父から、

「牛のつなが古うなったきに。綯うちょいて」

と言われ、何日もかけて綯った記憶がある。牛の引き綱として使ったのは、何も戦時中だからというのではなく、古来使っていたのだと、多くの古老から聞いた。

みんな、「なんと言うても、棕櫚縄が一番強い」と言っていた。

 

田舎で一般的に使うのは藁縄で、自分もいつも綯うことを手伝った。米俵や炭俵などはこれで結んでいた。これは棕櫚縄ほど強くはなかったので、強さが必要な用途には棕櫚縄が使われた。土木工事で石や土を運ぶ「もっこ」は、棕櫚縄を編んで作ったものが多かった。

藁ぞうりも、当時の子どもは自分で作ったが、体重が一番かかるかかとの部分には、棕櫚の毛を編み込んで補強した。

 

棕櫚の思い出は毛だけではなく、葉にもある。はえ叩きを作ったことである。

これは祖母に習ったのだが、葉を長い柄の元から切って取り、葉をぎっしりと編み詰めて、はえ叩きにした。

古い友人の中には今もこれを作り、愛用している人が居て、「売りよるはえ叩きと同じ効果があるきに、何もわざわざ買うことはない」と笑顔で言っている。

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私の一冊

式地涼

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「永遠の0」 百田直樹 講談社文庫

現代に生きる若者が、日本帝国海軍の航空兵であった祖父の知られざる過去に迫る物語。 司法試験に失敗し、ダラダラとした日々を送っていた健太郎。そんな時、フリーライターとして活動している姉の紹介で、第二次世界大戦時に戦死した祖父・宮部の過去を調べることに。 宮部と同じ軍隊に従事していた当時の人々に聞き込みを続ける中で、祖父の人物像が徐々に浮かび上がります。

「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」 「勇敢なパイロットではなかったが、優秀なパイロットだった」 「宮部さんはすばらしい教官でした」 「国のためなら自らの命をも惜しまない」という軍国主義が美徳とされた時代背景の中で、誰よりも、何よりも死ぬことを恐れた宮部。しかし、戦況は悪化の一途を辿り…終戦間際には敵母艦への特攻で命を落とします。

なぜ、彼は誰よりも死を恐れたのか。誰よりも死を恐れた彼がなぜ、特攻という必死の道を選んだのか。

この小説でオススメしたいのは、以下の2つのポイントです。

ひとつは、航空兵・宮部の信念を貫く生き様。時に臆病者だと貶されながらも、まわりに流されない不屈の強さを持ち、また周りの人々もその影響を受ける様子が描かれています。

もうひとつは、第二次世界大戦における描写の細かさ。当時の戦い方、考え方、有名なミッドウェー海戦をはじめとする各戦況の詳細を時系列に。

特に航空兵・ゼロ戦(戦闘機)に関しては非常に詳しく記されているので、当時の実情を深く学ぶことができます。 専門的な言葉もありますが、あくまでも物語として著されている面から、知識がなくても頭に入りやすい内容になっています。

内容が濃くページ数も多いですが、じっくり時間をかけて、ぜひ完読していただきたい一冊です。

式地涼

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土佐町のものさし

⑤ 言ってるだけやとあかんよね

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この連載「土佐町のものさし」は、現在進行形の旅の記録。
時代とともに変化していく世界の価値観(=ものさし)の大きな流れの中で、土佐町の人々が、土佐町のためにこれから作っていく「土佐町のものさし」を探し求めて歩く旅の記録です。

 

幸福度による町政を進めていく土佐町の幸福度調査アンケート、現在は骨格がほぼできあがった段階です。

これから役場の職員によるさらなる検討、そしてその後に町の住民の方々による検討会と進んでいきます。

幸福度とひと言で言ってみても、それはとても曖昧で主観的なもの。

「幸せの国」「幸せの町」と言葉で言うのは簡単なことですが、どうしてもイメージ先行の言葉の上すべり感は否めない。

それを町政の中心に据えるには、「幸福度」という言葉がとても主観的で抽象的だからこそ、かっちり現実的な考え方や行動に結びついている必要があると思います。

 

言ってるだけやとあかんよね。

どんな仕事にも言えることだと思いますが、特に幸福度・GNHという価値観の転換については特にそう思います。

題材自体が、ふと油断すると机の上の頭でっかちな議論になりがちなものなので、ふと気がつくと集まった人の多くが頭でっかち星人になっているという事態も多々あります。

頭からモノを言うのではなく、体から出る言葉を大切にして進めていく必要があると思うのです。

今回の記事では、幸福度調査アンケートをする意味について、もう一度しつこく書いてみたいと思います。

これは役場職員がアンケートの内容を練っていく過程で、ひとつづつ理解して獲得した「意味」でもあります。

 

 土佐町の住人が、土佐町の暮らしや環境、文化の価値を知る。

ある町の良さや価値は、ヨソモノの方が客観的に評価できるのではないか、とよく言われます。

土佐町で生まれ育った方々が、土佐町にすでにあるモノやコトや環境を、「そうであるのが当たり前」と受け止めていることはないでしょうか?

例えば土佐町の多くの人が持っている周囲の人々との強いつながり。大きな家族、と言ってもいいかもしれないぐらい強いコミュニティやご近所付き合いは、日本のどこにでもあるものではないと思います。

そのつながりが逆にしんどいことももちろんあると思いますが、それもわかった上で、その価値をいちどみんなでちゃんと議論して、それから町の方向を決めませんか?という提案がこのアンケートでもあるのです。

なぜなら、このようなコミュニティの強さは、一度壊れたらもう元には戻らないのですから。

なにかを変えるにしろ変えない努力をするにせよ、その価値をいちどみんなで共有してからにしませんか?

 

 土佐町が大事にしたいことを内外に宣言する

その上で、土佐町が大事にしていきたいこと、これからも守っていきたいこと、逆にどんどん変えていきたいことなどなどを明確に宣言する。

この辺りは、具体的な施策というよりはもう少し抽象的な言葉になるはずです。

大事なことは、経済(=お金)はそのうちの一部であって、決して全てではないということ。

何よりも上位にある目的は「町の住民がより幸せになること」であって、経済はそのための手段であるということ。

人が生きていく上でお金が大事なのは当たり前ですが、大きな経済のために不幸を生み出すようなことはあってはならないということ。

 

 

 土佐町の向かうべき方向を明確にする

土佐町の人々はどこからどのような道を歩んできてこの現在にいるのか? それを踏まえ、共有したうえで、これから行く方向を考える。

いくら良いエンジンを積んだ車に乗っていたとしても、進む方向が定まっていないとどこにも到着しないですよね。

「土佐町は今後こういう方向に進みたいんだ」という理解を共有してはじめて「そのためには現実的にこういうことをするんだ」という具体的な議論ができるんじゃないかと思います。

 

 現実的な施策や行動に反映する

ここまで辿り着くまでにけっこう長くなってしまいました。書けば書くほどどんどん理屈っぽくなって頭でっかちになっていくようでイヤですよね。ぼくも頭でっかち星人になるのはイヤなんです。

何度も書きますが、幸福度やGNHは言葉で言うことはカンタンなんです。

ただ、言っているだけでは本当に意味がない。言っているだけなら、最初から言わない方がいいんでないの?って思うくらいです。

というわけで、この「現実的な施策や行動に反映する」という段階がもっともキモの部分。個人的にはそう思っています。

「反映する」というよりかは、本当は発想の大元や評価基準を幸福度にシフトしていく、という方が合っているかもしれません。

果たしてこの仕事が土佐町の住人の幸せに繋がっているのか?そういう視点で役場の様々な事業を一度見つめ直してみる。

何かが原因でうまく繋がっていないなら、現実的なやり方を変えて繋げなおすということが必要なんじゃないかなと思います。

「←いまココ!」の土佐町では、住民幸福度調査アンケートが完成間近です!

 

 

 

ところでワタクシ、現在ブータンのパロという町にいてこの原稿を書いています。

国民総幸福度(GNH)の産みの親であるブータンの、現実的な国民総幸福度への取り組みを学びに、京都大学の研究チームに混ぜてもらっています。

次回からのこの連載(ネット回線の都合上、帰国後になる可能性が大きいですが‥)はブータンからのレポートをお送りします!

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私の一冊

藤田英輔

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「現代歌集(日本文学全集68)」 土岐善磨 筑摩書房

この本がどういう経路で僕の手元にあるのか、解らない。明治〜昭和にかけての一部歌人の作品を編んだ本だ。

ある歌人(誰だったか)は、短歌に親しむことは、つまり秀歌を読むこと、そのまま丸暗記すること、これに尽きると言う。それは究極だろう。

「表現する」ということの大変さ、大切さを痛感する。この本を紹介すること、そして短歌について語ること、それ自体「おこがましさ」に包囲され、思いは次第に雲散する。

ただ「言葉で表現する」ことには、あこがれる。どんなジャンルでも「自分なりの表現」ができる人は素晴らしい人だ。

重ねて、詳しいことは解らないが、この本の中では古泉千樫(こいずみちかし 1886.9.26~1927.8.11 )という歌人の歌に親近感がわく。

「表現する」ということについての僕の気持ちは、「しいよいようで、こちゃんとむつかしい!!」

藤田英輔

 

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Japanese version from here. | 日本語はこちら

Chieno’s Story 前編

 

 

 

Chieno’s  Story 

by  Laura Haapio-Kirk

 

Hello! My name is Laura Haapio-Kirk and I am a PhD student at University College London, and a visiting researcher at Osaka University.My research is about ageing, health and technology.I first arrived in Tosacho in August 2018, along with my research assistant Lise Sasaki, to assist doctors from Kyoto University with the annual health check for residents aged 75 and over.

I was completely in awe of the green rice terraces, the turquoise rivers, and most of all, the kind-hearted people who warmly welcomed me into this community.Participating in the health check was a great way to meet a lot of local people in a very short space of time, and I am very grateful for the chance to get to know so many wonderful people.I felt eager to return to this special place, so I could have longer discussions and really try to understand what life is like for people here. That is why I keep returning to Tosacho!

During the health check we met Chieno san, a ninety-two year old woman.Unknown to Chieno san we had already met.On my lunch break during the field medicine, I had noticed her face gazing out of the opened pages of the zine Tosacho-Monogatari which was propped up on a bookshelf.The beautiful portrait of Chieno san radiating life drew me to the magazine.

When we met her in person Chieno san told us about her memories of seeing the atomic bomb at Nagasaki when she was just eighteen years old.She invited us to visit her in her beautiful home halfway up the mountain in Aikawa so we went there along with Toriyama san, editor for Tosacho Monogatari, on our next visit.

 

 

Chieno san told us more about her life history and her wartime experiences. Her words serve as a powerful reminder of the horrors of war, but also her story tells us about the resilience of people and shows us that it is possible for life to flourish even in difficult times.

Below are records of her actual words (with some abbreviations)

“I went to Nagasaki when I was 18 to work at a military factory. When the atomic bomb fell, I saw it. I was quite far from it though. There was a bright red light, and it exploded. I was far away but I saw the light perfectly. There were no warnings for that bomb, you know? There was a bomb shelter right by us, but because there were no warnings we didn’t go in it! So, I saw it. Bright and clear. The smoke was so thick and it rose high up, I saw it. I didn’t have the time to feel scared at all. I was more astonished.”

 “When that happened, I came straight back to Kochi. The train was so packed. It was human over human. There were injured soldiers, people like me, people who were going back home.I came home in that. I’m happy I’m here. I feel that I have travelled around the world. I saw the people who were affected by the bomb. On my way back I went past Hiroshima. There was still smoke everywhere. The town was gone.”

 Chieno san returned to Tosa-cho and worked for the town hall for two years. She lived in a house which is now under the water of Sameura dam. Then she met her husband and they got married when she was twenty-two years old.

“Weddings at the time were small and humble. Only family members, very easy. I came to this house wearing a wedding gown. This used to be a huge straw house when we got married. My ring here, this one, my husband got it for me on his holiday. He passed away seven years ago. My husband bought quite a lot of farmland and we expanded our home. He loved to work, he worked day and night. He was a farmer, growing rice and other things. He carried stones from the river one by one and made that whole wall around the house! We fixed our straw house bit by bit.”

Chieno-san’s home is beautiful and you can see that great care has gone into building it.On display are many trophies won by their cows, a famous local breed call akaushi. Chieno san told us that her husband loved cows and decided to buy some one day.They started with black cows but then they heard that the akaushi breed were very good, so they decided to focus on just that breed. (They continue to breed akaushi to this day).

“At one point, we had eight or nine cows! It was my husband who made them popular in Tosa, you know? They are tasty, good meat. He loved cows. We have won so many awards. And the baby cows are so cute. Usually, when they give birth we have to help them but that new one, we were so surprised! We woke up one day and there it was! It was so small when it was born but she had so much appetite. Now the baby cow is just as big as a normal baby cow.”

 We also met Chieno san’s son who showed us the beautiful red akaushi with their gentle eyes and soft fur. While we were there they also had a visit from the vet who confirmed that one of their cows was pregnant. It was a good day!

We left with bags of chestnuts and yuzu lemons, and with an appreciation of how many years of steady work has gone into making their farm a success.We are grateful to Chieno san for generously sharing her stories with us and for teaching us about perseverance and dedication to your goals in life.

 

 

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(前編はこちら

彼女の語る言葉は私にとって迫力があり、戦争の恐ろしさを教えてくれただけではなく、人間の強さや立ち上がる気力も物語っていて、どんなに困難な時でも、人生に花咲く可能性があることを教えて下さいました。

以下は、彼女の語ってくれた言葉をそのまま書き下ろしたものです(省略が少々入ります)。

「私は18歳の時に挺身隊として長崎にいました。原子爆弾が落ちた時、それをはっきり見ました。遠かったけどね。ピカッ!と赤い光が見えて、爆発しました。遠かったけど、しっかりと灯りは見えました。その時はね、爆弾の警報もなくてね。近くにね、防空壕があったのに、空襲警報がなかったから入らなかったの。だから見えたよ、綺麗にね。煙がとても濃くてもくもくと、空の上まで、遠くまで届いて。それも見えたの。怖くはなかったね。でも、わー!すごいねーってなった。」

「その後高知へ戻って来たんだけど、その帰りの電車も人でいっぱいでね、人が人の上に乗っかってるみたいでね。怪我をした兵隊さんや、私みたいに故郷へ帰る人、そんな人たちが電車にいました。それで帰ってきたの。ここにいられてとても嬉しい。なんだか世界を旅した気分になります。被爆した人も見てね、帰りに広島も通りましたけど、まだ煙が残っててね、街はなかったです。」

千恵野さんは土佐町へ帰って来てから、役場で2年間働きました。彼女の実家は現在早明浦ダムになっているところにありました。そして22歳の時にご結婚されました。

「その当時はね、大きな結婚式はしなかったの。それでね、本当に簡単な結婚式。家族が集まって、まあ花嫁衣装はつけていたけどね。土佐町でずっと住んでね、田んぼもとっても少なかったのを働いてね。それで、たくさん働いてね、今はこんなに広い土地になりました。これは(指輪)はもう、何十年も(結婚)してから新婚ではない時に、(旦那様が)団体で旅行に行って、その時のお土産!7年前に亡くなってしまったけれども。もう、主人は本当に働き者でね、主人が川から石を運んできて、ここの家の周りの壁も作ったの。ここは大きな茅葺の家だったの。それを少しづつ直していったんです。」

千恵野さんの家はとても素敵なお家で、大切にされていることが感じられます。

有名な赤牛がとった賞も綺麗に飾ってあります。千恵野さんは、旦那様が赤牛が大好きで、ある日買うことを決断したお話しをしてくれました。

最初は黒い牛2頭から始まり、そこから赤牛が非常に良いと聞き、今に至っているそうです。(現在も赤牛を飼っていらっしゃいます)。

「一番多い時には8から9頭いました。土佐町で赤牛を増やしたのも、うちの主人なんです。とても美味しくて肉質が良いと聞いて。だいたい主人はうんと好きでね、牛が。それで、賞もとってね。赤ちゃんの牛もとっても可愛くてね。あれはね、順々にお母さんから生まれてきて、だいたいお産の時にはね、手伝ってやらんといかんがですわ。でもね、今できてるのはね(今ここにいる子牛)、朝起きて見にいったらできてるんですよ!それでもう生まれててね、小さかったの!小さい牛だったけど、お乳はたくさん飲んで太って太ってね。最近はね、本当に普通の子牛とおんなじ大きさになりました。」

この日、私たちは千恵野さんの息子さんにもお会いし、飼っている赤牛の元へ連れて行って頂きました。その赤牛は本当に赤く、優しい目をしていて、柔らかい毛だった事を覚えています。本当に充実した一日でした!袋いっぱいのゆずと栗をいただき、千恵野さんのご自宅を後にする瞬間、このお家には長い歴史があり、地道な苦労や作業によって赤牛を飼って、成功に繋がっているんだな、と改めて思い巡らし、有り難い気持ちでいっぱいになりました。私たちは、貴重なお話、そして人生のゴールに向けて根気強く、熱心に向かっていく強さを教えて下さった千恵野さんに、とても感謝しています。

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私の一冊

石川拓也

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「スモール イズ ビューティフル」 E・F・シューマッハー 講談社

この本が刊行されたのは1973年。

巨大化しつつある世界経済に危機感を持っていた(早い!)シューマッハーは「大きくなることを目指すのではなく、人間という存在の身の丈に合った経済活動を目指すべき」と警鐘を鳴らします。

それがこの本。「スモール イズ ビューティフル」というのはそういう意味で使われています。

副題は「人間中心の経済学」とありますが、逆読みすると現実が「人間が中心にいない経済」の中に私たちは生きているという風に読めます。

いつの間にか「経済のための人間」になってしまっていないですか?

「小さな経済を生きる」「足るを知る」こういったキーワードの先に著者が名付けたのは「仏教経済学」。

現実に世界がそういった方向を求めてきているのを肌で感じます。

 

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こんにちは。ロンドン大学 (University College London)の博士課程の学生・大阪大学の客員研究員として日本に来ておりますローラ ハーピオ・カークです。

エイジング・健康・テクノロジーの研究をしています。

土佐町に初めて来たのは2018年の8月、私のアシスタントである佐々木理世さんと、京都大学が実施している75歳以上の方々を対象とする健康診断、フィールド医学のお手伝いとして来たことがきっかけでした。

美しい緑の棚田、深く青色に輝く川、そして何よりもあたたかく迎えて下さった土佐町の皆様に感動しました。

フィールド医学は短い期間でしたが、たくさんの方達に出会えるチャンスをくれました。とても有難いことだと思っております。

その後、土佐町で短い間に出会った人々の話をゆっくりと聞いて、土佐町の暮らしをもっと知りたい、土佐町に戻りたいという気持ちが強くなり、そして、気づくと私は何回も土佐町に帰って来ていました!

フィールド医学の時、とても印象に残った女性がいらっしゃいました。彼女の名前は千恵野さん、92歳です。

実は、私は千恵野さんに出会う前から彼女を知っていました。

昼食をとる部屋にとさちょうものがたりの雑誌が飾ってあり、開いてあるページがちょうど千恵野さんのお写真でした。

その写真に吸い込まれるように私は近づいて行き、なんて素敵な人だろう!と思ったことを鮮明に覚えています。

フィールド医学でお会いした際、千恵野さんは18歳の時に、長崎で見た原子爆弾のお話をしてくれました。

その後、私は再び土佐町を訪れ、千恵野さんは私を相川にあるとても素敵なご自宅へ招待して下さったので、とさちょうものがたり編集部の鳥山さんとお邪魔しました。

Chieno’s Story 後編へと続く)

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私の一冊

鳥山百合子

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「灯をともす言葉」 花森安治 河出書房新社

「暮しの手帖」初代編集長の花森安治さんの言葉を集めた「灯をともす言葉」。

本の冒頭にはこんな言葉が書かれています。

「この中のどれか一つ二つは すぐ今日 あなたの暮しに役立ち

せめてどれかもう一つ二つは すぐには役に立たないように見えても

やがて こころの底ふかく沈んで いつか あなたの暮し方を変えてしまう」

本を読むときは、まだ見ぬ新しい世界と、今の自分自身の居場所を探しながら、言葉を追いかけているような気がします。

はっとさせられる言葉、じんわりとしみこんでくるような言葉、書き留めておきたい言葉。

今まで出会った言葉たちが「こころの底ふかく沈んで」、今の自分のこころあり方をつくっているんだろうなと思います。

鳥山百合子

 

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4001プロジェクト

式地涼

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土佐町役場・産業振興課の一番の若手、式地涼くん。もうすぐ20歳。

土佐町生まれ土佐町育ち、土佐町にいて町のために働きながら、休暇にはアメリカに行ったり外にもアンテナを立てようとしているところが頼もしくもあります。

あと10年、20年もするとこの世代が引っ張る時代になるのでしょう。

 

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