伝次道は、田井から高知市薊野に至る約36キロメートルの中ノ川越えと言われた旧往還(とおり道)の一部をなすものである。
中ノ川越えは、旧田井中学校裏手から山坂を登り、上野集落、大奈路(上野上)集落、伊勢川集落の上方の尾根を伝うようにして標高約1,000メートルの中ノ川越えの峠に出る。ここから南国市で中ノ川、大改野集落を経て薊野に至る。
大奈路の小笠原伝次と言う人が、田井より中ノ川までの道路整備に私費を投じてその監督に当たったので、伝次道の名で今に伝えられている。
弁当を片付ける暇もないほどに忙しく、あちこちに伝次の空弁当が転がっていたと言う話まである。
この道を三椏などの荷をつけた牛馬の通う姿が毎日のように見られたのは大正年間まであったが、戦後もまだ時々は旅急ぐ人の姿が見られていた。6~7時間かかり、日帰りは朝早く、帰り着くのは暮れ果ててからであった。遍路道は、伝次道の一部を通っていた。
伝次はなかなかアイディアマンで、燻炭と言って大きな穴を掘り、松の枝や柴を並べて焼き、これを肥料にしていた。毛皮の売買に目をつけたのか早くから大がかりな兎の飼育もしていたし、お前ら大きくなった頃は人間が空を飛び出すぞと話してくれたし、今から思えば、新知識を吸収し、実行力のある人であったと言う。
小笠原富春(町史)