近藤潔

土佐町ストーリーズ

95年間のキヨ婆さんの思い出 27

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

恩師の涙永久に

昭和13年、6年生の1学期、毎年行われているマラソンがあった。

男女別、5,6年合同コースも決まっていた。正門を出て、左へ、日赤通りを東へ、相生町を北へ、比島橋を渡り、久万川の堤を西へ、秦泉寺通りを南へ、元の日赤通りに出て、正門まででした。

スタ-トする時は、仲良し組7人で、「最後まで一緒ゾネ」と約束したのでしたが、何時の間にか気が付いたら一人になり、少し前をノッポの人が一人走っていた。「ヨシ、あの人に付いて行こう」と頑張ったが、追い付げずゴール。ビリだと思ったがそうではなかった、二着だったのです。

5,6人の先生がいて、担任の中島先生が真先に駆け寄って来て「エラカッタ、エラカッタ、よく頑張った」と、両肩に手をかけてくれました。先生の顔が私の目の前にあって、両目に涙がいっぱいたまって、今にも流れ落ちそうでした。外の先生も拍手を送ってくれました。

一着の人は、組違いの背の高い、走るのが早いと評判の人でした。

その後85年余り、戦争ゆえの苦労を体験しました。

人生の中で、あの時涙と「エラカッタネ」の一言が、胸の奥深くこびりついて、人生を諦らめず頑張ってこれたのです。「エラカッタネ」の一言と目一杯の涙が、教え子の人生をまもってくれたのです。

(当時の私の服装は体操服とは程遠い、ヨレヨレの上着に、ヒダの無いスカ-ト、すり切れたズックでした。思い出というよりも、思い出さずに忘れずに、が正解かも知れません。いつ天国よりお迎えがあるかも知れませんので、書きました。)

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 26 

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

二宮金次郎を見習って

今から九十年あまり昔。小学校の時間割では、月曜日の一時間目は「修身」といって、親に孝行とか兄弟仲良く、お国の為とか立派な人間になるための勉強の時間でした。現在でいうと「社会」でしょうか。

昔々、二宮金次郎という、貧しい家に生まれて寺小屋(学校)にも行けず、弟妹の子守りや家の手伝いをしながら、立派な大人になって世間のために働いた人がいました。時々、先生の話に出てきました。

江ノ口小学校の正門を入って右に行くと奉安殿があって、その左に、本を読みながら背中に薪を一杯背負った金次郎の銅像が並んでいました。前を通る時は、必ず一礼して通りました。

そして自分も金次郎を見習って、大人になったら両親兄妹のためになる人間になろうと、子供ながらに決心したのでした。「手本は二宮金次郎」という歌もありました。

その後大人になって、戦争空襲で被災、病母や幼い妹の母代り、生きるか死ぬかの時代を乗り越えてきました。

肉親は皆天国へ、人の温かい愛情と、幼い頃の二宮金次郎の訓えを胸の奥に生きてきました。あの世までも持って行きます。

科学の進歩した現代、悲惨な事件の多いことに胸を痛める毎日です。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 25

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

カンピンでお酒を買いに

父はお酒が大好きでした。相川にいる時も、近所のお祝い事に呼ばれて行っていました。

始めの内はいい機嫌で、歌を唄っています。だんだん酔ってくると理屈を言い出して、人が理解してくれないと怒り出す癖があるので、時間を見計らって迎えに行ったと母から聞いたことがあります。家にいても、仕事に行った日も、晩酌を楽しんでいました。

一升瓶で買っておけば良いのにお金が高いので、買うときは、二合位入り、湧かすことも出来る「カンピン」ガラスに入れてもらいました。

江ノ口小学校の赤レンガの堀に沿って南へ、日赤通りへ出て、学校の正門前を過ぎ愛宕町迠の中程の左側に井上酒店があって、「玉緑」という看板がありました。

綺麗なおばさんが、大きな樽の栓を抜いて「ダップダップ」と入れてくれました。カンピンは薄いガラスなので、少しでも物にあてると割れるため、帰り道が心配でした。

おいしそうに飲む父の顔を見て、ホッとしたことでした。

小学校五、六年生の頃、八十年余り昔の思い出です。
 
 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 24

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

 

お使い

相川にいる時から、弟の子守やお使いは私の仕事でした。
三才年上の兄がいましたが学校の成績も良く、色白でお金持ちの子どものようでした。兄は高知に行ってすぐ大阪に就職し、両親は働きに出ていて、お使いはいつも私でした。私よりも兄が大事にされていると思ったこともありました。

家の前の道を西に行くと愛宕町通りへ。右側の角にお米屋があって、いつも買いに行っていました。
店にはお米を一杯入れた箱が並んでいて、右から順に、一升二十九銭、次が三十銭、三十二銭と、値段を書いた札が立っていました。二十九銭のはあまりにも美味しくなかったので、母に言われ、三十一銭のを買ったのを覚えています。おいしい相川米を思い出しながらのお使いでした。

お金は円札が全然なかったので、バラ銭を布の袋(キンチャク)に入れて、首に掛けていました。五十銭は白い銀貨で、周りにギザギザが付いていたことを覚えています。今から八十年余り昔の事です。百円札は終戦後、出回ったと思います。
 
 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 23

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

昔々お世話になりました。

高知市昭和町での生活が始まり、兄がいる間は弟のことは何も心配は無く学校に行けたのですが、まだ5才の弟のこと、両親は働きに行って誰もいない家に一人置くことも出来ませんでした。結局学校に連れて行くことになり、授業中は運動場の鉄棒の下の砂場で遊んでくれて、勉強が出来たのでした。

雨の日は廊下とか、教室の隅とかで遊んだり眠ったり、何とか勉強の邪魔にはならず、午前中の授業を済ませて帰れたのでしたが、たった一度迷惑を掛けた事がありました。

いつもの様に外で遊ばせていた時、教室へ子供の泣き声が聞こえて来て、あれは弟の声だと思っていると、給食のおばさんが廊下で手招きをしたのです。

出て行くと「弟さんがウンチをしたらしい」と小声で云ってくれました。行って見るとズボンもパンツも脱がずにウンチをして泣いていたのです。

「帰って着替えを取って来なさい、見ていてあげるから」と言ってくれて、「さあたいへん」。全速力で帰って着替えを持って行って、おばさんのお陰で着替えが出来たのです。こんな失敗一人だったらどうしたかと思うと、今だに忘れられません。

子供ながらに優しい人の気持ちが伝わって、95才になっても忘れらません。給食のおばさん、本当に有難うございました。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 22

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ミカン水屋へ子守りに

小学校6年生の夏休みに、相川以来の子守りに行きました。昭和町の家の少し北から秦泉寺まで一面の田園でした。畦道を通って久万川の堤まで、朝露で足元はビシャヌレでした。

右へ少し行った所にミカン水屋の工場があり、可愛い男の赤ちゃんがいました。若いお母さんが、オンブして仕事をしていたが大きくなって無理だから子守りを、という事でした。

赤ちゃんの好きな私は早速OK、夏休み中引き受けました。男の子は女の子よりも重いことも経験済み、でもおネムの時以外は、三畳位の部屋で座って遊んでくれたのでラクチンでした。

昼食もごちそうになり、田舎での子守りを思い出しながらの一日一日でした。当時の小学校の夏休みは、8月1日から31日まで一ケ月、宿題は「こかげ」一冊だったので、全部済ませていたので安心でした。

お賃は親任せでした。毎日、美味しいミカン水も飲ませてくれました。当時は、お米一升三十二銭位でした。お使いに行ったので覚えています。赤ちゃんの名前は「トシボー」でした。

13才年下だったから今「80才」位かな。きっとお元気だと思います。懐かしい思い出です。

髙知でのたった一度の子守りの思い出です。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 

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楮の匂いの染み込んだお芋

昔々その昔、今から八十五年位昔、昭和の時代、私が小学三年生位の時の事です。年老いても、四季を通じてその季節になると、必ずどこからともなく浮かんでくる幼い頃の思い出は、私の一番の楽しみ、元気の素となっています。

農家ではお米の収穫が終わり、後へ播いた麦が青々と伸びた頃、畠や田の周りの楮を切って、蒸して、皮をはいで乾燥させて売ることは大切な収入源でした。

隣近所が一ヶ所に集まって釜床を作り、協同で働いていました。

私の家の上の郡道渕の広場に釜床があって、谷も近くて、大事な水も便利で、毎年その時期には賑やかというよりも私の楽しみの一つでした。

学校から帰ると、宿題を済ませ食事もソコソコ、狭い下敷きと膝あてを持って行って、邪魔にならない所で、切り落としの小枝の束をもらって一生懸命はぐのが面白かったです。

そしてもう一つ嬉しい事があったのです。

楮の大きな束の上に、籠にカラ芋を入れて乗せ、二時間位蒸して出した時、楮の匂の沁み込んだ熱々のお芋。涎が出そうです。お菓子等珍しかった時代、その味は今でも口の奥に残っています。一度でいいから食べたいと思います。

現在は、楮さえ見かけなくなりました。土佐和紙の大切な原料として、いつまでも続いてほしいと思います。

 

 

*昔は各地で楮を蒸していました。土佐町では現在、南川地区で行われています。

南川のカジ蒸し(前編)

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 20

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江の口昭和町へ引越し

一学期の終わり頃だったと思う。両親の都合で、昭和町19番地髙知駅の北へ引越しました。江ノ口小学校の近くの周囲には、大きな二階建ての家ばかりでした。学校へは少し遠くなったが20分位で行けるので、今年度が終るまでは通う事にしたのでした。

昭和12年には南国博覧会が開かれていて、ゴム靴を笑われながら、破れたらズックが履けるのにと思いながら、四年生全員で見物に行ったのです。

場所は、当時、柳原の「市のグラウンド」といっていた現在の高知球場でした。初めて渡る沈下橋入口には、大きな高い門が、見た事もないように色々と飾られていて、それだけで胸がワクワクして、入るとすぐ左側に小さな家がありました。

顔も体も真黒、目の玉と歯だけ白い、身長は私位の人が立って居て、恐ろしくて、身震いした記憶があります。

広い会場には、世界中の見た事も聞いた事もない物ばかり、夢の世界の様だった事、84年も昔の事、自分にも信じられません。

そして大好きな兄が居なくなった事。将来のため手に職をと、大阪の散髪屋へ四年契約で行った事。淋しくて涙した事。一人前の職人になり髙知で働いていたが、戦争故の徴用で病死。19才の命でした。きっと兄の寿命を妹達にくれたのかも知れません。やがては天国で会えるでしょう。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 19

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

高知の生活の始まり

高知で最初に住んだ家は、相生町という高知駅の少し東でした。学校は、家から十分位の所の第二小学校でした。校門の前に堀川があって、川向うには、山田八幡宮がありました。運動場も広くプ-ルもあるし、生徒の多いのにびっくり。一学年が三級にA、B、Cと別れていて、私はB組女子ばかりで、先生は百田先生。中年の優しそうな先生でした。

チビなので一番前、岡村輝子さんと並びました。学級毎にスピーカ-があり、給食も注文で食べられて、相川の学校とは何もかも違っていました。

馴れるまで一番困った事は、言葉使いでした。何か喋ると皆に笑われるのです。その点、一年生の妹は、平気で相川弁で喋っていました。

一番先に仲良しになったのは、村上さん、西澤さんでした。二人共、色々と教えてくれて助かりました。今でも目を瞑ると浮んで来ます。

父は当時「土陽新聞」の仕事で郡部を廻っていたらしく何日も帰らず、母は牛乳屋の壜洗いに一生懸命働いていました。

今から八十四年も昔々の思い出です。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 18

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

自分達の住む所へ

疲れも取れ気持ち良く目が覚め、親切なおばさん達に見送られて、日本晴れの高知の空、今夜から「寝る所、住む所はどっちか」「何という町か」と何とも言わない父の後に、母兄弟はついて行った。

父の同級生のおじさんが相生町という所の製材の工場で働いていたので、近くで空家を見付けて、相川の家財道具一切運び込んでくれていたのでした。

何町がどっちかも分らぬまま初めて歩く高知の街、一目で田舎者と分っただろうと想像しています。

落ち付いた所は相生町という所で、何と汽車の線路の近くで「シュッシュッポッポ」と煙をはいて通る度に家が揺らぐのです。でも生れて初めて見る汽車、通る度に窓を明けて見たり、手を振ると手を振り返してくれるのが嬉しかったです。特に幼い弟が大喜びでした。

学校は近くの第二小学校へ、ABCの三学級で女子ばかりのB組百田先生。優しい女先生で、一学期通知簿を貰った時「良く頑張ったネ」と誉められた事が忘れられません。

相川小学校の松岡先生の「高知に行っても頑張れよ」の一言のお陰様でした。

 

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