近藤潔

土佐町ストーリーズ

95年間のキヨ婆さんの思い出 17

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

住み馴れた相川を出て

初めて見る高知の街、昭和11年4月の初めでした。現在の様にテレビ、新聞、ラジオも無い時代。

85年も昔の事、思い出さえも薄れかけた中での一人暮らし、頑張って書きました。

田舎で育ったので足には自信があって、両親が思ったより早く着いて、その夜は愛宕町の親戚の家で泊ることになっていたのです。

椎野の峯から下の秦泉寺まで三人で駆け降りて、周囲を見ると一面の田園でした。稲が青々と伸びているのを見て驚きました。

相川では、まだ田仕事は始まっていなかったのです。半日歩いて山を越しただけで、気温がこんなにも違うのだろうかと感じたのでした。

初めて履いたゴム靴もだんだん慣れて来たのでした。

その夜、親切なおばさん達のお世話になりました。

高知での初めての夜、自分達の住む所、家はどんな所だろうと気にしながらの一夜でした。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 16

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

未知の世界、高知市へ

昭和11年4月初め、私は11歳、4年生。兄は小学校卒業。妹は小学校入学、弟は4歳でした。

生まれ育った土佐郡相川の小さなあばら屋から、未知の世界、高知市へ。

両親の考えで、子供たちには何にも分からず。二度と帰ってはこないのか、少し不安のまま、高知行きの衣装、履いたことのなかったゴム靴、黒いスカート(ヒラヒラするのが嬉しかった)。持てるだけの荷物を持って、家の上の郡道に出た。周囲を見回して、サヨナラをした。

今まで考えたことのなかった寂しい気持ちがして涙が出てきたが、兄には見られたくなくて、そっと隠れて涙を拭いた。

高知まで八里と聞かされていたが、足には自信があった。幼い弟は山道は母に負われ、歩けるところは喜んで歩き、赤良木のトンネルを抜け、お昼前には土佐山の小さな食堂で一休み。

何年も使っていたおひつには、朝食の残りごはんが入っていて、そのおひつは、高知に住み着いてからも何年も使っていて、懐かしい思い出いっぱいのおひつでした。

椎野の峯までは道幅も広くて、坂道も少なくて、思ったよりも早くて「もうちょっとで椎野じゃ。高知が見えるぞ」という父の声に、兄、妹と3人で荷物をぎっちり抱えて走った。

峯近くなると、道幅も広く、車の通ったタイヤの跡もあった。

とうとう峠に着いた。

「ウワー」

3人で万歳をした。

初めて見る高知の街、85年過ぎた今でも蘇ります。小学校4年生の春のことでした。

それから85年過ぎて、現在95歳。

過去の思い出に、嬉しいことよりも悲しいことの多かった人生を振り返る毎日です。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 15

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

ケンボケンボ

これだけで理解できる人が現在いるでしょうか。

昼食後、病院のベッドの上でボケっとしていると、少し開いた窓からでもなく、テレビの中からでもなく、まるで風船のようにぽっかりと浮かんできました。

95年間の間、苦しい環境の中、真っ先に働いてくれた曲がりくねった左右の手の指。特に、右手の人差し指、それが「ケンボケンボ」の主役だったのです。

同級生13人の小さな学校。何か失敗すると、右手の人差し指を曲げたり伸ばしたりして「ケンボケンボ」と大きな声で揶揄いながら追っかけるのです。

特に運動会のかけっこでビリだったりすると、その日中、休み時間には運動会や校舎の周りを「ケンボケンボ」と言いながら追いかけたり、逃げたりするのです。

昔々の田舎の子供たち、遊び道具も少なく、家に帰れば、妹弟の子守り。95年過ぎた現在の生活と比べて、全ての生活の変化と、人間同士の愛情の変化、命の大切さを考えると悲しくなります。

「ケンボケンボ」の時代が、心の底から懐かしく思い出されます。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 14

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

叱られて

目の前にいるときは「オトッチャン」で、いない時は「オトウ」と呼んでいた。物心ついた頃から「オトウのおこり」というようになっていました。

学校から帰って父が家にいると、嫌な感じでした。

予習、復習を済ませて弟の子守り。昭和10年頃、電気は通っておらずランプだったので、夜更かしはせず、布団の中へ。だがその日は夕飯が済むと

「キヨ、よみかたの本を持って来い」(ソラ来た)

自信はあったがビクビク、漢字の書き取り習ったところはスラスラと書いて、やれやれと思った時「次いくぞ」と言って、まだ習っていない欄外の字を言ったがそこまでは無理。

「書いたか」

「まだ習ってない」

と言い終わらないうちに、いきなり筆箱が飛んできた。その筆箱は父が作ったもの。白い桐の板で、頭に当たって中のものが飛び散った。こうなると逃げるが勝ちと、薄暗い外に飛び出て、上の郡道へと走ったが、追いかけてこないことはわかっていたので母が迎えに来るのを待っていた。

しばらくして「キヨ、もうもんて来や」待っていた母の声。帰って黙って布団に潜り込んだ。

そんな父も妻や子に先立たれ、不幸な一生でした。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 13

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

おこりのオトッチャン

オトッチャンは六人兄弟の末っ子、長男の兄は日露戦争で戦死、兄の娘、姪と四つ違いで、四年制の小学校を卒業。米作りの農家を継ぐべきだったが石屋になって実家を出た。

頭が良くて字が上手、近くに昔からの大きな石山があってお墓を掘る職人が大勢いた。当時のお墓の字は、ほとんど父が書いていたようです。

母と結婚して子供が次々と生まれ、生活が苦しくなると何でもかんでも怒るようになり、「オトッチャンのおこり」から「オトウのおこり」隣、父の目の前では「オトッチャン」。いない時は「オトウ」というようになった。こんなオトウとどうして結婚したのか、母に聞いた。母が18歳の時、一方的に父が逆上せて、母の父親に申し込んだが断られ、そこで無理やり連れてきたらしい。そうすることを当時は「かたぐ」といったらしい。

何時も「オトッチャン」でいてほしかった。でも天国では30年早く逝った母と仲良く「オトッチャン」でいるかもネ。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 12

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

たいつり

昔々のその昔、小学校2,3年生の頃、年に一度の節分の日(山奥の農村では旧暦でした)。夕暮れ時、子供だけの楽しい嬉しい、昔からの行事がありました。

近所の子供たちが誘い合ってグループを組んで、近所の家を回るのです。手に手に「カジガラ」を一本持って、節分の夕暮れ時の楽しみでした。

「カジガラ」とは、楮の皮を剥いだ後の白い棒。節分の日、学校から帰ると「カジガラ」を20㎝くらいにひき切って、先の方に少し割れ目を入れて、オニバラの葉っぱを一枚挟み、家の外回りの柱の元の石の上に立てる。鬼が家の中に入らないように、という昔からの風習だそうです。兄と二人で作ったのでした。

そして、夕暮れになると、大きなポケットのついた「ソータ」に着替え、小さな手提げ袋をそれぞれ持って、空き腹で皆の集まる場所へ。皆で決めた順番に各家を回るのです。

まず最初の家は、大きな「カジガラ」で、上級生がそっと行って、縁を4、5回叩くのです。そして素早く物陰に隠れるのです。そしたら家の人がお盆に山盛りのお餅や赤飯、干し柿、お菓子など出してくれるのです。

外の皆は、屋囲いや石垣の陰から素早く出ていって、ポケットや袋に何も残さず頂くのです。そのスリルも面白かったし、何軒も回って、頂き物を家に帰って食べるのが嬉しい楽しみでした。

この風習は、ずっと昔から続いていたそうで、各家ではお供え物を前日から準備して、空っぽになったほど、縁起が良かったそうです。我が家は非農家だったので、頂くばかりでした。

懐かしい思い出、語り合う人のいないのが残念です。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 11

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

自慢したい思い出

相川尋常小学校三年生の時、父兄の授業参観日がありました。

カカヤンは一回も来たことは無く、オトッチャンの役目でした。

「ニイヤン」は6年生で三学級、私は4年生と同じ級で二学級。25人位だったと思います。

オトッチャンは、私の教室は見向きもせず三学級へ、父の自慢の兄の教室へ。

その日の授業は、何時ものように予告なしの暗算でした。机の上は鉛筆と答案用紙だけ、男の松岡先生でした。

私は学課の中で算術が得意で、1年の時から通知簿も十点でした。目を瞑って計算答を書いて全問正解、自信はありました。

休み時間に先生が調べて二時間目に発表。オトッチャンは後ろに立っていました。

発表します。

胸がドキドキしました。一番は全問正解で百点。「キヨシサン」バンザイ。声には出さず心の中で、バンザイ。

父の拍手が一番大きく聞こえました。それからオトッチャンの自慢が始まりました。道で会った人、家に来た人、皆にきばった。

狭い田舎のこと、評判になっていたのでしょう。

何ときも鬼のような顔が、エビスさんの顔に見えました。

その後、高知市に移住、昭和14年4月、江ノ口小学校を卒業。希望は簿記学校でしたが、貧しい家庭では無理、諦めるしかありませんでした。その後、知り合いの人のお世話で東京へ。他人の家の奉公がどんなことかも知らずに、日支事変の最中でした。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 10

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カンタローみみず

私の家から少し上がっていくと群道があって、右へ行くと「相川口」、左へ行くと「オート」へ行けました。

雨上がりには、カンタローみみずが道いっぱいに這い出ていました。兄と二人でバケツと火ばさみのようなものを持って、捕まえに行きました。

道いっぱいに這っていて、大きいの、小さいのと、バケツ半分くらいにすぐなって、帰って鶏にやりました。

始めのうちは奪い合いをするが、たちまち喉の下の方が膨らんで見向きもしなくなります。

でも、あんなものを食べて、卵になって出てくるのが不思議でした。いり卵は美味しいのにネ。

幼い頃、そう思ったことでした。

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95年間のキヨ婆さんの思い出 9

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

オジヤン、マシカヨ

相川尋常小学校に入学した時、カカヤンに言われたことがあった。

「学校の帰りに『オジヤン』くへ寄って、『オジヤン、マシカヨ』と声をかけて来や」。

他に帰る道はあったが、カカヤンの言うことを聞いて、毎日寄っていた。

「オジヤン、マシカヨ」

と障子の外から声をかけると、

「オー、キヨカ」

と言って上半身起き上がって障子を開け、皺だらけの顔を見せて、枕元のお菓子を一掴みくれた。

その時のお菓子は何時も同じで、三センチ位の蚕のような形で、ヨモギ色をしていました。きっとお気に入りだったかもネ。

年齢は何歳か知らなかったが、いつのまにかお葬式だったことは覚えています。

何時もくれたお菓子は、今は見かけません。

写真もないけれど、目を閉じるとはっきり浮かんできます。

オジヤン、もう少し待ってよ。

(オジヤンは、父のお父さんです。)

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 8

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

忘れられない野いちごの味

長年生きてきて、毎年その季節になると、自然に感じる懐かしい故郷の思い出。

㐂怒哀楽、色々ある中で、私は幼い頃の田舎での思い出が好きです。

嶺北の山の中の貧しい家の長女に生まれ、三才上の兄がいた腹式校の二年生の春。学校でハシカが流行して、少ない生徒殆どが発病。病院もなく、医者もいない田舎、高熱発疹に耐えて、布団をかぶって寝るだけ。食事もそこそこ、厄抜けとはいえ、前回までの一週間は重病人でした。

寝込んで三日位たった日の昼過ぎ、母、妹、赤ちゃんの弟、誰もいなくなって静かになり、ウトウトしていると、妹が「ネエヤン、これ食べヤ」と言って走り込んで来た。

手には大人の弁当箱「モッソー」に、真っ赤なイチゴがいっぱい。思わず飛び起きて、一ツ、二ツ。あとはガブガブと呑み込んだ。手も口の回りも真っ赤。生き返ったような感じがした。

そして最後に、潰れたイチゴの真っ赤な汁を飲んだ時の美味しかったこと。母の優しい愛情の籠もった、世界一の味でした。

現在は植林ばかりで、イチゴのある雑草の山道はありません。85年前の幼い頃の忘れられない思い出です。

若くして、病死した母の愛情と共に。

 

 

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