近藤潔

土佐町ストーリーズ

95年間のキヨ婆さんの思い出 32   

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

カナバ

現在は、あまり見かけませんが、昔は雨着といえば蓑笠(みのかさ)だったのです。蓑は山の菅(すげ)という草を、乾燥させて編んだもの。笠は桧の木を薄く削ったもの。

カナバを形良く一定の巾に手で編んで、帽子の様に縫い合せたものを「キガサ」ともいっていました。最初は手仕事で、一ヒロ何銭で編んでいて、雨の日や、少しの間を見ての農家の女の内職でした。

「キヨも編んでみや」とカカヤンに云われて、始めたら面白く、暇さえあれば弟を負っていても、胴にくくり付けて、編んだ記憶があります。兄もたまには編んでいたので、兄、母、私と三人で、一定の時間に、誰が一番長く編むか、競争した事もありました。

印をつけて、「ヨーイドン」で頑張って、何時も私が一番長かった。

カカヤンの計略に、マンマとやられました。編み終ったものを8の字にまとめて、負って行って、次に編む品をもらって来るのでしたが、お金をもらった事が嬉しくて、頑張ったのでした。

お金を入れた布の袋を握りしめて帰り、小使いを一銭もらって何よりも嬉しくて、近所に「ケイサン」という、おんちゃんくのおばさんが「テツボー」を売っていたので、一本一銭で買えたのです。

帰り道しゃぶりながら、スキップで帰って来たのでした。モモタロサンの唄でも唄っていたカモネ。

カナバ屋さんは、駒野という所にありました。

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95年間のキヨ婆さんの思い出 31

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

錦を飾るはずの故郷へ             

 

土佐郡森村へ帰ったのでした。10年前、土佐町の相川を出てからの哀れな帰郷でした。

病母、赤ちゃんの妹、家族七人、村の避病院でしばらくお世話になりました。

母方の叔父が炭を焼いている和田ケ谷の山小屋へ、病気の母の住む小屋を作り、布団一枚家族の着替え一枚もない中、親戚、友人、大勢の皆様のお情けで、何とか一日一日を過ごせる様になったものの、小学六年生の弟は勉強中止でかわいそうでした。叔父夫婦も通っていましたが、私達一家の収入源にと、炭焼き一年生で始めたのでした。

親戚から貰い集めた古い斧、鋸で怪我は絶えず、アンマ膏代りに糊木の皮を張り、体格の良い妹に負けじと頑張り、暦の無い日を送ったのでした。

環境が良かったのか、母も元気で、家族皆のくつろぎでした。

 

一日一日を元気でと願っていた矢先、思いもよらぬことが。

山の地主から「結核菌は三十年は地の中で生きているから、今すぐ出て行け」。

なんということか。

不自由な中でも、一日一日を何とか「ガンバッテ」と思ったのに、目の前に突然黒幕が…。母がどんなに辛いか。

でも、捨てる神あれば、拾う神あり。「山奥で良ければ」と声をかけてくれる人がいて、又々人のお世話になり、今までより遠いけれど、二つ小屋を作り、移ったのでした。

植林雑木で、昼でも暗い様な所でした。下の道路からは今までの倍も遠くて、森の農協から配給米を負って帰るのに妹と苦労しました。途中で休めば日が暮れるので、帰り着くと背中の皮がはげて痛かった。

そうした辛抱が、その後の忍耐へと強くなったと思うのです。

 

*避病院…法定伝染病の患者を隔離・収容していた伝染病院のこと

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 30  語り残す戦争の記憶 〜帰ってきた母の話〜

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 土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

語り残す戦争の記憶 〜帰ってきた母の話〜

 

昭和20年7月4日、高知大空襲。

突然の爆音に飛び起きて、廊下へ出た。他の患者も、「空襲、空襲」と大声で走り回っていた。

南の筆山の方は一面に真っ赤。熱気を感じ、見上げた空は真っ黒。ゴーゴーと爆音。シャーシャーと焼夷弾の落ちる音。地響き、真っ赤な火の玉。一瞬、気を失いそうになった。

何とかタオル、綿入れのソータ、筍の皮の草履を履いて道路に出た。その時はまだ、病院は火がついていなかった。

南の鏡川の柳原に出たら防空壕がいっぱいあることは知っていたので、必死で走った。目の前に焼夷弾の火の玉が大きな音と共に飛んできて「しまった」と思った瞬間に、目の前の側溝に飛び込んだ何人かと一緒に、隅っこにピッタリと伏せて、耳を指で潰した。このまま死ぬのではないかと思った。

市といっても、B29何機もで攻められたら短時間で焼け野原になるだろう。

頭の上からは爆音が遠のいたが、起き上がってみるのも危険と、しばらくして周囲の建物の倒れる音、焼ける音を聞き、立ち上がることもできず、このまま終わりかと思った。

やっと時間が過ぎて立ってみると、側溝の深さが自分の身長よりも高くて、足がかりも手掛かりもないことに気が付き、うろうろしていると、山内神社の社務所へ渡る狭いコンクリートの橋が見つかり、やっと参道を横切り、川沿いの防空壕へ。

周囲の変わり果てた様子に身震いした。衣服に火のついた人が叫びながら走っていたり、道路の真ん中に倒れた人が火だるまだったり。川に入っている人、草の上で倒れている人が大勢いた。体に火がついて川に飛び込んだ人、焼死した人たちだったのです。

道の両側の家の形はなく、残り火が燃えていた。その熱気、臭い。

消防団の人に、近くの第六小学校へ収容され、熱いお茶とおにぎりでホッとしたのも束の間、江ノ口の六人の家族の心配。早く確かめたい。もし家と共に焼け死んでいたら探しにも来ないだろう。病人が一人、生き残っても仕方がない。早く安否が知りたい。何とかして帰ろうと決心。

夕方、残り火のまだ熱い中を、道路の中央の整理されたところを一歩一歩と昭和町の我が家へ。愛宕町らしいところも焼け野原。

木造の江ノ口小学校もあるはずもなく、赤レンガの堀に沿って見渡す限り、真っ黒白。人影もない。もう少しで堀が終わろうとした時、突然「お母ちゃん」。6年生の次男が飛びついてきた途端に「フニャフニャ」とその場に座り込んだ。

家族皆が取り囲んで、涙の合唱。しばらくして「よう生きちょったネー」と父が一言。二度も探しに行ったが見付からなかったのでした。

何にも知らない赤ちゃんの妹は、姉の背中でスヤスヤと。

昭和20年7月4日、高知大空襲の思い出です。

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95年間のキヨ婆さんの思い出 29

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

せりとり

小学5,6年生の頃だったと思う。高知市の家のすぐ北側から、久万川の堤までずっと田んぼでした。現在は立派な都会になっています。

稲を刈った後は、一面の草で真青で雑草に混ざって大きなセリが生えていて、故郷では、時々食べた美味しかった味を懐かしく、思い出して、地主さんに相談して時々食べた思い出があります。

当時5,6才だった弟がせりに良く似た雑草をひいて、いばったこと。たまにはお白和えにして、美味しかったこと。時期と共に思い出が蘇ってきます。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 28

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

母の手

今から84年程昔の思い出、胸の奥から引っ張り出してみました。

私が小学5年、妹が3年、弟が6才の頃、高知市昭和町の江ノ口に住んでいました。父は当時の「土陽新聞」に勤め、母は高知に移住してすぐから、乳屋の瓶洗いの仕事に行っていました。

日曜日のこと、お母ちゃんの働いている乳屋に行ってみようかという事になり、弟を連れ三人で出かけました。一度も行った事は無かったが、大体の道筋は聞いていたので、先ず愛宕町通りを南へ、汽車の線路を越して、中ノ橋を渡って少し行った所の右側に金曜市の出る通りがあって、角に永野パン店がありました。

大きな看板を見ながら、南へそこから追手筋の通りまで、県立の第一、第二女学校、南の端が城東中学校と並んでいました。現在もある高い時計台がありました。

確かこの辺と聞いていたのだがと、クルッと回るとそこに「島﨑牛乳」の看板が。「ここだ」。

妹とトビトビして喜んだ。広い庭があって、仕事場らしい建物が一杯並んでいた。母に会いたかったがその勇気が無かった。

今から85年も昔の事、瓶より他に容器は無かったのでしょう。水道の水で一日中、手袋等あるはずも無く、母の手は「ミズグイ」とやらで、真白くなって、皮がはげて身が見えていた。

毎晩膏薬を塗る母を見てかわいそうと思い、私に出来る事は手伝って母を助けよう、との思いが親孝行への考えの始まりではなかったかと、97才の今、一人ぼっちで涙する今日この頃です。

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95年間のキヨ婆さんの思い出 27

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

恩師の涙永久に

昭和13年、6年生の1学期、毎年行われているマラソンがあった。

男女別、5,6年合同コースも決まっていた。正門を出て、左へ、日赤通りを東へ、相生町を北へ、比島橋を渡り、久万川の堤を西へ、秦泉寺通りを南へ、元の日赤通りに出て、正門まででした。

スタ-トする時は、仲良し組7人で、「最後まで一緒ゾネ」と約束したのでしたが、何時の間にか気が付いたら一人になり、少し前をノッポの人が一人走っていた。「ヨシ、あの人に付いて行こう」と頑張ったが、追い付げずゴール。ビリだと思ったがそうではなかった、二着だったのです。

5,6人の先生がいて、担任の中島先生が真先に駆け寄って来て「エラカッタ、エラカッタ、よく頑張った」と、両肩に手をかけてくれました。先生の顔が私の目の前にあって、両目に涙がいっぱいたまって、今にも流れ落ちそうでした。外の先生も拍手を送ってくれました。

一着の人は、組違いの背の高い、走るのが早いと評判の人でした。

その後85年余り、戦争ゆえの苦労を体験しました。

人生の中で、あの時涙と「エラカッタネ」の一言が、胸の奥深くこびりついて、人生を諦らめず頑張ってこれたのです。「エラカッタネ」の一言と目一杯の涙が、教え子の人生をまもってくれたのです。

(当時の私の服装は体操服とは程遠い、ヨレヨレの上着に、ヒダの無いスカ-ト、すり切れたズックでした。思い出というよりも、思い出さずに忘れずに、が正解かも知れません。いつ天国よりお迎えがあるかも知れませんので、書きました。)

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 26

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

二宮金次郎を見習って

今から九十年あまり昔。小学校の時間割では、月曜日の一時間目は「修身」といって、親に孝行とか兄弟仲良く、お国の為とか立派な人間になるための勉強の時間でした。現在でいうと「社会」でしょうか。

昔々、二宮金次郎という、貧しい家に生まれて寺小屋(学校)にも行けず、弟妹の子守りや家の手伝いをしながら、立派な大人になって世間のために働いた人がいました。時々、先生の話に出てきました。

江ノ口小学校の正門を入って右に行くと奉安殿があって、その左に、本を読みながら背中に薪を一杯背負った金次郎の銅像が並んでいました。前を通る時は、必ず一礼して通りました。

そして自分も金次郎を見習って、大人になったら両親兄妹のためになる人間になろうと、子供ながらに決心したのでした。「手本は二宮金次郎」という歌もありました。

その後大人になって、戦争空襲で被災、病母や幼い妹の母代り、生きるか死ぬかの時代を乗り越えてきました。

肉親は皆天国へ、人の温かい愛情と、幼い頃の二宮金次郎の訓えを胸の奥に生きてきました。あの世までも持って行きます。

科学の進歩した現代、悲惨な事件の多いことに胸を痛める毎日です。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 25

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

カンピンでお酒を買いに

父はお酒が大好きでした。相川にいる時も、近所のお祝い事に呼ばれて行っていました。

始めの内はいい機嫌で、歌を唄っています。だんだん酔ってくると理屈を言い出して、人が理解してくれないと怒り出す癖があるので、時間を見計らって迎えに行ったと母から聞いたことがあります。家にいても、仕事に行った日も、晩酌を楽しんでいました。

一升瓶で買っておけば良いのにお金が高いので、買うときは、二合位入り、湧かすことも出来る「カンピン」ガラスに入れてもらいました。

江ノ口小学校の赤レンガの堀に沿って南へ、日赤通りへ出て、学校の正門前を過ぎ愛宕町迠の中程の左側に井上酒店があって、「玉緑」という看板がありました。

綺麗なおばさんが、大きな樽の栓を抜いて「ダップダップ」と入れてくれました。カンピンは薄いガラスなので、少しでも物にあてると割れるため、帰り道が心配でした。

おいしそうに飲む父の顔を見て、ホッとしたことでした。

小学校五、六年生の頃、八十年余り昔の思い出です。

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95年間のキヨ婆さんの思い出 24

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

 

お使い

相川にいる時から、弟の子守やお使いは私の仕事でした。
三才年上の兄がいましたが学校の成績も良く、色白でお金持ちの子どものようでした。兄は高知に行ってすぐ大阪に就職し、両親は働きに出ていて、お使いはいつも私でした。私よりも兄が大事にされていると思ったこともありました。

家の前の道を西に行くと愛宕町通りへ。右側の角にお米屋があって、いつも買いに行っていました。
店にはお米を一杯入れた箱が並んでいて、右から順に、一升二十九銭、次が三十銭、三十二銭と、値段を書いた札が立っていました。二十九銭のはあまりにも美味しくなかったので、母に言われ、三十一銭のを買ったのを覚えています。おいしい相川米を思い出しながらのお使いでした。

お金は円札が全然なかったので、バラ銭を布の袋(キンチャク)に入れて、首に掛けていました。五十銭は白い銀貨で、周りにギザギザが付いていたことを覚えています。今から八十年余り昔の事です。百円札は終戦後、出回ったと思います。
 
 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 23

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

昔々お世話になりました。

高知市昭和町での生活が始まり、兄がいる間は弟のことは何も心配は無く学校に行けたのですが、まだ5才の弟のこと、両親は働きに行って誰もいない家に一人置くことも出来ませんでした。結局学校に連れて行くことになり、授業中は運動場の鉄棒の下の砂場で遊んでくれて、勉強が出来たのでした。

雨の日は廊下とか、教室の隅とかで遊んだり眠ったり、何とか勉強の邪魔にはならず、午前中の授業を済ませて帰れたのでしたが、たった一度迷惑を掛けた事がありました。

いつもの様に外で遊ばせていた時、教室へ子供の泣き声が聞こえて来て、あれは弟の声だと思っていると、給食のおばさんが廊下で手招きをしたのです。

出て行くと「弟さんがウンチをしたらしい」と小声で云ってくれました。行って見るとズボンもパンツも脱がずにウンチをして泣いていたのです。

「帰って着替えを取って来なさい、見ていてあげるから」と言ってくれて、「さあたいへん」。全速力で帰って着替えを持って行って、おばさんのお陰で着替えが出来たのです。こんな失敗一人だったらどうしたかと思うと、今だに忘れられません。

子供ながらに優しい人の気持ちが伝わって、95才になっても忘れらません。給食のおばさん、本当に有難うございました。

 

 

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