川村聰子さんは昭和8年、朝鮮(当時)で生まれました。実業家のお父様が、米や練炭などを輸入する事業を営んでいたそうです。
12歳(昭和20年)の頃に敗戦を迎え、家族一同命がけで朝鮮から帰国されたそうです。お父様の故郷である土佐町の相川白石まで、戦後の混乱の中、2ヶ月の道のり。
想像しただけで気が遠くなりますが、無事に到着するという一事においてもおぼつかないような状況だったと想像します。子供たちを抱えたご両親の心労はいかばかりか。
昭和20年10月に、お祖母様が住んでいた(お父様の故郷である)土佐町に到着。
その後聰子さんは高知市の洋裁学校(藤波高女)に通い、23歳の時に田井の方と結婚。
お父様は敗戦後も事業意欲の旺盛な方で、醤油や味噌を扱う商売を始めたこともあったそう。
その後は「神奈川木材」という製材工場を営み、お父様が社長、ご主人が専務、聰子さんは事務として従業員30人の会社を引っ張っていたそうです。