理由は不明だが、ある日から雄鶏が一羽の雌鳥を執拗に虐めるようになり、それは相手に怪我をさせても止まることはなかった。雄鶏を捕獲して数日間別の小屋に入れておいたが、いつまでもこのままでは彼にもストレスが掛かる。しかし、放すとまた同じ雌を追いかけ回す。
子どもたちに相談してみると、
「虐めるオスが悪い」
「メスは卵を産むけど、オスは産まない」
「オス怖い」
と圧倒的にメス擁護の意見が多く、「では、オスを絞めようか」ということになった。
それから数日後の朝、雄鶏の足に紐を結び、そして、子どもたちに「はじめるから見においで」と声を掛けた。いつもとは違う様子の大人しい鶏の姿に違和感を感じながらも、早くお肉食べたいねーなどと言っていた。
僕は手斧と台を持ってきて、片手で頭を引っ張って首を伸ばし、一気にその首をはねた。飛び散る血と首が無くとも尚暴れ回る身体に、子どもたちは少なからずショックを受けているようだった。長男は「かわいそう」ポツリと言い、目に涙を浮かべていた。
間も無く動かなくなった雄鶏の身体を竹竿に吊るし、血抜きをする。お湯とバケツを用意して、ざぶざぶと雄鶏をお湯に浸け、羽をむしる。「食べたい人は手を貸してよー」の声に、子どもたちも手伝ってくれた。独特の鶏臭が湯の蒸気と混ざりあたりに漂う。
いよいよお腹を裂き、包丁で各部位に分けていく。
「これは心臓、これは砂肝」と、まだ残る温もりを手に感じながら、内臓をバットの上に取り分けていく。
僕が今までに捌いた鶏は数羽程度。正直言って慣れていないので、作業に時間が掛かる。事前に動画などを何度もチェックしたが、部位ごとに綺麗に切り分けるのは難しい。それでも、見慣れた肉の姿になってくると、子どもたちが「お腹空いたー」っと近寄って来た。「おいしそう」と言う長男の声を聞いて、ホッとした。この体験を怖いとか可哀想だけで終わらせてほしくなかったからだ。
果たして、雄鶏は焼き鳥となり、骨はカレーの出汁として調理された。我が家の貴重な動物タンパク質として、美味しく家族のお腹を満たしてくれた。奥さんは肉が苦手なので食べなかったが、食育としての意義を感じてくれたようだった。
この出来事を子どもたちはどう理解しただろうか。
普段目にする「お肉」は綺麗にパックされたものが多い。ご近所さんからいただく猪や鹿の肉もそれはすでに捌いた後で、怖いとか可哀想なんて思うことはない。でも、実際はそうなるまでにいろんな行程があって、誰かが手間隙を掛けた結果だってこと、実感できただろうか。
目の前の「いのち」がどうやって自分の口に入るのか、暮らしの一部として覚えていてほしい。
写真:またまた登場、うちの末っ子。「卵集めは私の仕事」とばかり、毎日巣箱に頭を突っ込んでは、卵を採ってくれる末娘。まだ力加減が分からないので、割ってしまわないかとヒヤヒヤする場面もあるが、掌を差し出すと自慢げに卵を載せてくれる。