2021年2月

図らずもTPP。あっちのTPPではありません。

土佐町在住の写真家、石川拓也がひと月に1枚のポストカードを作るプロジェクト。

2016年11月から始まり、たまに遅れたりもしながら、いちおう、今のところ、毎月1枚発表しています。

各ポストカードは土佐町役場の玄関と道の駅さめうらにて無料で配布しています。

写真:石川拓也 宛名面デザイン:品川美歩

土佐町ポストカードプロジェクト

2021. Jan

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2021 Jan. | 近藤稜真・優真

 

土佐町の最も高い場所にある集落が黒丸。黒丸の河内神社は、昔から黒丸の住人の氏神様として大切にされてきました。

ここには御神木と呼ぶにふさわしい立派な木が3本。前に立つのが槇で、後ろが杉です。槇の上部に開いている穴はムササビの巣穴だそうです、

数百年の間、黒丸の住民を見守ってきたであろう樹木。一緒に写っているのは近藤稜真くんと優真ちゃんの兄妹です。

 

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私の一冊

西野内小代

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「日本史サイエンス」 播田安弘 講談社

データや推論を気象学、物理学、統計学などの知見を活かして日本史における大事件を検証しようという試みです。

・蒙古襲来
・秀吉の大返し
・戦艦大和の謎に迫る

この三つの出来事について考古学者でも歴史学者でもない著者が専門分野の科学を武器に検証していきます。例えば「蒙古襲来」は舟の専門家である著者の計算では、全軍26,000人・軍馬700~1,000頭が一日で日本に上陸できたとは考えられない。「大返し」については食料の手配、全軍2万人の体力の消耗等も考えると、事前の周到な準備なくしては考えられない。

戦艦大和の技術が戦後日本の造船に大きく貢献したことはいうまでもなく、カメラ産業の発展にも貢献、特殊鋼の高い技術力等、戦後の電機産業、機械産業の発展を促した事実も忘れてはならない。具体的な数字を提示しているので、目から鱗のスッキリ感で読み終えました。

 

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笹のいえ

家族が増えて

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家族が増えて、二ヶ月経った。

たねが加わったことで、我が家族が整ったように感じてる。これまで、出っ張ったり引っ込んだりしていた部分に、彼女が入り込み、ある種の形が出来上がったみたいだ。と言っても、具体的な図形が頭に浮かぶわけではなくって、感覚的なものなので言葉にするのが難しいのだけれど。

赤ちゃん中心となった生活の中で、子どもたちそれぞれの立場や役割が変化した。

基本的に母ちゃんはたねに付きっきりだから、当然僕を含めた他の家族に「母ちゃんがしていたこと」をする機会が多くなる。

長女は、10歳にして(望むと望まざるとにかかわらず)「ミニ母ちゃん」としての立場を確固としたものにしている。一番の年上ということで、周りからの頼みごとはお姉ちゃんに集中する。弟妹たちの世話を焼きつつ、家事もこなしている。下の子を叱るその様は母ちゃんそっくり。家族が増えるたびに、自分の時間が少なくなってしまうのは第一子の宿命だろうか。読書大好きな彼女が本に集中しようとすると、誰かから頼まれごとを言われて、ストレスを感じているときが多々ある。お手伝いは「しょうがなくやってる」という姿勢を隠さない彼女だが、慣れるにつれてできることも増えてきた。

マイペースな長男は、赤ちゃんが生まれても変わることなく我が道を歩いている。お調子者の彼は、同じくお調子者の弟と一緒に、しょうもない替え歌を歌ったり、くねくね踊ったりして和ませてくれる。だが、度が過ぎて叱られることも多い「ザ・男子」。学校に習い事にと忙しい彼。お姉ちゃんほどお手伝いに時間は取れないが、人を笑わせたりするのが得意なので、弟妹の面倒をよく見てくれて助かってる。

今まで「まだ小さいから」と大目に見られていた次男だが、下が増えるとそうもいかなくなる。上の子からは指示が飛び、ときには妹の相手もしないといけない、中間管理職的立場となった。それでも、「お兄ちゃん」としての自覚が強くなって、自分のことは自分でやるようになってきた。不条理な理由で怒られたり、泣きたいことがあっても、ぐっと我慢する表情に父ちゃんはひとり心で萌えてる。本当はまだまだ甘えたい年中さん、寝るときはお腹をとんとんしてもらうのが好き。

家族の中で、人生を最も謳歌している次女は二歳。可愛い盛りな彼女は、何をしても許されてしまう。相手は自分に合わせてくれるし、気に入らなければ相手が怒られる。たねが誕生したとき、このちっちゃい生き物に母親を取られるとライバル視していたが、最近面倒みたがるようになったのは自我の目覚めだろうか。自分の下ができたことで、弱い存在に優しく接する感覚を身につけたようにも見える。

そして、末っ子たねは、母ちゃんとの蜜月な日々。おっぱい飲んでねんねして、と童謡の歌詞そのままの毎日を送ってる。成長のスピードは驚異的で、首は座ってきたし、目を合わせて笑ったり、あーとかうーとかおしゃべりしてる。入れ替わり立ち替わり目の前に現れては、相手をしてくれる姉兄たちのことをどう感じているのだろう。

まさに五人五様で、同じ親からどうしてこうもバラエティに富んだ性格が育つのだろうと不思議でならない。毎日のように喧嘩はするしそれはそれは騒がしいけれど、家族全体で観察してみると、なんとなくまとまっているから面白いなと思う。

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私の一冊

古川佳代子

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「ぶきっちょアンナのおくりもの」 ジーン・リトル作 田崎眞喜子訳 福武書店

年明けに、懐かしい本を読み返してみました。やはり良いなあ、好きだなあと、幸せな読書初めでした。それがこの「ぶきっちょアンナのおくりもの」。

アンナは五人兄姉の末っ子です。 アンナ以外の家族はみんな美しい容姿と手先の器用さに恵まれています。それにひきかえアンナだけが、ずんぐりとしていて不器用でした。そのうえアンナは、小学校二年生になってもまだ字が読めませんでした。兄姉たちはアンナをばかにして相手にしてくれません。母親もアンナの鈍い動作にいつもイライラしていました。そんなアンナの唯一の理解者は父親でした。

時は第二次世界大戦間近、ナチスが台頭してきたドイツに住み続けることに不安を抱いた父親はカナダに移住する決断をします。カナダに移住してすぐに受けた健康診断で、アンナはひどい弱視だったことがわかります。 眼鏡をかけた瞬間からアンナの世界は一変します。けれども内気なアンナは大好きな父親にさえ、自分の世界がどんなに変わったかをうまく伝えることができません。家族にとって、アンナはやはり“ぶきっちょアンナ”のままでした。

その一方で、視覚障がい者のクラスに通い始めたアンナは、自分にもいろいろなことができることを知ります。あるがままのアンナを受け入れてくれるクラスメイトたち。アンナは少しずつ自分に自信を持ち始めます。

自分の家族という小さな社会での評価がすべてだと子どもは思いがちです。けれども違う社会、違う視点を持つことで世界は広がり、なんて生きやすくなることでしょう。いえ、これは子どもに限ったことではないですね。大人だって同じこと。自分の属する小さな社会がすべてだと思い、その評価に翻弄されてしまいがちです。壁にぶつかったらアンナのことを思い出すことにいたしましょう。

 

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くだらな土佐弁辞典

とっと

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とっと

【意】ずっと(遠くに)

 

例① 弟ととっとっと

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私の一冊

西野内小代

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「海賊とよばれた男(上・下)」 百田尚樹 講談社

出光興産の創業者「出光佐三」を扱った経済歴史小説です。

V6の岡田准一さん主演で映画化されているのでご存じの方も多いかと思います。

国岡鐵造(小説の中の主人公名)の生きる姿勢にリスペクトするばかりです。読み物としても先へ先へとページが進む構成になっていて、上・下巻ですが、長編感を全く感じさせず一気に巻末まで読み進みます。

貧しい時代から戦争の苦しい時代を経て高度成長期を経験し、大局にへつらうことなく「人」を大切にし、世界を相手に石油一筋に生き抜いた彼の一生に敬意を表します。

 

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以下の文章は、2020年12月18日に発行したとさちょうものがたりZine07「土佐町のかたち」の巻末に、あとがきとして掲載したものです。

 

「あなたと出会えた奇跡を記す」 文:鳥山百合子

 

岡林敏照さん・美智子さんというご夫妻がいる。

現在、敏照さんは91歳、美智子さんは87歳。敏照さんは土佐町の山間部の黒丸地区出身で、美智子さんは土佐町の隣の旧土佐山村(現高知市)生まれ。お二人は、1952年に結婚してからずっと黒丸地区に住んでいた。

敏照さんの生業は林業。まだチェーンソーなどない時代、鋸(のこ)と釿(ちょうな)で木を切り、斧で枝を打っていた。「山を切って、焼いて、稗を蒔く。そのあとは小豆、大豆、そして三又を植えたのよ。当時の人たちはそうやって生きてきた」。

牛を引きながら、歩いて3里(約12km)の石原地区へ買い物に行き、黒丸の人たちの配給米を牛の背に載せて帰ってきたという。敏照さんは「16歳の時に終戦を迎えて、戦争に行かずにすんだ。国のやり方ひとつで人の人生が変わってしまう。戦争だけはいかん」と言った。

現在は、病院に通うため、土佐町の中心部である田井地区にも家を構えている。週に3日ほど、車で1時間かけて黒丸の家に行き、畑仕事をするのが楽しみなのだそうだ。

「畑にいると生命力が蘇ってくる。姿は見えなくても、ここにわらびがあって、ウドがあって、って。自分の中に畑が入っているようなもの」と美智子さんは話す。

石川が岡林さんご夫妻の撮影(P50 )をする日、私も同行した。黒丸地区のアメガエリの滝のそばにある吊り橋のたもとで、お二人と待ち合わせをした。吊り橋は遊歩道をしばらく歩いたところにある。歩き始めてハッとした。道の草が刈られたばかりだったのだ。私は、ご高齢のお二人が歩く道の状態を確認していなかったことに気付いた。誰が草を刈ってくれたのか?その人の顔はすぐに思い浮かんだ。自分の至らなさを痛感しながら、お二人が待つ橋まで歩いた。雨上がりのあとの草は刈られてもみずみずしく、キラキラしていた。

 

間に立つ人

草を刈ってくれたのは、黒丸地区の地区長である仁井田亮一郎さんだった。私はいつも「亮さん」と呼んでいる。今までとさちょうものがたり編集部は、亮さんに大変お世話になってきた。お二人の撮影をしたいと相談すると、間に立ち、連絡を取ってくれた。亮さんは撮影の日に合わせて、お二人の足元が危なくないよう、草を刈ってくれていたのだった。

亮さんは、黒丸地区の人の健康状態や様子をよく知っていて、まるで自分の家族のことであるかのように話す。後日、美智子さんが言っていた。「亮一郎さんは、私らが田井に家を構えたあとも、たびたび家を訪ねてきては、 “元気かよ〜” と声をかけてくれる。なかなかできることじゃない。人間を大事にする人じゃ」。そして、「私らは集落のことはもうできん。亮一郎さんから(写真の撮影のことを)頼まれて、何か少しでも役に立てるのなら、と思って引き受けたのよ」と話してくれた。

 

重ねてきた歴史

撮影は、緑輝く瀬戸川を背景に行った。そこはお二人が毎日のように歩いていた場所だった。緊張していたのか初めはぎこちない笑顔だったが、石川が声をかけながら撮影するうちに、リラックスした表情を見せてくれるようになった。

撮影が終わり、車を置いた場所へ戻るために階段を上る。先頭は敏照さん、そのあとに美智子さんが続き、私はその後ろを歩いた。道の途中、敏照さんが幾度となく振り返り、美智子さんを見つめていた。そして、安心したように前を向き、また歩き出す。一瞬、時が止まったように思えた。慈しみに満ちたそのまなざしは、お二人が重ねてきた歴史を物語っていた。

岡林さんご夫妻の写真を見て、誰よりも喜んだのは亮さんだった。写真を手にして嬉しそうに笑い、「よかった」。そして、「ありがとう」と言った。亮さんと岡林さんご夫妻が積み重ねてきた信頼関係が存在しているからこそ、この一枚の写真が成り立っている。

石川は「撮影はその人の存在を認める行為」だと言う。今、あなたがここにいること。あなたと出会えたということ。あなたとの出会いはかけがえのないものであること。亮さんは、今まで大切に育んできた関係の一片を石川に預けてくれたのだった。

 

物語を記す

撮影から数ヶ月後、岡林さんご夫妻の田井のお家へ伺った。棚には家族の写真が飾られ、その真ん中には、石川が撮影した写真があった。

写真を見ながら敏照さんが言った。「黒丸の遊歩道は、黒丸の人たちが作ったんだ」。数十年前、町から頼まれた仕事だったそうだ。これまで何度となく歩いてきた道は、敏照さんをはじめ、黒丸の人たちが鍬で掘って作った道だったのだ。

一枚の写真の奥には、黒丸という山深い場所で生きてきたお二人の持っている物語があった。写真を撮ることは、その人の紡いできた物語を記し、引き継いでいくことでもある。

 

幸せな仕事

今まで、土佐町のこどもから人生の大先輩まで多くの方の撮影をさせていただいた。2018年7月に発刊した「とさちょうものがたりZINE02号」に友達の姿を見つけ、「僕もとさちょうものがたりに出たい!」と自らポストカードのモデルになってくれた子もいた。石川が土佐町で撮影を始めてからこれまでの間に、鬼籍に入った方もいる。生前から写真を額に入れて飾ってくれていたその人は、いつも座っていた場所で今も微笑んでいる。

あなたがここにいること。あなたがここで生きたこと。その証である一枚を喜んでくれる人がいる。

「幸せな仕事をさせてもらっている」

石川は常々そう話す。

 

誰もがたった一度のかけがえのない今を生きている。つい忘れてしまいがちだが、人生の持ち時間は限られていて、誰もが生と死の間にいる。

だからこそ、この広い世界の中で、あなたと出会えた奇跡を記す。一枚の写真には、その意味がある。

 

 

 

 

岡林敏照さん・美智子さんの写真はこちらです。

岡林敏照・美智子(黒丸)

 

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私の一冊

古川佳代子

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「21世紀の新しい職業図鑑~未来の職業ガイド~」武井一巳著 秀和システム

何かの拍子に、小学校の国語の時間に習った物語の一節やタイトルが思い出される時があります。「私はひどく落胆した」とか「めもあある美術館」とか。

この本を読み終えた時浮かんだのは「ランプ、ランプ、なつかしいランプ」という言葉でした。そう、新美南吉の「おじいさんのランプ」の終わりにでてくる言葉です。まだほとんどの家には明かりがなく、あっても行燈くらいのもの、というときに登場したランプ。文明開化の象徴のようなランプでしたが、電気の登場とともに時代遅れとなってしまう…。

このガイドにでてくる職業は、どれも私が子どものころにはなかった45の職業です。プロゲーマー、ドローン操縦士、ユーチューバー、地下アイドル…。これらは今後ますます発展するだろうAIに対抗できる職業なのだそう。 私が愛してやまない司書という職も、いつの日かAIにとって代わられるのでしょうか? もしも図書館がランプの様に時代遅れになったとき、わたしは巳之助のように「自分の古い商売がお役に立たなくなったら、すっぱりそいつを棄てて、古い商売にかじりついたり、昔のほうがよかったといって世の中の進んだことを恨んだり」しないでいられるでしょうか。

いやいや、図書館よ、永遠なれ!!

 

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笹のいえ

たね

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令和2年12月16日午前9時9分。

おぎゃあと小さく泣いて、女の子が生まれた。出産予定日より10日遅れての誕生だった。

予定日より数日前、出産立ち会いのため千葉県にある奥さんの実家に到着していた僕は、予約していたフライトを二回延期した。こちらにいる間、子どもたちは小学校や保育園を休まねばならなかったし、猫や鶏の世話など留守を頼んでいる友人への負担も気になっていた。しかし「家族で新しいいのちを迎える」のは、僕たちにとって、とても大切なことと考えていたから、彼らのサポートに甘えた。そのときを待っている日々に、一日の長い時間を子どもたちと過ごすという貴重な日々を送ることができるのはこんなときしかないことだった。

出産場所は、これまでと同じ奥さんの実家。

これまでと違うのは、助産師さんにお世話になっていることだ。

過去四回の出産は家族と親類だけで行っていたが、今回検診と出産はご縁のあった助産師さんに頼んでいた。自分の年齢と体力によるリスクを考えた母ちゃんの選択だった。

月に一回ある検診のために高知から往復する負担を考えて、妊娠六ヶ月ごろから奥さんと子どもたちは千葉に移っていた。僕と小学校に通う長男は高知に残り、機会をみつけては千葉に様子を見に行っていた。

出産まで間近という日、僕らが再び千葉入りし、久しぶりに家族が揃った。

予定日を迎えたが出産の兆候はなく、一日、また一日と過ぎていった。周りは「焦らず、赤ちゃんと母ちゃんのタイミングで産まれてくればいいよ」と言うものの、ある日数を超えてしまうと病院で出産となる。このコロナ禍では院内立会いはできず、産後も入院中は面会できない。赤ちゃんを誕生の瞬間から迎えたかった子どもたちは落胆するだろう。叶うならその前に生まれてほしい。そんな皆の願いが通じたのか、この一二日が勝負!という大潮の未明に陣痛がはじまり、助産師さんに来てもらった。テキパキと無駄なく動き判断する彼女は頼もしく、まさに助産のプロといった感じだった。

陣痛が進むと場が緊迫し、不安そうな子どもたちの相手をしながら、実は同じ心境な僕の気持ちも落ち付けようとしてる。陣痛の最後のピーク、つまり生まれる瞬間、僕はどうぞ無事で産ませてくださいと神様にじっと祈るしかなかった。しばらくして赤ん坊の声が聞こえると、今回も母子ともに元気で出産が済んだことが分かり、汗ばんだ手のひらをズボンで拭いた。お祝いムードに、僕は数分前に懇願した神様へのお礼も忘れてる。振り返れば、毎回そんな想いで出産の場に望んでいたと思う。助産師さんとは正反対の頼りない父ちゃんだが、正直な気持ちだ。

 

赤ん坊の名前は、胎児名をそのままに「たね」とした。

数年前、何かの機会で、土佐町に「種子(たねこ)」さんという方がいることを知って、奥さんと「素敵な名前だね」と話したことがあった。のちに、その方は友人の親類ということが判明し、一方的ではあるけれど、ご縁を感じた特別な名だ。

生後一ヶ月を待って、高知に戻ることになった。車とフェリーを利用して、我が家に帰る。家族全員が笹のいえに居るのは、実に半年振りのことだった。

皆さん、渡貫たねをどうぞ宜しくお願いします。

 

写真撮影:中島安海

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読んでほしい

おばあちゃんのお年玉

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近所に80代のおばあちゃんが住んでいる。色とりどりの毛糸で編んだマフラーをし、手にはパッチワークの鞄を持って、歩いて買い物に出かける姿をよく見かける。おばあちゃんは味噌や醤油を手作りし、小さな畑を上手に使って、美味しい野菜を作る。

道端で会うとお互いに挨拶し、一言二言話すのだが、おばあちゃんは必ずいつも「子どもさんは元気?」と聞いてくれる。元気にしていますよ、と答えるたび「よかった、よかった。子どもさんの姿を見ると、元気になる」と目を細めてくれる。それはお世辞などではなく、ああ、本当にそう思ってくれているのだとよくわかる。おばあちゃんの声や丸い小さな背中が伝えてくるものは、言葉よりも強い。

年が明け、数日たった日のことだった。ガラガラと戸が開く音がして「いらっしゃいますか?」という声がした。玄関へ行くと、おばあちゃんが顔を覗かせていた。おばあちゃんは玄関に入ってきて、いつもと同じように「子どもさんは元気?」と私に聞いた。私も「元気ですよ、いつもありがとうございます」と応えた。「よかった」と言いながら、おばあちゃんはパッチワークのカバンから小さな袋を取り出した。

「これ、子どもさんに」

おばあちゃんが差し出したのは、お年玉だった。

子どもたちは一人ずつ、おばあちゃんからお年玉を受け取った。お年玉は3人分あった。おばあちゃんは、ちゃんと人数分を用意してくれたのだった。

「子どもさんの声がするのが、本当にうれしいのよ」

そう言うおばあちゃんの手から、あまい味噌の香りがした。遊びに来ていた孫に持たせようと、さっきまで袋に入れていたのだという。

私は、何だかどうしても、目頭が熱くなってしまうのだった。

コロナ禍のなか、年末年始も実家へ帰れず、出かけること自体もはばかられるような中で、心が凝り固まりそうになる時がある。世界中の人たちが同じ状況なのだ、となんとか心の置き所をやりくりする日々が続いている。おばあちゃんは、そんな私の心をふっと、ときほぐしてくれた。

お年玉は、今も子どもたちの机の横に大事に飾られている。

おばあちゃん、ありがとう。

 

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