春になると、山で働く人たちからいただく贈り物がある。
それは夕方、帰宅した玄関先にどさりと置いてあることがほとんどで、かなりの不意打ちをくらう。それは保育園の年長さんくらいの子どもの背丈があり、ずしりと重い。
4月27日の夕方にもそれはやってきた。
下を向いて歩きながら、やっと辿り着いた家の玄関先。
わ!
思わず声が出て、足が止まる。さっき採ってきたばかりですよという顔で、2〜3本が並んで玄関前に鎮座しているのはなかなかの風景だ。
誰が置いてくれたかは、いっぺんでわかった。
晩ごはんのおかず、決まる
その時、近所に住む知り合いのおばあちゃんが通りかかった。挨拶すると、おばあちゃんは玄関先を見て「今、美味しいわよね〜、タケノコ!」と言った。
「みんなたいてい、糠を入れて炊くけど、私は水で煮ちゃうの。それでも全然大丈夫。このへんのタケノコはあくが少ないから」
「ゆがいたタケノコをすって、メリケン粉を少し足して、スプーンでぽとんと落として、お団子みたいにあげると美味しいわよ〜。カラッとして!」
俄然やる気が出てきた。
水で煮ればいいなんて気軽だし、ちょうど冷蔵庫の中は空っぽで、今晩のおかずは何にしようか決めかねていたのだった。
タケノコの「解体作業」
そうと決めたら、まずはタケノコの「解体作業」から。
タケノコはとにかく大きく、剥いだ皮は山盛り、大量。そして剥ぐときに粉のようなものが落ちる。だから外でやるのがいい。
土佐町の山の人たちは、たいてい、かまどで大きな鍋にごんごん湯を沸かし、その中にタケノコと糠を入れて茹でる。でも私はそういう環境がないので、台所のガスで炊く。
まずはタケノコに包丁を入れる。見た目は鎧のようだが、気持ちよくざっくりと包丁で切れる。切ったそばから、タケノコの香りが台所中にひろがり、今年も出会えましたねという気持ちになる。
半分に切ってぱかっと開くと、幾重もの皮に包まれていたたまご色のタケノコが姿を現す。皮から剥ぎ取るようにして、筍を鍋に入れていく。一番大きな鍋の蓋が閉まらないほどタケノコを詰めて、煮る。途中、シューシューと煮汁が溢れるので、他の仕事をしていても鍋の音に耳を傾けている。
部活から帰ってきた娘が、玄関を入って開口一番、言った。
「わ!いい匂い!タケノコ?」
おばあちゃんは「タケノコを擦る」と言っていたけど、何だか大変そうだったので、ゆがいたタケノコを小さく刻むことにした。米粉と卵、少し片栗粉と塩も加えて、油にぽとん、ぽとんと落としていく。
揚げているそばから、これは絶対美味しいな!と確信。やはりつまみ食いが止まらず、大皿に盛りつけたそれらは、かなり少なくなっていた。
小さなしあわせ
その日、東京に住む友人からメールが届いた。
「小さなしあわせ、嬉しいことが毎日ありますように!」
私のその日の「小さなしあわせ」は、タケノコだった。そのメールで初めて気がついた。
ある人が届けてくれたタケノコ。たまたま通りかかったおばあちゃんが教えてくれた作り方。友人からのメール。
それらの思いがけない出来事が、小さなしあわせを運んできてくれたのだった。
日々はさまざまな出来事で満ちている。その中にある小さなしあわせに気づく時、いつもそこに誰かの存在がある。私のエネルギーの源は「人」なのだとつくづく思う。
春の玄関先が、最近忘れがちだった大切なことを思い出させてくれた。