あの日のことは、今でもはっきり覚えている。昭和18年(1943)、小学校5年生の時であった。学校から帰ると、祖母と母が縁側に腰掛けて泣いていた。祖父は山へ仕事に出ていた。私をみて祖母が何か言ったが、涙声で何を言っているのか判らなかった。
近付いて行くと祖母から、
「お父ちゃんから、こんな手紙が来たんよ。読んでみて」
と、一枚の便箋を渡された。3行か4行の短い言葉が書かれていた。楷書で、子どもの頃の私にも意味がわかった。
「今は元気だが、自分にもしものことがあれば、これを身代わりと思って下さい」
ということが書かれていた。大変な話だが、身代わりとは何だろうと思い、祖母を見ると、横から母が、
「これを見てみ」
と言い、
「ゆっくりと開けんといかんぞね」
と、小さな紙包みを渡してくれた。白紙を折りたたんで包んだものが二つだった。
開けようとすると母は、新聞紙を広げて縁側に置き、それを指さして、
「この上で、そろそろ開けて」
と、震えを帯びたような口調で言った。
中に大事なものが入っていて、それが落ちてはいけないのだと、子ども心にも察せられたので、新聞紙の上でゆっくり白紙を開いた。開きながら、妙に胸が騒いだ。祖母と母の表情がそうさせたのかもしれない。
まず出て来たのは、爪であった。もちろん父の爪だと思った。両手の指の爪を全部つんだと思われる数であった。
もう一つの包みからは、短く切った髪の毛が出てきた。兵隊は丸刈りだから、それを切った髪の毛はほんとに短いものであった。
これを送ってくるとは、ただごとではないという思いが、じわりと身体中に広がった。
母は時々声をつまらせながら、
「もし戦死しても、遺骨は届かんやろ。これを送るきに、遺骨と思うてくれ、と書いてあるんよ」
と言って、また激しく泣いた。祖母も顔がくしゃくしゃになった。
しばらくして祖母が、
「住所を書いてないきに、どこに居るやら判らんねえ。こんなものを送ってくるということは、こわい戦場へ行ったとしか思えんねえ」
途切れ途切れに呟きながら、その手紙を仏壇に供えた。
夕方山から帰った祖父は、その手紙と爪、髪の毛を見ながら、
「わしも日露戦争の旅順二百三高地の戦いで負傷したが、なんとか生きて戻ってきた。あいつも生きて返して下さいと、ご先祖さんに頼まにゃいかんのう」
と言って、仏壇に合掌していた。
父はそれから全く音信不通で、家族には諦めに近い気配が出ていた。
そんな雰囲気の折り、終戦翌年の昭和21年(1946)の春に、何の前ぶれもなく父が復員してきた。夢ではないかと思う帰宅だった。
父はシンガポール攻略戦に従軍し、占領したあともそこに駐留していた。そして敗戦後はイギリス軍の捕虜となって抑留されていたそうである。
父はあの時送ってきた爪と髪の毛を、
「命を守ってくれたご先祖様に、お礼を言わにゃいかん」
と言って、自家の墓地に埋めた。