渡貫洋介

笹のいえ

引っ越し 後編

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前編からの続き

 

さて、引っ越し先の千葉県にある住まいは築40年ほどの昭和の家。母屋と離れと倉庫がある。前の持ち主が大工さんだったからか、増築や建て増しがされていて部屋数が多く、七人家族でも十分な広さがあるのはありがたい。

 

数ヶ月前、新しい生活にあたって、「どう暮らしたいのか?」を夫婦で話し合ったことがあった。ポストイットに思い思いのイメージを書き留めてまとめていった。五右衛門風呂、釜戸料理、コンポスト、あるもんで、もったいなくない暮らし、等々。キーワードを並べてみる。なんだ、いまの「笹のいえ」の暮らしそのままじゃないかと、思わず笑ってしまった。つまり、ここでの暮らしは、僕たちの理想そのものだったのだ。ただ、新しい(といっても中古だけれど)家では、より快適に、より健康に暮らしたいというのが、ふたりの意見の一致するところだった。まずは断熱性を高め、冬は暖かく、夏は涼しい家にするところからDIY計画が始まる。暮らしのエネルギーは、薪や太陽光、廃油などを利用し、床暖房にも初挑戦する予定だ。

 

生業は、土佐町での経験を生かしていくつもりだ。田畑を耕し、自分たちの食べるものを自給する。そして余剰分があれば加工して仕事につなげる。いろんな人と関わりながら、「三方よし」の働き方を模索していく。やれること、やりたいことがたくさんありそうだ。

家の改修、裏山や果樹の手入れ、田畑での作業。僕たち家族だけではとても手が回らないから、ここでもたくさんの方々に関わってもらうことになるだろう。僕は自分のやりたいこと得意なことに集中し、それ以外の分野ではその道の達人たちに頼むとしよう。僕らはそこでできたつながりの一部となり、相互に楽しく健康に生きていける関係が築けたらとイメージしている。

 

子どもたちは地元の小中学校に通う。中学三年の長女、中学一年の長男、新小学一年生の次女。土佐町での友人と離れ、新しい環境に馴染んでくれるだろうか。

あと数年もすれば、子どもたちは上から順番に親離れしていくだろう。親の介護も始まるかもしれない。そんなことも見据えながら、新しい土地で新しい暮らしでの出来事を、ひとつひとつ淡々と、季節が巡るように暮らしていきたいと思っている。

 

さて、「とさちょうものがたり」の「笹のいえ」連載も、これでおしまい。

 

連載開始当初、編集の鳥山百合子さんが「一年したら土佐町の歳時記になるね」と言ってくれた。それから五年以上、ここまで続けられたのは、鳥山さんや石川拓也さんのおかげだ。誤字やわかりにくい表現を指摘してくれたり、更新が滞ったときには「できるときで構わないよ」と優しく声を掛けてくれたり、ときには一緒にお酒を飲みながら土佐町の未来を語り合うこともあった。

そんな時間の積み重ねが、この文章の礎になったのだと思う。

 

読んでくださった皆さんにも、心から感謝を。
「読んでますよ」と声をかけてもらうこともあり、嬉しいような、ちょっと気恥ずかしいような気持ちだった。この文章たちが、どこかで誰かの目にとまり、何かのヒントになりますように。

 

そして、僕たち家族を温かく迎え入れ、見守り、分け隔てなく関わってくださった土佐町のみなさまへ、ありがとうございました!

この町での出会いとつながりは、僕たちにとってかけがえのない宝物です。

最後に、いちばんの感謝を家族に。
この11年間、ときには夫婦で、ときには家族で、いろんな波を乗り越えてきた。
いま、家族全員が元気で、こうして共にいられることは、奇跡のように思える。本当にありがたいことだ。

そして何より、家族の健康を支え続けているシネマへ。
最大の感謝と尊敬と愛を贈りたい。

 

2025年三月某日

渡貫洋介

 

 

 

写真:
数日後に留学を控え、ひと足先に「笹のいえ」を離れるほの波がいるタイミングで、土佐町最後の家族写真を撮った。写真を撮ってくれたしげみちゃんはプロの写真家で、僕らの暮らしを深く理解し、いつも応援してくれる存在。何度も笹のいえを訪れ、僕たちの日常の一コマを撮り続けてくれている。その時間と記憶に、心からのありがとう。

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笹のいえ

引っ越し 前編

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家族7人で暮らしてきた「笹のいえ」を、この春、僕たちは離れることになる。

 

この地に越してきたのは11年前。当時、僕たちは四人家族で、長女は三歳、長男は一歳になるかならないかというタイミングだった。縁もゆかりもない土地で、知り合いもいない。そんな中、最初の一年間は町営のアパートで暮らしながら、知り合った人や友人たちの手を借りて家の改修を進めた。ようやく電気工事が終わり、部屋に灯りがともった日、僕たちはここでの暮らしをスタートさせた。それから10年以上、この家とともに歩んできた。

 

ここに引っ越して来たとき、地域の人々にとって僕らは不思議な家族だったに違いない。関東からやって来た四人家族が、釜戸で調理し、五右衛門風呂を沸かす。会社に勤めるわけでもなく、農業を本業とするわけでもない。そんな僕たちを見守り、少しずつ距離を縮めてくれた地域の人々。今では「結(ゆい)」とも呼べるつながりがたくさんできた。

思い返せば、ここでは本当に多くの人に助けられた。玄関先に置かれたたくさんの野菜、台風で水が止まったとき大雨降るなか届けていただいたタンクいっぱいの水、「臼が欲しい」と言ったら数日後に家の前に置かれていたこともあった。こんなにも親切にしてもらって、僕たちは何を返せただろうか。はじめのうちはそれがもどかしくもあったが、やがて気づいた。「お返しはできるときにすればいいし、その人当人でなくても、別の誰かにできることをすればいい」。そう思えるようになって、肩の荷が下りたのを覚えている。こうした日々の積み重ねが、僕たちをこの地域に馴染ませてくれたのだと思う。

 

今回の引っ越しにはいくつかの理由がある。東京にいる年老いた両親のこと、子どもたちの成長と家族の新しいステージ、そして何より「家族が近くにいること」を大切にしたかったからだ。しかし、長年暮らしたこの土地を離れるのは、やはり後ろ髪を引かれる思いだ。

いま、引っ越しの荷造りをしながら驚いている。11年間で増えたものの多さに。頂き物もあれば、自分たちで増やしたものもある。それを今度は、使わなくなったものは必要な人へ譲り、それでも余れば処分していく。

 

持っていけるものなら持っていきたい、そう思うものがふたつある。

ひとつは「田畑の土」。ここで耕し続けた土は、僕好みの土になった。千葉でもこの続きをやれたら、、、そう願ってしまう。

もうひとつは友人や地域の方々との「信頼関係」。この土地で築いた絆は何ものにも代えがたい宝物だ。

田畑の「土」も「結」も、千葉ではまた一から築いていくことになる。時間をかけて、土地と人に寄り添いながら、また少しずつ。

 

なんとも後ろ向きな文章になってしまった。想いはまだこの地とともにあるのだから、仕方がない。しかし同時に、ここを離れることは、実は僕の想定範囲内だったとも言える。ここに来たように、いつかまたどこかへ行くことは、不思議ではなかった。

 

でもやっぱり、寂しいものは寂しいのだ。

 

後編に続く

 

写真:2015年撮影。米麹を仕込んでいるところ。みな幼くて、カワイイ。

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笹のいえ

送別会

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引っ越しの準備が本格的に進む2月から3月、僕らの土佐町での11年間がぎゅっと凝縮されたような数週間だった。まるで、この土地での暮らしの総仕上げをしているようだった。

送別の会がいくつも開かれた。名高山集落協定では農家さんたちと日帰り旅行に出かけ、平石消防分団で催された会では、会場の旧平石小学校調理室が地域の方々で埋め尽くされるほどの盛況ぶりだった。名高山子供会育成会では、親しい親子たちと食卓を囲み、心のこもった贈り物までいただいた。高知市オーガニックマーケットの慰労会では、出店者たちと夜通し語り明かした。

驚いたのは、集落活動センター「みんなの森」で開かれた大規模な送別会。大人から子どもまで約100人が集まり、広場ではなぜかパン食い競争やリレー、綱引きで盛り上がり、室内では持ち寄りの料理が並ぶ立食パーティーや屋台まで登場した。この日のために駆けつけてくれた宮城愛さんのライブでは、その優しい歌声に聴き入った。夜はおこぜハウスに移動し、深夜まで充実した時間を過ごした。

それ以外にも、個別に食事や飲みに誘ってくれる友人もいた。

集まった顔ぶれには、いつもの仲間もいれば、久しぶりに会う人もいた。それぞれの顔を見ては、その人と僕らの間に積み重ねてきた記憶を思い出す。あのときの田植えの手伝い、一緒にやった改修作業、子どもたちと行った川遊び。それぞれの思い出が色鮮やかに胸に浮かび、心に染みこんでいく。そんな思い出話もとめどなく出てきて、時間がいくらあっても足りないくらいだった。

そして、これらの会に参加するたびに、僕が思っていた以上に、僕ら家族がこの地域に根付いていたのだと実感した。

会話の中で、

「寂しくなるね」

「また戻っておいでよ」

「帰ってくるんでしょう?」

そんな言葉をかけてくれる人もいる。

僕たちもこの地域が好きだし、これからも遊びに来るつもりでいる。いつか戻る可能性だってゼロじゃない。でも、僕らは今、次の場所へ向かうことを決めた。新しい暮らしのイメージはあるけれど、うまくいくかどうかはわからない。それでも、やってみようと思っている。

だから僕は、この地域と「別れる」とは思ってない。

そりゃ、今までみたいに気軽に会うことはできなくなるけれど、

あの美味しい山水好きなだけ飲むことやどこまでも透明な川で気軽に遊ぶことは難しくなるけれど、

離れることがこの縁を、この繋がりを、一層輝かせている。

 

僕らはこれからも、この土地とつながっていくつもりだ。物理的な距離ができても、それで関係が途切れるわけじゃない。帰ってきても、帰ってこなくても、これからもよろしくお願いします。そう思うと、不思議と寂しさはない。ただただ、この11年間があり、そこで積み重ねてきたものに感謝する。

 

写真:友人たちが撮り貯めた僕らとの写真をフォトブックにしてくれた。

Sending gratitude to my dearest friends, especially to Shigemi-chan.

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笹のいえ

ポン菓子屋になった話

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コロナ禍で世の中の流れが大きく変わる中、僕もまた生業について考え直す機会を得た。宿業は思うように集客できず、また「ステイホーム」という世の中の雰囲気の中、誰かに泊まってもらうことに少し抵抗を感じていた。以前から考えていたもうひとつの新しい生業を真剣に考える時期だった。そんな中でふと浮かんできたのが「ポン菓子」だった。

思い返せば、数年前からJAの駐車場に定期的にやってきていたポン菓子屋さんのご夫婦がいた。軽トラの荷台に載せたポン菓子機でお米を「ポン」してくれる。僕は自分で育てた玄米を持ち込み、何度か作ってもらっていた。顔なじみになるうちに、作業を見せてもらい、質問したり、教わったりするようになった。でもそのころは、まさか自分がポン菓子屋になるなんて思ってもいなかった。

そんなある日、その奥さんが何気なく言った一言「あなた、ポン菓子屋をやりそうな顔してるわ」。なんでこんな会話になったのかは覚えていないし、彼女は冗談半分だったのかもしれない。でも、その言葉は僕の心のどこかにずっと残っていた。そしてコロナを機に、次の仕事を考え始めたとき、その言葉が心の中でじわじわと大きくなっていった。

まずはリサーチを重ね、ご夫婦にも相談した。すると、驚くほど親身になって助言をくれた。背中を押された僕は、ついにヤフオクで中古のポン菓子製造機を購入。価格ウン十万円。決して安い買い物ではなかったが、不思議と後悔はなかった。自分の米でポン菓子がつくれる、というワクワクが勝っていた。

実際にやってみると、見ていたのとやるのとでは大違いということがわかる。釜を温めるタイミング、火加減、圧力の調整、水飴の煮詰め方——どれも一筋縄ではいかない。湿度や気温にも左右され、少しの違いで仕上がりが変わる。機械にはシンプルながら安全装置が幾重にも施されているが、モタモタしていると焦げたり、内部圧が異常に上がりすぎれば最悪爆発の危険すらある。熟練のご夫婦が簡単そうにやっていたことが、実は高度な技術と経験の賜物だったと痛感した。

でも、この仕事には楽しさもあった。「暮らしのなか」にあるという点が、僕にとっては理想的だった。自分で作った米や大豆が家族で食べきれないほど収穫できたらポン菓子にして販売できるし、子どもたちのおやつにもなる。なにより、美味しい。試行錯誤を重ね、失敗を繰り返しながら、ようやく人様に提供できるポン菓子が作れるようになった。

現在の主な販売先は、高知市の池公園で開催されているオーガニックマーケットや嶺北地域のイベント。不定期出店ではあるが、続けているうちに常連さんも増えた。「自家製無農薬の米や大豆を使っている」と話すと、興味を持ってくれる人も多い。市販のポン菓子と比べるとどうしても値段は高くなるが、それでも「美味しい」「安心」「子どもにも食べさせたい」と買ってくれる人がいる。本当にありがたいことだ。

イベントでは、実演販売もしている。釜の中で米が膨らみ、ドン!と大きな音を立てて弾けると、子どもも大人も思わず足を止める。そして、広がる香ばしい匂い。できたてのポン菓子を試食してもらうと、「懐かしい」「昔はよく見かけた」「初めて食べたけど美味しい!」と、そこから会話が生まれる。お客さんと顔を合わせる「手売り販売」の醍醐味は、彼らとのおしゃべりだ。この交流が楽しい。ポン菓子が単なる商品ではなく、人と人をつなぐきっかけにもなっている気がする。

ポン菓子屋は決して大儲けできる仕事ではない。でも、生業のひとつとして成り立ち、そこそこの売上も出せるようになった。もっと改善すべき点はあるし、まだまだ学ぶことも多い。それでも、「美味しい」と言ってくれるお客さんがいる限り、この仕事を続けていこうと思う。

前述の先輩ポン菓子屋のご夫婦は、奥さんの体調のこともあり、出店の回数が減り、いつの間にか姿を見かけなくなった。でも、地元の香美市で今もポン菓子を作り続けていると聞いた。もしまた会うことができたら、「奥さんのあの一言で、僕はポン菓子屋を始めたんですよ。ありがとうございました」と伝えたい。

 

写真:薪棚の前でシネマにモデルになってもらった。午後遅くの日差しがやわらかく、彼女の笑顔をより優しく見せてくれる。少しはにかんだ表情が美しい。

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笹のいえ

七五三

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12月某日、僕らの住む地域の神社の大祭で、七五三を祝ってもらった。

次女・月詠(つきよみ)と三女・たねは、早朝から寝ぼけ眼のまま、事前に用意していたレンタル着物を着せてもらった。着付けはシネマが担当してくれ、同封されていた着方の説明書や着付け動画を見ながら、出発時間が迫る中、ぎりぎりまで時間を使って、なんとか仕上げてくれた。ふたりの着物や帯を微調整をしながら、何度も確認するシネマ。さすがである。

我が娘たちは、化粧も施された自分の顔を鏡に映しては嬉しそうにはしゃいでいて、いつもより少しだけ大人びたその様子に、「ふたりとも大きくなったね」と、夫婦で言い合う。

準備を済ませて神社へ向かうと、既に会場にいた関係者の方々に挨拶をしてから、七五三を祝う他の家族と一緒に本堂に招かれた。中では、宮司さんが神様に祝詞をあげてくださる。厳かな空気の中、月詠とたねは最初おとなしく座っていたものの、着物の帯や足袋が窮屈になったのか、そのうちそわそわし始めた。「あと少しだから」と耳元でそっと声をかけると、いっときは静かになるが、またすぐに身体をもぞもぞさせる。どうなることかと心配したが、最後に千歳飴を手渡されると、ふたりともすっかり機嫌を直し、なんとか大役を果たすことができた。

境内では、地域の人たちが焚き火に当たりながら世間話をしたり、お参りをしたりしていた。雪がちらつきそうな寒い日だったけれど、大人用の神輿や子ども用の小さな神輿が静かながらも力強く練り歩いた。小学生巫女による浦安の舞は、冷たい冬の空気に一層凛とした雰囲気を漂わせた。祭りの最後には恒例の餅投げがあり、月詠とたねも着物姿のまま地域の子どもたちに混ざり、投げられる餅やお菓子を夢中で拾い集めていた。係の人が餅を放るたび、人々の歓声や笑い声が大きく響いていた。

無事に祭りが終わり、家に戻ると、午後の日差しが母屋に柔らかく差し込んでいた。

「洋服に着替える前に写真を撮ろう」ということになり、家族全員で縁側に並んだ。付き添ってくれた友人がシャッターを押してくれる間、月詠は扇子を握った手で顔を隠し、たねは照れくさそうに笑っていた。しかし、ふたりともどこか誇らしげでもあった。

写真には、赤い寒椿や古びた家の土間や干しっぱなしの洗濯物、積まれた米袋までがそのまま写り込んでいる。雑然とした風景だけれど、ここの暮らしそのものが映っているようで、僕ららしくもある。

写真を撮り終えると、ふと11年前のことを思い出した。引っ越してきたばかりの頃、家族はまだ4人だった。それが今では7人。長女もいつの間にか14歳になり、僕自身も52歳。築90年だったこの家も、いまでは百年を超えている。僕らが過ごした日々もまた、これまでここに住んでいた家族の暮らしの続きとして、この家の記憶の中にそっと積み重なっていくのだろう。

そう思うと、今日という日もまた、この家の記憶のひとつに加わる気がして、胸の奥が少しじんわりとなる。

 

Photo by Shota

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笹のいえ

三世代家族

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僕らは夫婦と子ども五人の七人家族。親は東京や千葉県在住。

そんな環境で暮らしていると、時々「家族」について考えることがある。

僕は常々、家族は「三世代」がベストなのではないかと考えてる。

都市部では核家族が当たり前だけど、田舎では二世代三世代が同居したり、近くに住んでいたりすることも珍しくない。「味噌汁の冷めない距離」を地でいく家庭は少なくない。

同じ集落に住むある方は、町内に息子さん家族が住んでいて、お孫さんが数名いる。行き来も頻繁にあって、孫の世話もよくするそうだ。 「今週末も孫が泊まりにきてて、朝からてんやわんやで仕事にならん」 と全然困っていない表情で、目を細めて語る彼の話を聞くと、気持ちがほっこりすると同時に羨ましく思う。

一方、都内に住む僕の両親。今年82歳の父親と三つ下の母親とのふたり暮らし。

年老いていく彼らのこれからを考え、「高知に引っ越してみない?」と何度か誘ったこともある。でも、住み慣れた土地や病院、友人たちを離れ、新しい環境で老後を過ごすのは酷だとも思う。結局申し入れは断られ続け、遠距離家族のままだ。

三世代家族には良いところがたくさんありそうだ。おじいちゃんおばあちゃんの存在意義が高まるし、孫たちも多世代と交流を持つことで生きていく知恵を学べるだろう。薪割りを教えてもらったり、川で釣りを楽しんだり、昔の遊びを体験したり。

地域外からこの地にやって来た僕らの場合、個人的に年配者と関わる機会は多くはない。それでも、子どもたちが地域のイベントで竹鉄砲やベーゴマなどの遊びを教えてもらったり、集落で見守ってもらったりと、まるで自分たちのおじいちゃんやおばあちゃん的な関わりを持ってくれる方々がいる。本当にありがたいことだと思う。

地域のご高齢者たちは、子どもたちを地域の宝として大事にしてくれる。地域の神事では踊りやしきたりを教えてくれる。そういった関わりを通じて、子どもたちはこの地域により親しみを感じ、自分の故郷だと強く意識できるようになるのだろう。

大先輩たちにとっても、下の世代と関わることで自分の居場所や役目を持ち続けられる。地域や他人の役に立っていると実感できるんだと思う。

しかし、このような恵まれた環境や風土にあっても、血のつながっている実の祖父祖母とは違うのだ。
三世代家族のような状況であったら、どんなに素晴らしいことだろうと妄想する。

うちは三世代家族じゃないけど、たくさんのおじいちゃんおばあちゃんがいる。そのことが、子どもたちの人生により豊かな多様な時間を与えていると感じる。多世代の地域で育つことで、いろいろな価値観を学び、中立な立場から物事を判断する機会に恵まれるだろう。

もちろん、高齢者たちの考えは彼らの時代の常識であって、それが子どもたちの時代に合っているとは限らない。むしろ時代遅れかもしれない。でも、そんな時代もあったんだと知ることは大切だ。

理想的な「三世代家族」や「多世代コミュニティ」って何だろう。僕は、どんな考えも切り捨てたり無視したりしないコミュニティが理想だと思う。でも、何かを決めるときは選択しないといけない。全ての意見を認識したあとで判断することが大事だろう。

核家族が当たり前の現代は、親類による繋がりに加えて、友人家族や近所仲間との横のつながり、同じような背景を持つ人たちとの縁を大切にすることで、次世代へ残せることが多くなると確信している。

僕が、次の世代に伝えたいことは、、、実はない。

子どもたちは彼らの時代を彼らの価値観で生きればいい。それより、前の世代は子どもたち世代の邪魔をしないことが重要だ。彼らに選択肢を与え、彼らの考えや行動を尊重し、行く手を遮らないこと。親身になり寄り添って、影に日向に次世代の応援をすることが大切だと思う。

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笹のいえ

笹の夏休み2024

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笹のいえの暮らしを体験する宿泊イベント「笹の夏休み」が無事終了した。コロナで休んでいた年もあったが、それ以外は毎年続けてきた。今年は二回、四泊と三泊の回を催行し、計14名プラスうちの子たちの参加となった。

笹に来てくれた子どもたち、サポートしてくださった保護者の皆様にたくさんの感謝を申し上げます。

イベントの核となる「自分たちで決める」という約束は、子どもたちの自主性を育む大切な要素だ。スケジュールや食事メニューを自分たちで決め行動することで、自主性や協調性が育つと考えている。

かまどでの調理や五右衛門風呂の準備など、普段の生活では体験できない「むかし暮らし」は、子どもたちにとって新鮮な刺激となったと思う。

食を通じて「身土不二」や「一物全体」「もったいない」の考え方に触れ、自然に寄り添う暮らしを体験する。これらの経験は、食の大切さや環境への意識を育むきっかけとなるだろう。

僕自身、このイベントを通じて多くのことを学んできた。当初は参加した全ての子どもへ均等に体験をさせようとしていたが、今では個々の個性や興味を尊重し、得意不得意を見定めて見守ることの大切さを実感している。

さて今夏、特に印象的だったのは長女の成長だった。これまで参加者のひとりとして経験を重ねてきた彼女が、今年は初めてスタッフとして関わりたいと希望した。箸つくりのときに木工ナイフの使い方を教えたり、釜戸や薪風呂の火をつける手伝いをしたりなど、参加者の子どもたちをサポートする姿を見て、親としての喜びと共に、彼女自身の新たな学びの機会になったことと思う。

2015年から毎年のように開催してきたが、振り返ると、これまでの歳月は様々な変化ももたらした。うちの子どもたちの成長に伴い、笹のいえが手狭になってきたことや、毎年同じアクティビティを繰り返すための慣れなど、新たな課題も見えている。

来年の春には千葉への引っ越しが決まり、このイベントも新たなステージを迎えることになりそうだ。古巣であるブラウンズフィールドでの再開を予定しているが、新しい環境での開催に向けて、これまでの経験を活かしつつ、新たな挑戦も考えている。

新しい仲間を募り、リスクを分散させながら、長期的に継続可能な形を模索したい。イベントの本質的な価値は変えずに、関わる人々の個性を活かした新しい展開を期待している。

「笹の夏休み」は、単なる子どものイベントではない。食の大切さ、家族の重要性、遊びの楽しさ、そして何より自主性を育む場だと自負してる。これらの価値を大切にしながら、さらに楽しい時間を共有したい。

新しい環境での再開には乗り越えるべき課題もたくさんあると想像するが、このイベントの主旨に賛同してくれる親御さんと子どもたちと共に、新たな「笹の夏休み」(名称は変更すると思います)を創り上げていきたい。世の中には様々な生き方、暮らし方がある。その中のひとつの選択肢として、自然と調和した暮らしや食の大切さを伝え続けていきたい。

引越しは半年先のことだし、予定変更も十分あり得る話だ。はじまってもいないことをあれこれ言うのは好きじゃないだれけど、ここで文字にすることで頭の中を整理させてもらった。

*下記タグ「笹の夏休み」をクリックすると、関連記事が検索されます。

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笹のいえ

かあちゃん讃美

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奥さん、妻、嫁、家内、パートナー、、、
女性配偶者の呼び方はいろいろあるが、僕は彼女の本名の「シネマ」と呼び、子どもたちは「かあちゃん」と呼ぶことも多い。
今回は、そんな彼女の話。

うちではできるひと総動員で家事をする。理由は明快で、そうしないと暮らしが回らないからだ。掃除洗濯食事つくりに後片付け。その家事の大部分を担ってくれるのが、シネマだ。名もなき家事の数々もこなしている。

暮らしの大黒柱と言おうか、生活における縁の下の力持ちと言おうか、ともかく、家族が健康に過ごせるよう、毎日献身的に動いてくれている。

特に日々の食事は彼女が賄う。

毎日三食作るだけでも大変なことだが、うちは釜戸や七輪を使い、火を熾すところからスタートだから当然時間が掛かる。
薪の火加減によって調理方法も変わってくるし、他の家事や用事と併せて、時間との戦いでもある。それこそ一日中台所に立ち、美味しい料理をあれこれ作ってくれていることもある。段取りから片付けまでテキパキとこなす彼女の姿に見惚れる。

約十年前この町に引っ越してくる前、移住先を探していた僕たちは、高知県はおろか、四国に縁もゆかりもなかった。土佐町にはひとりの知り合いもいなかった。しかし、自然の豊かさや空気の清々しさに魅了され、なにより地域の人たちのたくさんのサポートがあってこの地に根を下ろすことを決めた。

三歳の長女と乳児の長男を連れた僕ら夫婦は、右も左もわからないまま、町営アパートを借り、新しい暮らしをスタートさせた。

千葉の住み慣れた実家を離れ、慣れない環境での生活。幼子ふたりと誰もいない公園で遊ぶ日々は、彼女にとって寂しさの連続だったに違いない。子どもを保育に行かせる前で、どこにも所属していない不安もあったそうだ。それでも文句ひとつ言わず、家族の暮らしを支え続けてくれた。

そのときの罪滅ぼしとしてはいまさらながらで、大変恥ずかしいことなのだけど、最近(本当にここ最近)僕は彼女の負担を減らそうと、意識的に家事や子育てのフォローをするようにしてる。いままで自分の作業や仕事にほとんどの時間を費やしていたことへの償いもある。

そうすることで思わぬ効果があった。

僕自身の家族との時間が増え、より親密になったと感じる。自分の仕事は進まないが、得られる充足感はこれまでより大きい。

シネマ自身も地域活動に積極的に参加したり、出かけたりするようになり、子供会やPTAの役員を引き受け、コミュニティに溶け込んでいる。下の子にかつてほど手がかからなくなってきたことも要因だが、子どもたちの成長と共に、僕ら家族が新たな段階に入ったことを実感する。

母として、また妻として彼女の姿を見るにつけ、感謝し愛おしく感じる。照れくさくて、なかなか口に出せなかったけれど、言葉や行動にして伝えることが大切だと今更ながらに気づいた。

言葉で伝えると共に、ハグをしたり手を繋いだり、より彼女を身近に感じる表現をしている。これまでの隙間を埋めていくように、ふたりの時間も増やしている。

シネマとの出会いは僕の人生最大の幸運だ。

健康的で美味しい食生活、五人の子どもたちとの暮らし、やりがいのある生き方。全ては彼女と一緒にいるおかげで実現している。これからも一緒に歩んでいきたい、そう強く願う。

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笹のいえ

土間

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十一年前の母屋改修について、今さらながらの思い出話を少し。

もともと台所は土間だったが、長年の使用で土が削れたり凹んでいたりして全体的に痛んでいた。そこで、コンクリートを使った新しい土間に作り替えようということになった。しかし、そんな大掛かりな作業は僕にとって初めてで、どこから手をつければいいのかさっぱりわからなかった。

幸い、別の改修作業を頼んでいた友人の陣さんが力を貸してくれた。彼は香川県で廃材を使って家を建ててしまったツワモノで、「廃材建築」の達人だ。彼の指示とアイデアのおかげで、作業はぐいぐいと進んだ。

まず土の上に砕石を敷き、水平を出す。地域の石屋さんからもらった石や墓石の切れ端を嵩ましとして使い、さらにコンクリートを流し込む。レベラーで水平をチェックしながら、左官鏝(さかんごて)で床面を整える。このようにして、新しい土間が完成した。

台所の床を土間にしたいと希望したのは奥さんだった。その最大の利点は「床が汚れても気にならない」こと。食べ物を床にまけようが、田畑から戻ってきた僕が泥だらけの長靴で歩こうが、土間ならそんなに気にならない(気にならないぶん、掃除の回数が減ってゴミは溜まっていくのだが)。

掃除も外箒でさっと履き出せるし、水で汚れを一気に洗い流すこともできる。ただし、表面が磨かれた墓石は濡れると滑りやすいので、雨の日などには注意が必要だ、ということがのちに判明する。

いろいろと改善点はあるものの、いまでは土間無しの生活は考えられない。靴を脱がずに食事が取れたり、ストーブで暖が取れるこの場所は、毎日のように野良作業や外での仕事がある僕らの暮らしにぴったりだ。ただ、土間に慣れていないゲストが靴下や素足で歩いて足の裏が真っ黒になるので、その度に説明が必要だけど。

日本家屋の素晴らしさにはいつも感心する。日本の気候や地域の環境にぴったりと合った造りは、住めば住むほどその利点がわかってくる。

改修から十一年、あの日土間を作ってよかったなあと、今でもしみじみ感じている。

 

写真に写っているのは、陣さん。

僕が彼と知り合って以来、いつも影響を受けている。超かっこいい生き方。

YouTubeもやってるので、気になった方は「廃材天国」で検索してみて。

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笹のいえ

十三年ぶりの夫婦時間

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今年度に入って、僕たち夫婦の生活に大きな変化が訪れた。それは、「子どもがいない時間」が現れるようになったことだ。今年度から末っ子が保育園に通うようになり、実に13年ぶりに夫婦だけの時間ができるようになった。

第一子である長女が生まれてから今年の三月まで、特別な場合を除き、僕ら夫婦の周りにはいつも子どもたちがいた。しかし、四月からは平日には毎日のように二人きりになる機会が訪れるようになる。

数ヶ月前、この事実に気づいたときの僕たちの反応はある意味対照的だった。

僕は、これまで子どもたちに時間を割かれてなかなかできなかった農作業を一緒にしたり、静かな環境でお互いが思っていること考えていることの共有、それから子どもがいると行きづらかったカフェや美術館に行くことなど、何からはじめようかと考えていた。
一方で、妻は「子どもがいない日が来るなんて」と涙ぐんでいた。もちろん、僕と同じように新しいことを楽しみにしている部分もあっただろうが、寂しさが先に立っていたようだった。

さて、実際にはどうなったか。

思っていたほど夫婦の時間が確保できないことがわかってきた。子どもが五人もいると、誰かが学校や保育園を休むことがあるし、夫婦それぞれの用事や作業もあり、相変わらず忙しい。

つまり、これまで通り過ごしていたのでは、やりたいことはなにも起こらないのだ。

Googleカレンダーをチェックして相手の希望と都合をLINE*で確認し、新しい予定を入力し、その日を迎える。要するに意識的に計画しないと実現しないのだ。当たり前と言えば当たり前、しかし13年の間にすっかりやり方を忘れてしまったようだ。

子どもの成長フェーズによって、僕ら夫婦の在り方や付き合い方も変わってくる。常に意識しておきたいことのひとつだ。

 

*歳のせいか、約束や聞いたことをすぐに忘れるようになった。後々やりとりを確認できるように、大事なことは記録に残すようにしてる。

 

 

写真:土佐町の「Ombelico」さんで友人に撮ってもらった一枚。ふたりでレストランでランチなんて、何年ぶりだろう。

Thanks to 前田きおみ

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