「大家さんと僕」 矢部太郎 新潮社
この本を読んだ時、初めて一人暮らしをしたアパートの大家さんのことを思い出しました。
大家さんは昔野球をやっていたという背の高いおじいさんと、ちょうどこの漫画の大家さんのようにメガネをかけた小柄で上品なおばあさんのご夫婦でした。
アパートは大家さんの家の敷地内にあり、大家さんの家と隣同士に建っていました。出かける時も帰ってきた時も大家さんの家の前を通らなければいけないのですが、その小道に面した大家さんの家の窓辺には厳格そうな顔をしたおじいさんが大抵机に向かって座っていて、私が通るたび、にこりともしないで手を振ってくれるのです。そのたびになぜか、ああ、ちゃんとしなければ…と思ったものでした。時が経つにつれて少しずつ仲良くなり、初めて笑顔を見せてくれた時はとても嬉しかったことをよく覚えています。
家賃の支払い方法は銀行振込ではなく、毎月月末、私の名前の入った通帳のような形の「領収證」を持って大家さんの家に家賃を払いに行きました。家賃を払うたび、おばあさんがいつもおまけを用意していてくれて「ちょっと待ってね〜」と奥の部屋へ戻り、ポッキーやおせんべいといったお菓子や「いただきものなのよ」と言って果物を手渡してくれるのでした。そして玄関先でおしゃべり。毎月一回のそれを楽しみに、私は大家さんの家のチャイムを鳴らしていました。あの時は気づいていませんでしたが、何気ないこのような出来事が、繰り返される毎日にそっと色を添えてくれていたのだと思います。
「大家さんと僕」は、ずっと忘れていた大家さんのことを思い出させてくれました。その大家さんの元で過ごした3年間は楽しくもあり寂しくもあり、自分自身を見つめる時間でもありました。通り過ぎていったあの日々は、間違いなく今の私に繋がっていると実感します。
今この時も、あと何年か経った時「ああ、このことと繋がっていたのか」とわかる時が来るのでしょう。その時が来るまで、今できることをひとつずつやっていこうと思います。
鳥山百合子