2025年2月

“4,001”

土佐町の現在の人口です。(2017年6月末時点・土佐町公式サイトによる)

注:土佐町の総人口が3,997人(2017年4月末時点)から4,001人(6月末時点)に増加したことに伴い、当プロジェクト名も「4,001プロジェクト」に変更になりました。

“4,001プロジェクト”は土佐町に住む人々を、全員もれなく、写真家の石川拓也が撮影する計画。

念のため書いておくと、「全員もれなく」…あくまで目標です。

土佐町の人口の増減によって、タイトルもたまに変わります。  (敬称略・撮れたときに不定期更新)

4001プロジェクト

矢田美佐子(田井)

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本山町山﨑生まれ。89歳の矢田美佐子さん。木能津小学校から本山町立中学校で学びました。当時、同級生は13人だったそうです。

9歳の時に終戦。一度だけ校庭にジープに乗ったアメリカ兵が来たことがある、何か話しかけられたんだけど、その時は怖くて屋内に飛び込んだと言っていました。

 

 

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本の森から

言の葉の森に棲む

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休みの日、何気なくラジオをつけると、国語辞典の解説文を読み比べるという番組をしていた。これは面白いぞ、とボリュームをあげて聞き入り「明解さんは例文がユニークと評判だったな」とか「広辞苑はさすがの手堅さだ」と楽しく拝聴した。

そういえば勤めている図書館の利用者から「国語辞典が複数あるのが良いですね」と褒めていただいたことがある。図書館としては当然のことなのだが、嬉しい感想だった。

言葉の意味を調べるとき、どの辞書で調べるかは重要だ。できれば数冊読み比べて、一番自分にフィットする解説文を見つけてほしい。

例えば「あ」。どの国語辞典でも最初に出てくる言葉だがⅯ国語辞典では「驚いたり感動したりした時などに発する語。あっ。」とちょっと楽しいが、N大辞典では「五十音図あ行第一の仮名」とそっけない。

漢字の「石」だって「いし」と読めばそのものずばり stone の石だが「こく」と読めば尺貫法で体積を表し、あるいは大名や武家の知行高を現す単位ともなる。

国語辞典を題材にした書籍には、三浦しをんの小説『舟を編む』(光文社)や「言海」を編纂した大槻文彦の伝記『言葉の海へ』(洋泉社)、『日本国語大辞典』初版と第二版編集委員会を支えた松井栄一の著作に第二版編集長・佐藤宏の解説を加えた『50万語を編む』(小学館)などがある。

摩訶不思議で一筋縄ではとらえきれない言葉の世界に棲む彼ら姿はとても魅力的で、憧れずにはいられない。願わくば私も言の葉の森に棲みたいのだが、まだまだその資格は得られそうにない。

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4001プロジェクト

西村民子

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西村民子さん、昭和5年生まれ(1930年)。現在は大谷に住われている民子さんは、元々は南川生まれ。

同じく南川のご親戚に子供がいなかったため、子どもの頃に養女になったそうです。

南川の方と結婚し、お子さんも4人育てられたそうです。北泉で田んぼを持っていたのでそちらに引っ越し、その時代はさめうらダムがちょうど着工の年だったと言います。

 

 

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
(2024年5月27日追記:潔さんは現在98歳。この連載を開始したのが95歳の時だったので、題名はそのままとしています。)

 

筍売り

昭和21年終戦の翌年、和田ケ谷での初めてのお正月を過ぎた四月。大雪降らず、母も熱も咳も出ず、家族にとっては何よりも安心でした。四月は筍の生える季節。住んでいる所の少し上に、広いハチク竹の竹藪があって、筍が生え初めても地主が来ないので、父が千円で全部買い取り、妹と交替で、毎日中島、田井、森方面へ売りに行ったのです。

負い子一杯十貫位、大きなおいしそうなのを選んで、売れる売れる。毎日行っても、塩漬けにするとか、干しておくとか私達の事情を知ってか、疲れを忘れる位、嬉しい毎日でした。

妹は体格が良くて、十貫位は平気でしたが、私はチビ、負けず嫌いで頑張ったのでした。後から後から生える筍、思いがけない金儲でした。

中島に、チョウさんという朝鮮人が狭い軒先で魚を売っていて、毎日変わった魚を買って帰り、皆を喜ばせるのが楽しみでした。

77年昔の事です。たった一人生き残って、申し訳無く思ったり、遠い昔の思い出に涙し懐しんでいます。人の情を有難く感じ始めた若い頃の思い出です。

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4001プロジェクト

伊藤千代野  (中島)

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大川村で生まれ育った伊藤千代野さん。15歳まで大川村の学校に通い、卒業後は岡山の織物工場で働いたそうです。時代は1960年頃。

6,7年岡山での暮らしをした後に、一度大川村に戻り、その後22歳で土佐町の方の元に嫁いできたそうです。

当初のお住まいは柚木。バスで中島の縫製工場に通い、縫い子としての仕事を17年続けました。

松島被服、タカラ繊維といった大きな工場が中島にあったそうで、70人もいる社員とともにスキー服の縫製などをされていました。

 

 

 

 

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