以前の僕は、水と空気はどこもさほど変わらないだろうと思っていた。実際、どこを訪ねても違いを感じてなかったし、気にしてもいなかった。胸いっぱい吸い込んで空気が美味しい!とか、飲んだ後うまい!と思わず唸ってしまう湧き水、なんてコマーシャルかテレビの演出だよって、知った顔して言っていた。
はじめて土佐町に来たとき、周囲にそびえる山々に圧倒されたのを今でも鮮明に覚えてる。迫るような存在感に息苦しさすら感じた。そして、その山からやって来る豊富な水がこの地域の暮らしを支えている風景を、あちこちで見ることができた。
集落を歩くと、道に沿って水路があり、そこには山水が惜しみなく流れていた。昔はこの水で水浴びや洗濯もしていたそうだ。いつの間にか、うちの子どもたちは素足になって、水遊びをはじめていた。手を入れてみると、冷たくて透明で清々しい。ここで暮らしてみたいと思わせる感触だった。この水の一部は田んぼへも続いている。水がたくさんにあるということが、土地に住む人びとの生活や田畑の実りを豊かにし、気持ちに安心感を与えている。そんな風に思えた。
以前住んでいた場所では、農業用水は各地域で管理され、もらえる量や順番が決まっていた。隣で田んぼをやっていたおじちゃんから、この水を自分の田んぼに勝手に引いてしまう「水泥棒」の話を聞いたことがある。田んぼの持ち主はお互い知っているので、犯人はすぐ分かってしまうのだが、水が無くては米が育たない。収穫が無ければ、食っていけない。場所によってはそのくらい深刻な事態になることもあるのだ。
笹のいえでは、近くを流れる沢水を利用している(写真)。降雨量によって増えたり減ったりはあるが、枯れたことはない。上流には誰も住んでおらず、汚染の心配もほぼゼロだ。
上の子は物心ついたときから、下の子は生まれてから、ずっとこの水を飲んでいる。彼らはこの水を、「甘い」と表現する。僕の味覚はそれほど敏感ではないけれど、確かに美味しいと思う。その反面、みな水道水のにおいと味が苦手で、積極的には飲まない。外出にはマイ水筒を携帯するようにしている。
土佐町に移り住んで六年が経ち、ここの空気にも身体が馴染んできたように思う。
ひんやりとして、湿気を含んでいる山独特の空気感。川には川の音が、森には森の香りが、空気を通して五感に触れる。日の出前、白んだ景色の中で、伸びをしながら、その日最初の深呼吸をし、空気の存在を確認する。呼吸のたびに寝ぼけた頭と身体が少しずつ解れて、動きはじめる感覚が好きだ。
普段は当たり前すぎて、感謝の気持ちが薄れてしまうけれど、旅で長い間留守にしたときなど、あの空気が恋しくなる。
車で遠出して帰ってくるとき。
高知道の大豊インターを降りて減速し、運転席の窓を開け、車内の空気を入れ替える。
風の匂いを嗅ぎ、見慣れた景色に囲まれる。
これこれ、と思う。家に戻って来た、と実感するのが嬉しい。