近藤潔

土佐町ストーリーズ

95年間のキヨ婆さんの思い出 8

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

忘れられない野いちごの味

長年生きてきて、毎年その季節になると、自然に感じる懐かしい故郷の思い出。

㐂怒哀楽、色々ある中で、私は幼い頃の田舎での思い出が好きです。

嶺北の山の中の貧しい家の長女に生まれ、三才上の兄がいた腹式校の二年生の春。学校でハシカが流行して、少ない生徒殆どが発病。病院もなく、医者もいない田舎、高熱発疹に耐えて、布団をかぶって寝るだけ。食事もそこそこ、厄抜けとはいえ、前回までの一週間は重病人でした。

寝込んで三日位たった日の昼過ぎ、母、妹、赤ちゃんの弟、誰もいなくなって静かになり、ウトウトしていると、妹が「ネエヤン、これ食べヤ」と言って走り込んで来た。

手には大人の弁当箱「モッソー」に、真っ赤なイチゴがいっぱい。思わず飛び起きて、一ツ、二ツ。あとはガブガブと呑み込んだ。手も口の回りも真っ赤。生き返ったような感じがした。

そして最後に、潰れたイチゴの真っ赤な汁を飲んだ時の美味しかったこと。母の優しい愛情の籠もった、世界一の味でした。

現在は植林ばかりで、イチゴのある雑草の山道はありません。85年前の幼い頃の忘れられない思い出です。

若くして、病死した母の愛情と共に。

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 7

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

美味しかった母の作ったお弁当

小学校三年生の秋の運動会。お天気も良くて、楽しみの少ない田舎の小学校の運動会、お年寄りや父兄たち総出の一年に一度の楽しみでした。

当時は広いと思った運動場も、85年過ぎた今はすっかり様変りしましたが、幼かった当時の姿形は今だに消えません。

当日、父は朝から行って競技に出、来年入学の妹は好き勝手に走り回り、母は皆のお弁当を作って来ることになっていました。

お昼になっても来ないので、帰って食べようかと坂道を半分くらい帰った所で、弟を背負って、両手に重箱らしいものを持って汗びっしょりで下りてくる母に会いました。近くの従兄弟の家の縁側を借り、熱いお茶を出して貰って、大きな重箱を開けてびっくり。家では見たことも食べたこともなかった五目めし。お皿代りの大きな貝殻。美味しいのと腹ぺこで忽ち一つは空っぽ。汗を流しながらよそってくれた「カカヤン」の顔が浮かびます。

年中麦飯だったのに、運動会用にお米を残してあったのか想像しながら、母の優しい心遣いに子供なりに感謝したのでした。

美味しいお弁当のおかげで、午後の競技も頑張れたのでした。

何につけても色白で丸顔、鼻筋の通ったカカヤンの顔が浮かんで涙々です。

やがて私も天国へ。その時は絶対、皆のいる相川の家へ帰ろうと思っています。

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 5

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

楽しかった蝉とり

梅雨の合間の静かな朝、窓を開けて新鮮な空気を胸いっぱい吸って、病院生活を忘れて幸せを感じる。都会では味わえない最高の気分で今日1日を過ごせたらと、東を向いて合掌。

南の小高い山の木々も、風もない静かな朝を直立不動で立っている。朝食を食べ終わって、ベッドの家で一休み。自然と幼い頃の思い出へとつながる。

お国のため、若き命を捧げた3歳年上の兄との思い出、蝉とり。

細長い竹の先に、モチを塗った杭をさして兄が持ち、私は母の作った小さなコバン(*編集部注 竹でできた鳥籠)を持って、いつも行くのは家の近くの墓地でした。

ミンミン蝉や大きなクマ蝉、カナカナ、ヒグラシもいました。兄が、鳴いている木の下へそっと行って、長い竿の先のモチにくっつけるのです。コバン持ちの私は静かにして、木の陰に隠れて、竿の先にくっついた蝉を外すのです。

大きな蝉は羽を残して逃げたり、体中がモチだらけで取れなかったり、私の手はニチャニチャ、足もとの枯葉や草に拭き付けたり、服に付かないように、大声も出せずに頑張ったのでした。スリル満点の、兄と妹だけの楽しい時間でした。

コバン一杯になると、家の鶏に卵と替えてもらうのです。モチだらけの蝉を、喜んで食べてくれました。田舎ならではの楽しい兄妹の思い出です。

都会生活もありましたが、やっぱり田舎での思い出が幸を感じ、生き甲斐ともなるのではないでしょうか。まだまだ長い過去の思い出を一人楽しもうと思って、頑張ります。

続く

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 4

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

初めての飯炊き

 

小学校へ入学してまもない頃、両親は何時もの様に五才の妹、赤ちゃんの弟を連れて、一山越した保乃谷という山の、移動製材の仕事に行っていた。

今から80年余り昔の事。トラックも見たこともなく、道路もない時代、移動製材というのがあって、植林の中へ持って行って、板とか柱をひいて、大八車とかで出していたそんな時代でした。

家は田が無かったので、現金収入でお米を買っていたのです。現場が遠いので、朝早くから夜になって帰る毎日でした。

その日も兄と二人でお腹をすかして待っていたが、兄がおひつの蓋を開けて見たら空っぽ。さあ大変。母が帰って炊くとしたら夜中になる。

そこで二人で炊こうかということになり、重い鉄のお釜に米を入れて、近くの谷の炊事場で洗って、くどまで持ってくるのに、兄が一生懸命でした。

近くの杉のバラや枯木を拾って燃やして、兄妹が並んで腰掛けて。何時も怒鳴っている父が帰ったらきっと叱られるに違いない、と話す内に、すぐ沸き始めたが中々止まらず、兄が蓋を開けて見てもお米は見えず、泡ばかりでお粥になったのです。

その時、父母が帰ってきたのです。「飯を炊いたけんど」と言うと、父はニコニコして「そうか、炊いたんか、そりゃーよかったネヤ」と、怒りどころかニコニコしていた。

「何でもエエ、食べろう」

母が大根のお漬物を出して、フーフーいいながらお腹をはらしたのでした。

固いご飯にならなかったのは、米を餅米と間違えたからだったと後から分かりました。何でもえいわ。父に叱られなかったことが嬉しかった。米櫃には餅米も入っていたのでした。そこまで子供が見分けられなかったのでした。

この思い出と共に、忘れることのできないことがあります。3才年上の優しかった兄のことです。戦争ゆえの徴用で、九州の佐世保で食糧不足、過労で病死。19才でした。高知市内で散髪屋さんでした。天国で床屋さんをしているでしょう。遠い昔の、忘れられない思い出です。

続く

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 3

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

お辨当箱

 

生れて初めて、他人の家仕事と云うか、子守りに行ったのが小学一年生の時。毎週土曜日の午後、家から少し下の大きな農家の女の子、ミサちゃんが「明日負いに来てと」それだけ云って来るのでした。母は「ハイハイ行くけんネ」。それだけで明日は子守りと決まるのです。

宿題は土曜に済ませ、月曜日の時間割りもしておくのでした。私なりに覚悟したのでした。

お昼のお辨(おわきま)付きの子守に朝早くから夕方迄、大人の食事の時だけ下してお乳を呑ませて、おむつを替えるだけで一番辛かったのは、昔、その当時には現在の様なおむつカバー等、ある筈も無く、おむつも大人の古着等の布だけで、長時間負って居ると、背中が暖かく成ったと思ったら、赤ちゃんのオシッコが背中に沁みて、お腰から足の方へ流れてくるのです。それが一番辛かった思い出として残って居ます。

でもお昼のお辨が楽しみでした。真白いご飯に、おかずは自家製のお味噌にお漬物、梅干し1個、おじゃこ3匹位。家は田が無くて、年中麦飯でした。お米の真白いご飯が食べたくて辛抱したのでした。

お辨当箱は「モッソー」と云って、地元で作った丸い形のご飯とおかず入れがのった物でした。ご飯の温もりがお昼にも残っていて、独特の臭が鼻の奥に残っています。そして、食べ終って最後のお茶を一口飲んだ時、お辨当箱のそこに自分の顔が映るのです。アー可愛い、ニッコリすると、もう一人の自分がニッコリ、お茶を戻してはニッコリ。三回位繰り返して、たったそれだけの事に、午後への意欲が湧いて来たのです。

この事は、母にも誰にも話した事はありません。それから85年過ぎた今の顔は皺だらけです。

続く

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 2

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

ソータのポケット

 

入学の日、新しい「モーカ(布地の種類の一つ)」の着物に、綿入れの「ソータ(袖なしの上着)」、貧しい生活の中で母が作ってくれた物でした。ソータの左の裏には、赤い大きなポケットが付いていて、思わずニッコリ。訳あり、ハンカチ、鼻紙の外に入れたい物があったのです。

昔々の事、その時季にはどこの家にも、柿、ホシカを軒下に吊るしてあったのです。親の目を盗んで外して、ポケットに入れ、かくれて食べたのです。お菓子等買った記憶は余りない、大事なポケットでした。

当時はランドセルを負って居る生徒は少く、赤い布の肩かけカバンでした。足には年中草履、横緒に赤い布を巻いた母の作った物でした。

 

昭和8年4月、土佐郡森村、相川小学校に入学。勿論複式。宮﨑校長、松岡先生。女先生は清水先生。優しい先生で、校舎の上の住宅に住んで居ました。同級生は13人、只一人、男子は真一君1人でした。

母に似て小さかったが、前から2番目でした。樫山から来ていた「みや子さん」と云って、唱歌の上手な可愛い子でした。

複式なので二年生と同じ教室で、清水先生の受け持ちでした。兄は四年生で二学級、五,六年は三学級でした。

購買部では上級生が学用品を交替で売っていました。午前中が四時間、午後が二時間。下級生は午前中の四時間の授業で帰り、昼食のお茶湧かしは、五,六年生が交替で湧かし、時間替りの合図は、廊下の吊り鐘を五,六年生がカーンカーンと鳴らしていました。

広く感じた運動場も85年余り過ぎ、様変わりして長かった過去が懐かしく偲ばれます。面影はなくても当時の影が浮かびます。

向って右の端が土間で、下駄箱があって、雨の日には濡れた草履を斜めに立てかけて入れ、帰りには半乾きのしめった草履を履く時の嫌な感じ。昨日のことのように思い出す。

 

続く

 

 

 

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95年間のキヨ婆さんの思い出 1

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土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。

 

カルタ

幼い頃の思い出を、記憶を辿って書いてみました。

大正15年9月27日生れ、寅年。三才上の兄、三才下の妹、赤ちゃんの弟がいました。

物心ついたのは四月から入学と云うお正月でした。外は雪が積って寒い日、炬燵に足を入れて家族皆で暖まって居た時、兄が見た事も無い、色々な絵のある物を並べたのです。絵があったり、字ばっかりだったりと父が突然「イヌモアルケバ、ボーニアタル」と云ったのです。

すると兄が「ハイ」と云って、私の目の前の1枚を取ったのです。父が分る様に説明はしてくれたものの、生れて初めて見たり聞いたりで、兄は1人で悦に入っていた。

両親の考えで、カルタで楽しみながらカタカナを覚えさせようとしたらしく、その時代はカタカナが先でした。よみかたと云っていたカルタのお陰で全部覚えるのは時間がかからず、両親の思い通りだった様でした。

教科書を揃え、先ず「ヨミカタ」の本を見てびっくりしたのは、まるで絵本の様な色刷りで、表紙には満開の桜の花、中もまるで絵本の様な色刷り、ワクワクした1頁目は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」でした。

「キレイ」の一言でした。2頁目は「コイコイシロコイ」。大きな声で読みました。

兄はショックで見向きもしなかった。兄達は、まっ黒な本だったのです。

続く

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