土佐町栗木地区に近藤潔さん(95歳)という方がいます。潔さんは書くことがとても好きな方で、今まで、高知新聞の「あけぼの」というコーナーに何度も投稿されてきました。とさちょうものがたりでは、「95年間のキヨ婆さんの思い出」と題し、土佐町で過ごした思い出を綴ってくれます。
自分達の住む所へ
疲れも取れ気持ち良く目が覚め、親切なおばさん達に見送られて、日本晴れの高知の空、今夜から「寝る所、住む所はどっちか」「何という町か」と何とも言わない父の後に、母兄弟はついて行った。
父の同級生のおじさんが相生町という所の製材の工場で働いていたので、近くで空家を見付けて、相川の家財道具一切運び込んでくれていたのでした。
何町がどっちかも分らぬまま初めて歩く高知の街、一目で田舎者と分っただろうと想像しています。
落ち付いた所は相生町という所で、何と汽車の線路の近くで「シュッシュッポッポ」と煙をはいて通る度に家が揺らぐのです。でも生れて初めて見る汽車、通る度に窓を明けて見たり、手を振ると手を振り返してくれるのが嬉しかったです。特に幼い弟が大喜びでした。
学校は近くの第二小学校へ、ABCの三学級で女子ばかりのB組百田先生。優しい女先生で、一学期通知簿を貰った時「良く頑張ったネ」と誉められた事が忘れられません。
相川小学校の松岡先生の「高知に行っても頑張れよ」の一言のお陰様でした。
この記事を書いた人
大正15年9月27日、土佐郡森村相川麦山生まれ。3歳上の兄、3歳下の妹、赤ん坊の弟がいた。父の生家は米作りの農家だったが、どういう訳か分家して「石屋さん」をしていた。お米のご飯は食べられず、年中麦ご飯で育ち、小学4年の時、高知市に移住。10年後、あの空襲で被災。不治の病で入院中の母共家族7人、着の身着のまま故郷土佐町の山奥の生活。故郷の皆さまの温かいお情けに助けられ、幼い妹の母代わり、病母の看病。3年後、気がついたら母と妹は天国へ。悲しみの中でも生まれ育った故郷に住んでいることが何よりもの心の支えになり95歳。天国の肉親との思い出に涙することも供養になろうかと、まだまだ元気でガンバローと思っています。
絵を描いた人
土佐町生まれの土佐町育ち
2009年に国際デザインビューティカレッジのグラフィックデザイン科を卒業
30代の現在は二児の母で兼業主婦。
家事や育児の合間をみて、息抜きがてらに好きな絵を描いています。