矢野ゆかり

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

矢野ゆかり

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「風の谷のナウシカ」 宮崎駿 徳間書店

さてさて、私の1冊「風の谷のナウシカ」第2部。随分と間が空いてしまいました。あいすみません。

前回は2巻の続きまでだったので、そこからを語っていきたいと思います。

2巻には、アニメにも出てくる有名なシーンがあります。王蟲の幼生をおとりに使う場面です。原作ではペジテ市の残党の作戦ではなく、土鬼がクシャナの軍を殲滅するために用いる作戦です。しかもこの作戦はトルメキアの皇子もしくは王から、クシャナ暗殺の為に意図的に土鬼にリークされた情報によるものです。ナウシカは犠牲を減らそうと、土鬼の戦艦から脱出し味方に伝えに行きます。しかし、怒りに猛る王蟲の方が早く、クシャナ直属軍は、コルベット1機を残して壊滅。クシャナ自身もクロトワの機転によって何とか難を逃れます。ナウシカは全ての惨状を見て、王蟲の幼生を救い王蟲の怒りを鎮めようとします。クシャナは嵌められたことに怒り、部下を失ったことに深く悲しみ、己の髪を断ち餞として上空から投げ捨てます。口元は唇を食い切らんばかり、歯を割らんばかりです。私には過剰な感情を捨て、冷静で冷徹な指揮官になろうと、更に悲壮な覚悟をしているようにみえます。そこにナウシカが王蟲を助けるため、メーヴェで乗り込んできます。土鬼の服をきていたナウシカが情報を流したのではないかと、クシャナは疑いますが、"ドルクはあなたが南下してくるのを開戦前から知っていた。時間をかけねばあの罠ははれないわ。"というナウシカの一言で考えを改め、王蟲の幼生救出に手を貸します。そこでアニメのシーン'金色の野に降り立つ~'という場面が登場するわけです。アニメでは風の谷の大ばば様が、見えない自分の代わりに子供に風景を描写させ、古の伝承を思い出し涙を流すのですが、原作では土鬼のマニ僧正と傍付きの少女ケチャがその役割を担っています。

ここで注目したいのが金色の野の下で、ナウシカを見上げるクシャナの表情です。どう表現したらいいのか分かりませんが、深く驚いているようにも、呆然としているようにも、何かの疑問に対して考えを巡らせているようにもみえます。しかし、ナウシカとクシャナが関わって行く中で、印象深い一コマでもあります。清く優しい(ようにみえる)ナウシカが金色の野にいて、それを影になった地上から見上げるトルメキアの(=血みどろの)白い魔女。相対的な構図が少し痛々しく感じるのは私だけでしょうか。でもそこに王蟲の癒しの力を持つ光る粉が降り注ぎ、私の心も少しは慰められるのです。描かれ方は違えど、話す言葉は違えど、表裏一体のようなナウシカとクシャナは、ここで強く結びつくのではないでしょうか。

さて場面は少し進んで、ナウシカは王蟲と心を通わせ、これより南の森(土鬼領)が助けを求めており、そこに王蟲が向かうことを知ります。王蟲はそれ以上のことは明かさず、"北へオカエリ"と伝え去っていきます。ナウシカはここで決めたのでしょう。このままクシャナに従軍し、何が起ころうとしているのか確かめると。土鬼は囮に王蟲の幼生を使っていましたが、ナウシカの見立てでは推定12回は脱皮している王蟲の幼生を腐海から奪ってくることは不可能であり、そこに何かがあると確信していました。そして腐海中の王蟲たちが動き出していることは、『大海嘯』の予兆ではないかと推測します。

ナウシカは1人で従軍し、ミトたち城おじは風の谷へ戻りました。ミトはナウシカの推測と意思を、族長であり父のジルに伝えます。また、辺境諸国の族長が集められ、そこで『大海嘯』の詳しい説明が、辺境いちの大年寄りである、大ばば様からなされます。

・『大海嘯』とは突如として腐海が沸きかえり押し寄せることを言う。王蟲を始めとした蟲が主に怒りを理由に我を忘れ、大集団となり襲いかかる。飢餓を理由に死ぬと、体に付着していた腐海の植物たちが一斉に発芽し、新たな腐海を形成する。

・『大海嘯』は『火の7日間』のあと3回おこり、最後は300年前内紛状態であったエフタル王国を滅ぼした。それは20日間エフタル王国全土に及び、多くの命、住むことのできる場所、伝わっていた奇跡の科学技術が失われた。今腐海のほとりに住む辺境諸国の人々は、その末裔であり王を頂かずトルメキアの同盟国(属領)になった。蟲使いたちは内戦時に王蟲を殺し、硬い外皮を調達していた武器商人の末裔であり、『大海嘯』のあと腐海に暮らすようになった。

この説明通りであれば、『大海嘯』が起きれば蟲もヒトも動植物も多くが死にます。ジルはナウシカの為にガンシップを使い、師であるユパを探すよう、ミトに命じます。そして"おろかなやつだたったひとりで……世界を守ろうというのか……ナウシカ……"とその身を案じながら息を引き取るのです。その表情は少し誇らしげにも、また少し後悔しているようにもみえます。腐海に生きるものは石化の病にかかります。もしかしたらジルの表情は、長い間に染み付いた表情なのかもしれません。

場面は変わり、ユパはセラミック鉱山の街で腐海に向かう船を探しいていました。セラミック鉱山といっても、宇宙船の残骸を切り出して使用しており、今はトルメキア戦役のおかげで特需状態です。ユパは、何故か蟲使い達が鉱山に出入りし、土鬼皇帝貨を使っていることに疑いを持ち彼らを船に潜入します。そこで見たものは、培養液らしきものに浸されたなにかの欠片でした。蟲使いたちの本拠地に潜入したユパは、土鬼僧正たちの密会と蟲使い達との商談を目撃します。(その中にはマニ族もいました。)更に王蟲が培養されていることを確信し、戦慄します。しかし、蟲使いの蟲に見つかり、密会の現場に躍り出てしまいます。土鬼と蟲使いがた襲いかかってくる中、マニ族のなかから1人の戦士が立ち会いを臨んできます。戦う中、マニ族の戦士が自分はペジテのアスベルであり、助太刀すると耳打ちします。2人は戦いの途中でうまく培養層を破壊し機械を壊し、マニ僧正とケチャと共に脱出しようとします。しかしそこに王弟ミラルパが登場します。マニ僧正は勝てないと悟りながらもミラルパを相手取り、念動力で戦いユパ達を逃がします。そしてマニ族に虐げられてもめげず生きることを説き、古き予言にある青き衣の人が大地との絆を結び人々を導くだろうと激励します。ミラルパはその者の名を知ろうと更に攻撃を仕掛けますが、マニ僧正はナウシカの名を言わずその身を楯にしてユパ達を逃がします。マニ僧正の強い思念は、遠くナウシカの心に届きます。"僧正さま!?お別れ……なぜ!?"突然のことにナウシカはマニ僧正の元に思念をとばそうとしますが、そこには超常の力をもつミラルパがいます。ミラルパにからめとられそうになったその時、マニ僧正の最期の力がナウシカを守ったのでした。ナウシカは王弟ミラルパの思念体を'生きている闇'と評しました。

今後ナウシカはその闇と光、蟲と人間、生と死の狭間を歩んでいきます。

それではまた3巻が書き終わるまで、今しばらくお待ち下さい。

 

矢野ゆかり

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矢野ゆかり

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「風の谷のナウシカ」 宮崎駿 徳間書店

ご無沙汰しております、ゆかりです。今回書こうとしている物語が、あまりにも超大作、且つ、長編の名作で二の足をふんでおりました。作者の有名さもさることながら、ある映画の原作でもあります。

「風の谷のナウシカ」、原作漫画は宮崎駿。実は映画にするため原作として漫画を書いたのですが、映画は原作7巻の内2巻までの内容しかありません。更にその2巻の内容と映画とはほぼ別物です。「風の谷のナウシカ」のアニメはほとんどの日本人が1度は目にしたことがあるでしょう。しかし、原作は?どうでしょう。読んでみてわかったことは、とにもかくにも、宮崎駿氏という物語りの紡ぎ手は(他の作品群もそうですが)、膨大な知識に基づく想像力と激情といったエネルギーの坩堝なのだということです。

今回は自分でこれを書くと決めたものの、胸がいっぱいになりすぎてまとまりません。ですので「風の谷のナウシカ」という1つの物語を私なりにわけて書いていきたいと思います。今回は1巻と2巻です。

ジブリ作品の特徴のひとつだと思いますが、どんな端役の人物にも人生を歩んできたという描写があります。それは死に際の声であったり、目付きであったり、言葉で説明するよりも雄弁に人柄を表現します。主人公であるナウシカの描写は、まるで著者が彼女自身になったかのように克明に描写されます。そのため読者もナウシカ自身になったかのように怒りに燃え、喜び、慈しむことができるのだろうと思います。「風の谷のナウシカ」についての世界観は大体分かると思いますので、割愛します。ですが、現存する菌類・粘菌の生態や、自然のサイクルをモデルにした"腐海"と、中世ヨーロッパぐらいの文化度という世界観も、読者に違和感を与えず物語に没入させる物語のつくりだと思います。

「風の谷のナウシカ」の中に、私の好きなシーンはあまた星のごとくありますが、1巻ではP49からp67あたりが、かなり濃く印象に残っています。このシーンのポイントは"ナウシカが己のもつ感情の激しさに気づいたこと"なのではないでしょうか。P61で剣を構えるナウシカを見てユパは以下のように表現しています。"これがあのナウシカか……攻撃衝動にもえる王蟲のようにのように怒りで我を忘れている"。腐海を愛で、風の谷の住民を愛す心優しい彼女を知り、彼女の師でもあるユパにとって相当な衝撃だった事が、表情からも見受けられます。そして次のページで、彼女はトルメキアの重装備の親衛隊騎士を相手に圧倒的戦闘センスで翻弄します。長剣で戦斧をかわし、足場にして上に間合いをとり、騎士の脊髄に短剣を突き刺します。そして地面に着地し、なんと「フッ」と笑みを浮かべるのです。そして着地した返す力で「とどめ!!」と首を狙って踏み込むところで、ユパが仲裁に入るのです。剣士の命である右腕1本を犠牲にして。そこで初めてナウシカは我にかえることができます。初めてトルメキア第四皇女クシャナと出会うのはこの場面です。この巻ではアスベルとの出会いや、王蟲と深く心を通わせるシーンが印象的です。

次に2巻。ここではアニメにはない、物語上とても重要なポイントがあるので解説しておきます。また、他の説明が必要な点についても補足しておきます。

・トルメキア王国。首都はトラス。現国王はヴ王。3人の王子と前王の血を引くクシャナ。王位継承は多くが簒奪によってなされてきた。腐海のほとりの辺境諸国は同盟国だが、自治権の保証と引き換えに事実上は属領であり、戦時は招集令によって族長が参戦する盟約がある。

・土鬼(ドルク)、正式名称:土鬼諸侯国連合。首都は聖都シュワ。神聖皇帝である王兄ナムリス、王弟ミラルパが頂点に君臨するが、超常の力をもつ王弟ミラルパが実権を握る。父王の代からある宗教を利用し、政教一致となっている。皇帝領、7つの大侯国を主に計51の国から成り立っている。各国の族長、官僚、科学者なども僧会という宗教団体に属している。族長は僧正の地位に着く。

さて、広がる腐海のために、現在この国々はお互いを併合しようと戦争を繰り広げているわけです。2巻ではナウシカとアスベルが腐海の底から脱出した際に、土鬼のマニ族と出会います。戦闘になる訳ですが、実はここからアニメの王蟲が押し寄せるシーンに繋がっていきます。この巻で気に入っているシーンがあります。P36~P37の部分です。アスベルの思い切りの良さは痛快で、ナウシカを逃がした時に抱きつかれてぽかんとする描写は滑稽で(怒ったマニ族の戦士にボコボコにされていますが(笑))、状況は切迫しているのにあまり死の影がみえないのも好きです。そしてマニ僧正はナウシカを下記のように評します。"ほほほ まるでツバクラメ(おそらくツバメのこと)のように いってしもうたな イイ子じゃ……やさしさと猛々しさが混然として奥深い"マニ僧正は盲目ですが超常の力があり、ナウシカと心を通わせていました。彼女の中にある強い怒りの心や衝動と、親しみや慈悲や愛する心を感じていたのでしょう。

  どうしてナウシカはこんなに魅力的なんでしょう?

彼女は迷い惑いますが、己を偽らない。かと言って己の思うまま、自分勝手に生きている訳でもありません。彼女の背には様々なものが乗っています。族長として負う風の谷の民の命、戦場で守りたい命・失わせたくない命、心通わせる王蟲や虫たちの命。そして命を奪うことの業。そして腐海の生まれた意味を知りたいという彼女自身の命題。彼女は全ての責任を放棄しません。もがきながらも、その背にあるものをこぼすまいと足掻く姿は物語を読むこちらが辛くなります。しかし、彼女は笑顔を忘れません。たとえそれが心からのものでなくても、自分を奮い立たせるように微笑みを浮かべるのです。だからこそ読み手も何とか、彼女の旅路についていけるのではないでしょうか。

ただ、書評という点で彼女と歩みを見るためには、時間をかけて必死においかけておいかけていくものでした。やっとここまで追いつけました。またここから一生懸命がんばります。

矢野ゆかり

 

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私の一冊

矢野ゆかり

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「ヒョウモントカゲモドキと暮らす本」 寺尾 佳之 (著), 大美賀 隆 (編集) エムピー・ジェー

「とさちょうものがたり」の中の「山峡のおぼろ」、窪内隆起さんの連載。私は窪内さんの話が大好きで、いつも更新を心待ちにしています。『風を切る鎌』の中で槍担ぎ(やりかたぎ)"の話が出てきましたが、私は祖母に"竿担ぎ(さおかつぎ)"と小学生の頃に教えてもらいました。祖母は私に土佐町の自然の多くを教えてくれ、また早明浦ダムに沈んだ自然豊かな故郷の話をしてくれましたが、今はその事も忘れてしまっているでしょう。ですから、私があの嵐の中で"槍担ぎ"を"竿担ぎ"と聞き間違えてしまったのか、また別の方言なのか今は分かりません。

大体4月上旬か3月末、土佐町には決まって春の嵐がやってきてのソメイヨシノの最後のひとひらまで散らしてしまいます。それこそ、私が祖母から"竿担ぎ"を教えてもらったのも、そんな桜の花びらが叩きつける日のことでした。祖母のお買い物にくっついて末広まで行った帰り道。二人とも自転車に荷物満載だったので、上野地区の桜並木の下で立ち止まって風雨を凌いでいました。空は明るいのに、竹がしなり、若葉を切り揉みする様な風、轟轟と音を立てる山野、目を開けて前を向くのが嫌なくらいの雨。それなのに祖母は全然気にしていないような顔をして、「春の嵐やねぇ」とほんわか笑ったのでした。私も笑って、(こういう山とか川とか風の自由さって大好きだ)と思いました。

さて、前座はここら辺で。

話はだいぶ変わりますが、今回の私の1冊は「ヒョウモントカゲモドキ」について書いていこうと思います。 私は生き物が好きです。植物や動物、魚類など飼育や観察、知識を深めることが趣味のひとつと言っても過言ではありません。と、いいますか、前座でもあるように自然が好きなのだろうと思います。

ヒョウモントカゲモドキとは、別名レオパードゲッコーとも呼ばれ、人気のあるペットです。とは言っても、エキゾチックアニマルと呼ばれる新しい分野のペットですので、知らない方のほうが多いと思います。蛇やトカゲと言った爬虫類、カエルやメキシコサラマンダー等の両生類、チンチラやテグー等のげっ歯類、フクロウやタカ等の猛禽類などが上げられるのではないでしょうか。

私がレオパードゲッコーに出会ったのは偶然でした。大学生の時、社会人になったら蛇を買うつもりでした。しっかり調べてから飼いたかったので下見に、高知にある爬虫類専門のペットショップ(実際にはエキゾチックアニマルが専門のようです)を訪れました。そして、ズキューンと一目惚れでした。笑ったようなお口とぱっちりお目目、ちょこちょこ歩く姿、様々な色と、ぷよっとした尻尾。日本のカナヘビには無いタイプのトカゲに私は魅力されたのでした。

その後、私が調べて分かったのは、レオパードゲッコーはとても飼いやすく、丈夫で、人にとって都合の良い生き物だと言うことでした。

・餌は人工飼料や冷凍コウロギ等でネットでもペットショップでも買える、最大でも30センチ程のケースで済む。

・ワイルドの個体は乾燥や飢餓に強く、水切れにも強い。一応ブリード個体もその特徴は継いでいるが、それほどでは無い。

・出身地は大体シリア、イラン、イラク、パキスタン、アフガニスタン、インドなどである。そのいずれも国際情勢が悪く、動物の輸出に厳しく、ワイルドの個体を手に入れることは難しい。

・国内外でブリードが進んでおり、モルフ=品種がたくさん作出されている。基本的に購入出来るのは国内ブリード個体である。

以上のことでした。つまり、私が見たのはレオパードゲッコーのブリード個体で何かしらのモルフだった訳です。ワイルドの個体は中東の厳しい砂漠地帯で生きている為か、相当生命力が強いようですが、ブリード個体はモルフの維持や新しいモルフの作出の為に交配され飼育される、もしくはペットとして飼育されるため、レオパードゲッコーと言ってもワイルドとブリードでは大いに隔たりがあるということでした。

社会人になり、私はスーパーマックスノーというモルフのレオパードゲッコーを飼いました。名前はぱち蔵です。餌は生きたコウロギが楽だったので、部屋でぱち蔵がゴソゴソ、コウロギかコロコロ音がしている状態でした。高知市内で生き物の音がないマンションで、何気なく心休まった記憶があります。

ぱち蔵は平均値よりも大きくなりました。心配になり専門店の店主さんに聞いてみると、ぱち蔵の祖父の代でジャイアントという大きくなる血統が入っていたのが理由がしれないということでした。どんな生き物でも、餌の与えすぎの肥満や、運動不足は短命の原因になります。運動させていると、必ず私の体の上に登ってモゾモゾしています。(懐いてくれてるのかなぁ…())と感情の分からない、笑ったような顔を覗き込んで見たりするのでした。

ペット。それは完全に人間のエゴの塊です。私は生き物が大好きで、ペットも色々な種類がいます。みんな私たち人間の為に、都合の良いように品種改良された子達です。彼らにとっての幸せ。考え始めると、自分の罪深さを感じてしまいます。私は彼らと一緒にいること、世話をすることが幸せなのですから。

テレビに映る可愛い猫、可愛い犬。見た目を優先したために、体に残った骨軟骨異形成症や股関節形成不全。乱獲によって数が激減してしまった種も数しれず、実際レオパードゲッコーも野生種は減っています。飼い主がおらず殺処分される生き物の数の多いこと。飼いきれず捨てる人の多いこと。それによって崩れる生態系の多いこと。

私たち人間の矛盾。命は平等と言いつつ、一方的に愛玩し、優先順位を付け、生き物の幸せを定義付ける。そういえば自然もそうです。植林だらけの森、頂点捕食者の不在、外来種や国内移入種によって改悪された遺伝的オリジナリティのない川や湖。それでも緑があれば、川が澄んでいれば、自然が豊かだと錯覚する浅はかさ。私はエキゾチックアニマルという新しい分野のペットを飼うことをきっかけにして、今までの人間の営みを考える契機を得たように思います。そして浅はかで愚かな私たちの出来ることは、これ以上の人間の価値観を何かに押し付けないことのみだと思いました。

私はペット達と一緒にいるのが幸せです。私の大きなエゴだけど、大事なペットたち、どうか幸せだと思いながら共に暮らしてください。私はそう祈りながら努力するしかありません。そして、一緒に居てくれてありがとうと、いつも思っています。

長くなりました、それではまたの機会に。

 

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私の一冊

矢野ゆかり

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「知識ゼロでも分かる日本酒はじめ」 SSI認定利酒師酒GO委員会著, 片桐 漫画, SSI日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会監修

新年あけましておめでとうございますというのを今頃言うのも、素晴らしく野暮天ですね。どうぞ悪しからず。

新年そうそう出遅れてしまった私の一冊ですが、今回は『知識ゼロでも分かる日本酒はじめ』という本でお送りします。(年末年始暴飲暴食で体調を崩していた訳では無いですよ!!決して!!!毎回世間が賑わう時期はアテられて精神的にグロッキーなのです)

さて、どうして新年一発目がこのチョイスなのかというと、やはり年末年始のおきゃく、お屠蘇、神前仏前へのお神酒など、日本酒が欠かせないですよね。

更に、特に今の時期はどの酒造会社も、杉玉が熟した焦げ茶から、つやのある深緑に変わる時期です。私の住む酒造会社のある地区でもこの時期は、やはり、特別な時期なのです。

いつだったでしょう、高校生のころ早朝の寒稽古に行くため、裏口を出た瞬間でした。自分が吐いた真っ白な息と、辺り一面に漂う濃厚な、あまくふくよかな酒精の香り。霜が降りて全部蒼く凍えている中、道向かいのレンガの煙突からもうもうと綿飴のような湯気があがっていました。(今年もお酒ができたんだなぁ…)となんだか少し嬉しくなった思い出があります。

正式な社名は「株式会社土佐酒造 桂月」ですが、以降地元の呼び名桂月で通します。

さて、私の家族は桂月と共にあったと言っても過言ではありません。

「おまんくには桂月からパイプが通っちゅう」だの、「蛇口を捻れば桂月がでる」とまで言われる始末。お付き合いは初代社長からあったようで、祖父はその時からのヘビーユーザーです。そして桂月銀杯ひとすじ。

今回の著書の解説によると桂月銀杯は本醸造酒にあたり、大衆向けでどんな料理にも合い、燗にしても常温でも冷でもいけるタイプのようです(あってるかな???間違ってたらごめんなさい)

ちなみに祖父は仕事から帰ると、桂月のワンカップ(耐熱)に一升瓶からまけまけいっぱい注ぎ、それをちゅちゅっと啜り適量にし、レンジで1分から1分半の燗にして飲みます。アテは基本的に竹輪の確率が85%ほど、たまに刺身や揚げ物。物心着いた時には行われていたルーティン。今もほぼ変わりません。

あいた一升瓶をためて、物置から74本も出てきた時は、(すぐ側で庭が広いきお客さんに駐車場と間違われるし、社員の家と間違われて「今日あいてますか?」なんてざらやし、それで案内しちゃったり、うちの物置も桂月の空き瓶置き場でええんちゃう?)と思ったことでした。

ちなみに、この祖父の夕方のルーティンは17時半頃なのですが、小学生低学年のある残暑厳しい日、あまりにも喉が渇いたので祖父母の家に寄りました。出来ればジュースがいいなと思いつつ冷蔵庫やら、戸棚やらを物色したのに、麦茶ひとつない!もう水でいいかと思ったところに、都合よく桂月のワンカップに入った水が。コレ幸いとゴクゴクとそこに祖父登場。「あらァ!!そりゃワシのぜよおぉ!」という誤飲事故もありました。小学生の私は(怒るとこそこ!?)と思いながら、蛇口から水を飲んだ記憶があります。

あの時は不味かった日本酒も、好きな傾向もある程度定まって楽しめるようになりました。しかも今年度からは家族全員で、あーだこーだと言いながら飲めるのです。

今は桂月でアルバイトもしているので、著作の解説と現物を見ながらより深くお酒のことを知ることが出来ます。著作では、日本酒が大きく吟醸酒、純米酒、本醸造酒の3つにわかれることと、そこから更に香味を分ける、熟酒・醇酒・薫酒・  爽酒の4つの分類法。甘口と辛口の違いや判別の仕方。また、料理とのペアリングの仕方である、ハーモニー、マリアージュ、ウォッシュについても触れられています。詳しくは読んでください()

参考までに私は、爽酒の生酒に目がないです。桂月で言えば冬季限定蔵出し生原酒です。少し冷凍に入れて雪冷えの生原酒を飲みだしたら止まらないやめられない。アルコール度数はちょっと高めですが、くせも少なく喉越しもライトで苦手な人で手が出しやすい気がします。あと甘酒は無いと困るほど飲んでいます。

高知県民は特に、老いも若きも飲むこと食べることが好きですよね。

飲みあわせに関しても、各々かなりこだわりがあるように見受けられます。大酒飲みも多いですし、酔うことが好きです。

新成人の皆さんも、両親や友人や職場の人達と飲んだり食べたりして、こだわりを見つけていくのだと思います(弟よ、あんたもだぞ!!)

でも何となくお酒との付き合い方が分からなくなったら、今回のような本に手を出してみるのもいいかと思います。結局は自分の好みが大事ってかいてますから。

では、お後がよろしいようで。

 

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私の一冊

矢野ゆかり

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「物語ること、生きること」 上橋菜穂子 講談社

師走真っ只中。私は、家族3人でクリスマスイブのケーキを食べています。

叔母のつてで、昔からイブのイブからケーキがありました。小さい頃はたまらなく嬉しく、プレゼントの気配にもつられて、楽しみに、きそきそしていたものでした。

今となっては、クリスマス前の苦行のひとつです。イブのイブからケーキがあるものですから、本番で歌う讃美歌「聖しこの夜」まで2曲ほど工面しなくてはなりません。

大体毎年、父と私でクリスマス・キャロル矢野家アレンジが即興で歌われます。今日は「ジングルベル、フフフハミングversion」でした。あと、その蝋燭の消しかたといったら!。今日は咳風邪で右肋軟骨(前回は左)を損傷し、鼻水ずるずるの母をからかってやろうと、吉本の芸人よろしく鼻息で蝋燭を消そうと父と企んでいました。

「絶対どつかれるね!笑」と言いあったのに、母はノリよく鼻息で蝋燭を消そうとしてくれたのでした。(名誉のために弁明しますが、本当に鼻水飛ばして鼻息で消したわけではありませんので、悪しからず!)

さて、前座はこの辺で。

私の書く一冊はどれも胃もたれすると思われるのもしゃくなので()、今回は「守り人シリーズ」の著者である上橋菜穂子氏のエッセイ『物語ること、生きること』、構成・文は瀧晴巳氏です。

彼女は冒頭で自分がどのように物語を描くか触れています。 物語を書いているときは、馬車を走らせているような気がすることがあります。私の周りに、たくさんの荒馬がいて、懸命にたずなを操って走らせているような気がするのです。~中略~それが、あるとき、まるで違うメロディが合わさって、ひとつの合唱になるみたいに、ものすごいスピードで一勢に走りだします。その瞬間、「ああ、書ける……」と、思う。 

彼女からすると、物語は生まれるもの、不意に降ってくるもの、急に見える風景なのかもしれません。

そして、「どうすれば作家になれるか?」という作家であれば一番多く聞かれるであろう質問に、彼女なりに答えてくれます。ただ彼女が とても一言では言えそうにないんですよ。 と述べている通り、このエッセイまるまる一冊かけて、答えてくれる訳ですが。

『第一章 生きとし生けるものたちと』の「おばあちゃんとわたし」の中に、昔話の話がでてきます。昔話と言えば私の場合、父が話してくれたことを覚えています。

「昔むかーしあるところに」というお決まりのフレーズで始まりますが、大抵父が語る桃太郎は桃の時点でおばあさんに真っ二つ!かぐや姫は竹の時点で、お爺さんが鉈で一刀両断してしまいます。

大胆なアレンジから始まる昔話は、声音も表情も芸人コロッケもかくやと言うほどで、今夜のように底冷えするに日も楽しく眠ることができました。

そういえば、上橋氏のおばあさんは怖い話が十八番と述べられていましたが、私も小さい頃震え上がった怖い話があります。「耳なし芳一」です。

夏の夜に、妙に上手な琵琶の音真似で語られる芳一と平家の落ち人の話は、土佐のとめ言葉「昔まっこう猿まっこう」で終えられても、なかなか寝付けませんでした。

そもそも矢野家は、早明浦ダムが出来るまで平家の落ち人伝説の残る大川村にいたのです。なんだか他人事ではない気がして、夏布団から体を出さないようにして扇風機の音を聞いていたように思います。

実はこの話には後日談があります。それも十数年後のことです。大学4年生の夏、小学生の剣道強化合宿の手伝いをしていたときのことでした。

大学生には夜の重大任務が課せられました。自分の担当する部屋のガキンチョもとい、悪ことしな児童を定刻の時間に寝かしつけること(静かにさせて、別の部屋等へいかないように見張る)でした。なんというmission inpossible!!無茶ぶりにもほどがあるぜ!と感じた私は、ここで一計を案じました。

そう題して、「寝てもらえなくても、恐怖で静かにさせる作戦」。私秘蔵の怪談セレクションを、「まぁむかーしのことなんやけどねぇ」と父譲りの演技力で語って聞かせました。

もちろん〆は、耳なし芳一から平家蟹のメドレーで「昔まっこう猿まっこう。お仕舞いおしまい」。私の部屋の担当は、わりと、おませな女の子ばかりだったので 昔話は効かないかも…” と思っていたものの、効果はてきめんでした。もはや泣き出す子もいる始末。

お陰で「はやく寝ようよぉ」とみんなすぐに寝てくれました。その後、一つしたの階を見回ったとき、どうやら担当の大学生が誰よりも早く寝たらしく、夜更かしを楽しんでいた悪ことし二人組を震え上がらせ、私の作戦はみごと成功したのでした。

さてさて話は変わりますが、この本を読んでいると思い出します。 私も小説家になりたい、と一瞬でも思った事があったなぁ と。

でも私は、次から次に見つける面白い本を読むのが楽しく ちまちま書くのは性に合わんにゃあ~ と思い、小説を書いてみたいと思ったことさえ忘れていました。

しかし、今『私の一冊』というところで、何やらかんやら書かしてもらっているのは、奇遇なことだなぁと思います。 あの物語は本当にすごいよ と少しでも伝えたくて、ちまちま書いています。それに誰かが伝えてくれた物語は、伝え得ずにはいられません。私は上橋氏のようにハイ・ファンタジーを描くことはできないけれど、物語ることはできる、受け継ぐことはできる。そう思えたのがこの本でした。

そして、小説家になりたい人、文を書くのが苦手な人はこの本を読むと、気が楽になるかも知れませんね。

尻切れトンボですけれど、それではまた。

 

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私の一冊

矢野ゆかり

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「精霊の守り人」 上橋菜穂子 偕成社

初めまして。名字でお気づきの方がいらっしゃいましたら、さすが土佐町、田舎のネットワークの凄さでしょうか。私の母は私がとても小さな頃から物語を語り読ませてくれました。母の1冊は私の1冊でもあります。

『まゆとおに』『14ひきのかぼちゃ』次は私が、誰かに物語るのでしょう。

さて、私の1冊目は私の運命を変えた本。この本がなかったら、私はわたしではなかったという本。『精霊の守り人』。この本はアニメ化や漫画化、NHKで実写ドラマ化もされ、知る方も多いのではないでしょうか。『守り人シリーズ』として外伝も含め10冊以上の物語でもあります。

私がこの本に出会ったのは忘れもしない、4年生の晩秋の放課後でした。今は廃校になった森小学校の図書室。昼休みに友人から勧められ、この本を手に取りました。ちょっと様子を見るつもりで、面白くなかったら返そうと思いながら、西日にページをあてました。ランドセルも背負ったままで。そして気がつくと見回りの教頭先生が、肩を叩いていました。周りは真っ暗で日が暮れていました。急いでその本と続編を借りて、家の勉強机で必死にページをめくっていました。

『精霊の守り人』は児童書ですが、主人公の凄腕女用心棒バルサのシンプルな強さ。タンダの包容力。トロガイ師の深い知性。チャグムの成長。登場する人物全てを引き立てる世界観。今まで読んだどんなファンタジーとも違うと感じました。作者がどのような人か、知りたいと思ったのもこの本が最初でした。著者は、民俗学研究をしておりアボリジニについて研究していました。しかし、彼女はアボリジニの文化に敬意を払い、決して自分の著作に流用はしないそうです。私はゼロから物語を作り出した著者のように、既成の価値観にとらわれないように、自分で自分の考えを持とうと思うようになりました。そしてバルサのような強くてカッコイイ女性になりたいと強く憧れました。中学校から大学まで剣道を続けたのも、バルサのような女性になりたいというのがあったからです。大学選びの時にも、民俗学に触れてみたい、世界を包む文化を学びたいという理由から、文化学部を志望し、志望動機にこの本の事を書きました。

『精霊の守り人』との出会いから10年以上経ちますが、今まで何度も読み返しました。読む度に理解が深くなり、新たな解釈が出来るようになっていきました。ジェンダーについて、差別について。宗教観についてetc. その度に私は初心に帰り、自分の視野の狭さを知ります。そしてバルサに憧れて始めた剣道でも、大学時代になぜ剣の道なのか改めて考えるようになりました。物語の中でバルサはひとかどの武人として、その界隈でも有名な人物として描かれています。しかし用心棒として人を守るために殺し恨まれ、命を天秤にかけ、その行為に深く傷つき、それでも戦いたいという内に眠る凶暴性が彼女を苦しめます。この衝動や暴力的な気持ちは、実際に剣道をしていても感じる時があります。つまり、体の強さや技術に伴って強くなる勝ちたいという衝動性や勝つためなら手段を選ばないという凶暴性を抑えるからこそ、道になるのではないかという理解にたどり着きました。更にバルサの深い苦しみと業を、ここまでリアルに描くことの出来る著者の見識と、観察眼は滅多なもので手に入るものでは無いと思いました。

さて話はかわりますが、今私はバルサのような女性になれたのかと、いつも考えています。なぜなら、もう少しでバルサが物語に登場する年齢になるからです。どう転んでも、バルサのようになれていない。私は心を患ってしまったし、他に持病も持っている。剣道も弱い。でも今まで、自分はベストを尽くした選択の末にここにいる、という気持ちは強くあります。バルサも小学生の頃憧れた、清く正しい正義のヒーローではありませんでしたし、等身大の同じ女性でした(ただし、とんでもなくカッコよくて強くて思い切りがいい)

何度も読んで、私も大人になって、それがわかって本当に良かったと思います。私はまだまだ頑張れる。バルサのような強くてカッコイイ女性になれると思えます。そしてまた私は何かのきっかけで『精霊の守り人』を手に取るのでしょう。あの、西日の当たる図書室でワクワクした気持ちを思い出すために。

矢野ゆかり

 

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