鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「季節のおうち寿司」 岡田大介  PHP研究所

「お寿司を作ること」。何だかちょっとハードルが高いな…と思いがちでしたが、この本は「いやいや、そんなことないかも!」と思わせてくれました。

手まり寿司やばら寿司、飾り巻き寿司など、華やかなお寿司たちの材料は馴染みあるものばかり。家にあるものでできる!と思えるのがまず良いです。そして何より良いのは、各材料が「適量」であること。これは、量は好き好き、適当でいいよ〜ということなので、目分量料理専門の私にはぴったりです。

まず作ってみたいのは「笹の葉寿司」。笹の葉に寿司飯をのせ、サケ缶やかぼちゃのペーストをのせて包む。笹の葉はこの辺りでは取り放題、他の具材でも作れそうです。

そしてもう一つは「ゆうれい寿司」。まずこのネーミングが秀逸!

山口県宇部市には「ゆうれい寿司」という名の郷土寿司があるそうで、具材を混ぜたりのせたりしていない真っ白な酢飯だけを型に入れて作るのだそうです。江戸時代の中頃から作られているとか。具材が全くない酢飯だけなのに、これは寿司だと言い切るのが潔い。昔はお米だけでもご馳走だったのでしょう。「ゆうれい寿司」、これだけで宇部市に行ってみたくなります。この本では酢飯に干し椎茸やにんじん、きゅうりなどの具材を重ね、その上に酢飯をのせてサンドイッチのように挟む作り方が紹介されています。

とさちょうものがたり編集部で製作した「高知の郷土料理」の動画に登場する、津野町の「田舎ずし」宿毛市の「きびなごのほおかぶり」も紹介されています。

「家で一緒にごはん食べよう!」と気軽に言える日が来るまで、いくつかお寿司を作れるようになっていたいです。もちろん、目分量で!

 

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読んでほしい

すもも

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「これ」

差し出された袋を受け取った時、思わずよろめいた。袋をのぞくと、中には溢れんばかりの赤、紅、真紅。目が覚めるような色たちは、今年初めてのすももだった。

袋から一つ手に取るとじんわりと温かく、つい先ほどまで太陽を浴びていたのだとわかる。

「ちょっと、すいーけんど」

「すいー」と言った時の顔が本当に酸っぱそうで笑ってしまった。

 

すももはすぐに傷み始めるので、無傷のものは冷蔵庫へ。日が経つにつれて熟していくので、冷蔵庫を覗き込んでは取り出して、ガブリとするのは最高。少し傷ついているものはそこだけ取って種を除き、冷凍する。ミキサーでガーッとして、はちみつを加えたら即席シャーベット。またはコトコト煮てジャムにして、かき氷にかけるのも、これまた最高だ。

すももは実がなるまでに3〜4年かかるという。「子どもたちが喜ぶように、すももの木を植えた」という話を何人かの人に聞いた。すももを頬張っていた子どもたちは大きくなり、進学や仕事で町を出て行った。それでもすももは、毎年変わらずに実をつける。町を離れたかつての子どもたちは、夢中で食べた紅色のすももを思い出すことがあるのではないだろうか。

いただいたすももは、かぶりつくたびに汁がぽたぽたと滴れ、 Tシャツに赤い染みができるほどみずみずしかった。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「ふるさと早明浦」 川村千枝子 新日本文芸倶楽部(あどばんす)編集室

とさちょうものがたりで連載中の「さめうらを記す」では、早明浦ダム建設の際、ダムの底へ沈んだ土地で暮らしていた人たちのお話を掲載しています。

土佐町古味地区の川村友信さんにお話を聞いた時のこと。「ダムのことを本にした人がいる。川村千枝子さんという人じゃ」と、ふと思い出したように教えてくれました。

これがその本、川村千枝子さんの著書「ふるさと早明浦」です。図書館で見つけました。

ダムに沈んだ大渕、古味、柿ノ木、早明浦地区の歴史や風習、家系図や地域の取り決めなど、とても細かく丁寧に書かれています。集落内の地図は手描きされ、川村さんが集落の道を辿り歩いた姿が見えるようでした。本当によく調べたなあ…と脱帽しながらページをめくりました。この情熱はどこからきているのだろうか、ぜひお会いして聞いてみたいと思いましたが、残念ながら千枝子さんは亡くなられていました。

けれども、千枝子さんのご主人である川村雅史さんにお会いすることができました。雅史さんはダムに沈んだ柿ノ木集落の出身です。先日、ダムの見える場所でお話を伺いました。かつて柿ノ木集落があった湖面を指差しながら、「この話はもう、僕だけしか知らないでしょう」と多くのお話を語ってくれました。

人と出会い、話に耳を傾けることで、「今、ここ」がより鮮明に見えてくる。それは机上では得られない体感です。

過去を知り、学び、自らの内側に問いかける。

今、何が必要なのか?何をするべきなのか?

人から学び、歴史から学ぶことは、とても大切なことだと思います。

川村雅史さんから聞いたお話は、後日「さめうらを記す」に掲載予定です。どうぞお楽しみに!

 

川村友信さんの場合

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読んでほしい

虫送り

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6月20日、土佐町の上ノ土居地区で「虫送り」が行われました。

虫送りは、毎年6月、田植えが終わる頃に行われる行事です。稲に虫がつかないように、豊かな実りがありますようにという願いを込め、太鼓や鐘を鳴らしながら地区の中を練り歩きます。

竹に結ばれているのは「稲虫退散五穀成就」「奉讀誦仁王般若経」の文字。近くの鏡峰寺の住職さんに書いてもらったそうです。手で編んだ大きなわらじを竹の先にくくりつけ、上ノ土居の方たちと子どもたちが「サイトウベットウサイノボリ イネノムシャ ニシイケ」と唱えながら歩いて行きます。

 

「サイトウベットウサイノボリ」?

「サイトウベットウサイノボリ」って何だろう? 初めて聞いた時は、訳がわかりませんでした。

「サイトウベットウサイノボリ」は、人の名前です。

時は平安末期。源平合戦中、越前の武士である斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が、源氏の木曾義仲の奇襲を受けました。実盛は稲の株につまずいて転倒、源氏方の武将に討たれ、無念の死を遂げます。

その後、加賀の国では凶作が続き、「実盛が、自分の死の原因となった稲を祟って害虫になった」と言い伝えが広がりました。

子どもの頃、実盛に世話になっていた義仲は、実盛の供養と豊作祈願を行いました。

それが虫送りの始まりだと言われています。

 

 

なぜ、わらじ?

そして目を引くのは、竹の先に括り付けられた大きなわらじ!これにはどんな意味があるのでしょう?

言い伝えでは「虫となった実盛が履いていたわらじから出てきて、稲に害を及ぼした」ので、実盛の供養のためにワラジが作られるようになった、とのこと。

また、「ニシイケ」とは、日が沈む方角「西」は地の果てであるから、「虫は西へ行け」。虫を遠くへ追いやるという意味があるそうです。(諸説あります。)

 

手作りの槍と包丁

光冨年道さん

虫を槍で捕まえ、包丁で料理するという言い伝えもあるそうです。

その言い伝えをもとに、槍と包丁を作った光冨年道さん。「子どもたちが喜ぶと思って」。

まさにその通り!子どもだけではなく、大人も喜んで手にしていました。こういった心遣いが、地域の行事を支えているのだなと感じます。

 

 

外から響く賑やかな声を聞いて、家の中から出てきた方がいました。上ノ土居の地区長さんが歩み寄り、「元気かよ〜?」と声をかけています。昔も今も、近所の人同士で声をかけあいながら暮らしているのだと感じた風景でした。

 

 

 

みんなで記念写真

この場所は上ノ土居の入り口です。虫が入って来ることができないよう、入り口にわらじを立てるのだそうです。

この後、子どもたちは一人ずつお小遣いをもらいました。小さな白い袋に入っていた500円玉は、ちょっと特別なお金に違いありません。

 

虫送りは土佐町の各地域で行われていて、形式も使う道具も少しずつ違います。地域の人たちが大切にしたきた行事は、今も暮らしの中に息づいています。

今年の実りも、どうかゆたかでありますように!

 

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読んでほしい

レタスと青紫蘇考

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未だかつてこんな立派なレタスを手にしたことはなかった。正真正銘、私が種をまき、次から次へと周りに生えてくる雑草を引き抜きながら育てたレタスだが、今まで大抵の苗や植木を枯らしてきた私には、自分で育て上げたということがいまいち信じられない。

今年の春、草茫々だった畑の草を鎌で刈って、耕して、畝を立てた。5月頃、レタスの種をまいた。しばらくすると小さな芽を出し、隣り合った芽同士で切磋琢磨するように大きくなっていった。それはちょっとした感動を覚えるほど、新鮮な体験だった。

毎日、畑に行くのが楽しみになった。毎日足を運ぶようになると、わずかな変化にも気づくようになる。

ある日、大きくなりつつあるレタスのそばに、昨日はなかった何かの小さな芽がいくつもあることに気づいた。いつもならすぐさま引き抜くだろうに、なぜかこの時はそうしなかった。次の日も、その次の日も、その小さな芽は増えていった。

小さな芽が成長し、葉となって初めてわかった。それは青紫蘇だった。種子をまいた覚えはないのに、あっちにもこっちにも、畝を無視した紫蘇たちが生えてくる。

多分、土の中にまぎれていた種が、掘り起こされて光を浴び、眠りから目覚めたのだろう。

 

青紫蘇は好きなのでうれしかった。すりおろしたニンニクとごま、醤油を和えたタレに青紫蘇を漬け、ごはんのお供をせっせと作った。が、最近手がつけられないほど勢力を増し、利用が追いつかなくなってきた。正式に畝に種子をまいたレタスや、オクラやスイカ、イチゴの苗を脅かすほどの勢いである。

季節柄、他の雑草も負けてはおらず、畝に何が植わっているのかわからないほど、青紫蘇は緑々としてきた。そろそろ仕分けをしないとと思っているのだが、せっかく芽を出したのにね、と思うと何だか気の毒で、その日をあと伸ばしにしてきた。

今現在、あと伸ばしにし過ぎて手がつけられなくなり、一体どうしたらいいかと頭を悩ませている。

 

レタスと青紫蘇、欲しい方はお伝えください。

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山の手しごと

梅シロップを作る

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6月のある日、土佐町の上津川地区に住む川村栄己さんの自宅を訪れました。現在88歳の栄己さんに、早明浦ダムが建設された当時のお話を聞くためでした。

川村栄己さん。「このお花、きれいでしょう?持って帰りなさいや」と切って持たせてくれました。花の名前は、キョウカノコ。

話が終わると、栄己さんが「梅の小さいのがあるけど、いるかよ?」と声をかけてくれました。

栄己さんの自宅から坂を少し下ったところ、ちょうど目の高さに張り出すように伸びた枝には青い梅がたくさん!

道下をのぞくと、草が刈られた斜面には一本の梅の木が立っていました。

 

栄己さんと一緒に、道の小脇のけもの道から斜面を下りました。
梅の木の下にブルーシートを広げ、長い棒で枝をバンバン叩くと、コロコロ、コロコロ…。梅が面白いように落ちてきます。
 
 

こんなにたくさん取れました!

1~2日おくと、青かった梅は黄色みをおび、甘い香りがしてきました。昔から6月15日ごろは「梅子黄(うめのみきばむ)」と呼ばれていたそう。昔の人は、うまいことを言うものだなと感心します。

昔から薬用として用いられてきた梅の実は、豊富なクエン酸を含み、疲労回復や美白・美肌に効果ありと良いことずくめ!

暑い夏、シロップを水やサイダーで割って、ごくごく!う〜ん、なんだか元気になる!それにはちゃんと訳があったのか!と納得です。

 
 

梅シロップの作り方

栄己さんにいただいた梅で、梅シロップを作りました。

梅をきれいに洗って、一つずつヘタを取ります。楊枝を使うと取りやすいです。梅の水気はしっかり拭き取ります。

 

きれいに洗った瓶に、氷砂糖、梅、氷砂糖、梅…、と順番に入れていきます。個人的には、梅と砂糖は1:1の割合が美味しいと思います。

氷砂糖をバクっと口に放り込むのもお楽しみ。梅仕事をした人の特権です。

今回は氷砂糖を使いましたが、お好みで、てんさい糖や黒糖なども使ってみてください。

 

この日の夕方には、瓶の底にシロップが広がってきました。毎日数回、瓶を揺すったり、ひっくり返したりすると早くシロップが上がります。飲み頃は、1週間後くらいから。シロップはペットボトルなどに移し、冷蔵庫に入れておくと良いです。

水や炭酸水で割ったり、かき氷にかけたり。ドレッシングにもなります。

 

ヘタを取った後、一旦、梅を凍らせる方法もあります。

作り方は一緒です。凍らせた梅と砂糖を交互に瓶に入れます。凍った梅が溶けると、それと一緒に砂糖も溶けるため、すぐにシロップが上がってきます。

 

夏のお楽しみ、梅シロップ!ぜひ作ってみてくださいね!

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「きんこん土佐弁あいうえお」 村岡マサヒロ 高知新聞広告局

高知県民は、みんな知っている!漫画「きんこん土佐日記」。高知新聞に毎日連載されていて、朝、新聞を開いたら真っ先に読みます。

この本は、2014年、高知新聞に掲載された「きんこん土佐弁あいうえお」を切り取って貼り付けた「帳面」です。記憶は定かでないですが、「帳面」は子どもが通う小学校を通じてもらった気がします。毎日、土佐弁4コマ漫画を切り抜いて帳面に貼る。漫画で大体わかる土佐弁の意味が、「帳面」で答え合わせができるようになっています。

なんて粋な取り組み!

ますます「きんこん土佐日記」と高知新聞が好きになりました。

神奈川県出身の私は方言らしい方言を知らずに育ち、学生時代、新潟県や長野県出身の友人がふと漏らす方言をとても羨ましく思っていました。

今、高知の人たちのネイティブ土佐弁を日々耳にしながら、その人が何を言っているのかはほぼわかるし、私も土佐弁らしきものは話している気がします。でもまだまだ修行の身。「きんこん土佐日記」のたくみ君やおじいちゃん、おばあちゃんのように自然に使いこなせるようになりたい!

その土地の言葉があることは、実にゆたかなことです。

高知に来て本当によかったと思っています。

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」 高野文子作,絵 福音館書店

青空の広がる日、外に干した布団の気持ちよさといったらありません。その布団に飛び込んで、ぐっすり眠る。これは、かなりの幸せ。

人が布団で過ごす時間は意外と長く、1日の3分の1〜4分の1を四角いスペースの上で過ごしています。

たかが布団、されど布団。この本を読めば、ついワンセットに扱われがちな「しきぶとんさん」「かけぶとんさん」「まくらさん」は、それぞれ重要な役割を担っていることに気付きます。

寝る人がしきぶとんさんに頼みます。

「あさまでひとつおたのみします。どうぞ わたしのおしっこが よなかにでたがりませんように」

しきぶとんさんは答えます。

「おれにまかせろ もしもおまえのおしっこが よなかにさわぎそうになったらば まてよまてよ あさまでまてよと おれがなだめておいてやる」

しきぶとんさんが、朝まで見守ってくれていたとは!

そんな視点で布団を見たことがありませんでした。

かけぶとんさんは「ひるまころんで ちのでたひざも なめてさすってあっためて」直してくれ、まくらさんは、おっかない夢を鼻息で吹き飛ばしてくれる。

だから、人は安心して眠れるのです。

最後は「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん いつも いろいろ ありがとう」でこのお話は終わります。

本当に、ありがとう。

今日も気持ちよく眠れるよう、寝床を整えたいと思います。

 

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土佐町の人々

木を植える人 その5

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種子さんのアルバム

ここ数年、種子さんは体調を崩しがちになり、定期的に病院へ通う生活を送っている。以前は週に3回は稲叢山周辺へ行き、木々の手入れをしていたが、今は山へ足を運ぶことが少なくなっている。

私が種子さんのお話を聞きたいと連絡したのは4月の中頃だったが、そのとき、種子さんはまだ今年の桜を見ていなかった。

種子さんは車を運転することができない。一緒に車に乗って山へ行き、一緒に木を植え続けてきた友人も歳月とともに年を取り、話をしてもわからない状態になっているという。この数十年の間に亡くなった人もいる。自分の山の土を分けてくれた和田さんも亡くなった。

時とともに木は育つ。その一方で、人は歳をとり、衰えていく。

 

2011年(平成23)3月、原石山での植樹。中央左が、種子さん(写真提供 谷種子)

種子さんは、アルバムを見せてくれた。植樹した年ごとにまとめられた数十冊のアルバムには、花や木々、共に木を植えた人たちの姿が丁寧に納められていた。

「楽しかったからできた」

その言葉には、種子さんが注いできた全てが込められている。

 

 

種子さんの願い

稲村ダムへ向かう道沿いに、一つの記念碑が立っている。
それは「ふるさとの森を育む会」の設立15年目に建てられた碑で、種子さんをはじめ、会が行ってきた植樹について書かれている。

この記念碑にある一文を指差して、
「私の願いはこれなんです」と種子さんは言った。

 

 

その一文はこうだ。

「次世代への伝承を祈念し、この碑を建立します」

木を植えるということは、今日・明日という単位のものさしではなく、もっと長く、もっと深いものさしで見据えた未来を描くことなのだと思う。自分がもう生きていないだろう未来を信じ、木を植える。それは、他の人に簡単に頼めることではないし、簡単に手を挙げられる話でもない。だからこそ「跡を継ぐ人がいなくて…」と種子さんは話す。

そして、以前はボランティアで関わってくれる人も大勢いたが、「今はボランティアでお願いするのが難しい時代になった」と種子さんはいう。人口が減ったことで一人が担う仕事が増え、ボランティアで関わる余裕がなくなっている、と。
時の流れとともに、変わらずにそこにあるものと、変わっていくものとがある。

 

 

引き継ぐ人を探して

今年の5月、種子さんが植えた木々の間を歩いた。その日は朝から雨が降っていて、急に雨足が強くなってきた。雨宿りをしようとケヤキの木の下に入ると思いのほかまぶしくて、頭上を見上げた。
細く枝分かれしたところから、小さな雨の雫が枝を伝い、滑るように流れていく。そして枝先で一粒となり、順番にひとつ、またひとつと、土の上に落ちていくのだった。

ここは、ふるさとの森。
23年間、種子さんが植え続けた木々は森となり、この山に水を蓄える。

 

今、種子さんは、自分に代わってふるさとの森を引き継いでくれる人を探している。

 

今年の春、種子さんと一緒に原石山に咲く桜を見に行った。

「春は桜が咲いてきれいでしょう?秋もきれいですよ。山は真っ赤に紅葉しますから。夏も来てみてください。緑がいっぱいです」

2021年、今年は植樹が始まってから24年目になる。
谷種子さん、88歳。
種子さんは、今年も木を植える。

 

 

現在の「ふるさとの森を育む会」の皆さんと嶺北森林管理署の職員さんと共に。種子さんは前列、左から4番目。(写真提供 谷種子)

 

 

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「どうぶつサーカスはじまるよ」 西村敏雄作 福音館書店

「母さん、このプツプツ、なんだろう?」

長女が4歳だった時、手のひらを広げて、私に見せに来ました。手のひらには赤い発疹がいくつか。「あれ?なんだろうね?」そう言っている間に発疹はどんどん増え、顔やお腹、足に広がっていきました。次第にその点同士が繋がって、全身は紅色のまだらの斑点で覆われました。熱もどんどん高くなる。呼吸も乱れ、ぐったりとしている娘。

その症状を見て、思いました。まさかと思うが、間違いない。多分、麻疹だ…。

熱の塊になっていた娘をおんぶして病院へ。お医者さんは「あれ?はしかかな?でも背中に発疹がないのがおかしいね…」と言います。多分予防接種をしていたから、背中は斑点が出なかったのではとのこと。結局、血液検査で麻疹だとわかりました。

麻疹は感染力が強いため、治るまで外に出られません。治るまでどうやって過ごそう…。

先が見えず途方に暮れていた時、本屋を営む知人の顔が浮かびました。

「思いっきり元気になれる、楽しい気持ちになれる本を送って!」

その注文に応えて、送ってくれたのがこの本でした。

パンパカパーン、パンパンパン、パンパカパーン!で始まるどうぶつサーカス。馬のダンスやワニの組体操。ライオンの火の輪くぐりでは、ライオンの毛が燃えていました(笑)。空中ブランコでは、怪我をして出られなくなった猿の代わりにお客さんのぶたが宙を舞う。いい意味でのんきで楽しい動物たちに、どんなに励まされたか!

一緒に笑うことで不安やしんどさを吹き飛ばし、麻疹の日々を何とかやりくりしていました。今となっては、たまらなく懐かしい思い出です。

 

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