鳥山百合子

 

 

山の人、町の人。先祖代々住む人、都会から越してきた人。猟師さん、農家さん、森の人、職人さん、商店さん、公務員…。

人口4,000人弱の土佐町にはいろいろな人がいて、いろいろな人生があります。

土佐町のいろいろな人々はどんな本を読んでいるのでしょうか?もしくは読んできたのでしょうか?

みなさんの好きな本、大切な本、誰かにおすすめしたい本を、かわりばんこに紹介してもらいます!

(敬称略・だいたい平日毎日お昼ごろ更新)

私の一冊

鳥山百合子

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「おふろやさん」 西村繁男 福音館書店

お風呂で泳いでおじいちゃんに怒られている子供。帰り際、しゅんとしている子供に笑顔で声をかけるおじいちゃん。石鹸の貸し借りをしている人も。そんな交流がありつつも、お風呂に入っているのは個人個人。ああ、お風呂屋さんってこういう感じだよなあと思い出させてくれる一冊です。

関西に住んでいた時、近くにいくつかお風呂屋さんがありました。小銭をポケットに入れ、気分で場所を変え、歩きや自転車で行きました。暖簾を潜り、番台で当時370円位だった入浴料金を払う。ムンとした空気、天井は高く、お風呂場からは洗面器のカランカランと響く音が聞こえてきました。

大きな湯船は、「ぷは〜」とため息が漏れるほど気持ちがいい。おばあちゃん、おばちゃん、お姉さん、小さな子…。みんなが裸でお風呂に入っている。みんな1日の仕事や遊びや何かしらを終えて、ここに来ている。そんな背中の数々を感じながらお湯に浸かっていると、自分ってちっぽけやなあ〜と思いました。顔をお湯にぶくぶく沈ませていくと、ちょっとしたもやもやも一緒に沈んでいくようでした。

思う存分温まり、ぼんやりした身体に流し込む、瓶のコーヒー牛乳も外せません。

商店街に並ぶ銭湯も、山の奥に静かに佇む温泉も、ジャクジーやサウナがあるスーパー銭湯も、最高。

お風呂は最高の気分転換です。

 

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読んでほしい

土佐あかうしの出産

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ロープで括られた前肢と鼻先が既に見えていた。

「ヨイショ!ヨーイショー!」

掛け声とともに、子は母牛の体内から引っ張り出された。

「はい、できたー!!」

どさっという音とともに藁が散らばった地面に落ちた子牛は、うっすらと目を開けていた。褐色の身体はびしょびしょに濡れ、下半身には白い羊膜が張り付いている。子牛は横たえたままぐったりとしていて、息をしているのかしていないのか、わからない。

畜産農家・上田義和さんは、子牛の鼻にかかった羊膜を取り除き、鼻孔にぐりぐりと手を入れた。呼吸を確保するためだ。子牛は虚ろな目をしている。上田さんが頭と体をゴシゴシふいてやると、子牛は頭を持ち上げ始めた。

「できた、できた!」(土佐町では生きものが産まれたことを「できた」という)

「もう大丈夫じゃ」

安堵した空気が広がった。

産まれた子牛の前肢の先は、きれいな黄色だった。

 

 

 

土佐あかうしの日本一の生産地、土佐町

土佐町は、土佐あかうしの日本一の生産地。土佐あかうしは土佐褐毛牛ともいわれ、高知県の山間部を中心に飼育されている褐色の毛色をした牛のことである。年間300~400頭しか出荷されていない貴重な品種で、赤身が美味しくあっさりした肉質で年々人気が高まっている。

土佐町にはかつて100軒ほどの畜産農家があったが、現在約30軒ほどに減少。各農家は日々、丹精込めて土佐あかうしを生産し続けている。

上田さんは、土佐あかうしの繁殖農家だ。繁殖農家は母牛を飼育し、交配させて子牛を産ませ、それを販売する農家のこと。現在、上田さんは14頭ほどの母牛を飼育している。

また、その子牛を購入して1~2年かけて飼育し、肉牛として出荷する農家は肥育農家と呼ばれる。

 

9ヶ月と10日

牛の妊娠期間は9ヶ月と10日といわれている。上田さんの牛舎には、人工授精した日から数えて9ヶ月と10日後の日付が黒板に書かれ、出産予定日がいつなのかすぐに分かるようになっている。

今回出産した母牛の名は、「153さち」。牛は、その牛の系統で名付けられることが多い。今回、子を産んだ母牛は、さちという系統の153頭目の牛だ。

産後、母牛と子牛は常に共に過ごし、子牛は母乳を飲んで育つ。子牛が生後2ヶ月半になると、母乳は朝晩だけになり、部屋が分けられて乳離れの準備が始まる。生後3ヶ月半頃、完全に母乳から離された子牛は、親と同じ餌を食べ始めるという。上田さんは、藁とカヤ(ススキ)、畔の草など、野生の草を与える。後からソルゴと呼ばれる高きびを加えるそうだ。餌は農家によって異なる。

母牛は、産後40~60日で再び発情を迎え、「種付け」と呼ばれる人工授精が行われる。母牛は、子を産むためにここにいる。

 

生きものとの日常

話は出産に戻る。

「153さち」は子牛を産み落とすと、すぐに立ち上がった。お尻からは鮮血の混じった羊膜がだらりとぶら下がっている。

母牛は子牛の全身をベロベロと舐め始めた。そうやって「ねぶって」、体を乾かすのだそうだ。母牛が子牛のお尻をねぶると、子牛が腰を浮かして立とうとするが、ぶるっと震えてひっくり返る。そしてまた、母牛はねぶり続ける。

子牛は、くの字に曲がった足を懸命に伸ばそうと繰り返していたが上手くいかない。しばらくすると疲れたのか、地面から上半身だけを起こしたまま、立とうとするのを止めてしまった。

 

上田さんは「仕事行くけ」と仕事に出かけていった。

上田さんにとって、土佐あかうしの出産は特別なことではなく日常なのだ。

 

無事に産まれる牛ばかりではない。今まで死産した牛もいるという。母牛が真夜中に産気付き、上田さんは子牛を引っ張り出そうとしたがうまくいかなかった。応援を頼もうにも真夜中では頼みにくい。早朝、知人が到着した時には、もう手遅れだったという。

「生きものじゃけ、うまくいかんこともある。大変よ」

上田さんはそう言っていた。

 

この日産まれた子牛は、夕方、立ち上がった。

 

 

 

肉になる

産まれた子牛は、およそ8ヶ月後、土佐町で開かれる牛の市(嶺北畜産市場)に出される。土佐あかうしを売買できる市はここだけなので、牛の市には県内外から多くの畜産農家が訪れる。

子牛は肥育農家の元で1~2年飼育され、肉になる。

子牛がメスの場合、繁殖農家に買われて子を産む牛として育てられる場合もあるそうだが、今回産まれた子牛はオス。オスは肉になる。

値段はその時々で変わるが、約40万〜60万円で売買されることが多い。

牛舎のそばに上田さんが半日がかりで刈った草が干されていた。柵30メートルほどに渡って隙間なく立てかけられていたが、この量で3日分。暑い夏に大量の草を刈り、この作業を日々継続するだけでも大変な労力がかかる。牛を育てるための餌代は、1頭当たり約40万円、他にも手入れや世話が必要になってくる。

「餌代が高いけ、なかなか大変よ。日に換算したら、仕事があればお弁当を下げて仕事に行く方がマシよ」

上田さんは畜産の他に、農業や土木の仕事をして生計を立てている。

「牛を市に出すのは、どうってことない。売らないと餌代もいるし、かわいそうだと思ってたらやれん」

かわいいだけじゃ済まない話だ。

 

 

 

10日ほど経ってから、もう一度子牛を見せてもらった。子牛はスクっと立ち上がり、元気よく母牛の乳房に吸い付いていた。この子牛が8ヶ月後、市に出される。

この子牛が育つ間にも、出産を控えた他の母牛が新たな子を産む。上田さんは産まれた牛を育て、市に出す。命の営み、育てる人の営みが繰り返されていく。

上田さんは70代。「同じ繁殖農家の友人が母牛を手放した。もうやめると。これでまた一軒、農家が減る。土佐町には若い世代の農家もいるが自分も70代、どこまで続けられるか…」

汗をかき、葛藤しながら、町の産業を支える人たちがここにいる。

 

 

 

上田義和 (中尾)

 

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私の一冊

鳥山百合子

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「スティーヴ・マッカリーの『読む時間』」 スティーヴ・マッカリー 創元社

ベンチに座って、車の中で、窓辺で、人は読む。

美術館の入り口で、歴史的な寺院の前で、芝生に寝転がって、商売の合間に、人は読む。

地下鉄で、カフェで、土の上に座って、ベットの上で。太平洋上空でも、雪の中ででも、料理をするお母さんの隣でも。

列車を待つプラットホームで、布と木の枝でできた家の中で、人は読む。

人はなぜ読むのだろうか。写真を一枚ずつ見ていて、しみじみと思う。それはひとつの楽しみであり、知らなかったことを学ぶためであり、時には現実逃避することでもあり、どこか祈りにも似た行為なのかもしれない。世界中の人々が同じように読むという行為をするのが興味深い。

この写真集の冒頭に、こんな言葉がある。

『何かを読むと、私たちは自分がひとりではないことを知る。C・S・ルイス』

私は本を読むこと、活字を読むことが好きだ。今まで知らなかった世界、新しいことを知るのは楽しい。前向きな時だけじゃなく、悩んだ時、迷った時、時には暇で何もすることがなくて本を開いてきた。そんな時はいつも、ちょっとした希望のようなものを探しているのだと思う。本の中に自分の「片割れ」や「相棒」を見つけて安心もした。まだ言葉にならない自分の気持ちを、言葉にしてくれていると感じることもある。

自分はひとりではない。人間はひとりではない。

そのことを忘れないでいたいと思う。

 

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山の手しごと

夏のおにぎり

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夏!

毎日蒸し暑く、食欲がわかない…。そんなこと、ありませんか?

そんな時のおすすめは、何といっても焼きおにぎり!

土佐町は米どころ。美味しいお米をさらに美味しく、夏のごはんの食べ方です。

これは、青紫蘇を使って作る焼きおにぎりです。暑い盛りが旬の青紫蘇としょうゆのおこげがうまく合って、食欲がないな〜という時にもパクリと食べられます。名付けて「夏のおにぎり」です。

ポイントは、その焼き方。ジリジリと、弱火でじっくりと焼きます。「イラレ」(土佐弁で「せっかち・気が短い」の意)はいけません。あくまでも「ジリジリ」です。

 

【夏のおにぎりの作り方】

①手を濡らし、ひとつまみの塩を広げ、熱いごはんをのせて握る

②フライパンを熱してごま油をひき、握ったおにぎりを焼く。ジリジリと焼き、焼き色が付いたらひっくり返す。(トングを使うと返しやすいです)

③両面に焼き色がついたら、しょうゆを適量塗り、またジリジリと焼く。(香ばしい香りがしてきます)

④青紫蘇の葉でおにぎりの両面を挟み、海苔を巻く

 

皮を剥いたにんにくを漬けた「にんにくじょうゆ」、刻んだ生姜を漬けた「生姜じょうゆ」を塗るのもおすすめです。

最近のお弁当は、毎日「夏のおにぎり」ですが、ちっとも飽きません!

それほど美味しい「夏のおにぎり」。ぜひ作ってみてください!

 

 

 

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読んでほしい

言葉が紡ぐもの

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以下の文章は、2021年7月20日に発行したとさちょうものがたりZINE08「山峡のおぼろ」の巻末に、あとがきとして掲載したものです。

 

「言葉が紡ぐもの」 文:鳥山百合子

 

朝食を食べていた時だった。

手から箸が滑り落ちた。拾おうと背中をかがめると全身の力がぐにゃりと抜けた。手が動かない。体が起こせない。助けを求めて口から出たのは「あー、あー、あー」。絞り出すように発したそれは、言葉にならない言葉だった。

窪内さんはすぐに病院へ向かった。CT画像には脳の血管を塞ぐ一つの血の塊が写っていた。脳梗塞だった。

震える手で4Bの鉛筆を握り、主治医の質問にマルバツで答えた。途切れ途切れながら筆談することもできた。

「口では説明できんのに、それでも考えだけは浮かんでくる。我ながら不思議な体験だった」

入院して4日目、朝起きると、あれだけ言葉にならなかった言葉が話せるようになっていた。手の震えも止まった。血の塊が太い血管へと移動し、血流がよくなったのだ。

入院中、電話をいただいた。入院の理由を聞いて血の気が引いたが、聞こえてくる窪内さんの変わらぬあたたかい声に安心もした。今は自宅で療養しながら過ごされている。

「脳梗塞を乗り越えたいと思っていますから」

コロナ禍もあり約一年半ぶりにお会いした窪内さんは、力強くそう言った。

 

60年越しの約束

「山峡のおぼろ」と題し、窪内さんが戦中、戦後の子供たちのことを書くきっかけとなったのは、産経新聞社を退職する際に司馬遼太郎さんから手渡された色紙に記された言葉だった。そのことは「終りに当たって『婉なる哉故山…』(P45 ) 」に詳しい。

実はきっかけがもう一つあった。それは60年越しの約束だった。窪内さんが産経新聞の記者として働き始めた頃、「盆飯(P38 ) 」を一緒に食べたガキ大将、窪内久年さんと交わした言葉だ。

「ものを書く世界に勤めたんやったら、戦中、戦後が忘れられてしまわぬよう、子供時分にやったことを全部まとめて書き残しておけよ」

その後も久年さんと会うたびに何度となく「命じられ」、書き残したいという想いはずっと頭の中にあったそうだ。しかし仕事は忙しく、発表する方法もなかった。そうこうしている間に子供の頃の思い出を語り合える人たちはここ10年の間にこの世から次々と姿を消し、久年さんも3年前に亡くなった。

「そんな時、とさちょうものがたりと出会えた。子供時代のことを書こうと決めた時、久年さんとの約束も果たせると思った。それが『山峡のおぼろ』を書こうと思った最大の理由です」

窪内さんはそう話してくれた。

 

自分の実感を軸に

窪内さんがよく話す思い出の一つに「こぶて」がある。こぶてとは、木の枝や竹の弾力を利用して小鳥を獲る仕掛けのことである。朝、山の5〜6箇所にこぶてを仕掛け、学校から帰ってすぐ、獲物がかかっているか確かめに行く。宿題は必ず夜に回し、こっちの山へあっちの谷へとほぼ毎日駆け回っていたそうだ。戦争中の不自由な時代、とにかく自分で動かなければ始まらない。生活の全てにおいてそうするしかなかった。

私は窪内さんのお話を伺ううちに、子供時代の日々が、窪内さんという人の土台を作ったように思えてならなかった。

「僕は必ずと言っていいほど、自分でそのものを見るか、話を聞くか、とにかく自分で確かめないと気が済まない。実際に見た、触れた、そのことを軸にして口に出す以外ない」

子供時分にしてきたことが今も残っているのだと思う、と窪内さんは言っていた。そして、それは司馬遼太郎さんの教えでもあったと話してくれた。

 

司馬遼太郎さんの教え

昭和40年(1965年)、窪内さんは産経新聞社の先輩であった、作家司馬遼太郎さんの担当編集者になった。担当した「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」の他に、何本もの連載を抱えた司馬さんから常々言われていたことがあったという。

「想像でああらしい、こうらしいということを絶対俺に言ってくれるなよ。実際に見て、触って、知ったこと以外は、俺の耳に入れる必要はないぞ」

それはまさに窪内さんが子供時代に培ったことでなかったか。窪内さんと司馬さんが、編集者と作家という立場を超えて共有していた前提を見た気がした。

 

事実と真実

窪内さんは、司馬さんの作家活動の原点となった出来事を話してくれた。

旧満州牡丹江で戦車第一師団の小隊長だった司馬さんは、昭和20年5月、本土決戦に備えて帰国し、栃木県佐野に駐屯。視察にやってきた大本営の参謀に聞いた。

「米軍が上陸すると、それを迎撃するために戦車隊は南へ進む。ところが一般国民は、南から北へと同じ道を逃げてくる。その場合はどうしますか?」

参謀は言った。

「轢き殺して進め」

 

国を守り、国民を守るのが軍ではないのか?こんな人間の指揮のもとで戦っているのか?戦争が終わって自由にものが言える、書ける時代になったら書かなければいけない。司馬さんはそう思ったという。

そして作家となり、事あるごとに「事実は見えるけれど、真実はもっと深いところにある。事実だけに囚われず、さらにその奥の真実を見極めるように」と編集者たちに話していたそうだ。

 

ものごとの真実はどこにあるのか。

「轢き殺せ」と言い放った参謀の姿に、司馬さんは戦争というものの真実を見たのではないだろうか。

時には手探りで、時には深く潜っていって、奥底に隠れているものを探し続ける。事実だけに目を奪われて、真実を見逃してはならない。人任せにすることなく、自ら見極めよ。

司馬さんの作品の数々から、その叫びが聞こえてくるような気がする。

 

言葉が紡ぐもの

この本は「とさちょうものがたりZINE04  山峡のおぼろ」の続編である。04号を読んだ人から窪内さんの元へ「私も同じものを食べた」「同じことをした」という声がたくさん届いたという。電話帳で調べました、とわざわざ自宅に電話してきた人もいたそうだ。「その声色からみても、同じ思い出に浸ってくれているのがわかった。それだけでも書いてよかったなと思う」と窪内さんは言っていた。

久年さんと司馬さんから手渡された言葉は、時を経て窪内さん自らの言葉となり、多くの人たちの共感を生んだ。真実の言葉が紡ぐものは尊い。

「人生の最後に、人のために残しておける仕事ができてよかった」

窪内さんの心からのその言葉は、私たち編集部にとって何ものにも代え難い言葉だった。この言葉を何度でもかみしめて、深奥にある真実へと手を伸ばし続けたいと思っている。

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山の手しごと

干しきゅうりの漬け物

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この季節にいただく野菜のナンバーワンは、何といってもきゅうり!

ありがたいことに連日のようにきゅうりをいただいて、冷蔵庫の野菜室がいっぱいに。さっきまで畑で太陽を浴びていましたという顔をしてツヤツヤに光ったきゅうりは、持つとチクチクします。このチクチクが新鮮な証拠!痛いのに嬉しくなってしまいます。

さてさて、この大量のきゅうり、一体どうやって食べようか?

ある日、知人が「干したきゅうりの漬け物がすっごくおいしくて、あっという間に食べちゃった」と話していました。聞くところによると、6本ものきゅうりを使うらしい。そして何より興味深いのは、干したきゅうりで作るらしい。

きゅうりを干す!

大根やさつま芋を干したことはありますが、あのみずみずしいきゅうりを干すだなんて!未だかつて聞いたこともありませんでした。

その人はそれから何度も作っていると言います。それほど美味しいのならば!と挑戦してみました。

 

干しきゅうりの漬け物の作り方

①きゅうりを6本をスライスして並べ、日の当たるところに干す。

②時々裏返す。(天気の良い日に半日も干すと、きゅうりの縁がシワシワになってくる)

③漬け汁を作る。⑴〜⑸をひと煮たちさせ、その後に⑹⑺を加える。

【漬け汁の分量】
⑴しょうゆ 120ml
⑵みりん  60ml
⑶酢    60ml
⑷砂糖   大さじ4
⑸酒    大さじ2
⑹赤唐辛子(小口切り) 2本
⑺しょうがの千切り   20g

④タッパーなどにきゅうりを入れ、漬け汁を注ぐ。1時間もしたらおいしく食べられる。冷蔵庫に入れて保存。

 

干したきゅうりがプリプリの歯応え!唐辛子と生姜も効いているので、ごはんが進みます。

子どもも美味しく食べられます。ただいま夏休み中の末娘から「お弁当に入れて!」とリクエストがあるほど。

きゅうりがたくさんあるときに、ぜひお試しあれ!

 

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