土佐町ストーリーズ

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戦中戦後の時代を生きて今思うこと  前編

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土佐町の谷種子さんが、自ら体験した戦中戦後の出来事を寄稿してくれました。

 

 

1933年(昭和8年) 生れの私は、小学校2年生の1941年 (昭和16年) 12月8日太平洋戦争が始まり、6年生の1945年 (昭和20年)8月15日、終戦の日を迎えました。

その日は、学校は夏休みでしたが、私は同級生数人と「当直」の当番でしたので学校に行っており、日本が戦争に負け、無条件降伏をしたことを先生から聞かされました。

戦中戦後で特に記憶に残っていることは、食糧難、食べる物がなく、ほとんどの人が飢えに苦しんだことです。

私の家は農家で、田圃では、 米と麦を作っていました。 収穫した米と麦は、保有米(一家の食べる分)を残して、残りは全部供出しなければなりませんでした。

これまで養蚕のための桑畑であった処も、食糧増産のため、桑の木を除去し、サツマイモを作りました。山の採草地も開墾し、 芋畑となりました。 サツマイモも供出の対象だったと思います。

これは私の家だけのことではなく、どこの家も米や麦は保有米を残して供出し、 草地や山林の開墾出来るところは開墾し、サツマイモを植えました。

 

また、戦争末期にはどの家庭も働き盛りの若者は、召集や徴用で狩り出され、 留守宅は高齢者・女性・子供達だけとなり、不足する労働力を補う為、 旧田井村に予科練が駐屯し、 私達が通称 「ヅンヅン山」 といっていたところを開墾して、芋畑をつくりました。面積については記憶していませんが、 広い芋畑が出来、命をつなぐ一助になったと思います。

田舎の農村地帯でさえ、このように食糧増産に努めざるを得なかったのですから、 都会は大変だったと思います。

1944年(昭和19年)頃から都会から疎開してくる人達が増え、 転校して来た同級生も10人位いたように記憶しています。

皆、食べることに精一杯でした。 特に疎開してきた人たちにとっては、 わずかばかりの配給ではお腹を充たすことは出来ず、畑を借りてサツマイモや、 南瓜を作り空腹をしのいでいたと思います。

 

後編に続く)

 

*谷種子さんのことを書いた記事はこちらです。

木を植える人 その1

 

 

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順太地蔵 (南川)後編

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(中編はこちら

ただちに名主に報告され、順太の国元へも死体発見は知らされた。

役人は その翌日検死のために部落に来たが、よそ者の死に対する村役人の処置は極めて冷酷なものであった。

何処かで仕事中事故死していた順太の死体がたまたまの出水に流れて来たと断定して帰っていった。

村人達も順太の死因についてはガンとして口を割ろうとしなかった。やがて阿波からは母親お清が、順太の姉と共に死体引取りにやって来た。

そして、現場にコモをかむされている順太の死体に涙と共に対面した。この秋には可愛いい一人息子の順太にはお花と言う美しい嫁が 来る、その日を一日千秋の思いで指折り数えて待っていたのは順太にもまして此の母親ではなかったろうか。

焼野のきぎす夜の鶴はえば立て立てばあゆめの親心、世に子を思わぬ親があろうか。

順太の死因が他殺である事は一目遺骸を見た時歴然としていたし、血を分けた可愛いい吾が子の死因が、此の母親にわからぬ筈はなかった。

が、しかし村役人の検死もすんだ今殊に異郷の地で、女ばかりの彼女達には今更 その死因を追求することも出来なかったのであろう。唯、彼女の心中は悲しみと憤りで一杯だったのであろう。

涙も枯れ果てたお清母娘は順太の遺骸を箱におさめた。そして彼女はき然として言った。「順太 くやしいであ ろうが お前の遺体は 此の母が連れて帰ってやるが、順太お前も男なら魂魄、永久に此の地に留まりかたきをっ 」と言いおいて、その翌日阿波屋の人夫に付添われたお清母娘は、順太の遺骸と共に阿波に帰って行った。

一方、お花は順太が若者に殺されたその夜から床についてしまった。玄安夫婦の優しいいたわりの言葉にも口を割ろうとはせず、寝床で泣いていたが、お清母娘が阿波に帰ったその翌日、丁度、両親の留守中にお花の結婚準備に母親の作ってくれてあった白無垢赤無垢の嫁入衣装を身にまとい自宅より約四百メートルも上方の大きい石の上に上り踊り始めた。

彼女は順太恋しさに遂に発狂したのである。

折柄、初秋の夕日をあびて岩頭に順太の名をよびながら踊り狂うお花の姿は、遠く対岸の農家からも見られたが、村人達は二目と見ることができなかっ たという。

そして三日目精魂つき果てたお花は遂に岩頭に倒れ息絶えていたのである。以来この石を里人達は不登の石と呼び、百三十年の星霜を経た今なお、部落の人達はこの石に登る事はタブーとされている。

現在も植林の中にお花の悲しみを秘めた石はそのままの姿で、お花の悲恋をいたむかの様に残っている。

さて、その後、此の部落には不幸な事が続いた。ある時は木材伐採の人夫が仕事中に大けがをして死んだ。又ある時は昨日まで元気だった若者が発狂して廃人同様に成った。

ある家では若者が入浴中に頓死したり、川に流れた子供の水死体が丁度順太の遺骸が発見された川原の砂で発見された。

こうした不幸に見舞われた家の人達 は、お寺さんや神官さんをやとって御祈騰をした。その都度、順太のたたりだと神仏からのお告げがあった。

里人達はこれを順太狸と呼んで恐れおののいていた。そして、こうした不幸に逢った家では順太の霊を慰め冥福を祈って石の地蔵さんを作って立てたと言うが、依然としてくる年もくる年もこうした不幸な出来事は絶えなかった。

そこで名主は部落の主だった者を集め部落で順太の供養をすることに成った。

年号も変わって安政五年七月二十五日部落民は戸毎にたいまつを作り瀬戸川と吉野川の合流点に集り、あかあかと燃えるたいまつを川に流し念仏を合唱して順太の霊を慰めた。

その時部落で建てたのが今に刈谷橋に残る石の地蔵さん。以来星移り時は流れ て百二十有余年、今では順太のたたりも無く平和な部落のいとなみは続けられている。

そして、この悲しい恋の物語りも部落の人にさえ忘れ去られようとしている。

以上が順太お花にまつわる悲しくも哀れな物語りである。この物語りは昭和二十年の秋、足掛け三年目に召集解除されて帰宅した私が当時九十歳近くで病の床にあった部落の古老山中福太郎翁から聞いた話を要約したものである。

この福太郎翁は昭和二十五年に九十四歳で亡くなっているが、この翁の記憶に残っているのは安政五年に部落で供養した時のたいまつ流しに行った事、帰りにはこの下の清七ぢいに背負ってもらって帰って来た事」 であったという。なお順太以外の名は必ずしも実名でないとのことである。

 

町史 竹政一二三

 

 

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順太地蔵 (南川)中編

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(前編はこちら

やがて若者達の嫉妬の凶器は順太の脳天に打ちおろされた。

勿論、彼等若者達にも順太を殺す気は無かったが、打ち所が悪かったか、順太はウォーッと言う悲鳴と共に死んでいった。加害者の若者達も驚いた。そして困った。が、それは後の祭り、彼等は 順太の死体を河に運び砂を掘って順太の死体を埋めたのであった。

その翌朝順太の飯場では順太が行方不明に成った事に同僚の人夫達は大さわぎと成った。そして順太の行方不明は彼の故郷の母の許へも知らされた。

一方人夫達は八方順太の行方を探したがようとしてその行方は分からなかった。

やがて月も変わり八月二日、晴天続きの天候もついくずれ、どす黒い雲が南からちぎれちぎれに飛んで行った。台風の前兆である。そして翌日三日の夕刻から四日にかけて暴風雨となった。河川は見るみる内に増水した。

阿波屋の人夫達は順太の不明の中で不安ながらも木材を流送したのであったが、さしもの台風も翌五日には又快晴の天候に回復し暑さも多少しのぎ易く成っていたが、山々にはみんみんぜみがにぎやかに鳴いてい た。

 

この頃、里の百姓与三郎は朝起きて対岸の川原の砂に異様な光景を見た。

それは真黒いカラスの群が一カ所に ガーガーと鳴いているのであった。がしかし、その日は敢えて気にもせず山畑へ仕事に行ったが、その翌朝も又その翌朝も例のからすの群は一カ所に集まっていた。

とうとう、与三郎はそのからすの群の集まっている川原に行ってみたのである。

そこで与三郎が目にしたものは、何と半ば腐乱した順太の死体、それをからすがつついて 二目と見られない凄惨な姿であった。

 

後編に続く

 

 

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順太地蔵 (南川)前編

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当時、この部落には至る処に杉檜の大木があった。

全ての物資の運搬に馬さえいなかった当時のこと、この無尽蔵の木材資源も土地の者にとっては、家屋の建築や修理に使う程度でしかなかった。

阿波の国にはこの木材に目をつけた大材木商人が数多くいた。彼等は吉野川の流域の木材を買い集め、大阪の堺港や和歌山に出荷して莫大な利益をあげていた。

阿波屋重兵衛も当時の大木材商人であった。

何千人もの人夫を土佐に送り、秋から春先迄、買入れた木材を伐採造材して川岸に集積する。

そしてやがて夏が来て大洪水が起きた時、集積されている木材を濁流渦巻く河に流す。

一方徳島の河口にはアバが張られて上流から流れて来る木材を集めて、木材に打ち込まれた刻印によってそれそれの木材商に引渡される。

勿論、何十パーセントか の木材は川岸に掛かったが、それでも大きな儲けとなっ ていたことであろう。

 

さて、 この阿波屋の人夫二十名程が南川にも来ていた。彼等は飯場と言う大きい小屋に寝起きして、毎日木材の伐採をしていた。

その人夫頭に順太と呼ぶ若者がいた。

二十五歳の青年であったが、さすが阿波の豪商重兵衛が見込んだだけに、読み書きソロバンは達者であり、 その上立派な体格の美男子であった。

徳島の店では番頭であり、出夫の時は人夫頭であった。当時この部落の古田と言う所に玄安と言う医者がいた。そしてお花という一人娘があった。

現在もそうであるように当時の医者は部落一番のインテリであり、文化人であった。

お花も士族の娘と共に土地の者からは姫様と呼ばれ尊敬され、美人であった。このお花と順太が恋に落ちてもそれは決して偶然の事ではなかった。

 

お花の父玄安夫婦も順太の人柄を見込み結婚を快く許した。

又、順太には父親はなかったが、母親お清も可愛い順太の申し出に異議があろう筈はなかった。

そして二人は家族達の祝福の中に嘉永六年(編集部注:1853年)の秋には晴れて目出度く結婚する事に決まっていた。

順太とお花の二人には嬉しい楽しい毎日が続いた。嘉永六年と言う年は春先からよい天気が続いた。

うっとしい長雨も六月末には早くもからりと晴れ、七月に入って暑い晴天がまた続いた。そして七月十五日の盆を迎えた。

順調な農作物の出来映えに喜んだ村人達は老若男女相集い盛大に盆踊大会が催されたのであった。

順太もお花も多くの村人達と共に楽しい踊りに更けゆくのも忘れていたが、やがて踊り疲れた村人達も三々五々家路につく頃、順太もお花と共に肩をよせ合い楽しく語り合いながら家路を辿る二人の後の木 かげに、嫉妬に狂う若者達がまなこが有ろうとは知るよしもない二人であった。

中編に続くー「土佐町史」より

 

 

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兼山という男

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野中兼山肖像

野中兼山(のなか・けんざん)

土佐町に暮らしているととてもよく聞く名前です。でも実際に何をした人なのかは、あまり知らなかったり。江戸時代の殿様?家老?

今回は、「土佐町史」という分厚い本の中に書いてある「野中兼山」についての記述を元に、少し柔らかくかみ砕いてお送りします。

兼山について知らなかった方はふむふむと、すでに知っていた方はいまいちど復習のつもりで読んでいただければうれしいです。では早速いきましょう!

 

数奇な運命ー幼少期

兼山の父、良明は土佐藩主である山内一豊の甥で、一豊の信頼も得ていた人です。そのままいけば兼山もいわゆるエリート又はぼんぼんとして育ったことでしょう。一豊は良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していました。

しかし、一豊が死去します。藩政は一豊の弟である康豊が仕切ることになりますが、例の約束「幡多郡中村2万9千石を与える」は反故にされました。

それが理由で良明は土佐を無断出国、現在の姫路に移り住み、浪人生活を送ります。兼山が生まれたのはこの頃(1615)です。

浪人生活が祟ったのでしょうか、兼山4歳のときに父・良明が亡くなります。以降、母に連れられ「上方を流寓し」とありますので、この時期の母子は相当な苦労があったように思います。

 

転機

兼山13歳の頃、父のいとこであり土佐藩家老でもあった野中直継の養子になります。直継の娘・市の入り婿となったようですね。町史には「一陽来復であった」とあります。

無断出国した父のおかげで流浪の暮らしを母とともに送っていた兼山ですが、ここでやっと土佐に戻り、世に出る足がかりをつかみます。

 

土佐藩家老に

しばらくは養父・直継とともに出仕していたようです。(父子勤)

1636年、養父・直継が亡くなったことにより家老職を継ぎ、奉行職として勤務。「二代藩主山内忠義の信頼をえて藩政を委任された」とあります。殿さまによほどの信頼をされていたのでしょう。

この時から土佐藩政治がすなわち兼山政治となります。「在籍30年を超える長期間縦横にわたって個性的な施策を打ち出した」つまり兼山無双状態に入ります。

 

兼山がやったこと

これは非常に長くなりそうな部分なので、できるだけ端折った説明にしたいと思います。大ざっぱに言えば、兼山の施策は「後進性の克服」。具体的には‥

  1. 南学(朱子学)の導入
  2. 堰・用水路の建設
  3. 港湾の修築

もちろん上記の3つでおさまるものではないのですが、一旦は理解を進めるためにここまで極端に省略したいと思います。

この3つの柱は、後世にも多大な影響を残すほど目覚しい成果を生み出したわけですが、光が強ければその分影も強くなるようで、兼山政治の「負の影響」も同時に伝えられています。

特に堰や港湾の土木事業に関しては、そこに労働力として駆り出された民たちの扱いは苛烈なものであったようです。

新田を開拓し、せっかく定住したかに見えた農民は、その労働を怖れるがあまり逃亡した。いわゆる「走り者」がとても増えたという記述が土佐町史に見られます。

その苛烈な領民の扱いが、のちに兼山失脚の表向きの理由になっていくのです。

 

兼山辞任劇

 

そんな絶対的な「兼山無双状態」は27年間つづきます。独裁的な権勢が27年もの間継続するというのは、現代の視点から見れば少しギョッとすることではありますが、それだけ兼山が二代藩主山内忠義に信頼されていたということと、実際に目に見える成果も多く出していたということでしょう。

しかし1663年7月、三代藩主山内忠豊が土佐に帰国。ここから一気に旗色が変わります。

おそらく27年間、反兼山派のなかで燻ってきていた不満という火薬が着火してしまったのでしょう。「領民を過度に疲弊させた」という理由で、わずか10日ほどで兼山は辞職に追い込まれたのです。

明らかなクーデターでした。兼山は何の抵抗も示さずこれを受け入れ辞職、同じ年の12月15日に急逝します。

 

兼山死後の家族

 

兼山死後も、反兼山派の粛清の嵐は止みません。1664年3月、野中家は改易。改易というのは「所領、家禄、屋敷の没収および士分の剥奪」を意味しました。

遺された家族は現在の宿毛市に幽閉となり、男女ともに婚姻を禁じられ、子孫を作ることができずお家断絶となります。

ここまでやるかと、現代の視点から見れば非常に苛烈で冷酷な仕打ちに思えますが、町史では「冷酷無情は権力の属性といえる」と喝破しています。

 

婉という女

少し余談になります。土佐町のお隣、本山町に生まれた大原富枝という作家さんは地元ではよく知られた存在です。

この大原富枝さんの1960年発表の作品で「婉という女」というタイトルの名作があります。

この物語の主役が、野中兼山の娘であった野中婉(のなか・えん)という女性。

先述した、兼山が失脚し病死した1663年は婉は4才の子どもでした。それから野中家の長い幽閉生活が始まります。幽閉の目的は「子孫を断絶させるため」、つまり男子が死に絶えるまでが期限でした。

1703年、野中家最後の男子であった四男が自死したため、婉は44歳にして初めて幽閉を解かれます。

長い幽閉生活のあいだに、谷泰山という支援者から文通によって儒学や詩歌、医学の指導を受けていました。

釈放後は土佐郡朝倉に住み、医師として開業、日本初の女医であったと伝えられています。診断法は独特なものであったようで、糸を用いて橈骨動脈を診断するという話が残っています。当時の患者たちはこれを「おえんさんの糸脈」と呼び、名医として多大な敬意を持って接していたということです。

これで野中兼山の人生の大まかなストーリーはおしまいです。次回は、野中兼山が残した現在の土佐町にも続く影響について書きたいと思います。

 

※この記事は「土佐町史」の「野中兼山と土佐町」という一章を元に書かれていますが、文責はとさちょうものがたり編集部にあります。

 

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シバテン(高須・地蔵寺)その3

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(「シバテン その2」はこちら

 空腹にヒダル食いつく

空腹で山道を通ると「ヒダルが食いつくぜよ」と、言われる。

このヒダルもシバテンと同格ばあ、恐かった。腹を透かして山道を歩きよると、輪差にした葛が、山の中の枝からぶら下がってきて、「ちょっこりこれに、首を突っこんでみや」と言うたそうな。

突っこんだら最後、ギューギュー締め上げられておしまいぜよ、と言うのだった。

 

エンコウ、子どもの尻を抜く

正木の宮の渕にゃ、エンコウらがおってのう。そりゃ、頭のテンコス(てっぺん)に皿をのせちょる。

それに水がたまっちょるそうな。皿が傾いて、水がまけるとまったいが、水がたまっちょるエンコウはめっぽう強うて、川で泳ぎよる子どもの尻を抜くげな。

手と足の指には水かきがあって、泳ぎもうまい。キュウリが大の好物じゃけん、瓜を食べたら川へ遊びに行かれんぜよ、とも話してくれた。

 

 

私はシバテンもヒダルもエンコウも同一のものか、あるいは従兄弟同士の間柄ぐらいのもんじゃと、ずーっとこの事が長い間、頭に染み込んで、強がっていた者であることは真実である。

「シバテンの棲んでいたあたりにビルが建ち」

こんな川柳がテレビに出た事がある。

昔のシバテン街道の赤羅木峠には、今、県民の森、国民宿舎が建っていて、伊藤さんという方が、ひとりで番をしているそうだが、「シバテンは出んかね」いつか機会があってその方に会えたら、一ぺん聞いてみようと思っている。

式地俊穂

  土佐民話の会編「土佐民話(特集しばてん噺)」より

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シバテン(高須・地蔵寺)その2

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お婆さんは話を続けた。

『村には誰やら言うて、宮相撲の甲をとり、うまい、力の強い男がおった。

家の牛屋の口へ置いちゃある青石の盤持石は三十五貫(一貫は約3.7㎏)あるが、ひいといの事、あの石を、さし下駄はいて、肩口で二へんばあ、ゆすっちょいて、スッと肩へ持っていったばあの大力持ちじゃった。

 

シバテン、相撲を挑む

その男がある日、高知からお客に使うブエン(生魚)を買うて、ザルに担うて、戻りかかったげな。官山を廻ったくで、向こうの方から、こんまい子どもみたいな男が、ひょこひょこやって来た。小男は「オンちゃん、相撲とろう」と言うたげな。

「なにをいや、こびんす、相撲になるかや」と、一ぺんは断ったが、
「ほんなら、まあ来てみよ」と、胸をはった。

「そればあ言や、ちったあやるかや」と、魚カゴをそこへおろして、
「一番こい」と身がまえた。

相手は細うて、妙に生臭うて、のらくらしたような小男で、力もない奴じゃったけん、一ぺんにぶちつけたと。

ほいたらどうぜよ、小男は「オンちゃん、相撲とろう」と言うて、やちものう(限りがない)かかって来るちゅうが…。
こうやって、夜っぴと二人で相撲をとりゆう内に、夜が白々と明けたと。

力士もその頃になると、だれたけに「もうおこうぜや」と言うて、ザルを担うて帰りがけに、ひょいと魚のことに気がついて、フタを開けてみると、こりゃどうぜよ。魚はザルの前、後とも、全部、柴に化けちゅうと。今まで目の前におった小男が、スーッと消えて、周りには誰っちゃおらざったと。

男は「こりゃ、シバテンにやられた」と気付いて、フラフラになって家へ帰って来た。

「おら、ゆんべ、赤羅木でシバテンに会うたぜや。やりすえられた。朝まで相撲とらされたぞ。おまけに、ザルの魚が、みんな柴に化けてしもうたぜや。お客どころかそこすんだりよ。たかあやりすえられたぜや。おら、相撲がとれるき、けんど、おんしらあは、めったにあこ(あそこ)を通られんぞ」

向こうずねをこすりもって、こう話したと。

その話を聞いてから私は、そのシバテンに一目置くようになった。

「一番や二番は勝てても、朝までねばられちゃ、こりゃかなわん」

それからと言うものは、夕方、山道を通ることは止めにした。』

 

シバテンその3に続く)

 

 

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シバテン(高須・地蔵寺)その1

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昔から土佐町と土佐山村境になる赤羅木峠やその峰続きの山々には、シバテンとヒダルが、相川、地蔵寺川の渕には、エンコウが棲んでいた。

シバテンは、天狗の子どもみたいな生き物で相撲好き。
ヒダルは、山道の傍に隠れちょって、上から垂れ下がった葛の輪ざしに、「これにちょっこり首を突っ込んでみたや」と言うて、目の前にぶらさげる。げに心地の悪い隠者(世の中と縁を切って暮らす人)である。ヒダルの姿を見た者は、まだおらんようじゃが、シバテンは高知の往復、赤羅木峠、樫山峠かその並びの天道の山一帯に棲んでおって、天狗はだいたい工石の山が本拠だったらしい。

シバテンは、通りがかりの旅人に、「オンチャン、相撲をとろう」と、難題を吹きかける。まっこと手に負えん、こびんす(小さい子ども)じゃ。

私のお婆さんは、縁側でこの話を始めた。

 

シバテン、現る!

『相川から山を二つ越えた向こうが、高知のお街じゃ。村の若い衆が高知へ行って、朝から色々の買い物をし、用事をすまして、廿代の宿を出て、愛宕八丁を通り抜け、椎名坂を上り、高川から城を通ってこの峠にさしかかる頃には、六里(一里は約四キロメートル)の山道はとっぷりと暮れて、真っ暗な夜道になるのが常じゃ。

この辺一帯は官山(国有林)でのう、昼でも暗いぜよ。シーンと静まり返っちょって、妙な鳥が啼きよった。

「銘酒か焼酎か、酒、酒、酒…」

きいたこともない啼き声ぜよ。

一日のこと、下のベンスぢんま(おじいさん)がそこを通りかかったところ、あの山から、

「ベンス、ベンス、ベンス、ベンス…」

と呼びすてに、わしを嘲るように啼いたと言うて、こないだもベンスぢんまが、たいてえ機嫌が悪かったぜよ。

夜道は鼻をつままれても判らんばあの暗い道が、一里近う続いちょる。ここなくを通り抜けるにゃ、たいていのもんが往生したが、こういう風に手を伸ばいて、山手の岸をさすりもって歩かにゃ、谷へぶち転がる心配がある恐いくよ。

おまけに足元から、「ガサガサガサ」何やら走り抜ける音もする。木の枝から枝へ、天狗かモマ(ムササビ)か知らんが、「バサ、バサ、バサ」と飛ぶ音がして、めっそう心地のええ山越しじゃない。まっこと、何ぞ出てこにゃ嘘と思われるんばあ、啼くよ』

 

 

 

シバテン その2 に続く)

 

 

 

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樽の滝の話(田井)

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吉野川に地蔵寺川と汗見川が合流して程なく、南岸側に東西に走った国道をつっきるように、鳥井谷が流れ込んでいる。

この谷は田井山に源を発して、鳥井集落八戸をうるおしていて、水は冷たく、美しく澄んでいる。

樽の滝は、この谷の中程、国道から約二百メートル位登ったところに、雌雄二双となって流れ落ちていた。雄の滝の滝つぼから雌滝まで約二十丈程で、水の豊かめな時期には水しぶきが飛散し、水音が四方の山にこだまして勇壮であった。

当時、この雌滝の水口(水の取り入れ口)に、直径一メートル、深さ七メートルと思われる穴渕があって、誰言うとなく、そこに蛇が棲んでいることが信じられ、そのために部落が富んでいた。

田井上野部落古城に、権根(ごんね)という気の強い男がいて、こうした話を信じなかったものか、または、蛇に挑戦して自分の力を人々に示そうと考えたものか、その穴を鎚で打ち割り始めたのである。驚いたのは蛇である。滝つぼに覆いかぶさるように生い繁っていた、トガの大木の穴にはいこんでしまった。

権根は、尚も蛇を追求して許さなかった。ついに、トガの大木に火をはなった。炎々と燃え続ける火は、七日七夜に及び、蛇の死霊は谷川の水に泡となって流れ去った。それからというものは、不作が続きに続いた。部落の人々は、蛇のたたりであると考えたのであろう。霊をなぐさめるために小さな祠を建て、穴菩薩を安置して祭り、今も秋の実りの頃、その祭りは続いて行われている。

蛇を焼き殺した古城の権根は熱病にかかり、七日七夜「熱い熱い水をかけてくれ、水をかけてくれ」と絶叫しつつ死んだということである。

部落の人は、この谷を焼淡谷とその後呼ぶことにした。

今、鳥井谷をたずねる人はまれであるが、蛇の棲んでいた穴渕は、二メートル位残っている。

館報

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白姥ヶ岳の怪猫(伊勢川)

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むかしむかし、伊勢川に小平と言う人がおったそうな。

ある日、家から二里半(一里は約四キロメートル)はなれた白姥ヶ岳と言う山に、ぬた待(えものが来るのを待ちぶせする猟法)をしにいったと。朝から次の日の朝まで一夜を明かそうと、握飯、茶瓶などを持って、いつも行き慣れちゅう場所に打ち場を構え、猟をしよったそうな。やがて夕方になったんで晩飯の準備を始めたと。

その時、年の頃十五、六歳のかわいらしい少女が現れ「叔父さん、変わった所においでますねえ。」言うたそうな。ふと見ると、宮古野に住む姪のお六じゃった。小平は、これは曲者がお六に化けているにちがいないと思うた。

けんど、しぐさや声があまりにお六に似いちょるんで「おまんは、こんな夜中に一人で、ましてこのような人里はなれた山の中にどうしてきたぞ。」と問うた。するとお六は、いつもと変わらん笑顔で、「ここは白姥ヶ岳と言うて最も恐ろしい山の中、なんぼ生活のためじゃ言うても、罪もない動物を殺すんです。これからは殺生をやめて他の仕事をしてください。」と言うたと。

そしたら小平が「わしは、生まれてこの方の猟師ゆえに仕方がないが、ところでおまえは少女の身で、ましてこんな夜中に来るとは大胆なやつじゃ。今さら帰るわけにもいかんので、ここで仮寝をして朝早く帰れ。」と言うて、そこに横になったそうな。しかし小平は、油断せずに寝たふりをしちょった。

すると、丑の刻(午前二時)を過ぎる頃から、少女の姿がちょっとずつ変わり始めたと。目は大きく異様な光を放ち、口は広がり耳元まで裂け、身の丈も延びて七尺(一尺は約三十センチメートル)になったそうな。

小平は驚き「化物正体をあらわせ。」と言うて、刀を抜き、化物の脇の下を突き抜いた。すると化物は正体を現し、七尺余りの大猫になって、ものすごい悲鳴をあげて山奥に逃げていったそうな。

昔から白姥ヶ岳には化物が棲む言いよったが、その一つじゃったもんじゃねえ。

 

寺石正路編「土佐風俗と伝説」より(町史)

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