土佐町ストーリーズ

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伝次道(上野上)

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伝次道は、田井から高知市薊野に至る約36キロメートルの中ノ川越えと言われた旧往還(とおり道)の一部をなすものである。

中ノ川越えは、旧田井中学校裏手から山坂を登り、上野集落、大奈路(上野上)集落、伊勢川集落の上方の尾根を伝うようにして標高約1,000メートルの中ノ川越えの峠に出る。ここから南国市で中ノ川、大改野集落を経て薊野に至る。

大奈路の小笠原伝次と言う人が、田井より中ノ川までの道路整備に私費を投じてその監督に当たったので、伝次道の名で今に伝えられている。

弁当を片付ける暇もないほどに忙しく、あちこちに伝次の空弁当が転がっていたと言う話まである。

この道を三椏などの荷をつけた牛馬の通う姿が毎日のように見られたのは大正年間まであったが、戦後もまだ時々は旅急ぐ人の姿が見られていた。6~7時間かかり、日帰りは朝早く、帰り着くのは暮れ果ててからであった。遍路道は、伝次道の一部を通っていた。

伝次はなかなかアイディアマンで、燻炭と言って大きな穴を掘り、松の枝や柴を並べて焼き、これを肥料にしていた。毛皮の売買に目をつけたのか早くから大がかりな兎の飼育もしていたし、お前ら大きくなった頃は人間が空を飛び出すぞと話してくれたし、今から思えば、新知識を吸収し、実行力のある人であったと言う。

小笠原富春(町史)

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大谷山の怪奇(大谷)

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土佐町の森に竹やんという人がいました。

竹やんは炭焼の名人と言われるほど、炭を焼くのが上手であったと。炭焼は窯に木を立てて火をつけると、四日も五日もしないと窯の火を消すことができないので、夜の夜中でも窯の火の番をすることが多かった。

竹やんはひとつも淋しゅうない人であったそうなが、ある夏の夜、大谷山の山の中で一人、窯の番をしていたのは風もなく静かな晩であったそうな。夜中頃になった頃、俄に山の上の方からザーザーというかすかな音…。草木も眠る丑三つ時(夜中の二時頃)、どんな小さい音も聞こえてくる、そのザーザーいう音は次第に近づいてくる。

さすがの竹やんも身に危険を感じ、あわてて炭窯の前にあった桜の木に登って様子を伺っていると、その音は次第に大きく近づいてくる。

ザー、しばらくして、ザー。

月の薄明かりにすかして見ると、なんとその音の物体は四〜五メートルもあろうか、道いっぱいになって動いている。

ザーザーいう音と共に次第に身にせまってくる。

さすがの竹やんも恐ろしくなって木の上にしがみついて、ブルブルふるえていたと。

いよいよその怪物は窯のすぐ前までせまってきた。これはいよいよ、この怪物に食われるのかと覚悟をきめた時でした。

炭窯の燃える火の明かりでチラっと見えたのは、なんと大谷山のふもとに住んでいる長さんというおんちゃんである。長さんは、この夜中に竹ぼうきを作るための竹を束にして、足が不自由なものだから、両手をついて一歩進み、一歩進めば竹の束をザーッと引寄せ、引寄せては一歩進むその音であった。

竹やんも怪物の正体がわかり、やれやれと思って木の上からひととびに飛び降りたと。すると、今度はビックリしたのは長さんである。急に大きなものが木の上から落ちてきたので、足の不自由なおんちゃんが二間(四メートル)も一気に飛んでいたと。

竹やんは生まれて今まで、こんな恐ろしい目にあったことはなかったと。

 
 

*この昔話を教えてくれたのは志和保三郎さんです。

志和保三郎(上ノ土居)

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盤持ち(高須・笹ヶ谷)

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相撲と楽しんだ若者は、同じように盤持ちが好きだった。

祭りの日とかその他の休日には、必ずと言ってよいほど神社の境内に集まり、盤持ちに汗を流し、お互いの力を競い合った。これが当時の若者達のこよいない楽しみでもあり、かつ暗黙の伝統的掟でもあったわけである。

盤持ちとは、大石を抱き上げて肩に担ぐことであるが、この大石すなわち盤持ち石(力石)が方々の神社や、お寺の境内などに置いてあるのを最近までよく見かけたものである。

相川・高須地区には四ヶ所あったが、正木の宮に二個(二十八貫と三十二貫)、荒神様に二個(二十八貫と三十二貫)、お地蔵様に一個(四十二貫)、岩戸様に一個(三十七貫)である。正木の宮や荒神様の二十八貫の力石を担ぐ者はいくらでもいたという。

だがそれでも三十二貫(120kg)となるとその数はぐっと減ったというし、さすがに四十二貫(158kg)ともなると、これを料理する力自慢の者はそれこそめったにいなかったらしい。高須の八重霞(池添大三郎)は、正木の宮の三十二貫の力石をいとも簡単に持ち上げたり、一間(1.8m)近くも前に投げ飛ばしたりしたが、それでも肩にあげるとなると、それこそ見ている方が気の毒になるほど苦労し、うんうん唸りながら担ぐという有り様だったという。

盤持ちの最大のこつは、力だけに頼らないことだという。じわっと腰を下ろし静かに両ひざの所へ持ち上げ、そこで胸をぐっと力石にくっつけ、それから石が肩へ歩いてゆくようにじわじわ持ち上げなければ、ぎりぎりの石は決して肩に乗るものでないと、昔を語る古老たちの一致した意見である。盤持ちは絶対に力だけでは駄目で、それなりのコツが必要だという。大三郎ほどの怪力でも盤持ちは苦手だったようである。

嶺北一の盤持ち男として不動の地位を占めているのは、何といっても日本嶽萬治(やまとだけまんじ)をおいてほかにない。これを証明するかのように、土佐町役場入口の右側に、萬治の力石が立派な台座の上に座っている。

力石には「森村笹ヶ谷、日本嶽萬治、明治三十五年担ぐ、南泉上分有志同下分有志」と彫り込まれ、台石には「日本嶽萬治の盤持石、笹ヶ谷二番邸和田貞右門長男萬治、明治三十五年二十三歳の時かつぐ、重量一八四. 五キログラム(約五十貫)」とある。

このことを当時の新聞(明治34年12月25日)は、「土佐郡嶺北森村の笹ヶ谷日本竹(22)といふは、去る13日、同村土居にあれる目方四十五六貫の大石を何の苦もなく担ぎあげ、見るもの皆舌を巻きたりという」と言っている。

この力石は、以前は南泉の古野の道ばたに置かれていたが、土佐町役場に持ち込み、永久保存の措置をとったものである。

町史

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弁才天(高須)その3

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むかしむかし小栗殿いう豪士が樫山に来ておった。その娘が夜になると引地と言う所で、麻を積んで(つむぐ)来る言うて出かけて行きよったと。

ある日のこと、その引地と言う所の人に道でばったり出合うて、娘が毎晩お世話になりよります言うてあいさつしたところが、そんなこたぁちっとも知らん、家へは来ゃーせん言うたそうな。がでん(納得)がいかんもんじゃきに、オゴケ(糸を入れる物)の底板を抜いて糸を入れておいたと。娘はそれを知らんとオゴケをかかえてその晩もまた出かけたと。

そこで、引っぱっていっちょる糸をずうーとつけて行ったら、弁才天の所に出た。弁才天の田のふちに細長い水溜りがあったですがのう。それが池みたいになっていてガマがきれいに生えちょった。娘はそこに座って麻を織りよった。おっかあが行って、「オマンそんなくで麻を積みよるかよ。」言うたら、池の中にとび込んだ言うのう。それから蛇になってしもうたと。

おっかあはびっくりしてもどって来よって、じきに引地の上の畝で血がおりた(死んだ)と言うのう。そんでそこをチオレと言うようになったそうな。その上には山ノ神を祭っちょる。

町史

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仏ヶ森とボウドウ寺床(芥川)

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芥川から吾北村川窪に越える峠である。三宝荒神の最初の鎮座地(神の霊がその地にしずまること)である。

この地方の豪族が、この峠にあった河内神社に集まって会談しようとしたが、定刻を過ぎてもなかなか集まらない。立腹した土佐町側の豪族が、河内神社の御神体を奪い分けて帰ってしまった。だから土佐町側には河内神社が多いと伝えるところである。

三宝山由来記によると、土佐市宇佐浦の海中に光を発するものがあって、貞友という強力の武士が弓矢を構えると、それは龍神となって玉を舞い上げ、玉は仏ヶ森まで飛行して来たと言う。

仏ヶ森に至る道筋近く、仏ヶ森から約1500メートル芥川寄りにボウドウ谷があり、そこに寺床と称する所がある。谷川に沿うて石垣を設けて平坦地として、山手には石像を据えていたような形跡がある。仏ヶ森に飛来した玉体を追うてやって来た貞友なる武士が弓矢を構えると、それはたちまちに大神の姿となり、我を射れば返し矢でお前を殺そうと告げる。

それを聞いた貞友は大神に矢を放ったことを侘びて出家し貞友法師と名乗り、大神を祭るべく寺一宇を建立、これを宝峠寺と称したという。

その後、寺は消失し本尊などは吾北村清水の寺堂に移されたと言われている。一説にその寺堂は十王寺であると言われるが定かなことは分からない。

町史

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弁才天(高須)その2

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むかしむかしあったげな。

樫山の小栗さまと言うてのう。そばじり谷から水を引いて、田を掘ったり、むらづくりに、しっかりやって下さったえらいお方じゃったげな。

この小栗さまにお姫さまがありなされた。ある時わらびを取りに山に登らしゃったが、その晩から熱を出して寝込んでしまわれた。

夜中になると、笑ったりこそばがったり、うれしがったり、ボソボソ独り言を言うようになった。どういうものかと、かもんさま(お父さん)もおなんさま(お母さん)もえろう心配、年ごろの娘が夜中に、寝床で独り笑いしだいた言うて人にも話せん。よわっておいでたら、ちょうど、大峰山で修行されて高知へ帰る真如寺のお坊さんがお泊まりなされた。ご相談なさると、お坊さんが祈っておいでて、さて、寝床をのぞくと、誰の目にも見えざったのに、赤い錦のふとんの上に、金色の小んまい蛇が、トグロまいて、お姫さんの顔の方へ、ペロペロ、ペロペロ舌を出していると。お姫さんはそれと話でもしよるかのように、うれしがっていたそうな。

坊さんは、この札を貼っちょきなされと、おまじないの札をくれなさったそうな。そこで次の日、それを日のあるうちに門に貼っちょいた。

それからお姫さんの夜中の独り物語はぴったりやまったが、その次の晩から、夜半に、お姫さんが出かけるようになった。後をつけても、じきに、スーッと消えてしまうようで、さっぱり見定めがつかん。朝は着物のスソがべったりぬれちょったとぉ。

そこでおなんさんが、こっそり、着て行かっしゃるお姫さんの着物のタモトの底に、ハタおりのカセ糸をしっかりぬいつけておいたと。

夜半にそっとぬけ出すお姫さまに、おなんさまがカセ糸玉のおゴケ(糸を入れる物)を持ってついて行かしゃった。

ところが一うね超えて、引地の弁才天さまの池の方へぬけちょったげな。

やんがて大きなとちの木にかこまれた黒い穴のように見える池の端が、ボーっと明るく、そこにお姫さまがしゃがんでのう、じいっと池を見つめて、話しておられるそうな。

おんなさまが「姫おまんは、」と言うと、なんとお姫さまが、すっと立てって、両手を合わせて、おなんさまの方をおがむと、池にひょいっと入り、水の上をすうっと、とっとの奥の方へ、ボーッとうす明かり持って消えてしもうた。

さあ、おなんさまはびっくりおくれなされてすぐひっかえして、ゼエゼエ山を登って帰られたそうなが途中、山の神の森の所で目がまわって、とうとう亡くなられたそうな。

昔、血おり場というたが、けがれを忌む(きらう)と言うことで、このはえを「しおればえ」と言い、池は「住吉池」という。

小栗さまの家のあった所が「かもんの屋敷」谷から用水を取ったのを「小栗ゆ」と今に名前が残っているんじゃと。

むかしまっこうたきまったこう、サルのつべきんがり

和田久勝(町史)

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弁才天(高須)その1

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樫山集落の中腹より少々上の方に細長い池があり、それに面して住吉神社があるが、弁才天さんの名で親しまれている。

この池は清掃するまでは沼地のようになっていて、小さな丸池が二ヶ所ほどあった。願ほどきに鯉を入れたりすることもあったが、お釜さまといって不浄なものを投げ入れることを嫌っていた。

明治の初めのことであったと言う。そのお釜さんに稲を干すサデを突っ込んだことがあった。一本で届かないので継ぎ足して突っ込んだところ、お釜さんから矢のように赤い水が噴き出たという。

家に帰ってみると、子が腹が痛いと言ってきりきり舞いでうめいていた。太夫さんに見てもらったところが、お釜の蛇の目を突き刺してその罰が当たったのだとのことであったと言う。

また池に生えているガマを刈って筵にした家は焼けてしまったとも言い伝えている。

もともと広い池で龍神が棲んでいたと伝えられ、それを岡田という人が田にしてしまったと言う。

ところがその田に早乙女(田植えをする女)が入ると、足や泥に濡れた着物に鱗がくっつき、そんなことで早乙女さんも田の中に入るのを嫌うようになって、荒れたままになってしまった。

そして二つのお釜さんが残っていた。それを浚えて、ずっと昔のように大きな池にしたようです。

町史

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岩獄山の新助木(瀬戸)

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七里回りの一ノ谷のうちに岩獄山と言う山があって、そこに三十三尋(約五十メートル)の当山随一の大桧があった。

はるか昔のことである。新助と呼ぶ杣人(きこり)がこの大木に斧を入れることになった。半分ほど伐り口をあけて、その日は暮れてしまった。翌朝、山に登ってみると、伐り口はもとの通りになっていた。新助は不思議に思いながらも、その日も斧を振って日が暮れた。その夜、新助が暗闇の中からのぞいていると沢山の小人が現れて、新助の伐ったコッパ(木片)を取り集めては継ぎ合わせ始めた。驚く胸を押さえながらも、じっと見ていると一人の小人がつぶやいた。

「このコッパを焼いては伐り、伐っては焼きして、三十三日間続けられたら、さすがこの大木も何ともならぬわい」

これを聞いた新助は、その翌日から伐っては焼きして三十三日間で、やっと伐り倒すことができたという。

瀬戸と南川地区の境界あたりに岩獄山と呼ぶ山があるが、この山と伝説の山と同一であるかは定かではない。

町史

 

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長者の家

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むかしむかし、床鍋の保ノ谷のある家に、一晩泊めてほしい言うて女の人が来たそうな。

家の主は、それはしよいことじゃが、食べてもらう物もないが言うたと。

女は、何もいらん、泊めてもらうだけでええ、ただ私の寝た後で楮桶(楮を蒸す桶)をかぶせてほしい言うたと。

主人は言われた通りにしてあげたそうな。

夜が明けて桶をとんとんと叩くと、内からも叩くのであけてやったら、やっぱり人の姿でねよったと。

お世話になった言うて、帰りぎわに、お家はとても裕福なお家になりますよ、言うて出て行ったと。

その家はそれからますます栄えて長者になったそうなが。

桶の中には蛇の鱗が光っていたと。

町史

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竈ヶ森と粟神楽(峰石原)

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現在の芥川が十郎丸と呼ばれていた養老年間のこと、兄九郎丸は黒丸に住み、弟十郎丸は十郎丸(芥川)に住んでいた。

ある年のこと、不作で食べる物もなくなったことがあった。十郎丸の子(一説には九郎丸の子)粟丸が三宝山に行きお願いしたところ、どこからともなく老人が現れ「粟を汲み切り、一升まけ。そうすれば秋には、三石三斗三升の収穫があるであろう。そのお礼に粟の神楽をしなさい。粟神楽とは、清浄な所に竃を作り、三升炊きの羽釜に三升三合三勺の粟を十二回洗ってコシキに入れて蒸し、湯の沸き上がる時に神々を招けば、神々が喜んで召し上がる。もし粟神楽をしない時は、命はないと思え」と告げて、姿を消してしまったという。

そして、秋の取り入れをむかえ、その年は豊作だった。それで約束通り、粟神楽を行った。その竃を作った所が、竈ヶ森(へっついがもり)である。

 

また、竈ヶ森には次のような話もある。

清水村(現在の吾北村清水)に名剣を持った浪人が、度々山へ行って殺生をしていた。

ある日のこと、二羽の山鳥が激しく浪人に襲いかかってきた。浪人は名剣で斬りかかるが、山鳥は刀先をかわし、尚も襲いかかる。半時ぐらい争ったであろうか、やっとのことで一羽の山鳥の片羽に切り込んだ。そして、その山鳥は竈ヶ森で傷ついた羽を休めていた。そのことを知った浪人は、その山鳥を追って山に入り、行方不明になったという。大神は、もう一羽の山鳥に乗って、竈ヶ森に着いたという。

傷ついた山鳥は、水を欲しくて飛ぼうとするが羽ばたけず、周りが六尋の杉の大木に喰いついた。すると、その杉の根元から泉が湧き出て、山鳥はその水を飲んで傷を直したという。

この泉からできる湿田には、夏になると蚊にくわれないために、泥まみれになりに猪が来る。

ある時、そこに現れた猪を殺生人が待ち構えて撃った。泉は血で真っ赤に染まった。大神は怒り、たちまち暗闇になったかと思うと大雨となり、稲妻の光に恐れをなした殺生人は、家に着くと間もなく息絶えてしまったという。

町史

 

筒井賀恒 (東石原)

 

*賀恒さんのことを書いた記事はこちらです。

高峯神社の守り人 その1

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