土佐町ストーリーズ

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天狗 (下瀬戸)

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下瀬戸の北の方にコケの土と言う畝続きの薮がある。

そこへ木樵りの親子が木を伐りに行ったと。

昼飯を食べるにお茶を沸かしよったら、子どもが「鉄びんがころぶ」と言うと、親が「鉄びんが上にころぶのは不思議じゃが、下へころぶのは当たり前じゃ、上へころぶと言えばこそ」と言うと、その鉄びんが上にころび上がったと。

そして火をたいた後に、菜葉(なっぱ)がぐっと生えたと。

また、竹が奈路と言う所に一軒家があった。そこへ毎晩「餅くれえ、餅くれえ」言うて来るもんがおった。

餅を毎晩やるのはたまらんから、ある日餅のように丸い石を拾って来て、それを焼いて餅の代わりにやると、焼けたのを食べたもんじゃき、

「こりゃたまらん、水をくれ」と言ったと。それで水の代わりに油をやったと。そうしたら化けの皮がはげて一つ目になって「餅くれとはいつまでも言うが、俺は餅くろうて焼けて死ぬ。」

と大きな声で叫んだと。

すると、ねづきやぶ、えんづがうな、東角屋と言う三つの山で「ほうい」と返事をしたと。

その三ヶ所には天狗がいると言うことになって、その山を作ると祟ると言うて誰も山を作らんようになったと。

 

町史(「土佐町の民話」より)

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近世の土佐町 〜兵農分離と一揆〜

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山内氏入国と兵農分離

 

近世、徳川家康が江戸に幕府を開いたころの土佐町地域の話です。

1600年、徳川家康が天下をとった「関ヶ原の戦い」で、戦いに参加せず敗走した長宗我部盛親は、その後家康の怒りを買い、土佐国を没収されてしまいます。

それにより、それまで四国を支配していた長宗我部氏は滅亡。

土佐新国主に任命されたのは、山内一豊でした。
尾張の豪族出身で、戦国時代に活躍して大出世を果たした一豊ですが、土佐では山内氏入国に対して大反対にあいます。

長宗我部氏の統治下で半農半兵として生活していた「一領具足」たちが、山内氏により「兵農分離」が進められることについて激しく抵抗したのです。

長宗我部氏の遺臣たちが浦戸城下に馳せ集まって、浦戸一揆が勃発。
50日間の奮闘もむなしく彼らは敗北し、293人の犠牲者を出す悲劇に終わりました。

その後土佐町地域でも、容赦なく兵農分離が進みます。
すべての土地は武士のもの。一領具足は所領を没収されて農民となる。
もちろん農民となれば年貢を納めなければなりません。

本山郷でも、その年貢を出し渋って反抗した高石馬之助兄弟による滝山一揆が起こりましたが、やはり山内氏によって土佐国から追放されてしまいます。

当時、森郷領主であった森氏は名家の誇りを捨て、瀬戸村で農民となる道を選んでいます。
森氏没落ののち、西の土居は山内氏の直領(蔵入地)となり、近隣の手作地であった土地は山内氏の家臣・安田氏に知行地として与えられました。

土佐町地域では、平野部と比べて兵農分離が12年遅れたこと、また蔵入地が少なかったのは(知行地に対し約1/4)、嶺北から城下に米を輸送するのが楽でなかったことや、「まず城下に近い平野部を掌握して権力の安定を図ろう」と考えた山内氏の思惑を知れば納得、ですね。

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つながるということ

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私の祖父は、33年ほど前に亡くなりました。

当時は葬祭会館などなく、川田葬儀社さんという葬儀社が道具などを手配してくれて、自宅でお通夜、葬儀を行っていました。

小さかった私の記憶に強烈に残っているのは、祖父の唇を湿った脱脂綿で濡らしてあげたこと。

お墓に大きな穴が開いていたこと。

その穴の中に祖父の入った棺が入っていったこと。

その時に誰かが「これが最後やきね、よく見ちょきよ」と私の肩を抱きながら言ったこと。

祖母が泣いていたこと。

 

昔は土葬が主流で、近所の人達が集まってお墓を掘っていてくれていたのです。

車が入れないような山の中のお墓です。

棺もそこまでみんなが協力して運んでくれたのでしょう。

 

葬儀のあとは、親戚や近所の人達が残って一緒に食事をとってくれ、呑みながら故人の話をするのです。

その時も、近所の方々が料理を作ったりお酒の用意をしてくださったりと、お世話になったのではないでしょうか。

お通夜の時も近所の方々が集まって、翌日の葬儀の段取りの相談などをしてくれていたのだと思います。

 

今では土佐町でも火葬が主流になっていて、土葬の申請はここ数年ほどで1件あるかないかだと聞きました。

我が家も納骨堂を建て、お墓は引き払いました。

葬祭会館ができ、お通夜、葬儀を自宅でしなくてよくなりました。

どうすればいいかは、業者さんが全部教えてくれます。

 

もう土を掘る労力も、棺を運ぶ労力も、自宅でお通夜・葬儀をするために準備をする労力も必要ありません。

 

それでも、そんな時代もよかったな、とふと思うことがあるのです。

そうやって、地域のつながりができていたのだな、と。

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早明浦の孫七(早明浦)

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早明浦に孫七と言う、ひょうげな(おもしろい)男が居って人を笑わせたのは明治の中頃じゃったそうなが、こんな話が残っちょる。

ある時のことよ、わしが鉄砲を持ってツグミを撃ちに行た。

ぼっちり滝(断崖)から出た小枝にツグミが居ったきに、そいつを狙うて撃った。
たまるか、弾丸がそれて滝の角岩に当たって、ガラガラ、ガラガラ、滝が崩れて、下の淵へ雨と散ったわよ。

その淵に鴨が十羽居って、それが落ちて来た石に当たって、十羽とも死んでしもうた。
たかあ調子のええ時はええもんで、崩れた滝を見てみるに何やら白いもんが見える。
上がってみるに、崩れた滝から出てきた山芋じゃった。

引き抜いて集めたら、なんと十貫(一貫は三、七五キログラム)あった。ツグミに弾は当たらざったが、その一発の弾丸で十羽の鴨と山芋を十貫取ったきに、わしも損したようには思わざった。

高知県まちづくり研究会発行
「高知五十三次ひざくりげ」より

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弘法石(東石原)

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土佐山村中切から東石原に越す峠に弘法石というところがありますが …

昔、弘法大師が南の土佐山村の方から北の方へ上がって来られ、山のいただきの休石に腰をかけて北方を一望なさると、それは美しい静かな内海で、あちらこちらに緑の島がいくつとなく浮かんでいる景色でございました。

大師は思いがけないところで海景色をご覧になったので心からよろこばれ、これから先がずっと海つづきなれば麓にまで下って行ってもしかたがない、とあきらめて、やがてもと来た方へ下って行かれました。

けれども、大師が内海とご覧になったのは朝霧で、その霧の下には西部嶺北地方の谷間の村々が静かな朝の支度にいそしんでいたのでございます。

昔からこの地方は春から夏にかけて霧のたちこめることで有名で「森(土佐町土居)の朝霧」の名もあるほどですから、他国の旅行者が朝早くこの山路に来て瀬戸内海と見あやまることがあると言うことでございます。

弘法大師もこの伝説の中では、やっぱりその一人であったわけです。

そこで、師が休まれてこの村々をご覧になったところを今に弘法石と言うようになったと言うのでございます。

 

桂井和雄「土佐の伝説」第二巻より(町史)

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樫山の天狗(高須)

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むかしむかし、樫山の竹馬さん言う人が年の暮れの二十七日に、馬を引いてもどって来よったと。
じきに家の上までもどった時、何やらわからんもんが、竹馬さんどこやら行こうじゃないか言うたそうな。

竹馬さんは忙しい時に行きけにならん言うたけんど、目をつぶれ言うもんじゃき目をつぶったと。
そんならすうーと足が浮いて、目をあけてみたら瀬戸川の奥の一の谷の空じゃったと言う話じゃ。

馬は先にもどって来たのに竹馬さんがもどらん言うことで大騒ぎになって、
太夫さんを七人か八人雇うて七日七晩の祈祷(おいのり)をして、やっと松の木の枝に下ろしてもろうたそうな。

一の谷は樫山から見える高い山で石鎚山に続いております。そんで暮れにはナマグサ(魚類)を弁当に入れとらにゃいかん、
ナマグサを弁当に入れて山や畑に行かにゃならん言うていました。天狗が人をさらう言うてよく言うてました。

町史

 

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高峯神社の手洗石 後編

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また古老によるとこの手洗石を運び始めたのは、明治10年のこと、地蔵寺の岡田勝次なる者で、神社まで6kmの坂道を運ぶ計画をたてた。

「石は大きな木のまた枝でつくった木馬にのせ、しばりつけて、おん綱めん綱をかけた。おん綱には赤ハチマキの男衆。めん綱には赤手拭い赤だすきの女衆が、声をそろえ力を合わせた。

石の上には高知から来た歌い手が乗り、赤手拭いでほうかむりし、手に紅白のざいを持ってこれをかつぎ、

高峯神社の石引きは、忠臣蔵のお芝居か、お石はおかるぢやヤレコケヤサアノウウン

など木遣節のはやしを合わせ数百人、人海戦術で山坂をずるずる引き上げたものだそうな。

引き手を引き子といい、若い元気な男女は遠くの者も聞き伝え、嶺北地方の各村、群の中部、南部、高知や遠く高岡郡南部、東は岸本あたりからも参加し、毎日数百名が奉仕したらしい。

当時は酒も土地酒をつくり、毎日40ℓから50ℓもあけることがあったというし、直径1メートルものひきなべ3杯の汁を炊き、大釜で20kgから、時によると30kgの飯を炊いたので、米が食えるという魅力で参加する者も増したという。

農閑期を利用し年中行事のようになり、明治15年、5年目、安吉部落の入り口、通称「境」というところで中止となった。

当時経済上の問題や宗教上の問題やで四国で讃岐の琴平と並び称され信仰の篤かった三宝山高峯神社の神仏合祀の大権現に紛争が生じたりして中止になったものと思われる。

爾来、歳月は流れて1928年、石が座ってから43年目、昭和の御大典記念事業にと昭和3年3月、時の地蔵寺村村長・西村繁太郎さんの肝入りで石引きが再開された。

当時の青年が中心になって奉仕したが、今度は知恵と工夫、機械器具の進歩がモノを言って人海戦術に頼らず、ぞうさなく引きつけた、とも言われている。

町史

 

高峯神社の倉庫には、その時に使用した綱が現在も保存されています。

 

以下も併せてお読みください

土佐町の大神様 髙峯神社 前編

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高峯神社の手洗石 前編

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ここなあたりをまだ森郷と言うたころ、高峯神社は讃岐の金毘羅さんと並んで四国ではえらい神様であちこちは沢山お詣りにきょった。

神社の下から段々になって平い(ならい)宅地があるが、あこには宿や料理店が並んでいたそうな。

そんな頃の話よね。

三宝山(=稲叢山)の八合目ぐらいの所に土俵の大きさ位の石で、中の窪んで四・五斗ばかりの水が入る石がある。

あれは手洗石よ。

石原から平石に行く途中の、有馬林道入口のあたりの川原にあったそうなが、それをあこまで担いあげたそうな。

沢山の信者が何十人何百人となく縁日には来よったから、その信者たちが毎年毎年少しずつ引き上げて、あんな高い所まで運び上げたというから偉いもんよ。

明治になって神仏混淆はいかん言うて、三宝山も信仰が薄らいで、引き上げる人も無うて、ああやって八合目で止まっているそうな。

それが昭和三年御大典記念として村がとりあげて現在のような位置格好になった。

 

高峯神社の手洗石

後編に続く!

以下も併せてお読みください!

土佐町の大神様 髙峯神社 前編

 

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山猫退治

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昔、土佐郡土佐町の山中に大きな山猫が居ったそうな。

山から出て来て人を化かしたり、家畜を取って喰うたりして、村人を困らせた。

何んとかして山猫を退治せにゃいかんと村人達は相談したが、山猫は仲々人目に見付からない。

そこで土佐町伊勢川の猟の名人次郎スと太郎スと云う仲の良い猟師二人に頼んで退治して貰うことにしたと。

次郎スと太郎スは毎晩毎晩山へ行き山猫の出て来るのを待ったが、いくら待っても待っても山猫は出て来ざったそうな。

とうとう節分の晩になったと。

次郎スと太郎スは今夜こそは退治しようと話合って山へ行って少し待っていたら、大木の倒れた上へ大きな山猫が二匹上がって、

今夜は節分、大年の夜ぢゃ。伊勢川次郎スも来まい、太郎スも来まいもん

と云うて踊り始めた所を二人はすかさず射止めて見事退治したそうな。

それで村人達も安心して暮せるように成ったと云う事じゃがのーし。

昔はそんな事もあっつろーかのーし。

 

山下忠文 「土佐の民話 156号 土佐民話の会」

今回の「山猫退治」は、土佐民話の会が月一回発行していた雑誌「土佐の民話」156号(昭和59年12月1日発行)より転載しています。発行人である市原鱗一郎氏に快く許諾をいただいたことで実現しました。現在の私たちが多くの民話に触れることができるのも、各地に伝わっている民話を収集し出版するという、このような先人の仕事に負うところが多いことと実感します。改めて感謝を伝えたく思います。

 

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地福寺のまないた坊主 (石原)

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地福寺は、東西両石原の境界の小高いところにあって、非常に清楚なところで、寺としては申し分のないところにあります。

この寺の初代住職に、古川という人がおりました。

この古川氏は、大変偉い坊さんだったそうです。古川氏は一人の弟子をつれていました。この弟子は、大変心の悪いやつで、主人を殺して金を取って逃げようという恐ろしい考えを起こし、常にすきをうかがってました。

そうとも知らず古川氏は、ある日用事があって、夜のうちに寺を出て東にむかって旅に出ました。その後をつけて来た弟子坊主が、筋川の前の橋の上で急に古川氏に向かって切りかかりました。

一大格闘が演ぜられましたが、何しろ一方は刃物を持っているからたまりません。弟子坊主は、この橋で切り殺し、川に投げこんで逃げるつもりをしていました。

古川氏も決死の抵抗をし、「助けてくれ」という救いを求めたところ、近所の人々に聞こえ、人が来て、ようやく助かりました。

すぐに医者を迎え、手当をしましたが、傷の全長が5尺(1尺=約30cm)にも及んだということですから、いかに格闘が激しかったかが想像できます。

幸い、あまり深傷でなかったのか、養生の結果、元の体になって、再び勤めができるようになったそうです。

これより、誰言うとなく、俎板坊主(まないたぼうず)というあだ名がついたと言うことです。

岩崎吉正(館報)

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