土佐町ストーリーズ

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行け!土佐町中吹奏楽部

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今年の春、長男が土佐町中学校へ入学しました。

 

ぶかぶかの学ランで、自分の体より大きな自転車で登校しく姿は可愛らしく、一時は反抗期を迎えて全然可愛くなくなったと思っていた息子の魅力再発見。

 

私が中学生だった頃は、部活の選択肢が色々ありました。

バスケ部、卓球部、テニス部、バレー部、剣道部、野球部、吹奏楽部、ESS(英会話クラブ)などなど・・・文芸部なんてのもあった気がします。

今は生徒数も減ってしまったので仕方ないのですが、選択肢が少なく、野球部、男子卓球部、女子バレー部、剣道部、吹奏楽部しかないのです。

 

今年は23人の新入生のうち13人が吹奏楽部に入部したとか。

 

長男も吹奏楽部に入部しました。

男の子の親としては、運動部に入ってもらいたいなーなんて期待もありましたが、運動神経の面では私の遺伝子が圧倒的勝利を果たしているので、儚い願いでした。

 

入部届提出の際、プリントに「本入部は5月からになります」と書いていたので、それまでは中学校生活にゆっくり慣れていくのかなぁ~、と思っていたところがどっこい、さっそく朝練があるー!と朝早くから自転車で通っています。

それでも友達と一緒に行けることが楽しいようです。

 

中学校生活、エンジョイしてほしいなぁ。

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春の台所

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さっと茹でて、きゅっとしぼって、まな板の上にのせる。
菜の花は春の色。色鉛筆の黄緑と緑を重ねたようなこの色は、台所に春を告げる。

この菜の花は、和田地区に住んでいる和田さんが畑から摘んで、新聞に包んで持たせてくれたもの。
湯気のむこうに和田さんの暮らす風景が見える。

「とんとんとん・・・」菜の花を刻む。醤油、ごま、鰹節で合える。

 

春の台所は色鮮やか。
菜の花、小松菜、春菊、人参、ブロッコリー。冬の間育てていた白菜から採れる菜の花は、やわらかくて最高に美味しい。

次は小松菜をさっと茹でて刻む。塩をまぶしてごまをも加えると、春のふりかけ。
これはごはんに混ぜておにぎりにしよう。

 

春の台所に立つ。

裏山からの水が流れる音がする。
ウグイスのさえずりが聞こえる。

「そろそろぜんまい取りにきや」。
近所の人が言ったその言葉だけで、もうそわそわしてしまう。

 

 

春の台所は忙しい。

ぜんまい、イタドリ、ワラビ、たけのこ、たらの芽…。
山菜たちが順番にずらりと並び、食べてもらうのを待っているかのようで、うれしさ半分「お願いやき、ちょっと待ってて!」と言いたくなる。

ぜんまいをゆで、イタドリの皮をはぎ、ワラビに灰をふりかけ、茹でた筍を水につける。たらの芽はそのまま天ぷらに。
とにかく毎日、何かしらの山菜たちと向き合う日々。

 

きっとこの地のお母さんたちもそうだったに違いない。
春の声を聞いて、そわそわしながら、ちょっと焦ったりもしながら、せっせと春の仕事をしてきたんだ。
お母さんたちは、台所でどんな風景を見てきたんだろう。

 

歴代のお母さんたちの気配を感じながら、今日のおかずの出来上がり。

 

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しいたけラッシュ

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「しいたけ、いるかよ?」
今年もこの季節がやって来た。

近所のおばあちゃんから袋いっぱいのしいたけをいただいた。

「しいたけを裏側にして干すと赤くなるき、上を向けて干すとえい」と教えてくれたので、早速茶色のかさの方を上にしてエビラに並べる。
遊びに来た小さな子が「パン、いっぱい!」と指差した。
確かに、こんがり焼けた丸いパンがたくさん並んでいるみたい。

しばらく良い天気が続く時は、天日干しの干し椎茸ができる。
天気があまりよくない時は、乾きやすいように薄くスライスして干したり、雨が続く時は冷凍しておく。

 

うちの裏山でもしいたけを作っていて、おばあちゃんがしいたけを持って来てくれた日に山へ行くと、あるわあるわ、駒打ちした原木からしいたけがいくつも、あっちにもこっちにも出ていた。

もう見事としか言いようがない。
どうしてしいたけたちは、今この時に一斉に大きくなるのか。

しいたけたちが、もしちょっと時期をずらしてくれたなら夏にも冬にも新鮮なしいたけが食べられるのになと思うけれど、しいたけの旬は春と秋。それは決めているらしい。

だから今、あっちの山でもこっちの山でも、しいたけラッシュ。

 

 

あっという間にカゴがいっぱいになった。
家にある全てのエビラと丸いざるを総動員してしいたけを干す。
一体いくつあるのかと試しに数えてみたら、なんと193個もあった。

しいたけを作っていないお友達にあげるととても喜んでくれる。
上手に干せたら遠くに住んでいるお友達に送りたい。

 

「しいたけ、いる?」
これはこの季節のご挨拶。

昨日はしいたけごはん、今日はひじきの煮物にしいたけを入れた。明日はバター醤油炒めにしようかな。

しばらくしいたけと向き合う日々が続く。

 

 

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松子さんの炭

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「松子さんの炭」が届いた。
30キロのお米が入る袋いっぱいにぎっしりと入っている。
「松子さんの炭はキンキン、キンキンと音が鳴る、とても良い炭やきね。そういう炭は長持ちして火力が強いんよ。」と、届けてくれたみちさんが教えてくれた。

 

2018年2月18日に行った「シルクスクリーン&くるくる市」のイベント。この日、手作りぜんざいを七輪で温めて出すことにした。七輪には炭が必要だが、家にあった分だけでは足りなかったので買うことにした。
もちろんお店で買うこともできたけれど「みちさんに聞いてみよう」と思いつく。

みちさん、こと岡林孝通さんは土佐町の黒丸地区で炭を焼いている。早速電話してみると「僕がつくってるのは竹炭やき、あっという間に燃えちゃうから広葉樹の炭の方がえいと思う。心あたりを聞いてみるから。」と言う。

次の日連絡があった。

「種田松子さんが炭を分けてくれるって。松子さんのご主人が10年前に焼いた炭を大事に取っておいたのがあるから、それを使って、って。」

 

種田松子さん。土佐町役場から車で約50分の山の中、16世帯28人の黒丸地区に住んでいる。

炭を焼いた松子さんのご主人は、8年前に亡くなったのだという。
大切な炭なんやないかな…と言うとみちさんは言った。
「『鳥山さんが炭を分けてほしいって言ってる』と伝えたら、松子さんは『あ、鳥山さんねえ』ってちゃんとわかってた。」

 

少し話をさかのぼる。

2017年7月に黒丸地区で行ったパクチーフェス
その時にたくさんのゼンマイを提供してくれたのが松子さんだった。乾燥させた太くて立派なゼンマイが大きな袋いっぱいに入っていた。その量を作り上げるのにどんなに手間暇かかるか、土佐町で暮らしているとそれはわかる。
せめてものお礼にとパクチーハウス東京の佐谷さんと一緒に家に行き、フェスで作った料理の数々を詰めたお弁当を届けたのだった。
松子さんはその時のことを覚えてくれていた。

 

その7ヶ月後に松子さんから炭を分けてもらうなんてことは、想像もしていなかった。

今までしてきたことがどこかでゆるやかに結ばれて、新たな出来事となって目の前に現れる。

あの時と今は、実はつながっていたのだといつもあとから気づく。

 

 

松子さんはシルクスクリーンのイベントに来てくれたので直接お礼を伝えることができた。「使ってくれてうれしい」という言葉がありがたかった。

 

松子さんの炭でちょうどよく温まったぜんざいをみんなが美味しそうに食べていた。

松子さんのご主人は、自分の焼いた炭が10年後、こんな風に使われることを想像していただろうか?

 

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春はここにいる

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どっどっどっどっどっど、どっどっどっどっどっど…

「この音、久しぶりに聞いたなあ」と思って振り向くと、向こうの道をトラクターが走っている。

 

ああ、またこの季節がやって来た。

 

2月4日の立春を過ぎた頃から動き出す。

耕運機を載せた軽トラックが走り、田んぼの傍に肥料の袋をたくさん積む人たちがいる。

冬の間、静かだった道がにわかに賑やかになってくる。

 

「ああ、この田んぼ、もう田起こししたんやなあ。」

冬の間、霜がおりて白くなっていた田んぼが耕され、ふっくらしたこげ茶色の土が姿を見せる。

眠っていた大地が目を覚ます。

 

 

遠くで小鳥の鳴き声が聞こえる。きっと、掘り返された土の中から出て来た虫を探しに来たのだろう。

 

春はもう、ここにいる。

 

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福寿草の咲く家

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一月のある日、「家を貸したい」という連絡が土佐町役場に入った。

住所を聞いて地図を片手に家を見に行った。舗装された坂道を上へ上へとあがっていくと途中で道が分かれ、右側の山道の方を行く。それは杉林の間を抜けていく細い道で、まだ雪がたくさん残っていたから車を降りて歩いていくことにした。

私の歩く音が聞こえる。ザク、ザク、ザク…。一歩一歩踏みしめながら歩いていくと、時々、杉林の中からサラサラサラ…という音がする。木に降り積もっていた雪が粉雪となって、小枝を揺らしながら落ちていく。

少し歩くと古い大きな牛舎があった。ところどころ屋根が抜けていて周りの壁がない。牛舎を支える柱が立っているだけの中で誰かが原木しいたけを育てているらしい。駒打ちされた木が何本も立てかけられていた。

さらに歩いていくと、遠くに目を細めるほど真っ白な開けた場所が見えた。そのまぶしさが嬉しくて思わず駆け出した。

 

家はここにあった。
山を切り開いたような場所にある日当たりの良い平屋の家。去年の12月まで大家さんのお母さんがひとりで住んでいたそうだ。そのお母さんは、今、土佐町の町なかに住んでいる。

不思議なもので、今はもう誰も住んでいない家でもその佇まいから、この家でどんな風に暮らしていたのかが伝わってくる。

母屋の勝手口の横にはドラム缶を切って作ったかまどがあった。
「家の裏山には春になったら、ゼンマイやイタドリ、ワラビも出るんよ。」と大家さんは言った。
お母さんがかまどで山菜を茹で、一年中食べられるように保存している姿が目に浮かんだ。

 

大家さんと一緒に裏山を歩いていると、雪の中にはっとするほどきれいな「黄色」を見つけた。

「福寿草!」

思わず声をあげると、大家さんは言った。
「母が大切に育てていてね。最初は小さな鉢植えを買って来てそれを植えた。福寿草は毎年少しずつ株が大きくなっていくんやけど、それを株分けして、また植えて、また植えて…。何年も繰り返してこうなったんよ。もう少ししたら、この裏山一面に福寿草が咲く。」

 

福寿草は春を告げる花。
お母さんは福寿草が咲く時を楽しみにしながら裏山を歩き、畑を耕し、この山の家で暮らしていたのだろう。

 

お母さんは山を降りた。

福寿草の咲く家は、この場所で暮らす人を待っている。

 

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玄関先の一升瓶

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家に帰ったら玄関先に一升瓶が置いてあった。
それが何なのか、誰からなのか、すぐにわかった。
わざわざ家に来てくれたんやなあ、と思いながら玄関の戸を開けて一升瓶をそっと家へ入れる。
一升瓶の口は和紙のような紙で覆われていて麻ひもでリボン結びになっている。ひもをほどいて和紙を取ってみると、古い服をちょきちょき小さく切ったものをきゅ、とねじって栓にしている。これは毎年一緒やなあとなんだか安心する。

この前、我が家のもち米をおすそ分けしたから、醤油の一升瓶と物々交換、ということだ。

 

こんな風に「玄関先になにか届いている」ことが、今まで一体何回あっただろうか。
ちょっと思い返すだけでも、冬は大根や白菜、干しいも。春は山菜、じゃがいも、たらの芽。夏は梅、トマトやカラーピーマン、米ナス、きゅうり、すいか。秋は柿や栗、柚子、さつまいも、しいたけ、なめこ…。季節を問わず、卵やもち米、こんにゃくや味噌、お米、カステラ、梅干し…。
玄関先じゃなくて庭の真ん中に、きゅうりの入った袋とおせんべいがどさっと置かれていた時はびっくりした。
「鶏にやって」と二番米が入った30㎏の米袋2袋や、食べ物じゃないけれど庭にどっさり薪が届いていたこともあった。おさがりの服も。

玄関を開けたらダンボールが置いてあって、手紙とその人が作った野菜と味噌が入っていた時もあった。
(大きな声では言えないが家に鍵をかけてないのだ!)

多分こういうことは私だけじゃなく、土佐町の人たちの間で日常的にあることだと思うのだが、一体どれだけのものがお金のやりとりなしに行き交っているのかなと思う。

都会ではもののやりとりが行われる時にはお金を介在するし、それが当たり前だと思っていた。でも、土佐町に来てからそうじゃないあり方もあるのだということを初めて知った。いただくばかりで何もお返しができていないのだけれど…。

ちょっと多めに作ったから、ちょっとたくさんもらったから、ちょっとたくさん採れたから、あの人に持っていこう。

あの人に持って行こうと思った時に、顔を思い浮かべてもらったんやなあということが何よりうれしい。

 

 

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村の名は。

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昭和28年10月1日に〝財政力をより強化し「地方団体に国より優先的に多くの仕事」をさせるため、町村単位の規模を人口7000ないし8000にすべきである〟というシャウプ勧告に基づき、町村合併促進法が3カ年の時限立法として施行されました。

 

簡単に言うと『3年以内に人口が7千人~8千人になるように合併してねー』ということ。

 

嶺西地域の村(森、地蔵寺、田井、吉野)でも、4ヵ村の助役による(昔は副町長のことを助役と呼んでいました)協議会が開かれ、何度も調査研究会において検討した結果、昭和30年2月22日の協議会でようやく森・地蔵寺・田井各村の合意が成立。

 

昭和30年2月28日に「合併条件に関する協議書」が三村の間で取り交わされます。

 

そして昭和30年3月31日、いよいよ「土佐村」の誕生です。

どうして「土佐村」という名称になったと思います?

村長の独断?住民投票?

いいえ、違うのです。

 

 

森村、地蔵寺村、田井村は吉野川支流に添った地域にあって、民情風俗・産業・文化とか生活環境がおんなじやし、由緒と愛着の情がすごく深くて共通した村。高知県は昔から土佐の国って言うし、森村 地蔵寺村は明治22年の地方制度の改正の時に、高知の中心的位置を保って「土佐郡」になった。

でも土佐郡の町村は、高知市に併入されたり吾川郡伊野町と合併したりして6村しか残ってない。そしたら、合併してできる新村の名前は、

 

土佐郡が発展するように

そして

『土佐』の名を永久に代表できるように

 

「土佐村」にしよう!

 

 

そんないきさつがあったらしいです。

素晴らしい。

『土佐』に対する強い思い入れ、強い愛着が感じられます。

 

 

ここで、「土佐町が生まれた日」を読んでくださった方は『あれ?』と思ったのではないでしょうか。

土佐町の名称を考える時、『土佐』という名称がつく市町村が多いき、他の名称にしよう!という話が持ち上がっていましたよね。

 

・・・この時の 強い気持ち・強い愛 はどこへ行ったんじゃい。

全然ど忘れ。

 

何はともあれこの時「土佐村」が生まれたからこそ「土佐町」があるのですね。

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そして、編入合併へ・・・

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「大渕・古味・井尻・下川・上津川」という地区があります。

今では、20数名しか居住者がいませんが、昭和の中期には700名を超える住民がいました。

今回は、この5地区で、かつて起こった熱い闘いの物語です。

 

 

森村・地蔵寺村・田井村の3村が合併して土佐村となったのが昭和30年のこと。

当時、嶺西地域には森村・地蔵寺村・田井村・吉野村の4村あり、その4村が合併について協議していました。

 

吉野村では「本山町と合併せよ!」という8地区と「田井地区と合併せよ!」という5地区が対立。

この5地区が「大渕・古味・井尻・下川・上津川」です。

結局、決着がつかないまま、吉野村は多数決により本山町と合併しました。

 

それから約5年間、この5地区が本山町から分町をして、新土佐村へ編入合併する闘いが始まります。

 

土佐村に編入合併することについて、住民の直接投票に持ち込むための運動が約3年間にわたって展開されました。

 

その後、運動が実を結び、住民投票が行われます。

住民投票については、時間制限なし(夜間の運動可)、個別訪問自由ということで7日間、昼夜兼行で激烈な運動が展開されました。

その当時、5地区を合わせると754名もの住民がいたため、住民投票の当日はその警備のため100名もの警察官が派遣されたといいます。

 

住民投票の結果、0.66票の差で、分町反対地区民が勝利する形となりました。

この結果を不服とした分町希望者は、本山町選挙管理委員会、さらには高知県選挙管理委員会に対し再審査を要求。

しかし共に受け入れられず、法廷闘争へと突入します。

 

訴状をもって高松高等裁判所に提訴すること10数回、審理の末、分町派の5地区はついに勝訴の判決を得ます。

高松高裁は『再審査の結果投票で無効とされたものの中に有効票があり、分町賛成票が1.33票強であった』と判断しました。

これに対し、県選管が最高裁判所に上告しましたが、最高裁が高松高裁の判決を支持し、分町派勝訴の判定が確定しました。

 

そして、昭和36年、本山町のうち吉野地区西部5地区が土佐村に編入合併することになったのです。

 

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土佐町が生まれた日

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土佐町はかつて、土佐村でした。

昭和41年頃から、町制の実施の希望が村民の間で高まり、昭和44年に町制施行が決定しました。

さて、ここで「新しい町名をどうするでよ?」問題が勃発します。

 

町制を施行するにあたっては、町制調査研究特別委員会という会が立ち上げられたそうで、新町名もその委員会で検討されました。

その当時、すでに「土佐市、中土佐町、西土佐村、土佐山村、土佐山田町」など、土佐という名称のつく市町村が多かったので、間違わんように他の名称にしたほうがえいんじゃない?という意見が多く、各委員が新町名を提案しました。

 

「嶺北町」

「水都(みと)町」

「吉田(よしだ)町」

「土北(どほく)町」

「奥土佐(おくとさ)町」

「早明浦町」

「昭和(しょうわ)町」

「登佐(とさ)町」

「美都(みと)町」

「大海(おおうみ)町」

 

さらにこの中から、「2つだけ選ぶとしたらどれがえい?」と選ばれたのが「嶺北町」と「水都町」。

委員会では決定的な名称は選定せず、この2つの中から住民投票で町名を選ぶことに。

 

その際、「候補の中にない町名を自由記載してよいか」という意見が出ます。

「えいろう。」「それも住民の意見じゃ。」

そうして行われた住民投票。

 

蓋を開けてみれば、自由記載の「土佐町」が一番多かったのです。

 

その結果に、すったもんだ てんやわんや あれやこれや あったという話も聞きますが、やはり住民の大多数が支持した土佐町、ファイナルアンサー。

 

そして、昭和45年2月20日に『土佐町』が誕生しました。

今となっては「土佐町」以外考えられませんが、もしかしたら全然違う町名になっていたのかもしれませんね。

 

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