2018年4月

土佐町ストーリーズ

しいたけラッシュ

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「しいたけ、いるかよ?」
今年もこの季節がやって来た。

近所のおばあちゃんから袋いっぱいのしいたけをいただいた。

「しいたけを裏側にして干すと赤くなるき、上を向けて干すとえい」と教えてくれたので、早速茶色のかさの方を上にしてエビラに並べる。
遊びに来た小さな子が「パン、いっぱい!」と指差した。
確かに、こんがり焼けた丸いパンがたくさん並んでいるみたい。

しばらく良い天気が続く時は、天日干しの干し椎茸ができる。
天気があまりよくない時は、乾きやすいように薄くスライスして干したり、雨が続く時は冷凍しておく。

 

うちの裏山でもしいたけを作っていて、おばあちゃんがしいたけを持って来てくれた日に山へ行くと、あるわあるわ、駒打ちした原木からしいたけがいくつも、あっちにもこっちにも出ていた。

もう見事としか言いようがない。
どうしてしいたけたちは、今この時に一斉に大きくなるのか。

しいたけたちが、もしちょっと時期をずらしてくれたなら夏にも冬にも新鮮なしいたけが食べられるのになと思うけれど、しいたけの旬は春と秋。それは決めているらしい。

だから今、あっちの山でもこっちの山でも、しいたけラッシュ。

 

 

あっという間にカゴがいっぱいになった。
家にある全てのエビラと丸いざるを総動員してしいたけを干す。
一体いくつあるのかと試しに数えてみたら、なんと193個もあった。

しいたけを作っていないお友達にあげるととても喜んでくれる。
上手に干せたら遠くに住んでいるお友達に送りたい。

 

「しいたけ、いる?」
これはこの季節のご挨拶。

昨日はしいたけごはん、今日はひじきの煮物にしいたけを入れた。明日はバター醤油炒めにしようかな。

しばらくしいたけと向き合う日々が続く。

 

 

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私の一冊

石川拓也

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「たまたまザイール、またコンゴ」 田中真知 偕成社

「世界は偶然と突然でできている。」

著者の田中真知さんが2度に渡って敢行したコンゴ河下りを描いたノンフィクション。

雄大な自然、全てを笑いとばす人々。オナトラ船。コンゴのどでかい混沌が田中さんの冷静でいて暖かい目線で語られています。

コンゴには行ったことはないのですが、僕も東西アフリカの数カ国を旅したことがあります。ケニア、エチオピア、エリトリア、エジプト、モロッコ、モーリタニア、セネガル、ガンビア…。

アフリカの旅は、他のどこよりも疲れる。田中さんのコンゴ行と同様、僕のアフリカ旅も極端に情報が少なく、交通の便も寝る場所も行ってみなければわからない。

暗中模索のようなそんな旅は、他のどこよりも疲れるのですが、心のどこか別の部分では、とても大きな力を感じれる旅でもありました。

うまく書けないのですが、人が人として生きること以上でも以下でもない、ただそれだけの至ってシンプルな価値に立戻らせてくれるというか。

現代の複雑な社会で身につけたいろいろ余計な記号を、乱暴にぶっ壊してくれるような爽快さは、僕が行った中ではアフリカとインドが群を抜いています。

あ、騙されたりぼったくられたり、ムカつくことが多いのも群を抜いていますってことは付け加えておきます。

石川拓也

 

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土佐町の人々

地図の記憶(後編)

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前編

 

「ラバウルには空母に載せた零戦が100機も200機もようけおったけんど。僕が行った当時は、これは大丈夫と思うたのよ。
でもいかなあ。時間がたつにつれて空中でやられて、そうしゆううちに一機もおらんなった。

毎日空中戦があって一機減り、二機減りして、そうしゆううちに昭和19年6月には一機もおらんなった。
そうしたらアメリカは毎日空襲にくるしね、向こうさんも人の表情が見えるばあに突っ込んで近くに来る。

近すぎてすごい速さで来るから間に合わない。大砲なんて使い物にならんけ。こんまい機関銃じゃなきゃ。機関銃でも飛行機に当たる。当たったら撃ち落とせる。 

海軍が頑張らんと陸軍が持たんわね。武器もこんし、食料もないし。兵隊も補給せないといかんろ。怪我したり死んだりするもんもおるけね。
いつ撃たれるかわからない、いつもそういう状態。」

 

筒井さんは弾を込める係だった。直径25ミリの弾が25発入っている箱をガチャン、と設置する。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

下からエレベーターで箱をあげ機械で押しこむ。弾は2~3秒に一発。

 

パンッ

 

パンッ

 

パンッ

 

筒井さんは、弾と弾の間(ま)を知っている。
パンッ!という筒井さんの声が耳の奥で響いた。

 

 

 

昭和19年9月21日。アメリカの艦載機グラマンの大艦隊が襲いかかってきた。

「爆弾が破裂したけね、人に叩かれたと思うた。鉄の割れたのが飛んできて、鉄の破片が頰に入った。意識は一時はあったけど目がくらんでね、目が見えんわね。血が出て。
班長が「筒井はだめだ」と言ってるのを聞いちょった。」

 

気づいたらマニラの海軍病院だった。怪我して運ばれたのは筒井さんの他にも3人いて、そのうちの一人は足がなくなっていた。

同じ日の午後3時ごろ、3回目の攻撃で皐月は沈んだ。
筒井さんは1回目の攻撃で怪我をしたため、命は助かった。

マニラの海軍病院から病院船で日本へ帰ることができた筒井さんは、顔の傷を治すために汽車で東京の病院へ送られた。

病院船。アメリカ軍は病院船を攻撃してこなかった。

 

筒井さんは、鼻に入っている管を抜いて見せてくれた。3センチくらいの長さのチューブだった。

「鼻に管を入れんと息ができんけ。鼻の骨がないけ、これを入れないと。
胸の肉を切って、首に縫い付けた。2ヶ月ばあして血が通い出してからこれを切って、今度は顔の両脇へつけて…。少しずつ上へとあげていく。何回もかからあ、鼻まで来るのに。当時は技術もないしね。

もうあんなことは嫌じゃ。痛い。注射してさっと切って…。
今やったら麻酔かけてやるけんど、昔は痛いと言っても『兵隊は辛抱せい』と言われて。局部麻酔でパッと注射して、すんだらじゃあっ、と切って縫うて、失敗して…。」

 

 

終戦を迎える昭和20年の8月まで筒井さんは東京の病院で過ごした。
その間、3月10日の東京大空襲にあい、8月15日には玉音放送を聞いた。
終戦後は食料がなく、病院では人の食べかけを食べた。戦場だった船上よりも、生きて帰った陸上でいつもお腹をすかせていた。

 

 

 

 

後方左側、マスクをつけているのが筒井さん。

 

「マスクかけちゅうろ。それから土佐町(当時は土佐郡地蔵寺村)へ帰った。20歳じゃった。
戦争から帰って来た時、こんな顔になっちゅうろ。両親も泣くわ、人にも笑われてね。それが難儀した。
戦争のため行ったんじゃけんどね。

まあ、あの、鳥山さんも嫌じゃろ。
女房は『いや』言うて。『一緒に歩くのは恥ずかしいからいやじゃ』言うて。それでも親が、行かないかんと言うから来たんよ。今は仲がえいけんど。」

 

筒井さんは私の目を見ていた。
何か言おうと思ったのに、言葉が出てこなかった。

 

 

「とにかく一番うるさかったのは、人が見て笑うのがうるさかったね。年頃の女の人に笑われるのが一番うるさかった。
子どもに『あのおんちゃん、鼻、変な』と言われるとみんな見るろ。街に行くときはマスクかけて行ったりしたけんど。今はなんともないけどね。笑われてもなんともないけんど。20歳前後は顔が一番大事じゃけね。」

 

干していたしいたけを袋に入れて手渡してくれた。

 

帰ってきてからは、家業の農業を継ぎ、重子さんと懸命に働いてきた。子どもは3人いてお孫さんもいる。

土佐町に帰って来たばかりの頃は「生き残ったことに負い目があった」と筒井さんは言っていた。
筒井さんが背負った「負い目」が、地域の子どもたちに自分の体験を伝えることや地域のボランティア活動に向かわせたのでははないかと思った。

「最初は人と会うのが嫌じゃった。でも体験を話してほしいと言われて、決心して話すようになった。戦争はせられんぜよ、と子どもたちに言うたものよ。子どもたちから『おんちゃん、痛かったろう』という手紙がきた。
今は人と関わって元気をもらってる。人は人と関わることが大事。」
と筒井さんは言った。

その声に迷いはなかった。

 

 

「兵隊に行ったら人を殺すなんて気づかなかった。ただ国のために、と思った。今やったら行かんね。
人を殺さなきゃいかん。殺さなかったらこっちが殺される。そんなところへ行かん。当時はそこまでわからなかった。

戦争言うたら死に物狂い。よう助かって戻ってきたと思う。
戦争ゆうたら殺すか殺されるかじゃけ、戦争したらいかんということや。」

 

 

ぽかぽかと日の当たる縁側でお茶を飲み、息子さんが買ってきてくれたというお菓子と「これ食べてみや。美味しいぜよ」と手渡してくれたポンカンを一緒に食べた。
家の軒下には山からとってきたしいたけが干してある。
春の気持ちのいい風が吹いていた。

 

 

帰り際、筒井さんは「田んぼ、忙しいろう?」と笑って言った。
筒井さんは今年の田んぼの準備を始めている。

「また忙しくなるねえ」。

筒井さんはそう言いながら、ふと空を見上げた。

戦闘機や爆弾が飛び交う空の下を必死に生きた18歳の筒井さんは、それから74年後の、白い軽やかな雲がうかぶ春の空の下での今の暮らしを想像していただろうか。

島の名前が書かれた地図の記憶の先には、今の暮らしがあったのだ。
今日も、明日も、これから先もひとつひとつ、筒井さんの記憶が地図に重ねられていく。

 

筒井政利・重子 (地蔵寺)

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私の一冊

川原将太

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「アルケミスト~夢を旅した少年~ 」 パウロ・コエーリョ著 角川文庫

 

『幸福の秘密とは、世界のすべてのすばらしさを味わい、しかもスプーンの油のこと(自分にとって一番大切なもの)を忘れないことだよ』 羊飼いの少年が旅をしながら、人生の真理を探す冒険記。

人生の道のりを砂漠の旅にたとえ、困難や誘惑を乗り越えるお話。

〝ボクの話だ!〟 はじめてこの本を読んだとき、そう感じた。
僕が普段考えてることが、物語にされている。そう思った。
困難や誘惑。前兆を正しく読み取ることなど、〝人生の旅〟に役立つ知恵が盛り沢山。
旅人やヒッピーのバイブルとも言える、世界的ベストセラー作品。

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土佐町の人々

地図の記憶 (前編)

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昭和19年9月21日、フィリピンマニラ湾。

18歳だった筒井政利さんは、商船を護衛するため駆逐艦皐月(さつき)に乗っていた。上空からの爆音、弾が頭上でひっきりなしに飛び交う。アメリカの艦載機グラマンの大艦隊が襲いかかってきた。

赤い光。

白い光。

5発に1発は閃光弾。あたりを明るく照らしながら弾が次々と飛び込んで来る。機関銃の先が真っ赤に焼けるのを見ながら筒井さんは25ミリの機関銃で必死に撃ち返す。

 

パン!!!

 

誰かに顔を殴られたのかと思った。痛みは感じなかったが突然目が見えなくなった。顔中が血で真っ赤に染まっていった。

「筒井はダメだ」。

その言葉を聞いて、筒井さんは気を失った。

 

 

 

筒井政利さん。現在92歳、土佐町地蔵寺地区に住んでいる。

筒井さんと私が初めて会ったきっかけは「弓矢」だった。
その弓矢は竹でできていて、ビュン!と音が聞こえるほどよく飛び、子どもたちが嬉しそうに矢を放っていた。
弓矢は誰かが作ったもののようで、矢の先は危なくないように布が巻いてあり中に綿が丸く詰めてあった。縦に細く割った竹の両端は切り込みが入っていて、互いの溝に食い込ませるように紐がぎゅっと結ばれ、弓はしなやかに曲がっていた。

遊ぶ子どもたちを優しいまなざしで見つめている人がいた。
その人に弓矢を作った人は誰なのかと尋ねると、「あ、私です」。
そう答えた人が筒井さんだった。

それから筒井さんは毎年夏のてづくり市に来て、子どもたちに弓矢の作り方を教えてくれるようになった。筒井さんはいつも二つ返事で引き受けてくれる。

その筒井さんが戦争から帰って来た人なのだと誰かから聞いた。
あの穏やかなまなざしで、何を見て何を感じて来たのだろう。
話を聞きたくて、筒井さんの家を訪れた。

 

 

見晴らしの良い高台に筒井さんの家はある。
春らしい日差しに包まれて、家の下の田んぼの脇に植えてある梅の木が白いつぼみをつけていた。
筒井さんは奥さんの重子さんとにこやかに迎えてくれた。

筒井さんが16歳の時だった。

「長男は家で精を出さんといかんけんど、次男はいずれ軍隊に入らんといかんけに。できりゃあ早く入った方がええ。」と学校の先生に言われ、筒井さんは自ら志願して海軍に入った。

在籍していた青年学校のクラスには10数人いて、軍隊へ志願したのは3人。

3人のうちの一人は飛行兵、特攻隊だった。
もう一人は機関兵、その人も死んだ。
生き残ったのは筒井さんだけ。

 

筒井さんに、なぜ海軍を選んだのかを聞いた。
「セーラー服がかっこがいいけね。」

当時は仕事がなく、兵隊になることが一つの仕事のようにも考えられていた。
兵隊には海軍、空軍、陸軍などがあって自分で選ぶことができたのだそうだ。

その「仕事」でたくさんの命が失われた。

筒井さん18歳。最後の写真と思い、佐世保の写真館で撮影した。

 

昭和17年9月、筒井さんは大杉駅(土佐町の中心地から車で30分の最寄駅)から汽車に乗り、海軍の教育を受けるために佐世保へ向かった。一年間、陸で鉄砲をかつぎ、船の甲板を洗い、大砲の油をさし、放水訓練をした。

「行ってからびっくりした。『いらんとこ来た、これはしもうた。』と思った。
棒で叩かれてぎっちりやられた。一人何か悪いことしたら、全員で制裁を受けた。
船で酔うたなんておおごと。『たるんじゅう、全員集まれ!』って言われて甲板に整列させられて文句言われて、叩かれて…。『はように戦争で死んだほうがずっとまし』と思ったね。叩かれてジュクジュク血が出て、えずかったね。
絶対命令は従わなければいかんいうてね。

夜、望遠鏡で見るろ。若いもんはね、眠たくて寝ゆうろ、艦長が来て叩かれる。厳しかったね。
一回入ったらやめられない。やめるなんて国賊よ。おおごと。殺されるよ。」

 

筒井さんの口調が早まり声が大きくなる。

 

 

筒井さんは立ち上がって棚の上に置いてある箱を取り、蓋を開けた。箱には古い写真や地図が入っていて、中から一枚の写真を取り出し机に置いた。
「これがぼくが乗ってた船。駆逐艦皐月(さつき)、1800トンで80人くらい乗る。昭和19年、18歳の時じゃった。マニラ湾で米戦艦の攻撃を受けて沈没した。僕はそれに乗ってて怪我をした。」

駆逐艦皐月。船の真ん中に白い文字で「サツキ」と書いてある。

 

 

筒井さんが広げた世界地図には、筒井さんが船で回った島々が丸で囲まれ、島の名前が筒井さんの字で書き込まれていた。
筒井さんの指が島々を順番にたどりながら、記憶もたどっていく。

ラバウル、ブーゲルビル、クェゼリン…。

聞いたことのある島々がそこにある。
島の名前が記された紙の地図は、筒井さんの現実だった。

 

「広島の呉から商船を護衛しながら硫黄島を経由して、サイパン、グアム、クェゼリン、ミッドウェーへ行った。
武器弾薬を下ろして、また日本の港へ帰る。島づたいにマニラ、シンガポール、ラバウル、ブーゲルビル島…、ここまで行った。弾薬や物資を送らんと…。各島には日本の兵隊がいっぱいおるんじゃけ。
輸送して兵隊たちをおろして、また帰ってきて、また積んで、またほうぼうへ行って…。食べ物や武器、弾薬を持っていかんと。戦争しゆうんじゃけね、弾がないと撃てなあね。」

 

 

武器や弾薬を積んでいる商船を駆逐艦4隻(そのうちの1つが筒井さんが乗っている皐月)で囲み、ぐるぐると回りながら進み商船を守る。

船の甲板から筒井さんが常に気を配っていたのは「潜水艦」の存在だ。

「潜水艦というのは一番めんどい。船の底を来よってよね、1メートルばぁ潜望鏡を出して、見つけたら魚雷を撃っちょいて、ぞうっと引っ込む。ぐっううう、ずうううっときて、当たったらもう防ぎようがない。当たったら船が半分に切れるね。
海は広いけね、どこから潜水艦が来るかわからんのよ。
潜水艦は100メートルくらいはあるんじゃないろうか。
光ってる潜望鏡を見つけたら、弾を込めて撃つ。「らいせき」いうてね、潜水艦のスクリューが舞い戻って来るろ、泡がバーっとなる。それを見つけたら『面舵いっぱーい!』ってこう返す。避けるのよ。はよう見つけたらよけれるのよ。
全速で30キロばぁ行くけね、300メートル奥で見つけたらよけれるね。100メートルじゃ間に合わない。」

 

そこまで話して、筒井さんはふぅ、と小さくため息をついた。
そして思い出したように言った。

「お茶でも飲むかね?」

その声で我に帰る。

筒井さんは席を立ち、戸棚から出した羊羹やおせんべいを机に置いてくれた。
ふと窓の外を見るともう春を迎えた山々がそこにあり、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。

75年前もこんな風景だったのだろうか。
筒井さんはこの家から戦争に行ったのだ。

後編に続く)

 

 

 

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私の一冊

伊藤秀美

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「だいすき ぎゅっ ぎゅっ」 フィリス ゲイシャイトー作 岩崎書店

私は2歳と5歳の女の子をもつ34歳の母です。この本との出会いは、仲良くさせていただいている先生から娘への贈り物でした。
朝の「何時におはよう」のあいさつから、「何時におやすみ」までの1日の流れが描かれています。数ページで読め、おやすみ前の読み聞かせにもピッタリです。

登場人物であるうさぎの親子が何度も「だいすき ぎゅっ ぎゅっ」と抱き合います。読んだあとはお決まりのハグタイムです。恥ずかしがり屋のお姉ちゃんも、ぎゅっとされるのを嬉しそうに待っていて、妹は自分から「ぎゅっぎゅっ」と言って抱きついてきます。
子どもと上手に心を通わせるきっかけをくれた、私にとって大切な本です。

伊藤秀美

 

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4001プロジェクト

和田恒雄・美里・澪・樹 (三島)

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今回は和田さんファミリー。お兄ちゃんの澪くんは、昨秋絵描きの下田昌克さんが土佐町を訪れた際に、みつば保育園で絵を描いてもらいました。

あれから半年、背もだいぶ大きくなってこの春からは小学生です。

下田さんとのことはよく覚えているそうで、また再会するのが楽しみです。

下田昌克さんのこと 2

 

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私の一冊

川原将太

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「ムーミンパパの思い出」 トーベ・ヤンソン作 講談社青い鳥文庫

『あたらしい村づくりというのは、自由な人間のあつまりだよ。だれもやろうとしないような、冒険的で、ちょっぴり不気味なことをやろうという人間のあつまりなんだ。』

ムーミンパパは孤児だった! スナフキンのお父さんヨクサル登場。 ムーミン谷の起源を知ることができる貴重なお話。
言わずと知れた不朽の名作。でも、知らない人が多い哲学書。
個性豊かなムーミンキャラのなかで、ムーミンパパが一番自分に近いと思う。
孤独、冒険、仲間、理想、そして、葛藤。。。
ムーミンママに出会えるかな?

川原将太

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私の一冊

澤田美恵

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「マルベリーボーイズ」 ドナ・ジョー・ナポリ作 偕成社

私のハートを射止めた9歳の少年のお話しです。よく私の母がこどものしつけはつがつくまでと言っていたのを思い出します。

9歳までなんですね。母親とこどもが強い絆で結ばれていることを感じる本です。

 澤田美恵

 

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土佐町ポストカードプロジェクト

2018 Mar.

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地蔵寺 |  森岡藍

 

 

小さなお地蔵さま、森岡藍ちゃん、1歳。

たぶん大きくなったときに思い出すかもしれない。

いつでも抱えられるように、お父さんがすぐ後ろに隠れていたこと。

前に落ちないようにお母さんが目を離さなかったこと。

忘れちゃうかもしれないけど笑

 

 

 

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